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PH

「僕がノートに書きとめるのはすべて真実、偽りなどない。けれどもそれを認めない人は、どれもが嘘と罵って、存在さえ悪と吐き捨てる。これをまやかしというならば、僕のローザの死もきっと、現などではなかっただろう。ああよかった、それだけは幸いだ。あの愛し子は狂い壊れはしなかった。まだこれからも、苦しみ死ねずに生き永らえる。」―アルノルト



彼女の首は酷く細かった。冷たい汗と降り注ぐ霧雨に濡れて、そこを絞め上げるのには余分な力が必要だった。繁った草の先が僕の指先をくすぐり、鬱陶しいと少しだけ思った。
笑っていた。彼女は笑っていた。
その表情の全てに、彼女がいつも湛えていた、青白く透けた雰囲気は見当たらなかった。引き吊った口の端からは泡が立ち、微細に痙攣を起こしていた。充血し、所によっては内出血し、まだらに赤く染まった白目が、半ば閉じた瞼の下でぐりぐりと蠢いていた。僕と良く似た深茶色の瞳は、より暗い色をした瞳孔を小刻みに開閉させている。
それを見詰めながら、僕はその昔に指の腹で押し潰した、太った芋虫の感触を思い出した。そうして一時、実に似ていると感じた。
僕の本棚に這い回っていた緑色の芋虫。小さな僕の指の下で、白い体液を漏らしながら弾けた芋虫。いいや、まるで違う。脳裏に引き出したあの日の映像をなぞり、否定を続ける。
目の前の彼女の首はなめらかで、いささか細く、うぶ毛の一本も見当たらなかった。表面は冷たかったけれど、強く接する掌には確かに奥に宿る熱が伝わった。指の下にのたうつ脈は、弱まりながらもどくどくと生を訴えかけていた。何よりも、柔らかい肉の感触は、芋虫のようには簡単にへしゃげて終わらなかった。
それに彼女は笑っていた。楽しいと、嬉しいと、好ましいと、愛おしいと、ありがとうと、満足だと告げる表情を、僕に示し続けていた。
「ああ、可愛いローザ。僕の薔薇」
なんて素敵な妹。
耳のすぐ傍で、ゲェェ、としゃがれた鳴き声がした。蛙だと思えば、それは彼女の喉から聞こえていた。ころころと淑やかな、ハンドベルの音色に似た声は、僕の親指が原産地を散々に押し潰して奪ってしまったのだった。
ああ、もったいなかっただろうか。僕は俄かに考え込みながら、けれど彼女が笑っているので、疑問に肯定できなかった。誰か他に人がいれば、きっと叱責されていたのだろうが、ここには生憎僕と彼女しか居なかった。そして、敢えて述べれば、僕は件の失せ物を、別段惜しいと思わなかった。
思案を止め、僕も彼女へ笑いかけてみた。彼女のように多くに誉めそやされた経験はないが、彼女だけは僕がこうすると、いつでも大層喜んでくれたから。
似た顔を付き合わせて、言葉で説明を繰り返して。何度やっても上手くならない笑顔の練習に、いつでも付き合い続けてくれる君。今こそお礼をしよう。習った通りに、僕が持ち合わせるだけの誠意を尽くして。
「気持ちいいのかな」
のしかかり続けて怠い腰を動かすと、びちゃりと複数箇所から水音がした。降り頻る雨にぬかるみ始めた地面に触れる僕の膝と。咽頭を抉り直された痛みに跳ねた彼女の後頭部と。そして、乱雑に繋げた僕と彼女の性器同士が。
セックスは初めてではない。総じた数としても、彼女とも。僕のペニスが挿し込まれた彼女の秘所は、地面よりも酷く濡れていた。ぐちゃぐちゃに泥が付いた僕のズボンよりも、黒ずんで爛れていた。中は暖炉の側よりも熱く燃え、肉壁は瞼の動きに合わせて痙攣しながら、不定期にうねり締め付けてもみせた。
「ローゼマリエ」
笑顔を作ったまま、更に体重を腕へと上乗せした。握った首がぎしりと軋み、しなる。通った鼻筋の先から、鼻血が漏れ始めた。舌を突きだして泡を吹く、彼女の顔が青を通り越し黒くなる。圧が高まっているのか、焦点を定めずに暴れる目はこぼれ落ちそうな脹らみ方をしていた。
「綺麗だよ」
掌の向こうを、血がどうにか循環しようと最後の抵抗をしていた。だから膝を浮かせて、首筋が歪むほど下土に押し付けた。何十秒かすると二度の痙攣の後、土気色の顔は表情を失った。ガクンと顎が落ち、舌が垂れる。雨が口に降り込んでももう喘ぐ必要はない。強ばっていた肢体が力をなくしていった。僕は弛緩した彼女の膣の中、ペニスに被せた薄いゴム風船へ吐精した。
「可愛い子」
幾度も口にされてきた彼女への賛美を、僕も改めて告げてみる。

そうして、彼女は死んだ。

僕は指先が痺れるほど込めていた力を手から抜き、彼女の首を解放した。細い首。なめらかな首。痣と内出血が散らばったそこに残った手形は、彼女が好んで着けたがったチョーカーのようだった。
下半身も離し、ぬるつく避妊具を外して口を縛る。置いていくのは迷ったあとに止めた。
一息つけば、最中より格段に寒さが感じられるようになる。
「そうだ、ノートが欲しいね」
新しいノートが。
思い付きもあって、僕は彼女の死体を放置して家に帰ることにした。僕には彼女の死体を抱えて帰れる筋力などない。ましてや、面倒ばかり降りかかるだろう第一発見者になる気もなかった。
父と母にはいずれ連絡がいくだろう。今は天候のせいもあり人気がないが、普段なら見通しも悪くない路肩、見付かるのはそう遅くない筈だ。
垂れてくる濡れそぼった髪を視界から排除し、身体中にまとわる布地に厄介さを覚えながら家路を急ぐ。早く帰ってシャワーを浴び、冷え切った体を温めたかった。そうして着替えて熱いコーヒーを飲んだら、文房具店へ行くのだ。ひとつ隣の町に、近頃大きな店が構えられたと聞いている。今度はしっかりと傘をさして出よう。
新しいノートは革の表紙のものが良い。白くなった指先を合わせて擦りながら、未だ残る感触をなぞる。彼女の首の様に、なめらかな革の。彼女の首の様に、温かい厚みをした真っ白な紙の。その一ページ目に、早く彼女の死に様を記してあげたかった。
研究をしなければ。
分類と、考察と、経過の記述を。病名。ハイポクシフィリア。露出症。幼児期より両親、また周囲からの過度な期待によるストレスを受け、思春期には抑鬱状態に陥った。同時に性逸脱が始まり、窒息への執着と野外での脱衣欲求を見せる。一時入院措置を取るが、本人並びに家族の希望があり退院、その後、治療の甲斐なく絞首を伴う性行為中に死亡する。
そう。可哀想な可愛いアルステーデ・ローゼマリエ・ブランケは、一人の愛おしきパラフィリアン。
望み尽くした場で息絶えた、僕が初めて診た患者。
「僕は忘れないでいてあげよう」
そうとも、君の全てを記憶している僕が、君の真実を記録してあげる。
霧雨の薄闇が、君を笑わせていたことを。ローザ、君が本当に生きていたことを。微笑まずに笑ったことを。生きて死んだ世界のことを。足掻いた日々のことを。嘘の「イイコ」ではなかった時を。
「ああ、ノートを」
君を助けようとした僕だけが、分かってあげよう。

write2013/4/20
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