le fantôme de l'Opéra

 父親が亡くなり、後を追いかけるように母も亡くなった。
シャニュイ家は終わりかと思われたが、後を継ぐことになった長男のフィリップが奮起した。
世間は好意的に見ていたが、それは最初のうちだけだ。
親が優秀なら子供もというのは当てはまらないからだ。
足を引っ張る者もいる、それにフィリップは遊び人のようなところがあった、女性にだらしがないといえばそれまでだか、貴族の間では珍しくはない。
本人も女から近寄ってくるんだと笑っていたぐらいだ。
オペラ座のパトロンとして多額の資金を出資していたが、その見返りとしてプリマの恋人がいたのだ、ただ、それは一人ではない。
貴族なら、そんなことは普通かもしれないと誰もが思うだろう。
だが、家を継いだばかりなのだ、蹴落としてやると考えるものがいても不思議はないだろう。
  
その日、見せたいものがあると友人からと言われたとき、フィリップは、それが何なのかわからなかった。
君だけに見せたい、他の奴には秘密だと言われたときは驚いた。
友人の性格からすると自分だけにという言葉は当てにならない、自慢しようと他の仲間達にも見せる筈だと思ったのだ。
だが、連れて行かれた場所を見て思わず足が止まった。
スクリブ通りだ、どうして、こんなところにと思ったが、慣れた足取りで友人は館の中に入っていく。
高級娼婦のいる館だ、どうりで最近は酒場、クラブにも顔を出さなかった筈だと思った。


長い時間ではなかった、挨拶をして、ほんの二言、三言、言葉を交わしただけだ。
女は無口で殆ど喋らず、ベッドの側のテーブルの上の茶器で茶を入れると友人とフィリップに勧めた。
見たことのない絵柄の入った茶碗には取っ手がない、口をつけると不思議な香りが湯気と一緒に立ち上る。
「東洋の茶だよ」
友人の言葉にフィリップは頷いた。
しばらくすると部屋のドアをノックする音がして、女主人が顔を見せた。
 
館を出た二人はしばらくは無言だった。
「殆ど喋らなかったな」
「ああ、彼女は、まだフランス語に慣れていない、だが、綺麗、だろう」
確かにとフィリップは頷いた、黒い髪と目、膚の色はフランス女にはない、ジプシーなら珍しくはない。
だが、違うのだ。
思わずプリマの恋人を思い出した、もし、どちらがと聞かれたら自分はどう答えるかと思ってしまった。
以前、友人達の間で東洋の女は猿のようで人間じゃないなどと笑い話で盛り上がったことを思い出した。
 「彼女を身請けしたいと思っているんだ」
すぐには返事ができなかった、愛人としてなら頑張れと応援するつもりだった。
だが、友人の表情を見るとひどく思い詰めた様子だ。
 「金も底をつきかけている、両親も薄々、感じているようで、問い詰められた」
 フィリップは体が震えた。
「あの、お茶、前とは違っていた」
話題が突然変わる、どうしたんだと聞こうとして、はっとした。
「他の男からだ、彼女の気を引こうとしている男は大勢いるんだ、考えただけで」

友人と別れたフィリップはなんともいえない気持ちになった、娼婦に本気になるなんて、だが、笑いとばすことができないのは友人があまりにも思い詰めた表情を思い出したからだ。
「気が狂いそうだ」
絞り出すような声を思い出し、フィリップは暗い気持ちで家路についた。

ナーディルと別れて自宅に着くとほっとしたが、これでしばらくは安心だと思ったが、あの男のことだ、近いうちにまたやって来るのはあきらかだ。
 その前に、なんとかしなければと思いながら私は再び出かける用意をすると部屋を出た。
 自分の家から少し離れた場所の倉庫といっても良い場所、そこに私は女性を住まわせていた。
  
 ドアの前に立つと緊張してしまう、軽くノックをして私だと声をかけると中から人の気配と物音がした。
 返事を待たず、ゆっくりとドアを開ける。
 「ああ、そのままでいい、動かないで」
 
 カウチソファには薄い毛布に体を包んだままの女性が体を横たえている。
 「気分はどうだい」
 近寄りながら声をかけて顔を見る、薄暗い地下の中では正直、健康な人間でも不健康に見えてしまう。
 「紅茶でいいかな」
 はいという返事、その声に私は、ほっとした。
 
 あの日、下水口で出会ったとき、彼女は何も持っていなかった、荷物を盗まれたという。
 金もない為、宿にも泊まる場所のない女性を私は自分の家に案内した、最初は断られるかと思った。
 見ず知らずの人間の申し出だ、案の定、彼女は断ってきた。
 私は自宅に戻ったが、気になってしまい、しばらくして様子を見に戻ったのだ。
 
 出会った場所に女性はいなかった、内心、ほっとした、どこか休める安全な場所が見つかったのかもしれない。
 パリの地下は巨大な迷路といってもいい、広いだけではない、浮浪社や犯罪者達は自分たちの安全の為、隠れ場所を作ろうと穴を掘ったりする馬鹿者もいる。
 家に戻ろうとしたとき、足が止まった。
 聞こえたのは悲鳴だ、長く、地下に住んでいるが、こんなことは初めてだ。
 助けを呼んだところで、無駄だ、誰か、いや、助けが来るなんてことはない、皆、自分の事で精一杯なのだ。
 もし、危険な目に、襲われて殺されるようなことになったとしても、それは運が悪かったと思うしかない。
 こんなカタンコペのような場所なのだ。
 悲鳴は、もしかして、男の足取りは速くなった。
 ここに長く住んで、通路も場所も把握しているのだ。
 

 「C'est une femmeこいつ、女だ」
 「Doit être étranger ou avoir de l'argent外国人か、金を持っているだろう」
 「Avec ce calibreこの器量なら」
 「Mieux encore, nousいっそのこと、俺たちで」
 「Peut-être mieux qu'une Française.フランス女より、いいかもしれないぜ」
 
 三人の男達が取り囲むようにして地面を見下ろしていた。
 突然、一人の男が自分の首を押さえ、うめき声を漏らした。
 慌てた二人が持っていた明かりで男を照らし、何が起きているのかと確かめようとした。
 
 一人の男が叫んだ、いや、悲鳴のような叫びだ、そばにいた二人が何事かと驚いたのも無理はない、だが。
 だが、もう一人の男は衝撃を感じ、自分の胸に手を当てた。
 (ぬ、濡れてっっ、水、いや)
 男は悲鳴を上げた、それは痛みの為だ。
 
 久しぶりだ、だが、これっぽっち、いや、わずかばかりの罪悪感を感じない。
 倒れた男達を見下ろしながら、どうするかと考えた。
 このまま放置しておけば後で面倒なことになりかねない、夜が明ける前に外に運び出すことにしよう、入口近くまで運び出しておけば金目のものを漁りに宿無し、浮浪者が運び出してくれるだろう。
 警察なら多少の小遣い程度にはなるはずだ。
だが、その前に大事なことがある。
身を屈めて確認する、気を失っているだけだと分かり男はほっとした、しかし、服が乱れ、いや、破かれている、だが、それも、上着シャツだけだ、乱暴はされていない、そう思いたい。

 クリスティーナ・ダーエを初めて自分の住処に連れてきたときは手を握り、半ば強引に誘いこんだ、だが、今回は違う。
 気を失ったままの女の体を抱きあげると男は歩き出した、もしかして目を覚ますかと思ったが、その様子もない。
 「よかった」
 小さな呟きを漏らした男は地面に落ちている白い仮面を見つけた、だが、それを拾う気にはなれなかった。
 何故なら血で汚れていたからだ。
 
 
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