姓は「矢代」で固定
第7話 わたしのために
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***
文久三年九月五日
亥の刻。壬生寺境内にて。
第四回・芹沢さんちの剣術講座が、開講されるはずだったのだが。
「貴様、何者だ」
「えっと……芹沢さん? 急にどうしたんですか…?」
「己が問うている。貴様、本当は何者だ」
…なんか怒っていらっしゃる
訳が分からないまま、怖じ気づいて一歩退がるが、彼から受ける威圧感に変わりはなかった。
踏んでいる砂利が音をたてた。
「矢代弥月は本名ですし……あとは芹沢さんもご存知の通りかと…」
寧ろ"女"であることに気付いているのは、隊内では芹沢さんだけだと思われる。
『本当は?』…本当は何者と言われましても……薬で身体が縮んだ記憶もないし、顔の皮を丸々はずして正体を明かすような、非現実に勝てるネタは持ち合わせていない…
…いや、私、タイムトラベラーだったわ
「一昨日、二条城の二ノ丸御殿の唐門について話していたな」
「…? はい…」
「何故知っている」
!? あ…!
すぐに察しがついた。
ふつうの浪人なら知っていたらおかしい事を、私が知ってることに彼は不信感を抱いたのだ。
「てっ適当ですよ、適当!! 虎だったらいいな、可愛いな、みたいな!!」
「竹に虎、牡丹に唐獅子、雲に竜らしいな。己も裏表であることは知らなかったが。
…ところで、大坂城に天守閣は存在せん。童に嘘を教えるな」
「うそっ! 金シャチないの!?」
ジリジリと後退する。今すぐ背を向けて全力で逃げてしまいたい。後ろ傷の可能性とか、この際この世のすべてから逃げきれたら万事解決。
なのに、蛇に睨まれた蛙のように脚が上手く動かないのはなにゆえ。
「ほらっ…ホラ話ですよ!!口から出かませ!!」
噛んだ。出任せ。
「己も最初はそう思ったのだがな。二条城の造りのみならず、屏風や天井の絵柄まで答えられるとはどういうことだ?
昨日、旧知の者に確認したら間違いなかったからな、流石の己も驚いた」
確認したの!!? なんなの、その用意周到さ!!
「子ども喜ばすためのリアリティですよ! 偶然の賜物!!神の御加護!!」
「その異国語は何処で覚えた。薩摩の者……忍か?その特異な身体能力で御所にも忍び込んだか」
ぎょえぇぇぇ!!?何でそうなる!!
「答えられんようだな。否定せぬは肯定といったところか」
「まっ…待って待って下さい!」
「不逞の輩。死んで侘びよ」
スラリと抜かれる腰の得物が全容を表す前に、弥月は振り返って逃げようとしたのだが、袴の後ろ板を捕まれていて。
「暴れるな、長く苦しむことになる」
「ぎゃあぁぁ!話します!話しますから!!」
最近、長兄以外の恐いものに、芹沢さんを加えました。
昼間っから酔いどれの振りをしている彼は、実はそこここで暗躍しているようです。
***
「150年後と言うか」
「うぅ…はい。道に落ちていたところを土方さん達に拾われました」
語弊はあるが、間違ってはない。芹沢さんも「そうか」と納得してくれた。
拝段に座る芹沢さんの正面に正座をしている。心だけじゃなくて、石畳が膝に痛い。
「150年後は女も武士になるか」
「えっと…」
分かっていたことながら言い淀む。武士がいないことを説明する訳にはいかない。
「何故?」と聞かれたら、幕末の全てを説明するしかなくなる。
「私は武士ではないですが…剣術を習っています。それはそう珍しいことではないので…」
「ふん…時が変われば変わるものだな」
彼が木刀で地をトントンと叩くから、いつそれで頭を打たれるのかと、若干、恐怖しているのだが。
もちろん避けさせてもらう気はある。だけど怖いものは怖い。
「何時(いつ)からいる。数日前というのは嘘だろう。」
そういえば初対面時に、そんな見え見えの嘘をついた。…なんやかんやで、幹部の金髪の妾説は弥月の耳にまで届いているから、嘘を重ねても仕方ない。
「…実はですね、一ッ月ほど前川邸に軟禁されてまして、なんとか八月十八日に間者の疑いを晴らした訳です」
「…政変か。予言でもしたか」
コクンと一つ肯く。
「新選組、と」
「…なるほどな。会津の者でもなければ知り得ぬことだ。
会津の密偵ならば話は別だが……あやつ等なら、それはそれで監禁しとく訳にもいかんなどと甘い事を言うだろうな」
「甘いですか…」
「甘いな。己なら指の一本や二本落としてでも、身元を吐かせる」
たしか遊女の手練手管から始まった"指切り"。
芹沢の言葉に弥月がちらりと彼の左手に目をやると、彼はその視線に気づいて鼻で笑った。
「女の小指は偽物と相場が決まっているからな。それに、己は貴様の小指など欲しくもないわ」
「えっと……私もできれば切りたくないです。なので、芹沢さんにバラしたことは皆さんに黙ってていただけると助かります…」
「己が吹聴する輩に見えるか」
「大丈夫です」
「フンッ……そのようなことせずとも、貴様の場合、叩いたところで落ちる埃など大したものではなかろう。労力の無駄だ。
それなら囲ってボロ雑巾になるまで使う方がましだが……それは、やつらには分からんだろうな」
ボロ雑巾…
「…私を敵…間者とは疑わないんですか?」
トントン拍子に進む話に、我が事ながら違和感が否めない。いくら芹沢さんの察しが良いとはいえ、話しの根本から疑われなさすぎる。
「ふん…怪しい輩など、この組にも既に紛れ混んでおるわ。
貴様の飛び抜けて胡散臭い笑顔などに、己が騙されるはずもなかろう」
「う、胡散臭い…」
弥月の顔がひきつったのに芹沢が構うはずもなく、彼は立ち位置のままに彼女を見下した。
「貴様が刀を取るのは己のためだと、生きるためだと言ったな。この世界の者ではないというのが理由か」
「…まぁ、そういうことです。ここにいれば衣食住確保されますし……それなりに楽しいですし…」
「…楽しいと言うか」
「………はい、まあ、好き勝手やらせてもらってますし…」
ここがもっと殺伐としていて、町の人達が言うみたいに血を啜るだけの所だったら、とっくに飛び出している。
尊皇だとか、攘夷だとかに関する彼らの熱い思いには今一つ付いていけないが、 思っていたより新撰組の人達は普通だ。弥月と同じように衣食住の目的で入った人、刀をまともに振ったことがない人、政治へは関心すらない人もいる。
色んな人がいて、雑多に暮らす。仕事は市中の見廻りと、時には捕り物。暇なときは竹刀を振って、ご飯は仲の良い者と食べる。お金があれば花街へ出かけて……
……
「……楽だわ」
思わず呟く。
元の時代では、そろそろ本格的に受験勉強しなければと、今頃机に向かっているはずだった。道場を継ぐのは長男で、自分は趣味で終わらせるつもだった。勉強して手堅い職業について、自立して生きていきたいと思っていた。
それが今、何を考えるでもなしに、なんとなく生きていけるような気さえしている。
そのくらい穏やかな日々。
「ここは……貴様がいた所より楽か」
弥月が「楽だ」と呟いてから暫く経っていたが、芹沢はそう問うた。
その声は大きくはなかったものの静かな境内に妙に響いて、弥月をより深い思考へと誘(いざな)う。
楽……?
真剣を初めて手にした時、抜き身を振ってみた時、そんなお気楽な思いだっただろうか
巡察中、腰に差したものの重みに慣れず、左脚ばかりが疲れる。未だ、人にあれを向けたことは無い
何となくでも、生きていけている。目的がなく流されている自分は、一体どこへ向かっているのか
薄く笑って、男を見上げた。
「…どうでしょう。私の住んでいた所では、日々、身体を張って生きてる人なんて稀ですから。たぶんもっと穏やかです。
だから、命を張ってることが精神的にクるなら、この生活は楽ではないと思いますけど…」
「では、貴様にとっては楽だと言ったのか」
「……」
軽率だった。
思考することを止めてしまった時、初心を忘れてしまった時、どうやら私は阿呆になるようだ。
刀をいつも部屋に置いているのは、抜くことはないと鷹を括った、油断以外の何物でもない。仮に、芹沢さんが先ほど本当に私を殺す気だったなら、一瞬で殺られていただろう。
刀を持つということは、いつでも相手が潜んでいるということ。
いつか自分を守るために、誰かを殺してしまうのかもしれない
その覚悟が本当にあるのだろうか
一度発した言葉を撤回するのは、自分に呆れて息がつまる。喉を一つ鳴らして、唇を湿らせてから口を開いた。
「わ、たしは…未だ、真剣で人を斬ったこと、が、ありません。
…できれば、斬らずに…斬らなくて済むうちに、元の時代に帰られればと…思ってます」
この前捕らえた食い逃げ犯がどうなるのか、知らないわけじゃない。
だけど自分の手を汚さずに、自分の役目を果たして、それ以上は見ないフリをした。関係ないことと思いこむことにした。
「人を斬ることが恐いか」
問いかけに視線が泳ぐ。
恐い…人を殺して平気になるのが恐い
自分が間違っていた時が恐い。後悔するのが恐い
当たり前に、刀で人が斬られる世の中で、自分の価値観は通用しない。
「誇りを傷つけられたから殺した」…そんな言葉に、私は口を出すことも、手を出すことも、この世界では許されない。
なのに、自分は下手人を捕らえて、いい気になっている。
全てが矛盾している
芹沢の質問について弥月は答えていなかったのだが、応えないことがすでに答えであった。
弥月がどうしてか息がし辛くて黙っていると、壇上の男は再び口を開いた。
「迷うならば義を貫け。さすれば道を間違えるとも、恐るるに足らず」
「義…?」
正義?
義理?
義務?
判然としないといった顔を向けた弥月だったが、容易く一笑に付される。
「いつでも答えを与えられると思うな。その足りぬ頭で考えよ」
どうして芹沢さんはいつも一言多いのだろう
そう悪態をつきそうになったが、「そういえば」と彼が言うので、黙って耳を傾けると、「縞柄の狸とは酔狂なものだな」と、にやりと笑ってから背を向けた。
…縞柄の狸?
青いタヌキではなく?
…
……あ!
「虎ですから!! トラ!!」
それは間違いなく昨日、兄弟のために描いた絵のことで。遠くなった背中に精一杯の抗議をした。
文久三年九月五日
亥の刻。壬生寺境内にて。
第四回・芹沢さんちの剣術講座が、開講されるはずだったのだが。
「貴様、何者だ」
「えっと……芹沢さん? 急にどうしたんですか…?」
「己が問うている。貴様、本当は何者だ」
…なんか怒っていらっしゃる
訳が分からないまま、怖じ気づいて一歩退がるが、彼から受ける威圧感に変わりはなかった。
踏んでいる砂利が音をたてた。
「矢代弥月は本名ですし……あとは芹沢さんもご存知の通りかと…」
寧ろ"女"であることに気付いているのは、隊内では芹沢さんだけだと思われる。
『本当は?』…本当は何者と言われましても……薬で身体が縮んだ記憶もないし、顔の皮を丸々はずして正体を明かすような、非現実に勝てるネタは持ち合わせていない…
…いや、私、タイムトラベラーだったわ
「一昨日、二条城の二ノ丸御殿の唐門について話していたな」
「…? はい…」
「何故知っている」
!? あ…!
すぐに察しがついた。
ふつうの浪人なら知っていたらおかしい事を、私が知ってることに彼は不信感を抱いたのだ。
「てっ適当ですよ、適当!! 虎だったらいいな、可愛いな、みたいな!!」
「竹に虎、牡丹に唐獅子、雲に竜らしいな。己も裏表であることは知らなかったが。
…ところで、大坂城に天守閣は存在せん。童に嘘を教えるな」
「うそっ! 金シャチないの!?」
ジリジリと後退する。今すぐ背を向けて全力で逃げてしまいたい。後ろ傷の可能性とか、この際この世のすべてから逃げきれたら万事解決。
なのに、蛇に睨まれた蛙のように脚が上手く動かないのはなにゆえ。
「ほらっ…ホラ話ですよ!!口から出かませ!!」
噛んだ。出任せ。
「己も最初はそう思ったのだがな。二条城の造りのみならず、屏風や天井の絵柄まで答えられるとはどういうことだ?
昨日、旧知の者に確認したら間違いなかったからな、流石の己も驚いた」
確認したの!!? なんなの、その用意周到さ!!
「子ども喜ばすためのリアリティですよ! 偶然の賜物!!神の御加護!!」
「その異国語は何処で覚えた。薩摩の者……忍か?その特異な身体能力で御所にも忍び込んだか」
ぎょえぇぇぇ!!?何でそうなる!!
「答えられんようだな。否定せぬは肯定といったところか」
「まっ…待って待って下さい!」
「不逞の輩。死んで侘びよ」
スラリと抜かれる腰の得物が全容を表す前に、弥月は振り返って逃げようとしたのだが、袴の後ろ板を捕まれていて。
「暴れるな、長く苦しむことになる」
「ぎゃあぁぁ!話します!話しますから!!」
最近、長兄以外の恐いものに、芹沢さんを加えました。
昼間っから酔いどれの振りをしている彼は、実はそこここで暗躍しているようです。
***
「150年後と言うか」
「うぅ…はい。道に落ちていたところを土方さん達に拾われました」
語弊はあるが、間違ってはない。芹沢さんも「そうか」と納得してくれた。
拝段に座る芹沢さんの正面に正座をしている。心だけじゃなくて、石畳が膝に痛い。
「150年後は女も武士になるか」
「えっと…」
分かっていたことながら言い淀む。武士がいないことを説明する訳にはいかない。
「何故?」と聞かれたら、幕末の全てを説明するしかなくなる。
「私は武士ではないですが…剣術を習っています。それはそう珍しいことではないので…」
「ふん…時が変われば変わるものだな」
彼が木刀で地をトントンと叩くから、いつそれで頭を打たれるのかと、若干、恐怖しているのだが。
もちろん避けさせてもらう気はある。だけど怖いものは怖い。
「何時(いつ)からいる。数日前というのは嘘だろう。」
そういえば初対面時に、そんな見え見えの嘘をついた。…なんやかんやで、幹部の金髪の妾説は弥月の耳にまで届いているから、嘘を重ねても仕方ない。
「…実はですね、一ッ月ほど前川邸に軟禁されてまして、なんとか八月十八日に間者の疑いを晴らした訳です」
「…政変か。予言でもしたか」
コクンと一つ肯く。
「新選組、と」
「…なるほどな。会津の者でもなければ知り得ぬことだ。
会津の密偵ならば話は別だが……あやつ等なら、それはそれで監禁しとく訳にもいかんなどと甘い事を言うだろうな」
「甘いですか…」
「甘いな。己なら指の一本や二本落としてでも、身元を吐かせる」
たしか遊女の手練手管から始まった"指切り"。
芹沢の言葉に弥月がちらりと彼の左手に目をやると、彼はその視線に気づいて鼻で笑った。
「女の小指は偽物と相場が決まっているからな。それに、己は貴様の小指など欲しくもないわ」
「えっと……私もできれば切りたくないです。なので、芹沢さんにバラしたことは皆さんに黙ってていただけると助かります…」
「己が吹聴する輩に見えるか」
「大丈夫です」
「フンッ……そのようなことせずとも、貴様の場合、叩いたところで落ちる埃など大したものではなかろう。労力の無駄だ。
それなら囲ってボロ雑巾になるまで使う方がましだが……それは、やつらには分からんだろうな」
ボロ雑巾…
「…私を敵…間者とは疑わないんですか?」
トントン拍子に進む話に、我が事ながら違和感が否めない。いくら芹沢さんの察しが良いとはいえ、話しの根本から疑われなさすぎる。
「ふん…怪しい輩など、この組にも既に紛れ混んでおるわ。
貴様の飛び抜けて胡散臭い笑顔などに、己が騙されるはずもなかろう」
「う、胡散臭い…」
弥月の顔がひきつったのに芹沢が構うはずもなく、彼は立ち位置のままに彼女を見下した。
「貴様が刀を取るのは己のためだと、生きるためだと言ったな。この世界の者ではないというのが理由か」
「…まぁ、そういうことです。ここにいれば衣食住確保されますし……それなりに楽しいですし…」
「…楽しいと言うか」
「………はい、まあ、好き勝手やらせてもらってますし…」
ここがもっと殺伐としていて、町の人達が言うみたいに血を啜るだけの所だったら、とっくに飛び出している。
尊皇だとか、攘夷だとかに関する彼らの熱い思いには今一つ付いていけないが、 思っていたより新撰組の人達は普通だ。弥月と同じように衣食住の目的で入った人、刀をまともに振ったことがない人、政治へは関心すらない人もいる。
色んな人がいて、雑多に暮らす。仕事は市中の見廻りと、時には捕り物。暇なときは竹刀を振って、ご飯は仲の良い者と食べる。お金があれば花街へ出かけて……
……
「……楽だわ」
思わず呟く。
元の時代では、そろそろ本格的に受験勉強しなければと、今頃机に向かっているはずだった。道場を継ぐのは長男で、自分は趣味で終わらせるつもだった。勉強して手堅い職業について、自立して生きていきたいと思っていた。
それが今、何を考えるでもなしに、なんとなく生きていけるような気さえしている。
そのくらい穏やかな日々。
「ここは……貴様がいた所より楽か」
弥月が「楽だ」と呟いてから暫く経っていたが、芹沢はそう問うた。
その声は大きくはなかったものの静かな境内に妙に響いて、弥月をより深い思考へと誘(いざな)う。
楽……?
真剣を初めて手にした時、抜き身を振ってみた時、そんなお気楽な思いだっただろうか
巡察中、腰に差したものの重みに慣れず、左脚ばかりが疲れる。未だ、人にあれを向けたことは無い
何となくでも、生きていけている。目的がなく流されている自分は、一体どこへ向かっているのか
薄く笑って、男を見上げた。
「…どうでしょう。私の住んでいた所では、日々、身体を張って生きてる人なんて稀ですから。たぶんもっと穏やかです。
だから、命を張ってることが精神的にクるなら、この生活は楽ではないと思いますけど…」
「では、貴様にとっては楽だと言ったのか」
「……」
軽率だった。
思考することを止めてしまった時、初心を忘れてしまった時、どうやら私は阿呆になるようだ。
刀をいつも部屋に置いているのは、抜くことはないと鷹を括った、油断以外の何物でもない。仮に、芹沢さんが先ほど本当に私を殺す気だったなら、一瞬で殺られていただろう。
刀を持つということは、いつでも相手が潜んでいるということ。
いつか自分を守るために、誰かを殺してしまうのかもしれない
その覚悟が本当にあるのだろうか
一度発した言葉を撤回するのは、自分に呆れて息がつまる。喉を一つ鳴らして、唇を湿らせてから口を開いた。
「わ、たしは…未だ、真剣で人を斬ったこと、が、ありません。
…できれば、斬らずに…斬らなくて済むうちに、元の時代に帰られればと…思ってます」
この前捕らえた食い逃げ犯がどうなるのか、知らないわけじゃない。
だけど自分の手を汚さずに、自分の役目を果たして、それ以上は見ないフリをした。関係ないことと思いこむことにした。
「人を斬ることが恐いか」
問いかけに視線が泳ぐ。
恐い…人を殺して平気になるのが恐い
自分が間違っていた時が恐い。後悔するのが恐い
当たり前に、刀で人が斬られる世の中で、自分の価値観は通用しない。
「誇りを傷つけられたから殺した」…そんな言葉に、私は口を出すことも、手を出すことも、この世界では許されない。
なのに、自分は下手人を捕らえて、いい気になっている。
全てが矛盾している
芹沢の質問について弥月は答えていなかったのだが、応えないことがすでに答えであった。
弥月がどうしてか息がし辛くて黙っていると、壇上の男は再び口を開いた。
「迷うならば義を貫け。さすれば道を間違えるとも、恐るるに足らず」
「義…?」
正義?
義理?
義務?
判然としないといった顔を向けた弥月だったが、容易く一笑に付される。
「いつでも答えを与えられると思うな。その足りぬ頭で考えよ」
どうして芹沢さんはいつも一言多いのだろう
そう悪態をつきそうになったが、「そういえば」と彼が言うので、黙って耳を傾けると、「縞柄の狸とは酔狂なものだな」と、にやりと笑ってから背を向けた。
…縞柄の狸?
青いタヌキではなく?
…
……あ!
「虎ですから!! トラ!!」
それは間違いなく昨日、兄弟のために描いた絵のことで。遠くなった背中に精一杯の抗議をした。