姓は「矢代」で固定
第9話 予定された死
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斉藤side
俺は逃げた芹沢の下男を追ったが、一刻ほど経つ頃にその脚を緩めた。
……
…もし…
……もしも、あの男が捕まらないのならば……
嘘のつけない男だ。敵方につけば、知った秘密を漏らされる危険性がある。
だが同時に、秘密を漏らしたりするような男でもない。
立ち止まって思考を巡らし、拳を握る。
浮かんだのは竹刀を握っていた日や、膳を囲んだ日。そして共に桜を見上げた日。
虚ろな目をしていた男は、気付けば生き生きと絵を描いた。才があると伝えた時、戸惑ってはいたが嬉しそうに頬を弛めた。
だが、絵筆が刀となるまで研ぎ澄ませるのに、彼には時間が足りなかった。
再び足を進めて、五条の橋へと差し掛かる。
その時、草履を踏んで走る音が、こちらへ向かっているのに斎藤は気付き、柄に手をかけた。
「斉藤か!?」
姿がぼんやりと見える頃、聞こえたのは原田の声だった。気を緩めて姿勢を元に戻す。
「一旦引けって、土方さんが」
「…了解した」
いつの間にか小雨になった帰り路。轟々と荒れた音をたてて流れる鴨川に、呼ばれたような気がして視線をやるが。灯りの届かないそこは遠く暗く、何も見ることはできなかった。
***
総司が戻って来ない
斎藤や原田と同様に、男を探しに出た藤堂や永倉も、島田の伝令で屯所に帰り、各々の部屋に戻っていた。
探し始めてから時間が経ち過ぎていた。
山南さんの「京を出るならとっくに出ているでしょう」という言葉から、捜索は打ち切ることになった。
草の根を掻き分けて探すには、人手も時間も準備する必要がある。
土方副長は「真っ先に帰ってきそうな総司が、な…」と心配していたようだったが、まさか総司が下男に斬られているという予想よりも、ただ単に帰ってこないだけという可能性の高さに、彼の捜索は命じられなかった。
指示通り床に就いてからどれ程だろうか。
眠気など生まれることもなく、枕に頭を預けて、天井の木目に視線をやっていた。
新八の怒りに満ちた眼が、頭の片隅から離れない。
俺は信念の基に、彼を止めることに成功しはしたが、親しい者に向けられた本気の殺意を、俺はまだ昇華しきれないでいた。
ガタッ
突然、隣の部屋特有の、戸板が外される音がした。
矢代…
斎藤は掛布団から腕を出し、傍らに置いていた刀を掴んだ。耳を済ます。
矢代には山崎から一度警告があり、今日の出来事に気付く可能性があることを、俺は知っていた。だが、彼が何も知らない素振りをしているから、それを信じることにした。
もし逃げるならば、捕まえなければならないのだろうか
こんな時間に出て行こうとも、いつものように寺での鍛錬のためだけであって欲しいと願った。
「―――」
何か声がする。
他に誰かいるのかと一瞬思ったが、どうやらそうではないらしい。
少しの間の後、再び聞こえてきた声は、段々とはっきりと聴こえるようになった。
「今日で最後です」
その声と同時に、彼は部屋の中で動いた。
斎藤は起き上がる。
隣へ行って咎めるべきか、泳がせるべきか
「…あなたに教えてもらったこと全てを」
俺が迷っている間に、矢代は部屋から出て行ってしまう。
……――仕方あるまい
せめて屯所を出てくれるなと思いながら、斎藤は後を追うべく隣へ駈け込んで。部屋に置かれたままの彼の荷があることに、一縷の希望を見る。
「山崎!」
八木邸の門の上にいるはずの山崎に、できるだけ声を抑えて呼びかけると、応の返事とともに彼は降りてきた。
彼も迷っていたのであろう、南の方をチラと見ながら言う。
「今、彼が…」
「向こうか」
「…壬生寺に入りました」
それを聞いて、斎藤は少なからず安堵の息を溢した。
「山崎はここにいてくれ、俺が見てくる」
そう言うと、彼もほっとしたような顔をする。気になっていたのだろう。
斎藤は足音を消して、残りの距離を進んだ。
門の陰から中を窺うと、行灯が不自然に端に置かれていた。そして物音も気配もしないことに、斎藤は眉根を寄せて顔を出した。
…逃げられたか…?
けれど、矢代はこちらに背を向けて、奥に真っ直ぐ立っていた。
その手は柄にかかっている。
俺は見たことがあった、彼のその後ろ姿を。
先日の朝も、俺がその背に刀を振りかざした……あの時は、もし寸止めしなければ、脳天に直撃していたであろう。
シャッ
ゆっくりと抜かれたそれは風を割り、光を弾いて静寂を裂く。
最初はただ振っているだけのように思われたが、段々と大きくなる動き。そして音も立てずに宙を何度も突く。
首を捻るのとほぼ同時に大きく踏み出された脚と、その先を行く刃。
視線が動き、その方向へ手首を返して、突くように斬る。
斬った後に一瞬脇が開いて、そこを狙ってくるであろう得物を受け止めるべく構える。その後は下から上へと斬り上げた。
空いた脚を狙う一閃を交わすように斜めに跳び去るが、敵の得物から視線を外すことは無い。
降り立った先で、向けた背中を狙う得物を弾くように、後ろ手に大きく振る。
屈めた姿勢から、伸び上がるように突き上げる。腕を引いて、後退した敵を追撃をする。
その太刀筋は、身を守るためだけのものでは無かった。
彼はそこにいる何かの息の根を止めるべく、刀を振っている。
俺にはそこにいる敵が見えた
彼から発せられる気は、強さを誇示する獣のようなそれではない。獰猛さを押し殺した、静けさを求めていた。
彼の視線の先にいる敵は何者か。
…俺達、か……?
訊くことができない疑問をもった頃、後ろで気配を殺して動くなにかを感じた。
総司…
すぐに門の内にするりと入ってきた彼は、俺には気が付いていないようで、反対側の木の陰に隠れる。
矢代を良くは思っていない彼が、何をするのかと窺い見ていると、すぐに驚いたような表情をして足を踏み出した。しかし何を思ったか踏みとどまり、また陰へと戻る。
……?
それから少しの間、沖田は表情一つ変えずそのまま矢代を見ていたが、そのうちに静かに去っていった。彼が何を思ったかは分からないが、この場で矢代を殺す必要はないと判断したことだけを、斎藤は理解する。
そして斎藤自身も、足を門の外へと向ける。
矢代の鍛錬の様子は、一番自分がよく見ているつもりだった。
けれど、木刀で稽古をしている時とも、真剣で居合の稽古をしている時とも違う、何かを彼はまだ隠し持っていた。
逃げるためだけ、或は、仕事として敵を捕えるためだけに磨いていた彼の剣技は、少しずつ攻撃的なものへと変わっている。
押し殺す殺気は、いづれ誰かに向けるために磨いているのではないかと
殺す気でやりあえば、俺達に引けをとりはしないのではないかと
矢代は刀など人に向けたことが無いと話した。できれば一生無い方が幸せだと。
けれど、生きるためにならば、仕方がない時もあると。
願わくば、その剣先が俺達に向くことが無いことを祈って、矢代から視線を離した。