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やまおうひと

――――お兄さま、おけがのぐあいはいかがですか?

障子の向こう、月明かりの淡い光の中に浮かんだ、小さな影。
それが誰なのかはすぐにわかった。屋敷の中で、火重を兄と呼んで許されるものは一人だけだ。緑雨と名付けられた、彼の妹。
頭を枕の上から僅かに動かし、火重はまだ幼い彼女の方へ、優しく大丈夫だよ、と答えてやった。
打撲による熱で頭の芯がズキズキと疼き、あちこち擦りむいた皮膚はひりつくが、声は何とも気丈に飛ばすことができたらしい。
戸を隔てても、その安堵はよく伝わった。心配から来る強張りから解放され、少し丸くなった肩の形。薄い溜め息の音と俯きに滑る髪の揺れ。そこに、もぞりと辺りを窺う動きが繋がる。
「お兄さま、おへやに入ってもよいですか」
期待を込めた声で続いた、愛らしい問いに、けれど火重は、それはならない、と短く返した。かたりと、既に開きかけていた障子が動きを止める。
しばし。そのまま諦めてほしいと願う彼の目の前で、邪魔な扉を駆逐しようと傾いた体は身を引かない。
これまでならば窘めの言葉を吐きつつも、二つ返事に迎え入れただろう。だからこそ、妹も今諦めきれずにいるのだと、火重は確かに気付いていた。
「緑雨、もう夜も遅い。
兄妹とはいえ、お前ももう学舎に入る年頃なのだから、誰もいないところで二人きりになるのはよくないよ。
あしたの朝、母様と一緒に来ればいい」
兄は諭すように語りかけ、静まった障子の向こうをじっと見つめた。口にしたくもない言い訳の味が、舌の上でざらつくようだと、少年は眉間に皺を寄せる。
「お兄さまはおひとりでも、ちゃんとねむれますか?」
潤んだ声が聞こえた。「わたしは、ひとりではねむれません」と続く言葉が聞こえるようだった。泣き虫な、妹が。自分の言葉に必死で涙を堪えているのは痛いほどにわかっていた。
「うん、平気だとも。だから緑雨も、もうおやすみ」
それでも火重は、語気が冷たくならないよう苦心してでも、緑雨の入室を拒む台詞を言い放った。
月明かりが揺らぎ、影が障子から遠ざかると同時に、その姿が一回り小さくなったように見えた。
……同じようなやり取りをあえて増やしている近頃、彼女には寂しい思いをさせている。それは火重も十分知っていた。
跡取りの下に生まれた女児――有り体に言えば、不要な子である緑雨にとって、彼は邸内で唯一の味方に近い、それも承知している。
けれど、今、本当に目に入れても痛くないほど可愛い可愛い妹を、わざと甘やかすことはできなかった。
「緑雨、あしたは朝稽古の日だからね、早く起きねば会えないよ」
そう言いながら、彼は互いを隔てる薄い建具に、どれほど感謝したことか。距離がもたらす心痛は、決して緑雨だけに生まれ出でているのではない。
火重は、向こう側で涙をこらえているであろう幼顔を、固くつぶった瞼裏に思い描きながら、熱に疼く肩を抱いた。
沈黙が、軋みながら通り過ぎてゆく。
「……はい、おやすみなさいませ、お兄さま」
小さな影は、そっと、そっと、寝巻きの擦れる音だけを残して、ゆっくりと去っていった。
火重はほっと胸を撫で下ろし、また眠れぬ暗闇へと目を凝らした。部屋の高みにある天井は、闇がまぶされていて認識できない。中空を見つめて、歯を食い縛り、緩めて溜め息を吐く。
殴られた頬が、背が、腹が、足が、腕が痛む。不協和音をたて響き続ける全身の痛み。
そこに刻むように、繰返し唱える。
私が、守らねばならない。緑雨が自分で歩き出して逃げていけるまでは、自身が彼女を守らねばならない。
喧嘩で痛む体を強張らせながらそう何度も思う。
緑雨を疎んじる輩は、使用人の子供、緑雨の同輩、火重の級友にさえいる。
今回の諍いの相手、普段関わりの薄い新興住宅地の輩でさえ、雰囲気から彼女を虐げの対象とし始めている。
いくら優しく、愛らしく、聡明であろうとも、女児である限り、この家では緑雨に居場所が与えられない。
そしてそれは、この村に、彼女が生きる範囲の誰かの中にも、緑雨の居場所が無いことと同義だった。
「……」
不遇に睨まれた暗闇は、火重の決意をどう思ったのだろうか。
幸いなことに、火重は、緑雨より幾年かだけだが早く大人になる。
だから、彼女が独り立ちできるまで。兄以外の温かさを求め旅立つことができるまで。後継ぎとして、兄として、彼女を愛するものとして。誰にも緑雨を傷付けさせないと、誓った。
向けられる悪意も、嘲笑も、軽蔑も取り払う。いつか憂いの種もない花園へ、彼女を送り出すと。そう誓っていた。
今はまだ、火重は子供だったけれど――――

write2013/2/27
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