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刀/メンヘラ本丸

「刀剣の引き取りぃ…?」
なるほどわからん、と主は首をかしげた。

 たらしめる

酷く珍しい担当からの音声通信。出ると、思ってもみない依頼が舞い込んできた。
うちはまだ稼働4年目、ほぼ働いてない感じのぐだぐだ本丸だ。刀の数こそそれなりに多いものの、これも重複顕現が多い故。政府からの依頼を受けるような優秀な戦歴ではないし、他で特に覚えがめでたいこともない。平々凡々よりはちょっと下。好意的に見てもその程度の状況だ。
何より他の数多の本丸と比べた時、まともと言えるような本丸ではない。
「うちメンヘラしかいないのに、そんなとこにヨソの刀突っ込んじゃ駄目じゃあないですか…?」
「そーだよ、わざわざ駄目にしたいの?」
主も画面に向かって苦々しげに訊ねているが、俺も横から口を出す。
そう、うちは明確にブラックでこそないが、主を含めてだいぶメンヘラ色が強い。いや、多分そもそも主がメンヘラだから、それに引きずられて俺たちも精神的に少しおかしく顕現してしまっているのだろう。
何人かはとっくに正気の一線を越えてるし、不安定だったりよく聞く性格から外れた個体もままいる。
普段の運営だって主ではなく思考の安定している男士任せで、刀の中には主を憎んでいると言ってもいいようなものすらある。それでなくとも、マトモ寄りの個体も含めて、本丸全体が今の歪な環境に慣れすぎている。
そんなところに他所の刀剣を放り込む?冗談にしても笑えない。他を知らないうちの刀だから、うちで暮らしていけるのだ。
「いやいや大丈夫ですってえ、こっちもまあ色々ありましてえ、ちゃんと吟味してお話してるのでえ」
へらへらと笑って答える声は全然深慮した様に聞こえなかった。この担当はいつも適当で、その雑さでうちのようなちょっとアレな本丸は助けられている部分も大きいけれど、今回の話は完全にアウトだろう。
絶対なんとなく声掛けただけだしこいつ、と眉をひそめて隣に座る主の脇腹を肘でつつく。受けちゃだめだよ、わかってるよね?
主はちゃんと意図を汲んでくれたらしく、俺に目をやり小さく頷き、すみませんけど、と言葉を続けようとして、
「預かってほしいのは加州清光なんですけどお」
と遮って聞こえた言葉にえっと口を噤んだ。
…まずい。
「かしゅ?」
「そうです~加州清光う。劣悪な本丸にいたらしくてですねえ、どーも人に怯えてるようでしてえ、他の男士ともあまり関係がよくないようでえ、元の本丸は新しい審神者を派遣することになったんですけどお、加州清光だけは別で対応することになりましてえ」
主の挙動が止まっている。おいおい…。俺は横の丸まった背中をバッシンと強く叩いてから口をはさんだ。
「加州清光を連れてくるんなら俺が折るよ」
これでもかと声を冷たく鋭くして脅す。冗談ではない。俺以外の俺を、この本丸に寄越そうとするなら、俺がこの手でへし折るだけだ。
所属本丸がどこかとか、ブラックがどうとか、そういうことではない。
これが他の刀剣ならもう少し位は話を聞いてやってもいいが、俺の同位体など言語道断。俺が、俺以外の俺を、許さない。それだけだ。でもそれだけで、この本丸にそいつを受け入れない理由には十分すぎる。
「んーいやあ、一時的な預かりなのでえ、お目溢し頂けませんかあ?」
「お前の背骨も折ってやろうか?」
緊張感の欠片もない声にイラッときて攻撃範囲を広げた。俺が、ダメだって言ってるだろ?ただでさえ主の加州は俺だけだと、こいつは良く良く知っているだろうに。
「……一時的なんですよね?」
「…主?」
固まっていた主が口を開く。何いってんの。駄目だよ?殺すよ?
「うちの加州は加州だけなので、そのうち追い出しますし折れる危険性も承知のうえ、ケアも期待しないでくれますか?」
「OKでえす!」
「ころす」
担当の明るいお返事へ素直に殺意がこぼれた。主があからさまに殺気立った俺を見て何故かきゅんきゅんしている。「加州カッコイイよ加州!」?気が抜けそうになって無理矢理怒りで立て直す。ほんと主ちょくちょくキモいよねいいけど。それはさておき、なんで俺がダメって言ってるのに条件を付けたとはいえOKを出しているのか。怒るよ?
「じゃあ来週くらいにゲートの前に置いておくのでえ、よろしくお願いしまーす!」
「はーい、よろしくお願いしまーす」
「アッ、ちょtt…」
ぷつん、と通信が切れる。俺が本気で切れる前に逃げるとは、敵ながら天晴れなんて言うわけないだろ時代が違う敵前逃亡は士道不覚悟だぞアアン?え?サムライじゃない?関係ないね、おのれ担当、この怨みはらさでおくべきか。覚えてろよ、と心に刻む。本当にこの本丸は主もアレだが担当もアレだ。人として軸がぶれている。
「加州、よろしくね」
細く長く息を吐き出して、疲れたようにカタカタ震える自分の右手を左手で押さえた主がこちらにつぶやいた。顔色が良くない。…通信が入るまでは、今日はもう少し安定していたのに台無しらしい。棚に置いていたブランケットと包帯を取り主にぐるぐる巻いて、何度か背を叩く。意識して深く吐いている息は、その時点で過呼吸の予兆だ。
仕方ない。
「お茶淹れて」
ねだってみせると気がそれたのか思い詰めた表情が少し緩む。うん、と主が立ち上がった。卓袱台周りを整えながら、お茶を汲むふらふらおぼつかない挙動を眺める。いつもなら事前に何が飲みたいか聞いてくるけれど、もうその余裕もないらしく、とりあえずは一昨日取り寄せると言っていた白桃の紅茶を淹れてくれるようだった。
まあいいか。主が決めたなら仕方ない。俺は不機嫌を止めて茶請けのお菓子を選定することにする。
いざとなったら折っちゃえばいいんだし。
俺も結構刀剣として芯がぶれてるよな、と思った。



「…っっっ!!!」
「うわ」
門の外にガチでぽつんと俺がいた。たんとうころす。置いていくがまさか本当に文字通りとか誰が思うんだよ。
先週の通信から10日が経ち、流石に遅くない?とメールで連絡を入れてみれば5日前に置いて行きましたけど、と2日後に返ってきて驚いた。で、とりあえず門の外まで確認に来てみればこれだ。
立っていた俺は怪我はなさそうだったけど、なんだか全体的によれていて纏う雰囲気が滅茶苦茶暗い。まあブラックにいたらしいし、一人で知らない本丸の前に丸一週間ほども放置されていたのだから多少は仕方ないのかもしれないけど、普通半刻も放置されたら門を叩くとかするだろう。馬鹿なんだろうか。
目の前の俺は何故か安定のらしき羽織を頭から被っていた。山姥切かよ。脳内で突っ込む。まあうちの山姥切ならもう少し雰囲気明るいけど。コミュを求められないコミュ障は割と元気で面白おかしく過ごせるもんだよ、と主が熱弁する通り、うちの山姥切は人が見ていないところだと割と闊達らしい。
話がそれた。目の前に立っている俺は、羽織の他は普通の戦装束だ。羽織自体だって腐っても新撰組のものだから持っているのは別にいいんだけど、コーディネートとしてダサい。そして見るからに暗い。なんだこいつ。
「あんたが引き取り用の加州?合ってる?」
向こうが微塵とも動こうとしないので、仕方なく俺が声をかけるとさっきからガクガク震えていた加州が急に泣き出した。えっ。どういうこと。意味が分かんない。はあ?
「合ってんの?どうなの?違うなら置いてくよ」
詰め寄ったらようやく頷く。ただし肩を縮めて強張らせて。はあ~~~?何か言え。
腹は立ったがいつまでも門を開けているわけにもいかなかった。空間結界の内側、ただの潜り戸とはいえ区切りであることには間違いない。綻びはないほうがいい。
さっさとしろよな、俺だろシャッキリしろ、とはさすがに言わずに、じゃあ早く入って、と促すが、さっぱり動く挙動がない。痺れを切らして、腕を掴んで門の中に引きずり込む。ずるずると土を削る感触。いや、歩けよ。
「~~~~~~~!!!!!!!」
内側に収容し終わって門を閉め、閂を掛ける。悲鳴も出さずにすごいビビられてるけどシカトして、やっぱ来てたよー、と待機していた主へ報告した。主もそっかーありがと!と普通に返してくれた。よし。これで俺の仕事は終わり。後で御褒美に撫でてもらおう。
引き摺ってきた加州を、主と一緒にいた長谷部に引き渡す。並んでいた歌仙が死ぬほど雅じゃない顔をしていた。さて俺のせいかな、もう一人の俺のせいかな。どっちにしても知らないけど。
もう一人の俺はもうだいぶヤバかった。泣きながら過呼吸を起こしていて、体もうまく動かないのか掴み上げている長谷部の腕で吊られるようにへたり込んでいる。冷や汗もひどくて、髪も襟元もべちょべちょ。顔は真っ青で唇なんか青紫になっている。目線もこっちを認識しているのかいないのか、ふらふらとして定まらない。
いややっぱりこれ、今すぐ送り返すか融かしてやった方がいいんじゃない?主の隣に移動してただただヤバそうな俺を眺めていると、うーん、と主が呑気なうめき声をあげた。
「どうしよっか」
「いや主が引き取るっていったんじゃん、どうにかしてよ」
突っ込んでいる間に、長谷部がしゃがんでアレの背中を撫でてやっていた。歌仙もゆっくり近づいて、手ぬぐいを渡して口を覆うように指示を出している。主のせいでこういう処置に一番慣れているのは俺のはずだけど、二人の処置も中々堂に入っている。
ともあれ俺はよくやるなーと眺めていて、主も近付かずにじっと見学を決め込んでいた。
護衛として侍っているこちらはともかく、主は多分あの俺への配慮とかではなく単に『加州の珍しい姿だ!!!』っていう観察なんだろうなーと想像で辟易していると、後ろからあのう、と声がかかる。五虎退。一振り目だ。
「主様、言われたお部屋の準備が出来ました」
ぺこりと頭を下げた後に述べられたのは、主への作業完了報告だった。珍しいことにちゃんと仕事を割り振っていたらしい。
「あーありがと」
「五虎ちゃんありがとうー!」
主と二人で五虎の頭をなでると、ふにゃりと笑みで返される。主がぐぅっ、と小さくうめき声を出したけど無視する。いい加減慣れろ。
「エヘヘ…あの…あちらが今日来られた加州さんですか?」
「らしーよ」
「そうだよーよろしくね」
五虎は少し首を傾げるようにしてあっちの俺を見た。少しだけ、目が細く歪む。俺はそれに気付かないふりをしてしつこく撫でようとする主の手を払い、五虎に帽子を被せ直してやった。今のところステータス上はこの本丸最強の刀だ、その眼であれを見れば起こる情は想像がついた。
多少練度はあるようだが、それだけだ。あんな様では戦えないだろう。
改めてもう一人の俺を見てみる。少しは落ち着いたのかしゃくりあげながらもさっきほど激しく動揺してはいないらしい。さて、どうする。
「あー…挨拶する?」
「えー…?大丈夫なの?」
「僕もご挨拶した方がいいでしょうか…?」
三人で顔を見合わせる。主はうーん、と五虎とは違って可愛くない首傾げをしてからそっと足を踏み出した。
「あのー」
「!!!!!」
主の呼び掛けに、あっちの体が大きく跳ねる。仰け反ろうとした体は長谷部が腕を掴んでいるせいで動かなかったようだが、白い顔色は土気色に近く変わった。
ひょいひょいと近づいてくる主に向こうの傍についていた歌仙と長谷部が顔をしかめている。多分これ後で怒られるな、主が。そうなっても別に俺に被害はないからどうでもいいけど。一応、俺も護衛のていで二歩ほど離れてついていく。
「ドーモ、審神者デス。大丈夫?」
「…………あ、   、  」
「エーと…いらっしゃい?」
「   」
呼びかけから満遍なく阿呆を曝した主の挨拶に、しょわあ、と耳慣れない音がした。
何かと思えばあっちの加州が失禁していた。地面に水跡が広がっていく。マジかよ。ええー、信じらんない。
ドン引きする俺、流石にぎょっとしている歌仙、スッと足を引いて被害を避ける長谷部、ふあああと焦る五虎退。
「んっひ…」
静まり返った辺り。で、聞こえた歓声に俺は目の前にある主の後頭部をパアンと叩いて襟首をひっつかんだ。ヤバイ。執務室へと退却せねば。丸投げだけど、五虎退と歌仙と長谷部がいるならなんとでもなる。なんならあとでお取り寄せねだってやるからよろしくごめん。説教にも引き摺って連れてくから許して。
さっきのアレより重い肉を引き摺ってぐんぐん集団から離れる。
「あああああもっと見たかったッ…」
かしゅうのなまおもらし!!!!
小さいけれどはっきりとした声がよたよた着いてくる主の口から洩れた。やっぱりか!もう一度頭を叩いて黙らせる。ほんっとうにどうしようもないなこの審神者!
普段から常々俺に対して箍が外れているのも人間としてちょっとアレなのも知ってはいたが、今この状況でもこの言動が出来るとは恐れ入ったいい加減にしてほしい。
溜息が洩れそうになるが、今は目にしたものへの興奮が駄々漏れているこのバカをきっちり撤退させるのが俺の仕事だ。
「あるじ、後で覚悟しなよ」
「ヒェ」
多分ヤバいことキレるから。歌仙がね。



「アレはナイ」
ないわー。と俺は首を横に振りながら両手で抱えていたマグカップのココアをすすった。
アレ、は主ではない。いや主もだけど主ではない一応今のところは。今日招き入れたあいつのことだ。
アレを見に行ったのは午前中だったが、今はもう日が暮れて、あと一刻もすれば日付も変わる。俺もとっくに寝支度を終えて、今は寝巻きのジェラピケだ。主にもらった耳付きのもこもこ。最初に着て見せた時はまた主の心臓が停まった。俺が可愛すぎるのはいつものことなんだから、本当勝手に死なないでほしい。
あの『加州』は、俺たちが引っ込んだ後すぐに気絶したらしい。長谷部が担いで風呂に入れて、五虎退が用意していた部屋に寝かせたとのこと。
実は荷物を持っていたらしいが、小さい風呂敷包みには竹の箸が一膳と小判が数枚、手拭いと殆ど空の練香入れ、あとは折れた誰かの破片入りの巾着袋。それくらいしかなかったという。寝込みに無断で改めた張本人の歌仙は「他所に厄介になりたいならもう少し身支度はしておいてほしかったね」としゃあしゃあのたまっていた。鬼かよ。
あとは風呂で暴れて軽く怪我したり、夕飯の時に滅茶苦茶手間がかかったり、そのあと吐いてくれちゃったり、寝せようとして夜伽と勘違いされたり、まあいろいろ大変だったらしいけど俺は主のところにいたからよく知らない。乙。
都度係から届けられた報告をまとめながら、主は大層上機嫌だった。
「すごいな~こんな加州もいるんだね、ああ~どんな目に遭ってきたのか…つら…でもうまい…申し訳ねえ…可愛い…いやーでもおもらしはしゅごかった、全体的にギュンギュンきた!加州可愛いよ加州!うちでは見れない一面!最高!可愛い!」
「主キモい」
いや本当にキモい。あれだけさっきまで歌仙に絞られていたというのに全く懲りた様子のない言動は一種恐怖さえ感じる。人間って何なの?気違いにも程がない?こわい。んん~反論できねーな!あははと笑う主を横目に、卓袱台に上半身で寝そべる。
本当にこの主は、俺とみたら箍が外れるのだから仕様がない。どんなに無様でも嫌われないっていうのはちょっとくすぐったいものもあるけれど、横で報告を聞きかじっていた立場としては切り捨てポイントしかなかったというのに。止めてほしい。
「ねーやっぱ追い出そーよ。アレうちに置いといたら絶対悪化するでしょ?可哀想じゃん」
「加州は優しいなあ」
でも折らなかったってことは置いといても大丈夫なんでしょ?
へらへらと主が笑っている。
俺はむっとした顔を作ってココアを飲みほして見せた。おかわりー、とねだればちょっと待ってね、寝る前だし今度はミルク多めにするからね。と主が立ち上がる。
ふん、と鼻を鳴らしてみる。別に俺はアレに優しくしてやってるわけじゃない。あんなモノは、俺じゃないと存在を切り捨てただけだ。折るも何も。あいつは本体を差していなかった。
万一仕舞っているだけだとしても、本丸の外で一人きりで戦装束で、そんなことが出来るような奴は明らかにおかしい。封印などを施されているとしたって、腰に差している位じゃ害はないはずだ。アレは、俺達とは違う意味で、おかしい。



目が覚めたら俺の上には誰かが覆いかぶさっていた。
いきなりのことに身が竦んで悲鳴が漏れる。いけない声を出したら殴られる。口を押さえて、状況を把握しようとする。俺裸だ、あ、やだ、アレだ、またあれをされるんだ。気付いてすぐにパニックになった。やだ、やだやだ殴られるのはいいけど、ヤダ俺それはやだ、こわいいたいこわいから、俺を愛してないのはわかってるから、もうわかったから大丈夫だからごめんなさい戦に出ます、言うこと聞きますちゃんとしますやだ、許してください、ごめんなさい!
心臓がバクバクして息が苦しいけど身をよじって俺を抱えていた腕から逃げようとしたら下に落ちた、床は硬くて冷たくて何故か濡れていた、折角手入れしてもらったのに嗚呼誰に手入れされたんだっけいつぶりだっけなんでだっけ?わからないけど今なら体は動かせるじゃあ今は逃げてしまいたいヤダ俺は怪我するのはいいけど、斬られるのは慣れたけど、叩かれるのは我慢するけど犯されるのはまだすこし怖い、愛してもらえないのに、それは俺じゃなかったのに、やっと苦しいのが終わったのに、おわれたのに何でまた?終われた?え?なんで?どうして?なんでだっけ。
あれ?、ともがく体を止めたら、俺を引き留めようとしていた手に抑え付けられた。力が強くて背筋が凍る。また腕を折られるのだろうか。肩を抜かれるのだろうか。切られるのも痛いけど、折られるのも痛い。ぶらぶらする腕を振って踊って見せろと言われた夜を思い出す。涙がにじむ。やだ。
「加州清光!!暴れるんじゃない!!!!」
怒鳴られて身が竦んだ。聞き覚えのある声だ知っている声だということは酷いことにためらいがないということでこわい。やだ。やだやだやだ、ああ。
「加州清光、落ち着きたまえ。それはへし切長谷部だ、僕は歌仙兼定。わかるね?」
怒鳴り声とは違う声が降ってきた。知らぬうちに必死で瞑っていた瞼をひらいたら、少し離れたところに歌仙がいた。アレ?歌仙?あれ?
「加州清光、お前は今日前の本丸からうちの本丸に移動してきた、気絶していたが身形に難があったため今風呂に入れるところだった」
俺を押さえている声が説明する。あれ?え?ああ、…ああそうだ。俺は、おれは。
「あ…」
まばたきをする。冷たい床は、青いタイルだ。ここは浴場なんだろう。こんな綺麗な浴場は初めて見るけれど。ああ、いや、厠と一体になったあの小さい風呂は綺麗だったかな?ドロドロでボロボロだったせいでよく覚えていないけれど。嫌な設備の整った宿屋だったよな。嗚呼、違う、ええと。
長谷部が俺を風呂に入れてくれていた。風呂。だから裸だった。そういうこと?だ?
「落ち着いたか?」
長谷部の声だ。あ、ほんとに。長谷部の声。そうか。
頷いたら長谷部は床に転がる俺を起こしてくれた。床に座って長谷部と歌仙を見る。
「あの…」
「なんだい」
歌仙が優しく声を掛けてくれた。怪我してない。久しぶりに見るなあと思う。結構気が短いから、あんまり長く一緒にいたことがなかった。長谷部が俺の肩に何かをかけてくれる。ふわふわの布だった。あったかい。こんな布どこで手に入れたんだろう、あ、違う、ここは違うんだっけ?仰ぎ見た長谷部も怪我してない。長谷部は割合長く残りがちだったけど、その分ずっとボロボロだった。なのに今は、裾と袖をたくしあげているのに、どこにも痣やかすり傷の一つもなかった。すごい。
「あの…俺…ごめん……あの…、あ、えっと、ごめんなさい」
何を言えばいいのか分からなかった。どうしよう、何と言ったら一番痛くなく済むだろうか。謝ると、まあ今後気をつけてくれればいいよ、と言ってもらえた。優しい。こわい。はい、と頷いておく。長谷部が立てるか、と言うので、立ちあがった。あ、立てる。ふらついたり痛んだりせずに体が動くってすごいなあと思う。
もう体は洗ったから、少し温まれ、と手を引かれた。ちょっとびくっとしてしまったけど、何にも言われなかった。すごい。
「ゆっくり浸かれ」
連れられた先、湯気の立つ湯船がそこにあった。
背をそっと押されて近付いた浴槽から湯気がもわりと、顔を熱気が覆ってまた心臓がばくんと跳ねる。
あぶら。煮えたあぶらに突っ込まれたことを思い出した。水の中に沈められて上から踏み蹴られた。雨の中馬に曳かれた。バチバチと髪が焦げて肌が融ける、息が出来なくて全てが焼けて視界が真っ赤になる真っ黒になる声さえ出ない全部が煮えて水が肺を満たして暴れても何度も衝撃とともに痛みが降ってきてあぶくと水でわけがわからなくなってくくられた足首は半分千切れて泥と砂利と草がいたるところに入り込む、凹凸で跳ねる体が駆ける後ろ脚で戻されて毬のようでぐつぐつと耳の奥を通り越して脳の中で油の音がして水が段々血の味になって石が歯をいくつも折ってあああああああああ痛いごめんなさいごめんなさいごめんなさい俺はごめんなさい働くから、働くから戦にも行くからごめんなさい許して許して許して許して!!!!!!!!!
「加州清光!!」
あああああああああと走り出そうとした俺の脚に長谷部が蹴りを入れる。俺はこけて床に転がる。また体をしたたかに打ちつける。似た痛みで布団叩きで叩かれた時のことを思い出す。何度も何度も硬い竹のそれが振り下ろされる、何度もずっとみんなが囲んで入れ替わりで俺をぶつ、逃げようとしたら刺されるから俺は丸まって耐えるしかない、途中からただの竹で殴られるから頭はぼこぼこになって骨と肉がぐちゃぐちゃになる、でも泣いちゃ駄目だから逃げちゃ駄目だから、
「…駄目だな」
冷たい声がした、反射でごめんなさい、謝ろうとして、鳩尾に衝撃が落ちた。

気がついたら布団で寝ていた。
ぶわりと、冷や汗が湧き出る。急いで中から出て土下座する。でも誰もいなかった。しばらく待ったけど誰も来ない。そうっと頭を上げて、目の前の跳ね上げて乱れたままの布団に気付く。ああああ。慌てて敷布と掛布を手で伸ばす。でも俺の寝ていた跡が皺になっていてなおらない、なおらないどうしよう、震える手の汗が染み付く、悲鳴が出てしまってあたりを見回した、誰もいない、明りはないけど日が差している、陽が?ああどこ、ここはどこだろう、血の跡のない部屋なんてあったのか、また玩具に出されたのだろうか、ならまた何人もここにくるのか、いやだ、やだ、あるじ、あるじ、ごめんなさいわがまま言わないから、ごめんなさい。
汗がだらだらと落ちそうになって慌てて身を引いた。袖で顎を伝う滴をぬぐう。あれ?
着ていたのは藍縞の浴衣だった。石鹸の臭いがした。吐くまでそれを食べさせられた記憶が蘇ってえずきそうになる。我慢する。ぱたぱたといくつかの足跡が近づいてきた。あ、やっぱり。
見回したけど両側は壁だった。奥の押し入れへ身を寄せる。ちゃんとご挨拶をした方がいいのかな。その方が少しは優しくしてもらえるだろうか。足音は3つほどだった。ならまだ大丈夫かもしれない。腹を裂いた傷口に挿れられたりはしないかもしれない。腕を落として玩具に取られたりしないかもしれない。おかしくなりそうな呼吸を落ちつけようとする。上手くいかない。唐突に鼻の奥がジワリと痛んだ。のどに生ぬるい鉄の味が落ちてくる。みじめだ。垂れそうになる鼻血をすすりあげてギリギリ思考を留めようと頑張る。ああ。障子に影。
「加州清光、入るよ。歌仙兼定だ」
一声掛かって、返事を待たずに障子は開いた。歌仙。怪我してない。あれ?
「起きたか。こちらは膝丸と数珠丸だが、知っているかい」
何か頭に引っかかった。大きく開かれた桟の向こうから見慣れない顔がのぞいていた。ああ、
「だれがおれたの?」
「加州清光、」
「誰が…誰か手入れ、してもらえた?補充は?次はだれ?だれかな、俺、おれが見つけたからここに連れてきてもらえたの?俺が仕込めばいいの、あ、や、ちが…違うから、おれ、俺ちゃんと出来るかな、でき、する、するから、するからごめん、ごめんなさい、あの、ごめんひざまるじゅずまる、ぬ、ぬいで」
嫌だけどまだましだ。何も知らないやつとするならそこまで酷いことにはならないから。膝丸がすごく厳しい顔をしているのに数珠丸は表情が変わらない。ああ、数珠丸の方は生き延びられるかなと思う。多分膝丸はダメだ、折られるか、折れるか、どっちでも一緒だけど。数珠丸だって何時まで保つかは分からない。最初はそこまで酷いことにならないからいいけど、新しいのが発表されたらこいつらもより酷い目に遭う。
「加州清光」
歌仙がまた俺を呼んだ。なに?大丈夫だよ、俺、出来る、ちゃんとやるから。だから、
「風呂でも言ったが、ここは君の本丸ではない。これから夕餉の時間だ、起きているなら参加できるか」
「……」
あ。
「はせべ、」
風呂で、きれいな長谷部と会った気がした。
俺は床に転がったけど、長谷部も歌仙も怒らなかったような、気がする。
「長谷部なら風呂の補助が終わったのでもういない。夕餉の間は膝丸と数珠丸が補助に付く予定だ。今日の主菜は一応チキン南蛮と言う肉料理だが、君の分は粥を用意してある。この部屋で食べるかい?」
歌仙は部屋に入らずにつらつらと話していた。なに?よくわからなかった。あんまり長く会話なんてしたことなくて。ごめん。怒っただろうか。
「あの、」
「……食事を摂ったことはあるかい」
食事。
ある。
口にものを入れて、噛んで飲み下す。あんまりあれも、好きじゃない。
色んなものを食べた、石鹸、ガラス、雑草、飼葉、砂利、馬糞、俺たちの破片、内臓、木炭、くぎ、洗剤、髪の毛、ごみ、酸液、へどろ、木杭、舌が溶けたり裂けたり歯が折れたり頬に穴があいたり、したけどちゃんと飲み下してごちそうさましないと、怒られるから。
頷いたら、歌仙が「ならとりあえずは一緒に来てみたまえ」と俺を呼んだ。いやだなあ、でも殴られるよりはましだろうか。あ、結局ちゃんと食べろって殴られるなら同じことか。
俺はちゃんと指示に従って歌仙のそばに寄る。膝丸が俺をまだ険しい顔で見ていた。そっと目を合わさないように下を向く。目が合ったら殴られるかもしれない。膝丸がどんな殴り方をするのかまだ分からない。

連れてこられたのは広間だった。この本丸は腐臭がしない。廊下に破片や断片もない。蛆や蠅も見当たらないし、深く息をしても咳込まない。襖の向こうには沢山の刀がいて、誰も怪我をしていなかった。何か温かい匂いがして、皆が盆や食器をわいわいいじっている。
「席に着いていたまえ…いや、そうだな。何があるか見てみるかい?」
先導していた歌仙が俺をちらりと振り返って言う。俺が何か返す前に、隣にいた膝丸が行くぞ、と告げるので大人しくついていくことにした。
壁に沿って背の高い机が並び、その上に小鉢が何種類もたくさん並んでいる。中には食べ物がそれぞれ盛られていた。茄子とそぼろの炒めたもの、大根か蕪で作られた恐らくはなます、瓜のあんかけ、根菜の煮物、山芋の和え物、赤茄子のたれがけ、とりどりに細かくされた生野菜を盛っているものもある。
「食べたいものがあれば取ってもいいよ」
目を奪われていたら、歌仙から声をかけられた。食べたいもの。首を横に振る。よくわからなかった。せめてどれがどんな毒かとか、痛みかとか分かればよかったんだけど。
そうか、と短く返答があって、じゃあ少し座って待っていてくれ、と部屋の逆側に案内される。膝丸がここだな、と示した場所には柔らかそうな赤い座布団が、他の座布団と一緒に並んでいた。
そこがあなたの席ですよ、と数珠丸がいう。俺の席。俺の…席?
「さあ、お掛け下さい」
気は引けたけど、言われた通り座った。ふかふかしてる。さっき寝ていた布団もだけど、あったかい。三人は少し話して、歌仙と膝丸が料理のところに、数珠丸が俺の隣に移動した。
「少し待っていましょう」
こくりと、頷いて見せる。数珠丸は微笑んで俺から視線を外した。
ざわざわと騒がしいけど、誰も怒鳴ったり泣いたりしていなくて、みんな楽しそうにしていて、怪我もしていなくて。おれだって、ぼう、としていても叩かれない。ゆっくり座っていても罵られない。ああこれは、夢を見ているのかもしれないと思う。夢を見るのはいつ振りだろう。気絶している間に見たことはないから、かなり前のことの気がした。
「加州清光」
呼ばれて振り仰げば、歌仙と膝丸が戻ってきていた。二人とも膳を2つづつ抱えていて、それぞれ俺たちと自分たちの前に置く。俺の膳には、鮭の身が浮いたお粥と漬物、小さい皿に何か肉を揚げた様なものが乗せられていた。
「食べられるようなら食べればいいが、無理はしなくていい。
粥の横の肉はチキン南蛮と言って、鶏肉を揚げたものを甘酢とたれで食べるおかずだ。味が濃くて腹に溜まるので食べにくいかもしれないが、もし気に入ったなら少し余分に取り置いてあるから言えば足そう。
さて、皆席に着いたね」
俺への説明を終えると、歌仙は広間を見渡して少し声を張る。一瞬身が竦んだけど、落ち着いてゆっくりした声は俺を殴り飛ばす時の声とは違っていた。
「説明は聞いていると思うが、他所の加州清光を一時預かりする運びとなった。期間は今のところ未定だが、基本的には静養が目的のため心に留めておくように。世話係を頼むこともあるかと思うので助力願う。
次、今日の夕食に当たった者、手を挙げてくれ。よし、ありがとう。では手を合わせるように。いただきます!」
わ、と上がった声のあと、すぐに続く箸や食器を扱う音がし始める。食事。楽しそうだなあと思う。ここの食事は痛くないのだろうか。苦しくないのだろうか。眺めていたら、隣に座っていた膝丸が食べられるか、と俺の膳にあった匙を渡してきた。
「食べる…」
「無理はしなくていいが、物は試しだ」
小さな土鍋に手渡された匙を差し込むと、ふわりと緩く湯気が上がった。カタ、と手が震えた。煮え滾ってはいないから、まだ吐かずにいられるはずだ。べろりと剥がれた舌と口腔の粘膜を噛み締める感触を思い出す。大丈夫。大丈夫…。
表面だけ掬って、ゆっくりと口に含んでみる。熱い汁と、米の甘いような籠ったにおいと、ほのかな塩の味。なんとなく覚えがあった。腐った池の鯉を食べさせられた時?安定の目玉を抉って食べさせられた時?毟り取られた髪を飲まされた時?すすらされた鼻水の味?でもこれの方がおいしい。
「食べられそうかい?」
歌仙に尋ねられて頷く。ゆるく笑んだ顔は初めて見る類いのものだ。こんな顔で笑うんだな、と見ていると、食べられる分は食べてしまいなさいと言われた。
続けて匙を進める。柔らかく崩れた米と、ホロホロ崩れる鮭の肉。飲み込むと、のどを通って胃の腑がじわりと熱を持つ。鉄や煮え湯とは違う、痛みのない温かさだ。しばらく食べていると、のど元がぐっと詰まった。
「ん…?もういいのか?」
膝丸が俺の手が止まったのに気付いて聞いてくる。どうなのかな。もう飲み込めないみたいだけど、水場に付いているあの柔らかい筒で水を流し込んだらもう少し入るんじゃないかな。
「こちらも一口召し上がってみませんか?」
数珠丸が小さくちぎった肉を俺に差し出す。肉かあ。腕をそがれて食べさせられたのを思い出す。爪紅は苦かった。差し出されたそれを見ていると、あーん、と数珠丸が近づけてきた。逆らわずに口にした。胃酸より甘い酸っぱさと、どろっとした生々しい味。閨みたいだな、と思ったけど、あれと比べると全然食べ物みたいな味だった。肉も血の味ではなく、火がしっかり通っていて食べやすい。どろどろの中のじゃくじゃくしたのは何だろう。酸っぱいのと、少し辛いのと、後はぷりぷりしたのもある。
飲み下そうとして、のど元まで米が詰まっているのを思い出した。
「……」
噛み砕くのをやめても、にじむ唾液で口の中が満たされていく。どうしよう。
「…加州」
じっとしていたら歌仙が俺を見ていた。あ。どうと汗が噴き出す。これで何度目か。どこか頭に冷静な部分が残っているらしく、申し訳ないなと思った。でも別のところでは、腑分けされた時の記憶や、散々色んなものを詰め込まれた時の感覚が体を動かせなくしていく。ごめん歌仙、ごめん、ごめん、飲み込めなくて、ごめん、ああ、大丈夫、だから。
「…無理はしなくていいといっただろう?数珠丸、加州を厠…いや、厨の方が近いか。不衛生だが仕方ない、厨に連れて行って吐かせてやってくれ。ビニール袋が戸棚にあるのはわかるかい?あれをシンクに置いて、そこに」
冷や汗とともに息がしづらくなってきて、もう満杯の口の中身を出さないように必死にしている俺を、数珠丸が引っ張る。広間から木戸で繋がった厨に入ると、竈や甕のほかにも見たことのない器具がたくさんあって広かった。
銀色の洗い場に透明な袋が置かれて、数珠丸が俺の背中を優しくさする。
「もう出してしまっても大丈夫ですよ」
木戸の方からは、まだわいわいと騒がしい声が聞こえていた。身をかがめれば、さっきよりも口元の余裕がなくなる。改めて逡巡したけど、そのまま吐きだした。
「うっ…エ、げぼっ、ゴホッ、」
ぬるく粘る流動物が落ちていく。生臭くて少し饐えた臭い。食べ物を吐くってきたないんだなあ、と考える。釘や砂利なんかは、鉄とか土とか、血の匂いしかしなかったのに。
肉を全部吐き出したら、喉元に詰まっていた米も一緒に流れ出した。どろりべチャリと袋の中に落ちて、俺の顔に跳ね跳んでくる。ああ、きたないなあ。これをもう一度食べるのは、さっきより苦労しそうだ。
「苦しくは、ありませんか」
げろげろと、吐き続ける俺の背中を数珠丸さんはずっと撫でてくれている。どうしてこんなに優しいのか、俺には分からない。
多分この本丸が特別なんだろう。俺なんかを置こうとするくらいだから。



「薄汚い」
よそから来た俺を見下ろしながら、俺はうっかりと口に出してしまっていた。
こいつが来て三日目だが、昨晩ひとまず認識の混濁は落ち着いたようだと歌仙が報告したらしく、今後の世話係として俺が執務室に呼ばれたのは今朝方のこと。一振り目の俺はどうでもよさそうに主の背中に寄りかかって新しい爪紅の試し塗りをしていた。
「何かあったら加州に言ってね」
主はもごもごとそう言ったが、一振り目はちらりと振り向いた眼だけで俺に報告不要と銘じてきたから面倒くさい。
わかった、とどちらにとも言わず返事をして、仕方なくそれが寝ているという部屋に赴いてみれば。
「あ…え…」
思わず吐き出した暴言にきょどきょどとこちらを見上げてくる顔は情けなくむくんでいるし、目の周りは荒れて赤く、髪の毛はぼさぼさで浴衣もよれて皺がつき、抱き込んでいるだんだら羽織も汚れこそないもののほつれてみすぼらしい。
「あのさあ、」
しかめっ面を隠さずに声をかけると、それはパッと目線を外して身を丸める。夕べ引かれたのだろう布団は微塵も使った跡がない。押し入れの前で震えているのが自分とも、さっき見た不遜な一振り目とも余りに違いすぎて胡乱な気持ちになった。一振り目に『報告不要』と言われた理由がなんとなくわかる。これは、もう俺じゃあないからだ。
「…飯だから」
着いて来い、と身振りで示すとおずおずした態度で立ち上がり着いてくる。一旦は気に障った身形のみすぼらしさも、自分ではないと思えば気にならなかった。好きにすればいい。



「   」
俺が、部屋の外に立っていた。
初日に俺が粥を吐いてしまっても、この本丸のやつらは誰も俺を責めなかったし、口直しに甘い飲み物をくれさえして、夢かと思えば昨日もここで目覚めて、誰もが朝から晩まで入れ替わり立ち替わりで世話を焼いてくれた。誰も殴らないし、誰も罵らない、誰も怪我をしていないし、誰も破片になっていない。
冗談みたいに平和なところ。
そこに、俺なんかがいていいのかと思ったのは、先だって太郎と五虎退がお休みなさいとこの部屋の障子を閉めた後だった。
敷かれた布団はまっさらで、ふわりと膨らんで置かれている。昨日はそこに身を潜らせて寝付くまで青江と同田貫が見張っていたけれど、今回はあっさりと引かれたため皺の一つもまだ付いていない。
俺は被っていた羽織を前にまとめて抱き直し、押し入れの襖へと寄りかかった。ただの暗がりに思うところはないが、目を閉じるのは苦手だ。殴られる間にこの肉の身が勝手に目を閉じるのを知っているから。眼球を抉られていた間の痛みと違和感が蘇るから。反応を失い虚ろな瞳を隠すように、半分だけ落ちたあいつの瞼を思い出すから。
身を丸めてじっとしていられることに安堵する。常に警戒している必要がない、心配に胸を焦がし続ける必要がない、どこにも傷を負っていない。それだけでこれほど気が楽になるものかと、どれくらいあったのかもわからないあの地獄が頭を過る。
血の香りはまだ鼻の奥にこびりついている。
家鳴りの度に誰かが折れる音や、殴られる時の鈍い音が脳裏に流れる。
抱きしめた羽織が暗い中ぼんやりと浮かび上がっていた。血の汚れはないけれど、同時に中身も失ったぼろきれだ。…破片にした俺が言えた義理じゃない。
ぼうと、していた。
誰もが寝静まっているのだろう、何の気負いもなく、憂いもなく、安寧を享受して。
静かで、殺気のない、長閑な、嘘みたいな。
そう判っても、何を思えばいいのか分からない。
殴られもしない、犯されもしない、戦いもしない、それでなんで存在しているんだろう。まだ折れていないんだろう。
俺がここにいることで、何の意味があるのか分からない。
俺の刃なんて、もうとっくにどこにあるのかも分からなくなっているのに。

そのまま蹲っていると、唐突に障子が開いた。
仄明るくなった室内に、いつの間にか夜が明けていたことに遅まきながら気づく。ああ、そうか、ここでは夜は明けるのだなあと、本当にいまさら思う。
「   」
立っていたのは俺だった。咄嗟の一言を俺の耳は拾えない。ただ見下ろしてくる視線が怪訝そうで、その眉が不愉快そうに歪んでいることだけがわかる。
俺を見下す俺は、手入れの行き届いた戦装束の中に馴染みのない服を着ていた。兎の絵は飾り柄だろうが、『焼肉挽肉回鍋肉』ってどういう意味だろう。
鮮やかな爪、光るような瞳、透き通った肌。
ちらちらと眺めていると、一段視線が厳しくなる。
「あ…え…」
「あのさあ、」
まるで殴ろうとする直前みたいな声の低まりに、俺は体を固くした。
逃げても仕方ないし、これだけ休んだ後なら、少しはちゃんと我慢もできる。俺に殴られるのは久しぶりだなあ、とうっすら思う。爪を立てられなければいいなと考える。皮膚の下に爪紅が潜り込むと、見た目以上に痛いのだ。
でも、待っていた拳も蹴りも降りてこない。諦め交じりの薄いため息だけが齎された。
「…飯だから」
着いて来い、と踵を返しながら手で示す俺に、返事は出来なかったけどどうにか立ち上がって従う。与えられている部屋は広間など共用部から少し離れた方にあるから、はぐれないように一歩分だけ間を詰めた。怒られはしなかった。速足の速度は躊躇いがなく、着いていくのは少しこわい。でも、立ち止まったり減速をねだるなんてことも出来ないからどうにか震えそうな足を動かしていく。
前に立つ俺の背中はまっすぐと伸びていて、揺れる髪は陽を受けてきらきらと輝いている。翻るコートは皺ひとつなく、提げられた刃はきっと美しい。
躊躇いのない足取りと、行き合ったやつらと交わす挨拶の快活さ。
そうか、と。気付く。
『加州清光』はこういう刀だったのか。

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