姓は「矢代」で固定
第十二章 歪な情誼
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元治元年九月二十五日
被衣(かずき)と御高祖頭巾(おごそずきん)とどっちが良いかと訊かれて、迷いなく被衣を選んだ。顔面が丸出しの頭巾とは違って、被衣は羽織を頭から被る感じなので、ほぼ完全に顔が隠れる。
「弥月ちゃん」
「ななしです」
「…ななしちゃん、見てる方が暑いわ」
「顔バレしないなら暑くても良いです」
顔を隠して歩くなんて平安時代の人だけかと思っていたが、公家にはその文化はまだ残っていて、身分の高い女性が顔を隠して歩くことは、さほど珍しいことではないらしい。
ただ、それは笠につける布程度の話で、冬の防寒具としての役割が大きい被衣を、今この時期に被ろうなんて思うのは、季節感がない通り越して、やや怪しいのだが。その欠点を差し引いたとしても、どの角度から見ても顔が見えにくい被衣を選ぶ価値があると思うほどには、弥月は自分の立場を理解していた。
「とりあえずは大坂よ。京じゃないんだから、そんなに警戒しなくても大丈夫よ」
「半年前くらいに大立ち回りしちゃったので、その影響が怖いです」
今年の正月早々、女装をしていたにも関わらず、岩城桝谷で血まみれになったのを、大坂屯所の皆さんと、集まっていた一般の皆さんにバッチリ見られている。そこから身元が割れる恐れがある。
「大丈夫、皆そんなに他人の事なんか覚えてないわよ」
「いつもこんな形(なり)で仕事する監察ですから。用心に用心は重ねます」
「…見た目が可愛くないわ」
「…護衛ですから可愛さ求めてません」
頬を膨らまして不満気な顔をされるが、いつもの質素な服じゃないだけましだろう。たぶん絹だぞ、女中さんが用意してくれたこの着物。
今日は初めて八瀬の里を出て、千姫と連れ立って大坂へと下っている。
彼女の身分だから「駕籠に乗らないの?」と訊いたら、「山道はあの揺れに酔うのよ」と。
どこへ行くのも彼女は基本的に歩きらしく、スタスタと山を下り、休憩なしで足早に進む様は、驚くほど健脚なお嬢さんだ。私の方が慣れない着物で山を歩くのに四苦八苦した。
「とりあえず付いては来ましたけど、大坂のどこ行くんですか?」
まだ正式に彼女の傍付きになることを決めたわけではなく、彼女が一人で出かけようとしている所を見つけて、慌てて付いて来たのだ。
だから大阪に入る前に、それを確認しておこうと思えば。
「勝海舟っていう、幕府の軍艦奉行さんのところ。今、大坂にいるはずだから、江戸に行っちゃう前に会ってみようと思ってね」
「勝、海舟…」
ドキリとした。その人物が何がしかの大物であることは知っている。
「その勝さんのところへ何をしに…?」
「どの藩にも属さない里が生き残るためには、味方が必要なの」
ここ数日天気が芳しくない。風がビュウと吹いて、千姫の長い髪を揺らした。
「そして取り入るには組織で孤立している人間が最適。勝さんは幕臣だけど開国派だから、他の人達に煙たがられてるというか…ちょっと浮いてるみたいでね。加えて、武力行使は好まないお人柄みたいだから、私たちにとって狙い目なのは間違いないわ」
「…八瀬の里は開国派の後ろ盾をもらうということですか」
それは、攘夷をすすめる幕府や朝廷とは、別の道を選ぶということ。幕府の長州征伐の様子を鑑みるに、それは逆に、里の危険となるのではないのだろうか。
表情を曇らせた弥月へ、鮮やかな紅を差した唇で、不敵に笑った。
「逆よ。勝さんの後ろ盾になるの。私は夢見の力をもつ八瀬の里長。朝廷の庇護下にあり、幕府も不可侵の一族が後ろ盾になる……これに乗らないおバカさんは居ないわ」
つまり、八瀬の里が後ろ盾になるということは、幕府の中で、朝廷の後ろ盾を得られるということ。
千姫は風の強い空を見上げて、それから弥月へ視線を移す。
その眼は笑っていなかった。
「たとえ千年の時を越え、この血の力は薄れゆくとも、私は里のために時世の流れを見る。安穏と暮らし、決断する時期を見誤るわけにはいかない……神子様なら、私が誰を味方に選ぶべきか…分かっているでしょう?」
私の知る未来が見えていると言うかのように、真っ直ぐに私の眼を見て、不意に細められた橙色の視線にゾクリとした。
口元は笑んでいるのに、いつものあどけない表情で笑う千姫ではない…何かを切り捨てることができる者の顔をしていた。
「…味方につけるのは長州ではなく、ですか?」
「八瀬は京の端(はずれ)にあるのよ? 今の彼らは朝敵。昔から持ちつ持たれつの、帝の敵にまわる訳にはいかないわ」
現時点では、という風に聞こえたのは、気のせいではなかったかもしれない。
近藤さんにも“護衛”として付いて動いたことがあるし、私が役割としてしていることは大差ないというのに……千姫の隣にいることで、“自分の立ち位置”に違和感を抱いたのは、これが初めてだった。
***
今、千姫の滑らかな頬に、怒りの印が見えるのはたぶん気のせいでは無い。
「儂(わし)は神やら仏やらの力など求めておらぬが、手前の意見には少なからず興味がある。あの蛤御門の一件の後でも、朝廷内部に開国派がいたという事実にもな……丁度、神戸から面白い男が今日明日に来るはずだ。そいつも交えて、もう一度話をしよう」
勝はこう言っているが、すでに交渉は決裂しかかっていた。
期待していたほど、勝が『善い人』という雰囲気ではなかったのだ。
勝は神の信託など信じる類の人間ではなかった。そして日本の事を真剣に考えているが、良くも悪くも保守派でないということが、『夢見の里を現状維持したい』という千姫の意見と相反していた。
『大政奉還の後、里の存在を公にするなら考えよう』と、勝が言った後から、どうにも二人の間には険悪な雰囲気が続いている。
今、幕府から干されて、こんな所にいるんじゃなかったっけ、このおっさん…
話を聞くに、軍艦奉行を罷免されて蟄居(謹慎)中なのに、とりあえず偉そうなのだ。
ここが仮住まいだと言うわりに、立派なお宅に住んでいるから、間違いなく偉い人なんだろうとは思うが。千姫が特殊な一族の里長だと名乗っても、全く態度を変えなかった。
…たぶん、『この小娘どもが何を偉そうに』くらいにしか思ってないんだろうなぁ…
「…私は里の存在を公言するつもりはありません。貴方一人に力をお貸しする条件で話をしに来ました。なので、内密に話を進められないのならば、今の話はなかったことに…」
あーあ、千姫おこだよ…
千姫が腰をきって立ち上がろうとするのに合わせて、弥月も腰を上げると。
勝は煙管を吹かして、「お嬢さんら」と今までよりわずかに強い口調で声を発した。
「若い娘が二人連れで、交渉事がまだ半人前なのは致し方ないが…眉唾な話でも条件次第ではその話飲むと申しておる。条件を聞いてからでも遅くはなかろう?」
千姫は不快も顕わに冷たい目でジロリと彼を見下ろすが、それすらも勝は意に介せず続けた。
「儂に知れた時点で、どこまで公にするかは儂の決めるところだと言うくらいは理解しておろう。ならば、協力者が一人増えたくらいでガタガタ申すでないわ」
「…その御仁のお名前は」
「坂本。坂本龍馬って男だ」
「え、坂本龍馬って…」
弥月がずっと閉じていた口を思わず開いた瞬間、
「誰か呼びゆるかぁ?」
スラリと開けられる障子。勝の「おい」という制止の声は、当然開けた後では意味のないものだった。
現れたのは、陽に焼けた肌の青年。肩にかかるくらいの長さの、少し紫がかった色の髪を、後ろの高い位置でひっつめている。顔は優し気で端正なもので、左頬のほくろが特徴的だった。
「邪魔するぜよ、勝先生。西郷殿の手紙が届いたき、嬉しゅうて思わず来てしもうたがじゃ」
おぉ…これが、あの坂本龍馬。あのって、あの、あの……まあ、高知県のやたら高い所に銅像立ってる人だ。ピストル持ってるんだろう、知ってる知ってる。西郷って犬連れた相撲取りだろう、知ってる知ってる、もう一回遊べるどんだろ
勿論、私との関わりはその知識だけではない。
土佐藩は昨年の政変前から勤王派が動きを見せているらしく、新選組でもよく話に挙がっていた。先の四月に捕まった岡田以蔵もそうだったし、坂本龍馬も監察として頭に入れておくべき人物の一人である。
そんな事を考えながらあんまりにもジッと見ていたせいか、坂本が私をジッと見返すので、私はスッと目を伏せて頭を下げる。
「おまんさん…」
そこで考えるように言葉を切った坂本に、息を潜めた。
恐らく今、私は新選組隊士の顔をしていただろうから。
「なんだ、手前ら知り合いだったか?」
「…いんや。こじゃんと良(え)い娘じゃき見惚れちょった」
「手前…この前、祝言あげたと言ってなかったか?」
「それはそれ、これはこれじゃき」
八ッハッハと笑う坂本は、もう一度チラリと横目で私を見た。
…まずったな。顔、知られてたかな
坂本の反応はそういうものだった……私が新選組の矢代弥月だとバレたかもしれない。
どういう意図でそれを追究しなかったのか、それともバレていないのかは分からないが、これで千姫の交渉に差し障りが出るなら失敗だ。
「それはそうと龍馬、丁度良いところへ来たな。この娘と開国について話をしていてな、手前の意見を聞こうと思っておった所だ」
「女子(おなご)と?」
「京の奥に隠れ住まう里の長らしい。帝の直轄領みたいなものだが、儂らと手を組みたいと言っておる」
「ほー…そじゃん里があっちゅうか……あっちのは?」
「私の付き人です」
千姫が代わりに答えると、坂本は「ほおん」と何とも言えない相槌を打った。
「そうじゃ、勝先生。家先でこれ受け取ったん忘れちょった」
ほい、と彼が手に持っていた文箱を渡すと、勝はその差出し人を見て、あからさまに眉を顰めた。
「壬生狼か…」
「ほんに、勝先生は新選組を嫌っちょりますね」
「手前もだろう、龍馬。あの腐れ狼ども、遊び半分で罪のない奴等を殺しやがって…!」
「亀弥太殿らが殺(や)られたんは、まっこと悔しいのう…」
「本当に! そんなにヤりたいなら奸賊奴同士か、自慰でもしてろってんだ! なんなら豚でも牛でもくれてやるわ1」
「ほうじゃ、ほうじゃ」
「あんなのがおるから」
「…勝様、坂本様、お話し中に失礼と存じますが、姫様のお耳汚しになるような発言はお控え頂けますか。それと、姫様。私、気分が優れないので退室しても宜しいでしょうか」
できる限り声を抑えた。そうしないと、怒りが面(おもて)に出そうだった。
「え、ええ…外で待っていなさい」
千姫も私へかなり気を遣った表情をしている。できれば彼女も連れて出て行きたかったが、彼女の引き時は、彼女自身で選ぶだろう。
さすがに「若い娘の前で失礼した」云々と勝が千姫に謝るのを背に聞きながら、部屋を後にする。
そして弥月は勝の家から出て、スーハ―と深呼吸を繰り返し、眉間に寄った皺をグイグイと押し延ばす。
怒るな、怒るな、今日は千姫の付き添いだ。新選組じゃない、落ち着け…
「おまんさん、よう堪えたぜよ」
「…!」
坂本!
振り返ると、戸口のところにもたれかかって、坂本は立っていた。
「勝先生と殺り合うなんて無理じゃき、抜いたらいかんちや。おまんの腕は知らんけんど、命は大切にしないかんぜよ」
「…わざと、私を追い出したんですか」
「確信なかったき、ちくと試した。池田屋の件はおいも先生もほんに頭キとるけんど、勝先生の世界の話は尊王とか佐幕とかこまい話やのうて、もっと太い話じゃき、新選組のおまんにも聞いてほしいとは思っちゅう」
「……」
「…信じんなら、まあええ。おいも新選組が悪い奴等ばっかりじゃないのは分かっちゅう。山南さんもおるし、あん人は遊びなんかで人を殺める人やないき」
知っている。
山南さんが『坂本は悪い奴ではない』と言っていた。幕末の英雄、坂本龍馬が悪い奴のわけがないのだ。
ただ、腹が立った。勝海舟に。
『壬生狼』なんて悪口は聞き慣れてる。勤王派に言われるならいい、敵だ。京の町民に言われるならいい、いつも迷惑をかけてる。幕吏だって『田舎侍』と平気で言ってくる。
だけど、「遊び半分で」なんて言われる筋合いはない。
これは戦争だ
弥月の腹の奥底で、業火に煮え滾るものがあった。
気付かず殺気を発する弥月に、坂本は「ふむ」と不思議そうな声を出す。
「ところで、おまん、男か女かどっちなんじゃ?」
「…男ですよ、男」
「なんじゃ、付いとるんか! おまんみたいな、はちきん女やったら、言う事聞いたろう思って追いかけて来たちゅうに…!」
「…左様で」
“はちきん”が何か知らないが、大方悪口言われてるのは分かったぞ
「私は勝さんの話は聞く必要ないので、さっさと会談終わらしてもらえますか」
「ほうじゃった! あっちにも美人が待っちょった!」
「ちょっ…千姫に何かしたら斬り殺しますからね!?」
「おいは新婚じゃき、梢以外に興味ないぜよ~」
あぁ、そう…
そう言って屋内に消えた彼を追いかける気にはなれなかった。
なんとも捉えどころのない人だ、坂本龍馬
けれど、私の背後に立ったときに、一切気配がなかったので、相当な手練れであることは理解した。
「ん…? こずえ?」
奥さんが『梢さん』?
…
……それはない
寺田屋事件で裸で走った伝説の女性は、お竜さんのはずだ。同じ名前で夫婦なのが変だなと昔思った。
「…さ、かもっさ、坂本さん、坂本さん!!?」
弥月は転げるようにして家の中へと駆け込んだ。
この前からこんなのばかりだから、やっぱりちゃんと人の話は聴こうと、心の中で誓った。
***