姓は「矢代」で固定
第8話 だれのために
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文久三年九月十七日
昨朝から降り出した雨は、弱くしとしとと鳴く。
昨日の土方さんの苛立ちは尋常じゃなかった。そして、近藤さんの部屋から出てきた幹部達の表情は固く、なにか覚悟を決めたものだった。
それが弥月にとっては、疑うには十分な余地。
いつだ。いつ、その時は訪れる
手早くジャージに着替えて、前もって開けておいた縁側から裸足で外へ出る。衣擦れの音にさえ気を付ければ、これが一番動きやすい。
風が止んでいるのは幸か不幸か。開け放しの部屋に吹き込むことが無いのは幸いだろう。
足音を消して幹部棟の周りを歩く。草履を履いているときよりは摩擦音が減って、幾分それは楽にできた。
斎藤さんと沖田さんとは部屋にいた。これは確実
新八さんと源さんの部屋……は、話し声が聞こえる。二人とも居る
平助と左之さんは……居る、かな
そこまで来て、今日でないだろうことだけは確信する。
昨日の会議を終えたときの様子から、もしかしたら今日だろうかと思っていたから、一先ず胸を撫で下ろした。
まだ時間が欲しい
膝を折って縁側の下に入り込む。昨日のうちに入れる床下は確認しておいた。ただ、入れるだけで、高さがないから這うしか進む方法がない。小さな障害を拾いながら弥月は手さぐりに進む。
天井裏は烝さんのおかげで広く繋がっているはずだが、それが周知の事実であるからこそ迂闊には使えない。いつも誰かが警戒している。
山南さんの部屋の横で足を止める。その場で音に集中した。
微かに話し声………近藤さんの部屋の方から
何を聞いても冷静でいられるよう覚悟を決めた。
頭を下げて更に姿勢を低くする。身を置く先を確認しながら、地に身体を擦らないよう、ゆっくりと身体を進める。
辛うじて、時々内容が聞こえるかどうかという距離。
ただひたすらに待つ。
何かをつかめるまで。納得がいくまで。
諦めがつくまで
「――明日――もうー度――――る」
どれだけの時間待ったか
それだけで情報は十分だった。
***
いつのまにか雨は止んでいた。
風のない日の空一面の曇天だというのに、自分たちの居るそこだけ、雲の切れ間ができていた。
空を見上げて「ありがとう」と息を溢す。
都合のいい解釈に笑う。天気は天気だ。
弥月は八木邸の門をくぐって庭に回るが、雨戸が閉まっているのを見て引き返し、仕方なく鍵のかかっていない戸を、音を立てないように開けた。
床板を鳴らさないように廊下を歩く。彼に会う為に。
「芹沢さん、起きてらっしゃいますか?」
目的の部屋の前で膝をついて、襖越しに息をつく程度の大きさで声をかける。
部屋の中では僅かに人の動く気配がして、誰かが反応したことを窺わせた。
「…なんだ」
その返答も、二人を隔てる襖に欠き消えるかという程度であった。彼の様子から察するに、起きたのは芹沢さんのみなのだろう。
「すみません、夜分遅くに。折り入って話したい事がありますので、お時間頂けませんか」
「…明日の話なら聞かんぞ」
……
「…いえ……もっと先の話です」
弥月から告げられた言葉に、芹沢は思案した様子であったが。音を立てずに開けられた障子から、彼は無表情に現れた。
芹沢が壬生寺の向拝階段の上に座って待つと、弥月は片手に白い物をぶら下げながら、楽しげな様子でやって来た。
「…酒か。貴様も漸く気が利くようになったか。それとも話も含めて、明日の餞別といったところか」
「…やっぱり、気付いてたんですか」
困った顔で、弥月は手に持っていた杯を彼に渡す。
「奴等の考えなど、手に取るように分かるわ。あの青二才どもの目付きは録なものじゃないからな」
「…大人しく殺られると? 最期まで悪役ですか」
「さぁな…」
何故、彼は私にここを去れと言ったのか?
その疑問に弥月が自分なりに出した答えは、芹沢さんが呼び出しを拒否しなかったことで、そう間違ってはいないと感じた。
芹沢は明日殺られようと、生き延びようと、終わりが近いことを感じていた。
「餞別と受け取ってもらっても構いません。
明日死ななかったとしても、芹沢さんが誰かに話したりはしないと思ってますから」
「フン…あいつ等がしくじった時は、お前が俺を殺るくらいの気迫が、貴様には必要だと思うが」
そうせせら笑うが、弥月は彼からのその程度の誹りには慣れてしまって「すみません」と苦笑いを溢した。
一方で、芹沢も歯牙にもかけない彼女の様子を呆れるでもなく、フッと鼻を鳴らして纏う空気を和らげる。
彼は盃を差し出す。
彼女は何も言わず、ゆっくりと杯を満たした。
「…何から話したら良いか分からないので、訊きたい事を教えて貰えると助かるのですが…」
色々考えたけれど、難しい事は分からない。答えられる範囲だけでも彼は怒らないだろう。
「…そうだな…」
彼は少し目を細めた後、徐に口を開く。
「攘夷は成し得るのか」
この前も率直に訊かれた其れ。恐らく一番に訊かれるたろう事を予測していた為、僅かの間の後答える。
「いいえ、残念ながら…」
それは抑えた声であったが、彼の耳には届いていた。
そして芹沢は言葉を失った。驚きと信じられないという気持ちがない交ぜになって、告げられた未来を容易には受け入れられなかった。
だが、芹沢も全く予想していなかった訳ではない。
長く続いた太平に武士は義を忘れ、志を失い、幕府は廃退してしまった。
だから、この異邦人が未来を話すことを躊躇った表情をみて、もしかしたら…と考えたのだ。
彼は「そうか」とだけ、落胆した様子で口にする。その気落ちした表情は弥月が想像していた以上で、彼女が自ら続きを話すことは阻まれた。
だが、ゆっくりと彼は「何故そうなるか」と先を促したので、弥月は首を横に振りながら、正直に答える。
「詳しい政治…政(まつりごと)の事情は分かりません」
「ですが、大まかな歴史の流れならば…」と控え目に答えると、「構わん」と先を促される。
「…薩摩が会津と協力し、長州を一時的に抑えますが、薩摩はイギリ…英吉利との戦に負けた後、討幕派へと主旨替えをしていきます。
外国を遠ざけることで、今後の日本が植民地となる危険性を、彼らは敗戦することで知ります」
「それは先の戦のことか」
「えっと、生麦事件のはずなんですけど……大名行列の時に、馬に乗った英吉利の商人が通りかかって、避けないし、馬から降りなかったから切っちゃったとか何とかって事件ありました?」
「二ッ月ほど前にそれに誘発された戦があったな」
「…あっちゃー…」
その答えに弥月は嫌な顔をした。自身が思ったよりも着々と“歴史”は進んでいた。
歴史は得意ではないけれど、腹を括って関心を持たなければならないのかもしれない。
教科書の一年は一行で終わるが、現実はそう簡単にはいかない。
誰も始まるまで教えてくれない。敏感にならなければ予兆を見逃してしまう。
「なら、今は会津と桑名と手を組んでるみたいですけど、そのうち薩摩が朝廷から追い出されて、薩長同盟が結ばれます」
「フン…さもありなんといったところか。奴らは元々佐幕などではないからな。
政変時に佐幕派の様相をしていたのは、取り入るためというところだろうな。恩も義も知らぬ田舎者の考えそうなことだ」
…よかった、独りで納得してくれた
弥月は実はドキドキしていた心臓を、ほっと一息を吐いて落ち着ける。
どうして薩摩が追い出されるかは知らない。なんか社会の先生が言っていたような、言っていなかったような。『こんなもの暗記だ、暗記』とか思っていた自分を殴りたい。
芹沢が大きく煽ってから差し出した杯に、また酒を注ぎ入れながら「えっと…」と続ける。
「それで十五代徳川慶喜の時に、異国の武器を備えた長州と薩摩が京に攻め入ってきます。
敗戦を続けた幕府軍は北へと逃れていきますが、函館…蝦夷の地まで敗走して……幕府軍は終わりを迎えます」
結果だけを言葉にすると、あっさりと幕末は終わってしまった。
もっと複雑な時代の流れがあるのだろう。
坂本龍馬や西郷隆盛、大隈重信、高杉晋作といった、歴史に名を残した人達が新しい時代に向かって奔走するはずだ。
だけど、誰が、何故どのような思いで、その道を選んだのか……そんな過程は教科書に載っていなかった。
記憶した文字の羅列の世界に、誰も生きてはいなかった。
「十五代…そんなに遠くない未来の話か」
「朝廷が王政復古をするのは、これからだいたい五年くらいの後です。徳川から政権が返上された後に、幕府は立場を追われます」
「…五年、か…」
つまり、五年後に終わりが始まる。
だが、負け戦が明らかになっても、新選組は最後まで戦い抜き。彼らの勇士を知らぬ者はいないと、弥月は伝えるべきか迷ったままだった。
どれだけ言ったところで、彼の夢は叶わず、それは悲惨な末路に違いない。
「王政復古の後、将軍はどうなる。倒幕が叶うということは斬首か。
それから薩摩と長州が戦をするだろう。勝つのはどちらだ」
「それが…」
目を泳がせて言葉に詰まる。
「ここまで来たら言い辛いこともないだろう。さっさと話せ」
弥月は伺うように横の男を見上げる。「えっと…」と繋いだ。
「それが、ですね……覚えてなくて…」
「ははは…」 と笑ってみても、誤魔化しになるはずもなく。芹沢は僅かに眉を吊り上げる。
「や!仕方ないじゃないですか! 私、理系だし、日本史なんて中学以来してないんですから!!寧ろここまで幕末の流れ知ってるの誉めて欲し」
「分かった。もう良いわ」
「…すみません」
うぅ…
少し落ち込むが、芹沢がまた首をこちらに向けたのに気付いて、弥月もそちらに顔をやる。
「お前がいたのは、どんな世界だ。英吉利の傀儡(かいらい)か?」
「…いいえ。日本は世界に誇る自由の国です」
「自由? 何故だ。武力では劣るだろう。貿易で対等な関係ができるのか?」
弥月は長い時間考える。
それを訊かれるとは思っていなかった。
出した答えは自身の偏見によるものかもしれないけれど、理に適うな事のように思えたし、芹沢さんに『自由の国』であることを信じて欲しかった。
「確かに、日本はこの後メリケンの支配下に置かれかけます。
ですが植民地…属領を保つには、メリケンは遠すぎるんです。属領にされた国々では、独立運動があちこちで起こり、戦が繰り替えされます。
一方で、日本に対してはそれを抑えるためにお金をかけるメリット…利点がメリケンには無い。かつて、欧州で『黄金の国』と称されたこともありますけど、ふたを開ければこの国はそうでもない」
「…欧米にとっては、この国は価値もないというのか」
「いえ、自分達で動いてもらっても、利潤を生みだせる種族だと判断されたのだと。
100年の間に色々はありますが、日本人は柔軟に外の国の新しい文化や技術に適応して、世界でも飛び抜けて安全で、豊かな国になります」
半ば無意識にきな臭い部分を隠した。未来には夢が欲しかった。
「…それでは、天子様はご健在なのだな」
弥月は首を傾げる。
なぜ『それでは』になるか不思議に思うが、天皇のいない日ノ本などありえないのかもしれない。
「健在です。…少し『今』の形とは異なりますけど」
恐らく、芹沢さんの想定している帝の姿とは異なるだろう。
けれど、日本国憲法に称される『象徴』を、弥月もどう説明して良いか分からない。
それに明治では大日本帝国憲法だったはずで、全然令和の世とは違う。
…うん?全部説明するの?日清日露世界大戦大阪万博2回目まで?
社会の授業何時間分だ。朝までに終わるのか。
とりあえず「話せ」と急かされるので仕方がない、完徹覚悟だ。
「…まず、五年後のことから。
議会というものが作られ、そこで政が行われます。天子様はそこの最終決定を担います」
「ギカイ?」
「えーっと…地方ごとに、国民に選ばれた代表が話し合う場です」
「家老を決めるのか」
「武士流の身分は無くなってですね、元公家の華族と、元武士の士族という身分が置かれます」
その後も芹沢の質問攻めは続き、度々シドロモドロになりながらも、それっぽい回答を並べた。
途中で酒が無くなって、足しに前川邸に戻ったりもしたが、雨が降り出すことは無かった。
それは弥月の目が半開きになって欠伸を噛み殺し、頭痛がしてきても終わらず、ヤマバトが鳴きだす頃まで続く。
明け六つには明るくなるが、厚い雲に阻まれて日の光は十分には届かなかった。
そして彼は最後に問うた。
「それで…民草は幸せなのか?」
しあわせ?
「芹沢さんも人が悪い。幸せかどうななんて自分が決めることでしょう?」
彼は杯に残った、小さな水面を見つめる。
それを煽ってから、吐息だけで「…そうだな…」と呟いた。
京は薄暗い朝を迎えようとしていた。