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刀/メンヘラ本丸

「まるで霞がかかったようだ」
と、苦々しく吐き捨てる役人の言葉を、刀は聞き咎めて小さく笑った。
「それがいいんじゃありませんか」
一日中案内されてこの帰り際、今日初めて聞く真面な現代語に人間は鼻白む。どういう意味だ、と問い詰めたが、そうすると先導のひょろ長い刀はまた訳の分からない古い文句を並べ立てるばかりで埒があかない。主が主なら、刀も刀だ。全く気に食わなかった。取り潰しをも視野に入れられた底辺の無能本丸が、何を驕ってニヤニヤと。
目の前の刀、この個体だって、一度ならず政府で下らない追い回しをさせられていたのを見ていたが、今はまるで偉そうに男を本丸から追い出そうとしている。
それでも、立場上ろくに躾もしてやれない。今日彼がここに来たのは、二日前に依頼した新規任務の臨時刀剣委託契約受諾証回収のためだった。
いくらキチガイの本丸とはいえ、任務のために斬れる刀を借り受ける側である手前、媚は売っておくべきだとの判別はつく。
しかし、苛立った腹はそう簡単におさまらない。なにか一言。この天下りの新参者なら、まだ自分が政府の使いである重みがよく判るだろうしと考える。
門(ゲート)の前まで来た人は、じろりと下からなよやかな長躯をねめつけると、鼻から荒く息をフンと吐いてネチャリと笑った。
「いい気になるなよ」
きょとんと丸くなった、見るからに人外な気色の悪い眼がこちらを見ている。人間様から何年も世話してもらっているくせに、まだきちんと日常会話もできない化け物が。
『アドバイス』をしてやらねば。身の程を教えてやらねば。
「どいつもこいつも、うすらボケてたら痛い目みるぞ?」
ヒッヒッと喉をひきつらせて笑うそれに、ゆうくりと首を傾げ、ほのかに笑んだ刀は小さく口を開いた。
「つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを」
太い腹を揺らしていたものが完全に消えたのを確認して、優しくも見送っていたその太刀は憐れみを以て嘆息した。
あれは早晩、可哀想なことになるだろう。
今日こそ自分が練度上限で暇を持て余していたから対応できて良かったが、担当でもない人間がまさか戦績の子細も知らないまま、見知らぬ本丸へ立ち入ってくることもあるなどと普通の男士は考えない。
戦中の前線基地の直中である。刀剣男士については前提として、審神者のことだって多少なりとも把握して、明瞭簡潔、建設的な話をしに来るくらいが最低基準。それすら出来ないのなら、罠や謀略を疑うものが出るのも当たり前。
こんなに甘い本丸でさえ、この身で牽制しなければ、先ほどから後ろをさり気なく付いてきていた短刀達の誰かがきっと、戯れのふりをして手足の一本にでも教えを刻んでいただろう。
それが、もっと気の張った、主従の契りも固い、前線を駆ける余所の本丸であったならば。
……この本丸のように、普段から監視カメラや政府職員などから向けられる、他人の目になれているところばかりでは決してないのだ。
本丸は、正確に言うならば男士達は、かなりの治外法権を持っている。人の括りに入れられないということは、人として裁かれないということだ。その巣に入り込んで、おおよそ絶対君主である審神者を、遠回しにでも否定するなど。
「世の中は 夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ」
未来などいざ知らず、けれどどこかで痛い目を見れば、すぐに夢か現かははっきりするだろう。
玄関の方から、気分を変えに景趣変更がなされると声がかかる。一応の避難をするため母屋に向かい歩き出す刀は、さっぱりと先程までのことを忘れた。
嘲りも睥睨も、所詮は慮外のものに過ぎなかった。
曖昧で胡乱な、甘やかな世界の何が責めを負う必要がある。ここは本丸、ひとひとりの作り上げた、地も時も定まらぬ春霞の城郭である。
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