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刀/メンヘラ本丸

「今日はあっちに行かなくていいの」
おとないの返答もせずに、加州へ尋ねた人はカリリと短い爪を噛み、部屋の壁に頭を打ち付けながらへらりと笑った。カチ、カチチと右手の中ではカッターが気まぐれに留め具を鳴らし、時折漫然と左腕を切り付ける。
加州はゆっくりと此処、審神者の私室と今まで居た執務室とを隔てる戸を後ろ手に閉じ、踏み場のない床の上、散らかったものを足蹴にしつつのんびりと審神者の側へ近寄っていく。
折り重なったとりとめのないものたちは多い。
菓子袋。ボールペン。よれた書類。
マスコット。丸めたちり紙。カレンダー。
汚れたタオル。茶碗。空き箱。キーホルダー。
へしゃげた鞄。ペットボトル。鉛筆。絡まったビニール紐。アイスの蓋。
一歩進めば靴下越しに足の裏で何かが割れて、砕け、潰れて。粉々になり、ぐにゅりと漏れ、くしゃくしゃになる感触がする。
部屋に明かりは点いていなかった。加州はわざとそのまま踏み入っていた。暗闇でも夜目は利いた。見えないのはどちらか。
光源は、打刀には必要ないが、人間にはそうではない。筈である。それでも、灯は点されない。
ゴミ溜めのような部屋の奥、ヒトの寝そべるサイズの一角だけが拓けていた。寝垢に汚れた布団の上で丸く背を曲げる審神者の前まで、不必要なほどの時間をかけて漸く辿り着くと、加州は狭い空き場所にやはりゆっくりと膝を折り、目の前の人の太ましい肩へ手を回し抱き締めた。
審神者の背は加州よりも少し低いが、肉の厚みで腕周りの余裕は余りない。辺りに停滞していた垂れ流される自傷の血のにおいが、突然の動作で一層ぶわりと濃く肉から放たれる。染み着いた汗と脂の臭いに混じる、鉄臭いにおい。
腕の中に丸まる、審神者のじっとり薄ら湿気った体は固く緊張を孕み、籠もる息は酷く浅い。縮こまる審神者を膝立ちのまま抱き込んでいる加州は、ぶよぶよと柔らかい背をのんびり手のひらに撫でながら、落ち着いた口調で、その人をあるじ、と呼んだ。
「かしゅう」
一拍を置いてか細い声がした。加州は抱えた人間の大きな頭へ、自らの頭を擦り寄せる。言葉はない。また、呼ばれた名前と同じほどの小さな音を立てて、シュッと蠢きがあり新鮮な赤の匂いが立つ。
「あるじ」
もう一度呼ぶ。
重なった頭同士、すり、と髪と髪が擦れて僅かに鳴った。徒然、血が薫る。
一時、それ以外の音はそこに無く、夜になり深まった花冷えが、しんと身を端から冷やしていく。
加州はそのまま静かに身を寄せていた。抱きかかえた生肉の塊は密やかな呼吸の分だけ小さく膨張と収縮を繰り返している。触れ合わせた肌の部分だけが、互いの熱で温もりを保つ。撫でていた手を背から頭へと移し、ざんばらに荒れた毛束を指で梳いてやる。あるじ。もう一度人間を呼ぶ。
「いじわる、言うのやめな」
審神者はぼんやりと、もう一度折り畳んだ腕を不格好に動かして、右手に握ったままのカッターナイフを左腕に走らせた。
また、新しい赤が浮かび、繋がって、線を伸ばし、伝い落ちる。濃く澱む臭い。ぽたり、ぱたんと、雫が垂れて拡がる。

数時間前までは、普遍、楽しく過ごしていた筈だった。
六周年。本丸の節目に合わせた盛大な宴は、この所のみな大人しくあったフラストレーションを晴らすように大いに盛り上がり、珍しく勧められるがまま酒を煽った人間も、いつもの目隠しである包帯すらせずに、愛想を失わずニコニコと末席で笑っていた筈だった。
なのになんで、と審神者は思う。
浮かぶクエスチョンマークは半透明だ。思考はうまく回らない。元からおぼろげな現実味は更に失われたようだった。ぼんやりと温い、誰かの腕の中にいると、遠くで感じながらも、その熱の正体も意味も、意識ははっきりとしない。
先程から、どこかがピリピリと痛む。手の中には固いものが握られているかもしれない。行われる何かにも、鈍い頭はどうにか胡乱な焦燥を掲げようとして、危険信号を掴み切る前に、こころから霧散し消えてしまう。
汽笛のような、サイレンのような。あるいはテレビのテストトーンのような、長い長い、ながい耳障りな音階。に。脳を、言葉が、じがとかを、支配されているきがした。
いや、ソレは正確ではない、気がするだけ、だ、気のせい。幻聴と呼ばれる、錯覚とされる、そういった曖昧な、不明瞭な、非現実なもの。ありえないこと。
審神者は知っていた。しっている。そう、ぼくは頭がおかしいから。審神者は解っていた。そんな音を出すものは、ここには一つも置いていない。ああああ私は頭がおかしいから。はい。さにわは思っていた。そうだね。何もあるわけがない。ないね。オレは頭がおかしいから。ない、うふふ。サニワはくりかえした。くるくる。けれど、ここ。ここは。ここに。こことは。むなしいね。どこだっけ。

「あるじ」

ぼんやりとした、磨り硝子を重ねたはるかとおくに在られる隔壁の向こう側から、静かな声がする。
それは綺麗な鈴だった。蜜柑の綿毛が踊るような。波の走った紙飛行機の死骸にも似た。まぶしいほどの黒のタンゴ。
シュッと、また遠くで痛みが光った。わんつー、空飛ぶ鼓笛。赤い猫が膨れ上がり、丸く歌う。みじめだ。思い出が笑い声で頬を炙る。膨らし粉の勝負が絶えない。糸は絡まって首をさすり、苺並木にトドが開く。
氷水の灰色が淋しいとたんたかたん。腹の底を突き抜けて、繰り返し唸る「あ」の音が耳たぶを喰い千切り、目の奥に生えたヒトの抱える手鞠は、蜂蜜の爛れ方で自慢気に羽搏き、血の色とにっこり心臓は覗き、まるでピエロ、つま先で焦げて散らばる前と空がクルクル上下してで、胃の裏側だとは反対意見を突きつけてスキップ、したか?わ。
蜘蛛が、巣の上で、赤ちゃんを揺すっている。
食べ盛りの優しさだ。
散り散りになった。かえってくることはならないから。ゆらゆらと、わくわく、みんたなあいをう、手足のない水色を冠で、小指の根元、にわたし、シュッとまた、自傷、あか、ライン、熱、許された。許されない。かなしい。いたい。つらい。かみさま。かみさま。    。
薔薇色の匂いがした。

「主、俺のこと嫌いになった?」
「そんなわけないじゃん」

喉からまろび出たのは何か。判然としないままあぁ間違えなかったと遙か彼方確信する。
「愛してるよ」
自動回答。
「愛してる」
繰り返した。
それは恐らく声で、審神者は自分をくるむものがいつのまにかキンと冷えていることに気付くと、覚束ない手付きで寄り添っていた細い背へ短い両腕を回す。
感覚の死んだ汗だらだらの手のひらの中でカチャリとカッターが鳴いて、刃がまた走る。震えるはんたい腕に浮いていた血は、半分のなまを、べちゃりとで戦装束を汚した。
「かわいい、すきだよ、だいすき、だいすきな、かしゅう」
繰り返し口から気付いたら走るのは、ふやけた意識では意味の掴めないただの欠片だった。形がわからない。ほろりと漏れる言葉を、まだ散逸する頭でひともじづつなぞり、思い出したような気になって、がんばって、もう一度と音で並べ直す。
「愛してるよ、可愛い加州。俺の加州。大好きだよ」
大好き。大好き。大好き。愛してる。
「大好きだよ。愛してる。加州、かしゅう。愛してる、もう俺のものじゃなくなっても」
そう、自分のものじゃなくなっても。

「あ、」
急激に痛みの感覚を取り戻し、痺れるように疼く腕で、それでも加州を力強く抱きながら、審神者は一度、二度、生き返るように深く息を吸って吐いた。
頭の中身が組み直されていくようだった。
そうだ、愛している。たとえ自分の愛が、許される事がなくなっても。
意識が冴え、思考も地に足を着け落ちついてゆく。深呼吸を繰り返した。
鉄の臭いは自分から。花の匂いは愛するものから。
ふわりと鼻腔に染みるそれらを冷静に嗅ぎ分けつつ、審神者は腕の中にある華奢な身体を抱き締め直すと、うなだれさせていた自らのつむじに重なる、小さな頭の丸さに心をくすぐられて焦点を取り戻した目を臥せる。
「愛してるよ、加州」
はぁ、と吐いた呼気に、自覚した痛みが混ざらないように。
集束した感情はとっくに鮮明さを取り戻していた。カッターをこれでもかと握り締めていた左手も、今なら難なく開くだろう。試しに小指だけをそろりと引き剥がしてみる。指切りのような仕草は成功した。特に問題なく動きそうだと改めて理解できれば、張り巡らされていた緊張も解け、ゆるゆる、じわじわと疲弊感が涌いた。
疲れていた。切り刻んでしまった腕が痛かった。変な姿勢を取っていたからか、首や肩も痛い。足が痺れかけているようでもある。
今更ながら垂れ流しにしていた血で加州の服に傷口が張り付いてはいけないと、軽い謝罪を舌に乗せつつ、彼を抱き寄せる腕を緩めた審神者は、フフ、と低く耳を打つ笑い声で一切の動きを止めた。
チャキリと延髄に当てられたものは冷たい刃だった。
「俺が、なあに」
ひやりと、夜気よりも低く笑いは響く。思わず瞑目していた瞼をあげた審神者は、眼前に迫った輝く赤色に言葉をも奪われる。
まだ重なった頭同士の。間近にある美しい顔の。
暗闇に浮かび上がった、弧を描いてしなる唇に似付かわしくない、無感情に丸い瞳は、じっとりと審神者の事を見詰めていた。
こんな日に、ほんと意地悪ばっか言うよね、主。
お互いに抱き合うようにしていたため、加州から審神者の背に回されたままであった腕の片方は、まだふわりと分厚い肉の身を支えている。しかし、逆の手にいつしか握られた本体が。今すでに審神者の首筋を正確に捉えて抜き身である。もし柄を握る彼が、少しでも力をこめて腕を引けば、鋭く研がれた美しい鋼は、簡単に人間の脆弱な肌を裂くのだろう。
あるじ。あるじ。ねえ?あるじ。
笑う加州の僅かな身じろぎで、皮膚が薄皮一枚、ごく浅く切り開かれたのを感じながら審神者は思う。
冷たいと、清水を思わせる悪寒が全身を駆け巡っていた。

どれほどかの時を隔てて、ふふ、と今度は審神者の口から漏れる笑いが狙われている首筋を揺らした。当然、身体は肉薄している刃に再度触れ、浅かった傷口は血が滲む深さへと変化する。
ふふ、ふふ。ふふふ。
途切れ方を変えながら、審神者の含み笑いは続く。端整な顔立ちの眼窩に嵌まった大きく丸いふたつの紅玉は、瞳孔を開いてぬめぬめと光りながらまだ審神者を見詰めている。
口唇だけは笑みの形に。瞬きの一つもせず、本体に伝う血にも拡がっていく首の裂け目にも構わないまま、加州はじいと審神者を眺めることを止めない。
微塵も変わりなく。
そんな態度に、ついに審神者はアハハと口を開けて笑い声を上げた。ひときわ深く、首筋に切り込み線がつく。
そのうち息が切れて長々と溜め息を吐いた人間は、力を緩めていた両腕をゆっくり加州の背に回し直すと、目一杯の力をこめた。
今あるだけの全ての力だ。それでも、細い身体はびくともせず、所業を受け入れて固まったまま。審神者はぎゅうぎゅうと加州を抱き締めて、抱き締めて。そうしてからごめんねと明るく告げた。
「約束したもんね」
熱い抱擁。服との摩擦に引きつれて、再度開いたカッティングの傷口からまた血が滲む。乾いた血の上に新しい血が混ざり、粉となったもの、液体のままのものそれぞれが、加州のまっくろな衣装に染み込んで馴染む。
ぞんざいに俯いていた審神者が加州の肩口へ顔を埋めるように頭を寄せれば、転じて、ようやく首元から刃が遠ざかった。
「愛してるよ、加州」
漏れる血を塗り込めるように、痛みでひりつく左腕全体を使い薄い背中を撫でながら、審神者は繰り返す。
愛してるよ加州。絶対に連れていくからね。
愛してるよ加州。誰にもあげない。
大好きだよ加州。一緒に死んでね。
愛してるよ加州、俺の初期刀。
愛してる、加州。俺のいちばん。俺のかみさま。

愛してる。

こてんと、頭の上に再び可愛らしい重みを覚え、審神者は笑う。
いそいそ両手で抱き返してくる体の、ヒトより高いはがねの熱が心地好かった。加減された、肋骨が軋むほどの返礼が愛おしく、喜びに胸が高鳴る。
あーあ。血の匂いがするねとねぶられた首筋に、ひらりひらり降り始めた桜の花弁が張り付いてこそばゆい。
目を閉じた。暗闇がより深く、確かになる。触れる範囲、腕の中の刀以外に熱源はない。薄くて細い身体。常に研ぎ澄まされた存在。とくんとくんと単独の鼓動が聞こえた。唯一。もうそれ以外の音はない。
きっと今日が今年最後の花冷えの夜だ。深く息を吸う。肺に満ちるのは全てが嗅ぎ慣れた鉄の香りで、それだけしかなく、ああ、これこそが求めたものだと、審神者はもうひとつ嬉しくなって咲った。

write2021/4/24
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