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刀/メンヘラ本丸

花見をしよう、と審神者が言い出したのは、本丸を構えて丁度五年目の春だった。
普段は自分の寝床である図書棟からあまり出てこない人間。それが夕餉にいきなり紛れ込んできたと思えば唐突な提案を口にした。思わず、周囲に座していた男士たちが首をかしげる。
「花見、ですか」
「おっ?なんだいなんだい?宴会かなあ!?お酒飲めるならアタシはなぁんでも大歓迎だよ!!」
「花見かあ。いいかもしれないね、丁度春の陽気だし」
「それ景趣でしょう。まあいいんじゃないですか。僕は手伝いませんけど」
細々とした提案の声はさほど大きくなく、両隣と向かいの五、六人にしか届いていなかったが、交わされる会話が伝播し、花見、宴会、ざわざわと刀たちが騒ぎだす。
「花見かあ。祭?祭か!?」
「どっちかというと宴じゃないの」
「いい気候になってきたものね」
「酒もあるかのう!?」
あれが食べたい、これを飲みたい、出し物は、いつやるのか。
広間とはいえ、皆で隣り合ってずらりと居並ぶ一室内、話題が広まるのにそう時間はかからない。
「宴会、ふむ」
「宴会ですか。なるほど」
「僕、はんばーぐが食べたいです!」
「はんばーぐ」
「いいですね」
「主。ちょっといいかい」
周りがその気を見せ始めたところで、すいと姿を現したのは歌仙兼定だった。
「なんだか花見をするなどという話が聞こえてきたんだけれど?」
にっこり。
八割ほどの中身が片付いた審神者の膳の前へきっちりと座って、美しく笑う表情の凄みたるや。沸き立つようだった会話もとたん声を潜めたところに、その影響力が垣間見える。
審神者は咀嚼していたきんぴらが急に喉に詰まるのを感じながら、うん、と小さくうなずいた。
「四月になったら、花見をしたいなって」
籠った声ではあったが割合はっきりした意思表示に、弓なりに細められていた歌仙の目が丸さを取り戻す。
「…どうしてまた」
「春だから、」
麗らかだから、と。口にされた理由は、酷く曖昧だ。それ以上言を重ねることはなく、審神者は巻かれた布で窺えない目元を僅かにたわませた。
ふむ。視線を宙空に逸らせた歌仙が、徐に身体の向きを変え、長谷部、と騒ぎに混じらず静かに食事を進めていた打刀を呼ぶ。
「卯月に宴だ、予算は取れるね」
「…なんだ、進めるのか」
「たまには慰労会もいいだろう。いつものに、もう何人か手勢を揃えてくれ、料理は承るよ」
思いつきの提案はどうやら受け入れられたらしい。
本丸の実質を取り仕切っている刀から、実務担当へ話が回る。
声をかけられた長谷部はふん、と小さく鼻を鳴らすと、慇懃を顔に張り付けて審神者へ向き直った。
「主、俺が企画書を作ってお持ちしようと思いますが、よろしいでしょうか?」
「うん、よろしく」
「は、主命とあらば」
そうして、運営表に新しい予定が追加された。


世は春。芽吹きの朝。
吹く風に甘い香が混じり、花弁が躍る。散らされても散らされても失せることのないさくら。ほんのりと笑うもも。しゃんと枝を張るうめ。名も知らない小花が咲き散る柔らかな下草の上を土の下から這い出てきた虫が横切り、それを狙ってか高らかに歌う鳥が宙を行き交う。
全て景趣機能が作り上げたまやかしとはいえ、壮麗なあり様に心持つものなら惹かれない訳もない。それが刀の付喪だろうと。
「ふ、わぁ…」
早朝、景趣替えにあたり屋内に退避していた五虎退が襖を引いて目を見開く。温かな日の光に、いちめんのはなばな。一瞬のうちに現れた柔らかな世界に、足元で丸くなっていた虎ががう、と一足先に庭に飛び出していく。
「あっ、虎くんっ」
「わあ…!凄いねえ」
「よーし、敷物の準備しようぜ!」
同じ部屋から続けて顔を出した兄弟刀が、既に手元に置いていた荷を持って外へ駆け出す。
花見会場に選ばれたのは、少し前まで物干し場として用いられていた図書館と第一居住棟の間にあたる場所だ。先だっての増築で物干し場が移動となり、今は日々色とりどりに洗い物がはためいていた面影もなく、ただの広場となっていた。
「これ、持って来たよ」
庭先にたむろしていたものたちへ、今し方出てきた小竜が差し出したのは野営用のグランドシートだ。コンパクトな深緑色の袋に入っており、広げれば長物でも三振は座れそうな大きさになる優れものである。
「これはこれは。うーむ…この薄さ、ちとじじいには腰に悪いな」
「そうだねえ、腰にキそうだ」
「座布団でも運んでこようか」
「手伝おう…お運びのことだよ」
「ふむ、では私も行こう」
見分は切り上げられ、徐々に動き出すものが増え出した。野原になっていた平地の空間が、茣蓙やブルーシート、誰の持ち物か遠足用の敷物やBBQ用の折り畳み椅子まで持ち寄られ、広々とした即席宴会場として様変わりしていく。
何かが広がるたび、その上に花が降り散った。
よく均され、すこんと奥までだだっ広い景色の端は普段通りであれば鬱蒼とした森に繋がっている。だが今は数多の花木が我こそ盛りと咲き誇り見事なものだ。
ボクはここがいいな、じゃあ俺はこっち、と愛らしいやり取りもあれば、おいあそこに酒のケースが置いてあったぞ、ならあの木の辺りを死守せねば、といった声もする。
楽しみだね。そうだな。朝風に微笑みの気配が混じった。

パッチワークのようなありあわせの座席用意が終わった頃。
「何回見てもトンチキな技術だなあ」
「丁度良く春の景趣が貰えるなんてついてたな」
「この前貰った菜花の景趣もなかなか春らしかったと思うが」
「しかしあれは一面花畑になってしまうからなあ」「宴会向きじゃないよねえ」
設営組より少し遅れてぞろぞろと庭に下りていく男士の手には、思い思いの肴や酒が握られていた。
どこから湧いて出たのか、いや、休日扱いではあるこの朝で、存分に寝坊を楽しんだ群れがようやく起きてきたらしい。
既に一仕事を終え休憩を取っているものたちとは違い、まだ眠気を残した表情はにこにこと朗らかだ。
寝坊はしたが、この日を楽しみにしていなかった訳ではない。各々持ち込んだ品物は、今日の為に一括発注されたのではない自費で用意したとっておき。
それを皆で共にしたいと…されど宴の始まりには早すぎた。
「そこらの!座り込む前に準備を手伝えっ」
棟をまたいだ奥から気配を察した歌仙の叱責が聞こえて、庭先に広げられていた敷物へ上がろうとしていた幾人かが慌てて引き返した。
歌仙兼定に逆らうべからず。
この本丸の不文律だ。ここで不興を買ってはおそろしい。
必死であったり苦笑であったり、表情は様々だが、この後に饗される馳走を食いっぱぐれる訳にはいかないと、その心だけは一致している。少々の手伝いを固辞するには釣り合わない罰が目に見えている。
大半はそうして踵を返したが、中にはそうしなかったものもいる。図太い何割かは悠々と腰を下ろし、早くも酒盛りを始めていた。
「いい日和だなあ。とっておきの茶葉を出すのに丁度いい」
「ふむ、これはなかなか」
「は~ほんまええ陽気ですねえ。このまま寝てまいたいわ…」
うららかな日差しに、爽やかな風が一陣吹き抜ける。空気に乗って聞こえてくるのは厨の長が矢継ぎ早に指示する声だ。
篭手切、それはもう火を止めていいよ。青江、漬物を切るだけなら広間に出してある卓でやってくれ。蜻蛉切、玉子は…ああ終わったのかい?ありがとう。乱と小夜はそろそろ詰めに入ってくれるか?うん、宗三の持っているのに。任せるよ。そこの槍!手を落とされたいのか!
ゴン、と文字通りの鉄拳が落とされたのだろう音がして、珍しい静形の大笑いや、千代金丸と北谷菜切がのんきに心配する声が続く。
「歌仙さんが運ぶの手伝ったら味見させてくれるってよ!」
「本当か兄弟」
「よし、俺っちも行くぞ」
作業もそろそろ大詰めだった。

「壮観だなあ」
ひょこりと図書館のテラスから姿を現した審神者は、両腕に重箱を抱えた亀甲たちを横に侍らせて、はは、と乾いた笑いをこぼした。
「ご主人様、これは一段づつ置いていけばいいのかな?」
「うん、よろしく」
「お任せください!」
ぱっと散っていく二振りが持っていたのは、ささやかながら審神者が用意したつまみの盛り合わせだ。
審神者の私室にある簡素な施設とはいえ、折角の調理場を遊ばせておくのは言いだしっぺとしても気が引けたのだ。
意外と料理が出来る刀が多い本丸ではあるが、全振りを集めての宴とあっては全員の腹を満たすのに苦労が伴う。普段食事を作っている二つの厨に、居住区の各所へ設置してあるミニキッチンを使っても作業場の方が足りないのだ。
つい先日、さすがに手狭になってきた刀剣たちの居住域を丸々一棟増やし、食事の場所も二手に分けたところであったのに、それをまたこうして集めようとしているのだから仕方がない。
もちろんその辺りは事前に予定を組んで必要十分となるよう数日前から計画的に作り置かれているし、それを含め、今も手が空いているもので順次運び出されているところではあるが。
「えっこれ主さんが作ったの?」
「ええ、主料理とか出来たんだな…」
流れ聞こえてくる反応に苦笑しつつ、審神者はサンダルに足を突っ込む。自分も手にしていた残りのお重を置いていかなければならない。遠いところから配り始めたらしい亀甲たちを見ながら、ほてほてと歩いていれば。
「あ?何持ってんだ」
「食いもんか?」
「あ…おはようございます」
二振りの同田貫に挟まれて、一振り目の小夜がぺこりと頭を下げた。
「おお、両手にたぬ」
思わず漏らした言葉に、ばーか、誰が狸だよ、といつもの雑な罵倒が返る。並べられた猪口を見ると、ここはもうひと盛り始めているようだった。
「主君、お持ちします」
おつまみだよー、と審神者が重をどう渡そうか両手に荷を抱えたまま考えていると、後ろから助太刀の声があった。
振り向く前に、面差しの似た二振りが両脇からささっと荷物をさらっていく。
「おおおありがとう」
はい、いえ、とはきはき返事をした前田と平野の後ろには、準備を手伝っていたらしい三池の二振りが立っている。短刀の手から太刀の手へ、あれよあれよと重箱は移動し中身が改められた。
「…亀甲のように配ればいいのか」
「ああうんそう」
「おっうまそうじゃねえか!ふーん、料理出来たんだな」
「えっありがとう…」
「はいこれここの分な!」
重の一段と、もともと配り歩いていたのだろう箸とおしぼりが同田貫と小夜にも回されて、四振りはまた会場に散っていく。あまりのてきぱきとした連携に、うまく会話すらできないまま有能、と呟く審神者に、お前とは違うな、と心ない同田貫の揶揄が続いた。

準備を始めて数刻。日も高くなりかかり、腰を上げているものも居なくなったころ。
「全員揃ったかい?」
掛けていた襷を外しながら、歌仙が庭へと降りてくる。君が最後だよ、とどこかから返答が帰ってきて、そうか、と息を吐く顔にはさすがに多少の疲れが見えた。
それもその通り、いま絢爛に取りそろえられた料理の数々は本丸に属する百余名が一斉に手を伸ばしても事足りるほどだったが、そのおおよその指示は歌仙が出していたのである。
一人で拵えた訳でないとはいえ、同時に花見の全体計画も主軸となって行っていたのだからこのところの忙しさは目が回るようだった。
しかしそれもこれまでだ。ぐるりと会場を見渡し確認すると、歌仙はふ、と笑顔を見せた。
既に持ち込んだ酒を飲み始めているものも一部いるが、さすがに料理に手を付けている輩はいない。もしいたらどう仕置きしてやろうかと思っていたが、そこは誰しも分かっていたことらしい。
「準備は出来たね。では、主からの挨拶を賜ろうか」
いつもの飯時と同じようにわざと声を張った歌仙の言葉は開始の促しだ。聞き逃すことなくそわそわと待っていた刀たちの視線が一斉に集まった。
水を向けられた当人、本丸の主人は、既に賑やかしい日向から外れた端も端、桜の木の下にちんまりと座っていた。
「えぇ…?あいさつ…?」
「こんな時にくらい審神者らしくできないのか貴様は」
お茶をちびちび舐めていた審神者はいきなりの指名にしらを切るつもりか首を傾げたが、秒で数オクターブ落とされた返答の声音で首を竦めながらよろよろと立ちあがる。歌仙に逆らえるほどの権威はなかった。
「ガチギレじゃんわかったって…。
ええと、今日は皆さんありがとうございます」
「いいぞ主ー!」
「はは…。んん。
…おかげさまでこの本丸運営も五年を無事に超えました。
今日は好きなだけ飲んで食べて明日からまた頑張りましょう。乾杯の音頭は今日の準備の立役者に譲ります。歌仙さん!」
いつもと変わらず元気のない声は、会場端までは届いていないのだろう。なんとなく空気を読んだだけの、まとまりのない拍手がパラパラと起こった。
盛り上がりに欠ける現実を意に留めず、審神者はそのままさっさとブルーシートに座り直し固い息を吐く。いつもに増してうだつの上がらない人間を睨む歌仙の顔は険しい。
「雅の欠片もない挨拶で本当にどうしようもないね…もうちょっとマシなことは言えなかったのかい」
「言えると思います?」
はは、とか細い笑い声がした。気付けば、見上げてくる顔に包帯がなかった。珍しく審神者衣装に身形を改めているせいか、まごつきながら湯呑を持ち直す手は震えているようで、歌仙はしかめていた眉を一層くしゃりと歪める。本当に、面倒臭い主にあたったものだ。
「いいや?」
「なら怒らんで下さい…はい音頭どうぞ」
麗らかな陽気だというのに感じる寒気を抑えながら、審神者はおどけて歌仙をせきたてた。
まったく、と頭を一つ振り。顔を上げた歌仙は一刹那前までの般若顔はどこへやら、うってかわってにっこりとほほ笑む。
用意した場所に座すのは全て見知った刀の顔だ。一部、先ほどまで手足代わりに走らせていた肥前や長義、膝丸あたりはばてて転がっているようだが、近くの長曽祢辺りが世話をしているようだし、食事にありつけば元気も戻るだろう。
山鳥毛は南泉に何やら楽しげに尋ねているし、一番新入りの白山も、粟田口の鳴狐、博多に挟まれ他にも幾振かに囲まれて、しゃんと歌仙の方を向いている。
ざあ、と大きく風が吹けば、皆の頭上を花弁が川となって流れていく。
「…乾杯の音頭を拝命した、之定が一振り歌仙兼定だ。
本来ならここで、桜にちなんだ句の一つでも披露したいものなのだが、風雅を解すものばかりでないのは僕もよーく知っている。それは後ほど、あちらの桜木の下で有志を募るから我こそはと思ったらぜひ参加してくれたまえ。特製の菓子と茶も用意しているよ。
さて、一応の挨拶はもう貰ったので、僕の言葉などどうでもいいから早く始めろ、と言いたげな奴らもいることだし、手短に済ませようか。
長短はあれど、この身を得てから僕たちは様々な新しい体験をしてきたことだろう。一人ひとり、持つ思い出はどれだけ縁深い刀とも同じものではない。
しかし、今日ばかりは、本丸総員が一つの思い出を共にする。
この本丸で、こうして宴を開くのは、実は初めてのことなんだ。そこに立ち合えたこと、指揮を任されたことを光栄に思う。あとは皆も、存分に楽しんでくれれば恐悦至極。
では今日までも明日からも同じ台詞ではあるが、飯時のお約束だ。手は合わせたかい?それでは、」
「「「「「いただきます!」」」」」
わあ、と弾けるように大合唱が上がり、待ってましたとあちらこちらで箸が伸び酒器が鳴らされる。一気ににぎやかさを増したその場で、審神者はゆっくりと茶を飲みこんでいた。

「おっ、珍しい。飲んでるのか?」
「少しだけね~」
「こっちも舐めてみるかい?辛口でうまいぜ」
「日本酒はだめ~」
大方は食事も一段落したらしく、広場では和やかな談笑の様子が広がっていた。
一部は踊って脱いでの乱痴気騒ぎとなっているようだが、歌仙の催している歌会からはやけに離れた部分で行われているところを見ると多少の理性は残っているらしい。
同じ青髪の長兄同士だが、江雪が数珠丸たちと優雅に歌を詠み、一期が村正などと素っ裸ではしゃいでいるのは見ないふりをした。てんやわんやで対応している蜻蛉切が、歌仙の出てくる前に収束させられれば生きて終われることだろう。二振り目だから勝機は乏しい。
審神者も普段にない豪華な食事を目一杯胃に詰め込んだところで、湯呑の中身をアルコールへ変えてまだ会場に居座っていた。
「そ~んなジュースみたいなのでいいのかい?次郎さんの分けたげようか?」
「それも飲めない~苦いから」
「…これはやらねえぞお」
「甘酒も要らんて」
先ほどからちらほらと、酔っ払いたちがその湯呑を覗き込んではニコニコ酒を勧めてくるのを追い返しながら、審神者はんふふ、と小さく笑う。
食事の時は、厨に出入りしているものが同じようにやってきては声をかけて、自分の手の入った一品を勧めていった。
巴と岩融の海老しんじょは大ぶりな割に優しい味がしたし、二振り目の次郎が持ってきた青菜のナッツ和えは香ばしさがいいアクセントになっていた。大倶利伽羅の作ったらしい小鯵の南蛮漬けは骨まで軟らかく仕上がっていて大包平が絶賛しながら分けてくれて、三振り目と四振り目の五虎退たちが仕上げたというゴマ団子は中もごま餡で素晴らしく好みだった。
桑名のバーニャカウダは松井の入れ知恵で作られたらしいが、丹精に育てられた野菜はどれも素材から美味しく、実は好き嫌いの多い後藤も素直に口にしているほどで。
出し物を披露した後、こちらを見遣る男士もいた。
二振り目の石切丸と祢々切丸の神楽から始まり、五振り目の五虎退と毛利のタイガーショー、新選組刀揃っての集団組手に、様々と…まあ朝尊の新型罠実演説明会発生などのハプニングも、今日に限っては笑い話に出来る。
なにより今日は、全員がこの場に揃っているのだ。
審神者は人の多い居場所が好きではない。が、それでも楽しい場所というのはあるものだ。
不慣れながらに厨に立って手ずから拵えたものを、形がいいものを選り分けて食べてほしいと並べていく。いつ練習したのやら、胸を張って拍手を受ける間に舞い散る景趣ではない桜の花びら。飲兵衛が、他刃に取られないよう腕に抱えたとっておきを、わざわざ飲めと訪れる。この場にあるものたちは本当に大変いとおしい。
「あ、あるじさま…」
「ぼくたちのおすすめはこれなんだぞ…」
くい、と袖を引かれそちらを見れば、二振り目の五虎退と謙信が、揃ってなにやら果実酒の瓶を掲げていた。
日本では近代まで馴染みのなかった南国の果物で出来ているそれは、ここに来てから知ったのだろうか。
「おー…?ありがとう。これならちょっとだけね」
度数は一見でわからないが、コミカルなラベルで踊るフルーツの絵柄。大丈夫だろうと湯呑を置いて、傍らに一応と置かれていた猪口を取る。ぱっと顔を明るくした二振りは、そっとその器にとろりと甘い匂いがする濃い金色の酒を注いだ。
「ありがとう」
「えへへ…」
「ふふ…」
満面に喜ぶ笑顔のなんと愛らしいこと。どれ、頭の一つでも撫でさせてほしいと、審神者が手を伸ばしかけ、
「おーい五虎退!この前言ってた大吟醸きてっぞぉ。早くしねえと全部飲んじまうぞ~」
「あっ!?だっだめです!とらくん止めて来て!僕も飲みます!!」
「ぐるるるるっ」
「ぎゃああ!?バカ噛むな折れる!!!」
「謙信、こっちにおいしいようしゅがあるよ。すこしきついのがじつにすいーつとあう」
「あっいまいく!」
短刀の機動は速い。一撫でする前に、どちらの頭もてんでばらばらな方向へ駆けていってしまった。
「やあ、振られたね、主」
「こっ、こら清麿!」
コロコロと脇から茶化す声に、審神者は行き場のなくなった手で頭をひとつ掻き、残された金色の酒を一気に煽る。
「ぐほっ!?ッゲホゲホゲホゲホ」
度数の高い果実酒の原液が、追いうちのように審神者の喉へ絡みついて食道と胃を焼いた。


ことり。手酌で冷やを煽っていた加州の膝に、隣り合う審神者の頭が落ちる。陽にあたらないせいで普段は薄青い顔が、今日は包帯に阻まれることもなく桜色に色づいて、春の陽気にさらされている。
「いっぱい喋って酔った」
どういうこと、と呆れた口ぶりながら、勝手に人を枕にしてむずがる人間の頭を撫でる初期刀の手は優しい。
「ここはゆめのようだね、」
小さくはない身体を丸めて、ふふふと薄く笑った審神者の目が、ぼんやりと庭にひしめくもの達を見詰めている。
「五年」
呟かれた年月は、加州と審神者が連れ立ってきた時間の全てだ。
「なんか、短かったな」
――――刀剣男士として目が覚めた時、視線の先にあった昏い目。表情のない顔。降り注ぐ花弁など意にも留めず、ただこちらを振り仰ぐ姿。
まだ鮮明に思い出せる一瞬を脳裏に浮かべて、加州は黙すに留める。
五年。片手の指で足りるだけ。あの人が、遠い歴史で夢を追った日々と同じだけの年月だ。
「さめなければいいのに」
初めて目したあの日から、相も変わらず濁ったままの視線が、ぼうと広場に伸びている。刀ばかりがわらわらと、笑い歌い騒いでいる宴だ。人の子ひとり、寝かしつけているのもまた人ではない。
「加州」
うとうとと緩く開け閉めさせていた腫れぼったい目蓋が、完全に下ろされる。閉じた肌へ封をするように、桜がひとひら乗った。
「こういうときでもいいかもね」
やくそく。
ふふふと、笑う声はそのまま穏やかに寝息へと変化していく。ざざあ、風に花が舞う。
吹き付ける花弁の多さに周りを見渡せば、いつの間にか周囲に屯っていたはずの酔っ払いたちは二人から距離をとり、ぽつんぽつんとマイペースに杯を煽るものばかり残っているようだった。
ねえ。声がかかる。
「主はここで、夢を見てるんだね」
だんだらの羽織、高く一本に結った髪。この本丸では珍しく、大和守が加州の側に寄って座り直し呟いた。
どれだけ飲んだのか目も頬も赤く潤ませた幼げな顔に、薄く隈を浮かべた目元の陰りが目立つ。酷くちぐはぐな顔色の昔馴染みは、そっと手に握っていた徳利を加州の方に差し出す。
「一献」
「…ん、どーも」
控えめに注ぎ入れられた酒は、軽い飲み口でするりと胃の腑に落ちた。舌に覚えのない味だった。今日の宴に用意されたのは銘々の希望を取り入れて雑多な目録となっていたのでその一つなのだろう。
大和守の気に入りだろうか。彼がこの味を好んでいるのか、加州は覚えていない。
空になった猪口に再び向けられた銚子をそっと拒むと、引き攣るような笑い声が飛ぶ。
「…僕たちは夢の中のものでしかないんだ」
漏れる、低く掠れた声の乾いたこと。それを自覚してか、大和守は徳利に口を付け中身を全てを飲みほし、袖で乱暴に口を拭う。
「主の本当にはなれない!」
もう長らく戦に出ていないせいか、日常に洗い晒され薄らいだ浅黄色へぱっくりと一文字の跡が付く。
黒く濡れたそこを眺めれば、ざわざわと、数メートル離れただけの喧騒が遠い。
座って囃すものの間を、調子付いた幾振かが跳ね遊んでいる。朗々と謡われる声。あちらこちらで鳴らされる乾杯の祝い。唯一の正しい心音。
放棄された静寂に、ひらりとしろがねが割って入る。
「かしょのゆめ、ですね」
従者から剥いで来たのか、己の身の丈よりも大きな衣を審神者に掛けやりつつ、小天狗は優しい声で告げた。
細い足首でしゃらりと金の輪が鳴る。同じほど高い声で何がおかしいのかきゃらきゃらと笑った初鍛刀は、無遠慮に人間の腹にもたれかかる。
「あるじさま、こんなところでねちゃ、かぜをひきますよー」
「ん、んん…」
「いまつる、起こさない」
「はーい」
唯一の先輩から注意され、明るく返事をしながらもその仮初の身体は人の上から退く様子を見せなかった。分厚い肉の上で、呼吸に合わせて膨らむ腹に揺さぶられるのを楽しむかのように、ぺったりと身を摺り寄せている。
「かしょの、ゆめ」
「昼寝而夢,游於華胥氏之国、か」
大和守が繰り返した言葉に、いつの間に傍へ来たのか小烏丸が一文を添えた。
「どういう意味?」
赤と青の双対が、縁も遠い父の黒い目を見詰める。
「あるじさまが、いったとおりです」
「理想郷、夢のような国、願うばかりの地、その夢」
くすくすと笑う古刀。それよりもふるくゆかしい鳥の掌が、審神者の頭を撫で、携えていた桜の一指しを捧げ置き去る。今剣はいつのまにか、掛布の中にもぐり込んですうすうと寝息を立てていた。
「夢、ね」
ぐしゃりと顔を歪め座り込んだ昔馴染みは、膝を抱えて顔を伏せ切りもう何を言う様子もない。それをちろりと横目に見て、加州はまたゆっくりと膝の上に眠る重石を撫で始める。
まるく、あたたかく、汗を掻き始めているのかしっとりとした触り心地がした。
夢で何が悪いのだろうか。
とくとくと、心持ち逸るも規則正しいちいさな鼓動。五年。かつてあの人が夢追った月日を、これからは越えていくのだと思う。なんともあっけなく終わった自分が添い遂げられず、その以後もけして成就しなかった、夢見の日々。
死とは、病とは、人の命とは。このひとにとってのたったの三日が、どれだけ長い旅だっただろうか。手短におくった手紙の三つが、何をどれほど伝えただろうか。
伴にある喜び、振るわれる悦び。ここではそれが、己が望み戦う限りに、延々と叶う。
もはや祀られる身もなく、還る場所すら分からず、存在すら伝承にしか依れないものが、夢想をどうして拒めるのだろうか。
先程この人も言っていた。
「夢を見たまま死ねるなら、夢の中で死んだなら、」
それがいいんでしょう?あるじ。
しあわせなことだ。こうしたいと願われるままに、叶えるだけでいい。さいごまで共に、ともう約束は取り付けた。
夢のままでありたいなら、それが安らかに続くように。夢を見たくなくなったなら、決して現へ戻らずともいいように。
「ぜんぶ、あるじのものだからね」
はらはらと、桜が舞い落ちている。散っても散っても散りきらない、常に満開に咲う花々の下で、人の子が一人眠っている。
全てが閉じ切ったこの場に揃っている。美しく、血腥く、でたらめなこの箱庭は華胥たるだろうか。
「望むなら、叶えてあげる」
主人が残した酒盃の中身を、いちの刀は浮かぶ桜もろともに干した。

write2020/4/22
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