姓は「矢代」で固定
第8話 だれのために
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文久三年九月十一日
斎藤side
最初はただ休憩をしているのかと思っていたが、絶え間なく刺すような視線が追ってくるのがどうにも気になった。
「…なんだ?」
「いえ、今日もイケメンだなぁと思って」
当然そんな理由で、穴が空くほど見られていることを納得できるはずもない。
「手が空いているならば、素振りでもしていろ」
「…見取り稽古ですよ、見取り稽古。いやー勉強になるわー」
矢代の言葉に重みはないものの、声も顔も至って真面目である。食い入るように見ていることからも、本当に真剣にそうしているのであろうことは分かっている。
しかし、いつもなら率先して打ち合いに参加する矢代が、板の間の隅の方で正座して、ただただ俺を見ている。
その噛み付きかねないほど鋭い視線は、刮目するという域を越えている。
正直なところ居心地が悪い。
だが、見取り稽古だと言われたら、日頃から彼に「勘ではなく、相手の動きを見て動け」と教える自分が止める訳にもいかず、気にしていないふりをするしかない。
一体なんだと言うんだ…
俺は鈴木にもっと重心を落とすよう指導しながら、こっそりと溜め息を吐いた。
隊士達へ順繰りに打ち合いを指示して、それを見分し講評する。
「なぁ、はじめ君…」
「なんだ、雑談なら後にしろ」
「いや…だってさぁ……なんだよ、あれ」
「…知らぬ」
合間に寄ってきた平助にそう素っ気なく返したが、彼も矢代が気になるようでチラチラと、俺と矢代に視線を往復させていた。
斎藤はそれを後目に、負けた新参の隊士へ歩み寄って、竹刀の握り方を指南をする。
「あんたは素振りの姿勢は良いが、立合いになると腰が引けている、臆するな。
鈴木は脚の使い方が上手くなっている、今の突きは特に良かった」
「「はいっ!」」
次々と隊士が入れ替わり、相手を変えながら打ち合いを繰り返した。
しばらくの後、全員の総当たりが終わったが、かの男は未だ一歩も動かずそこに座っている。
「矢代、もう終わるが」
「お疲れ様です」
…やはりおかしい
彼がここにいて、誰とも一本も交えないことなどまず無い。
矢代は頭を下げた後、すでに俺に興味を失ったかのように辺りに首を巡らす。
何かを探しているのかと思ったが、止まった視線の先にはこちらに歩いて来た平助がいた。
「おーい、弥月。見取りもいいけど、ちょっとは誰か相手に打っとけって。はじめ君だって、打ち合い稽古してぇんだし!」
「じゃあ平助。斎藤さんに相手にしてもらってくれない?」
「はあ?」
…なにゆえ…
***
結局、矢代は今日の訓練中に竹刀を振ることはなかった。その後に残って一人で鍛錬するようだから、取り立てて咎めはしなかったが。
斎藤が井戸のそばで諸肌を脱いで汗を拭いていると、同じく稽古を終えた井上と重なり、声を掛け合う。
「斎藤君、何か彼を怒らせてしまうようなことでも言ったのかい?」
「怒らせる…?」
源さんに気遣わしげに言われて、ここ数日の記憶を辿る。
巡察と稽古で顔を合わせたくらいで、特にこれといって揉めたりした覚えはない。
先日支給された給金について何か不満があったようだが、それなりに納得していたし、その次の日にも変わった様子はなかった。それに毎日顔を合わせているが、彼の様子が可笑しいのは、今しがたからなのである。
考えても埒(らち)が明かん…
襟元を正した後に文武館に戻り、一人だけ残って突きの鍛錬をしていた矢代に声をかける。
「矢代」
「はい?」
振り向いた矢代はいつも通りの彼に見える。先刻の眼光鋭い……凶悪とまでは言わないが、あまり人相の良くない顔からは脱却していた。
斎藤が声をかけてからの間が長かったため、弥月は頬の辺りを手で払って首を傾げる。
「…? なんか顔に付いてます?」
「いや…怒らせたのではないかと…」
思わず尻すぼみになりながらそう言うと、彼は眉を寄せた。
「何がですか?」
しまった……やはり、自覚してから来るべきだった…
なんとなく「訊いたら分かる」ぐらいに思っていた自分が浅はかだったと後悔する。
相手は怒っているのだ。原因が分からないと言われたなら、更に怒らないはずがない。
斎藤は視線を泳がせながら、襟巻を口元へ引き上げた。
「すまない…心当たりがないのだ…」
声が小さくなった。
我ながら情けない。
「すまない…きちんと自分で考え、反省してから来るべきだった」
「はい…?」
「出直してくる故…」
「いやいや、斎藤さん!何がなんだか!? そもそも私べつに怒ってませんし!」
「…怒っていない?」
「はい!全くもって!!」
斎藤が上目づかいに様子を窺うと、コクコクコクと弥月は頷いた。
「…ならば、なにゆえ睨む?」
「え、私、睨みました?」
矢代は不思議そうに「いつ」と尋ねる。俺が「稽古中に」と答えると、少し考えた後に眉尻を下げて言った。
「…えっと、睨んだつもり無かったんですけど……睨まれたのかと思われたなら、すみませんでした」
ペコンと頭を下げられた。
斉藤は「本当にあれで睨んでなかったのか…?」と怪しく思いながら、自分の勘違いであったことを謝る。
「ならば、今日は何故あのようなことを…」
「え、本当に見取り稽古してたんですけども…」
その顔は嘘をついている様子はない。
俺の思い過ごしか…
内心ホッとしてそう伝えると、彼はいつもの様子で「なんかすみません」とへらりと笑った。
「何か得られたか?」
「はい……って言ったら厚かましいんですけど……見て分かっても、やっぱり実践するのって難しいなと思いました」
「そうだな。技は一朝一夕で得られるものではない」
頷いて肯定すると、矢代は珍しく「頑張ります」と意気込んでいた。
何を頑張るのかは分からないが、成長を見守ってやろうと思う。
俺は朝稽古の前に手が空いていれば、できるだけ矢代の居合いの練習に付き合っている。『居合い』と言っても、彼が鞘から剣を『躊躇いなく』抜けるようにするためだけにしているのだが。
俺の動きに合わせて、段々と反応が敏捷になっていく様は教えがいがある。
「居合いはどうする?」
「斎藤さんが迷惑でなければ、いままで通りお願いしたいです」
「承知した」
予想した通りの真面目な答えに口元だけで笑ってから、俺は道場を後にした。
***
「ちょっ…はじめ君、あれは不味いだろ!」
「…見取り稽古だ」
「どう見たってガン飛ばしてるようにしか見えねぇよ!!」
チラとそちらを確認するが、確かに平助の言う通りだ。
どう見たって、総司に喧嘩を売っているようにしか見えない。
総司の回りにいる隊士も何事かと二人を見回しているのだが、矢代は気付いていないのだろうか。
総司の表情がすでに苛立ちを通り越して、無い。
矢代、その目つきを何とかしろ…
笑えない光景に、俺はまたこっそりと溜息を吐いた。