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鬼罌粟本丸

「ただいま則宗!大人しくしてた?」
春の陽気うららかな昼下がり。自室に帰還した清光は戦帰りのやや煤けた格好をしていた。
「おかえり坊主、ちゃんとここにいたぞ」
待っていたのは名を呼ばれた清光の同居人だ。うたた寝でもしていたのか、ゆったりと背をクッションに預けて座っている。気怠げな彼がきちんと迎えの言葉をくれる様子に、愛らしく笑った清光はそのまま弾むように近付き、則宗の滑らかな白い頬へふわり口付けた。
「どうした、戻って早々」
薄浅葱の瞳はくすぐったそうに緩み、重た気な睫毛があしらわれた瞼を何度か上下させたが、すぐに頭を少し動かして口唇にも同じ行為をねだる。甘えた仕草に瞬きのあいま丸くなった赤い瞳も、すぐ嬉しそうにとろけて応えた。
互いの吐息が間近にぶつかる。押し付けられる柔らかな肉を感じると共に、二人のまぶたは揃って伏せられた。
「……ふふ、ごめん。心配でソッコー来ちゃったけど、すぐ清めてくるから」
幾度か接吻を交わして気が済んだのか、清光は色っぽく濡れた則宗の下唇を親指で撫でながらも体を離し、そのままテキパキと防具を外し始める。普段ならば少し顔を出した後また戦場に出て行くことが多いが、今日は様子が違うらしい。
「なんだ珍しい、今日はもう終いか?」
「うん、この後は待機。久しぶりに一緒にいられるよ」
察して訊ねる則宗の予想は当たった。そうか、とはにかんで、彼はクッションに預けていた身を起こし、清光の着替えを手伝おうと手を伸ばす。
「あー、いいからいいから」
しかし清光は差し出された手のひらをポンポンと撫でて断った。片脇に外した装備をまとめて抱え、そばに立つ則宗の腹をちらりと眺める。キュッと眉を凛々しく整えて飛ばされたのは、座ってなという注意だ。
「腹の子に障ったら大変じゃん」
「そこまで過保護にせんでも、そう易々とは流れんさ」
「だーめ。つーかそういうの冗談でも言うなよな。ほら、俺風呂入ってくるから、もう少しゆっくりしてて」
「坊主は心配性だなあ」
「大事にしてんの」
防具を片付けコートまで脱ぎ、すっかり身軽になった清光が箪笥から手拭いと部屋着を取り出して、じゃあまた後でね、と慌ただしく部屋を出て行く。
一人残された則宗は、平たい己の下腹部を一つさすって小さな溜め息を吐いた。



鬼罌粟の本丸で、加州清光が腹を膨らませたのはしばらく前のことになる。
刀も正月太りするんだなあなどとからかわれた姿は、一月経ち二月経ち、丸い腹がさらに丸みを帯び、細身のズボンが閉まらなくなったことで漸く本丸全体にまで波乱を及ぼした。
「清光、あのね、その……そのおなか、どうしたの?」
呼び出された執務室、気まずげに訊ねた主たる鬼罌粟へ、加州清光はあっけらかんと「ああ、報告が遅れてごめんね、ちょっと妊娠しててさ」と応じた。
その瞬間本丸に衝撃が走った。
鬼罌粟は固まり、後ろに控えた近侍の髭切はありゃあと目を丸くして、襖の影や天井裏に群がっていた野次馬も堪えきれずにドヤドヤと姿を晒し驚愕や困惑を表出させる。
一人落ち着いていたのは騒ぎの震源地となる加州清光その人で、華奢な身体に似つかわしくない胴体の膨らみを愛おしげに撫でながら、最近はあまり見ることの無かった笑顔をほんのりと顔に乗せていた。
「に、にににん、妊娠、って、清光、」
ざわめき暫し。
とっくに「まあそういうこともあるのかもね」と切り替えた髭切から背をつつかれ、ようやくフリーズから戻ってきた鬼罌粟は、顔色を青くしながら加州清光に言葉をかける。
「だ、誰の子供ッ!?」
まだ動揺は残っていた。訊ねるべきはそこなのか、と思ったオーディエンスもいたが、さりとてでは何を訊ねるのが正しいのかも解りかね、視線の交錯、肩肘押し合いへし合いの結果、シン、とまたその場が静まり返る。
加州清光は彼女の切羽詰まった問いに、えー?とひとつ首を捻り、主のお気に入り。と曖昧に返した。
回答にバッ、と皆から顔を向けられたのは近侍、髭切だった。
源氏の重宝。膝丸の兄者。彼は顕現してからこちら、机仕事一般が総じて苦手でありながら、彼女の強い要望で固定近侍となっているほど鬼罌粟のお気に入りである。
しかし、ん~?と首を傾げて僕、初期刀君とはまぐわったことないよね?違うんじゃないかなあ、と本人が鷹揚に語る。それなら、と次は視線が幾つか分かれて移動した。
標的となったのは獅子王とソハヤノツルキの二名だ。二振は周りの視線を普段の偵察からは考えにくいほど即座に察知し、妙に揃った動きでホールドアップをキメた。違います!知りません!俺もまぐわってないです!童貞です!真っ赤と真っ青に顔色を二分させたどうでもいい絶叫カミングアウトに、やや向けられる注目が生ぬるくなる。
一部の刀が「さっき髭切さん、『初期刀君とは』って言ってなかった?」と髭切に視線を戻して、かち合ったニッコリ笑顔に二の口を噤む場面もあったが、疑惑の上位三振がこれにて一応否定された。
では、と次に目を向けられたのは。
「……待て待て、なんで僕を見る?」
苦々しい笑みを浮かべた、正月参入の新人であった。



「主さんから伝言!急にゴメンね、だって」
清光のいなくなった部屋へ天井裏からトン、と降り立ったのは乱だった。
身に纏う内番着の埃を軽く払いながら、お風呂には秋田が控えてるからまた戻って来るときには伝令させるね、と述べる顔付きは心配そうだ。
「そうか、ありがとうな」
則宗は先ほどまでの気怠げな様子をけろりと撤回し、すっくと事も無げに立ち上がる。そのまま乱の頭をぐりぐりと撫でると、クッションの後ろに取り急ぎ隠していた遠征報酬を手にして、頼めるか?と差し出した。
清光が帰還後休みを取るかもしれない。急報を受けたのはつい四半刻ほど前。近場の一人遠征から帰った間際のことで、部屋着に着替えて寛いでいる振りをするまでが精一杯。持ち帰ったそれを片付ける暇は無かったのだ。
掲げられた土産を任せて、と受け取った乱は、大丈夫?と笑顔の太刀を見上げて目で問うた。気遣わし気なそれに、則宗は心配いらんさ、ともう一度小さな頭を撫でる。
孕んだ振りをすることも、二重生活をすることも。もちろん、清光と番ごっこをすることだって問題ない。
則宗は乱を部屋から送り出しながら考える。だってこれは全て、自ら言い出したことなのだから。

端的に真実を述べるならば、今の則宗も、かつての清光も正しく妊娠などしてはいない。
清光の腹は何も産むことなく引っ込み、則宗の腹は一度たりとて膨れることなく平たいままだ。それがなぜ、今も居もしない「腹の子」がいるとされ続けているのかといえば、ひとえに数ヶ月前の騒動へ因がある。



皆から視線を集めた一文字則宗は、顔色さえ変えなかったが困惑し、口元を扇子で覆い隠した。
「……待て待て、なんで僕を見る?」
地紙の裏に思わず浮かぶのは苦々しい引きつった笑みだ。だって、なあ。誰ともなく呟きが出る。ぽっと出の新入りではあるが、髭切が苦手とする実務処理に長け、獅子王とは逆転爺孫漫才を繰り広げる仲で、ソハヤは彼の世話係だ。故に、主に侍る時間が長くなる。
何より彼は主が大好きな金髪陽キャ太刀である。なお小竜はまだいない。お気に入り、と面と向かった指名がある訳ではないが、前出四振が鬼罌粟の贔屓であることは本丸内の誰から見ても明らかだった。
「……いや、僕も坊主とまぐわっとらんぞ」
呆れた声で則宗が宣言すると、遂に行き先を無くしたあまたの視線はぐるりと回って加州清光へと帰ってきた。
まだ己の腹を撫で回していた清光は、鬼罌粟のもの言いたげな視線を受けてニコリと笑う。
「えっと……」
「腹にいるのは俺と則宗の子だよ」
「えっ」
訊き澱む主。キッパリ言い切る声。一瞬の静寂。
次いで、お前じゃねえか!初期刀殿になにを!嘘吐いたのかあ!?おじいちゃんサイッテー!認知してやれ!などと四方八方からありとあらゆる声が上がる。
標的となった則宗はあんぐりと口を開けていた。本当に身に覚えがなかった。この本丸に来てまだ数ヶ月、甲府の地にて多少の縁はあったものの、本丸へ降りてから加州清光とはさほど親しくしている訳でもない。
「ちょっとみんな落ち着いて!」
やんややんやとヒートアップする野次馬に、鬼罌粟が狼狽えながらも一喝する。
「のりぴ、」
「僕はやってないぞ!?」
「清光、」
「俺が主に嘘吐くと思う?」
必死に否定する則宗と、真顔で返す清光の攻防はどちらも譲る気はないらしく、鬼罌粟も観衆も次第になにか恐ろしいものを察知する。
だって、確かに加州清光の腹は丸く膨らんでいるのだ。誰が見ても明らかなほど。ズボンのボタンがかからないほど。
まさか流石に自分を孕ませた相手のことを間違うだろうか?忘れてしまえるものだろうか?
逆にしたって、この期に及んで、己が孕ませていないと嘘を吐けるだろうか?誤魔化せると思うだろうか?
ざわ、と先ほどまでとは違うどよめきが俄かに広がる。なにかがおかしい。不気味な話だ。まさか、別本丸の則宗か?いやでもそんなこと。鬼罌粟もすっかり追及しあぐねて黙り込む。
「あー……ちといいか、」
そんな雰囲気のなか豪胆にも声を上げたのは、普段から白い顔をいま更に白くさせた本丸のお医者様枠、薬研藤四郎だった。
「旦那、加州の旦那?その腹のててごは則宗の御前ってぇのは間違いないか?」
「うん、そう」
「そりゃ、うちの本丸の、そこにおわす御前ってことか」
「そうだよ。そこで冷や汗かいてるじじいで合ってる。主の新しいお気に入りのね」
肯定する加州清光に、薬研は溜め息を吐いた。
「……そりゃあ計算が合わねえなあ」
計算、と誰かが呟き、ああーっ!?といくつか高い声が響く。お前らも気付いたか、と見回す薬研に顔を歪めて頷くのは短刀たちだ。スキャンダルの衝撃や勢いに飲まれて忘れていたが、そうだ、確かに“計算が合わない”。薬研は内番装束の眼鏡をカチャリとかけ直しながらつらつら述べる。
「人間の女人の話にゃあなるが、子の出来た腹が目立つようになるのは腹帯の頃、妊娠五ヶ月あたりだろう?
御前はまだ顕現して三ヶ月やそこらじゃねえか。計算方法の違いや個人差を考えても、御前とまぐわって孕んだとするにゃあ、ちと無理があると俺っちは思うんだがな」
ははー。大きな刀から感心の吐息が聞こえ、小さな刀たちはうんうんと納得顔だ。則宗も地獄に仏とばかりに首肯を何度も繰り返す。
しかし、論拠をあげられても加州清光は全く動じず、何食わぬ顔で言い放ったのだった。
「そりゃ計算とか意味ないって。だって俺、じじいとまぐわってなんかないもん」



「ねえ則宗、赤ちゃん、どう?」
清光の細い手がそっと則宗の腹に当てられる。柔らかな笑顔は美しく、笑んだ瞳はキラキラと輝いていた。
則宗は大丈夫だ、と緩く答えて、添えられた手を覆うように自分の掌を上から重ねる。ぬくもりを受ける腹には、何も入っていない。かつての清光のように膨らむこともなければ、服の下にわざと詰め物などもしていない。ただ平べったく筋の割れた男の腹で、子も種も、孕む器官さえそこにはない。

本丸は、最初に問題が発覚したあとの話し合いで、加州清光の一概には理解しがたい妄想を否定せず、ひとまず主からやんわり引き離しておく方針を立てた。
それは主である鬼罌粟が、彼の妄想の引き金になった原因全てを改めることも、頭の壊れた初期刀を切り捨てることも出来なかったからだ。
年若く平和ぼけした彼女の甘さ、それを許すほど主人によく似た刀たちの甘さ。愚かな許容が滲む、事態から目をそらすただの保留案。
則宗は、そうとわかってこの決定への反対を口にしなかった。彼はそのまま、あの場でやらかした問答をもとに、清光の関心を引いておく、囮という唯一の役目を買って出た。
己の腹に、加州清光の「子」を宿す。
あくまでも“ふり”の筈だが、彼は三つ指を突いて挨拶を行い、慌ただしく荷を纏めて個室から相部屋へ移り、赤飯を炊かせ本丸全体に周知を行い、二振の子がさも出来たように振る舞った。
当の清光さえいきなりの「夫婦生活」に目を白黒させて、そこまでしなくともと苦言を述べたとあれば、その徹底ぷりは知れる。それらを「伴侶」へ万事は子を健やかに育てるため、はたまた他のもの達へは監視を全うするためと、全て丸め込んだのもまた則宗だった。

「早く出てきなよ、俺たちと一緒に、主に愛してもらおうね」
肩を寄せ合い、則宗の腹に囁く清光の表情は明るい。
子を授かった“設定”を得てから、清光は則宗に酷く優しくなった。発覚からこちら、とにかく出陣や遠征が増やされた彼の本丸滞在時間はこれまでより大きく減っている。事務雑務や身支度などを除けば本当に貴重な余暇を、清光はいまや全て則宗のそばにいることへ費やしていた。



「まぐわって、ない……?」
平然と言い切った加州清光に、呆けた反応は役に立たない。そう、まぐわってないよ。繰り返す問題の当事者はそれがごく普通だろうとでも言いたげだ。
「いやまてそりゃおかしいぞ旦那、それなら子供はできないだろう?!」
泡を食ってかかったのはまたしても薬研だった。重なる当惑に言葉をなくす刀が多い中、頭をかきむしりながらも突っ込みは的確だ。
「というか、そもそも俺たちゃ男体同士だろ」
呆れたように横槍が入る。そういえばそうだな、と何人かが目を丸くし、別の何人かは顔をしかめる。
「大体、刀だからな。子作りできたのか」
「神ならありじゃない?」
「神と言いましてもね、殆ど妖怪みたいなものですよ僕らは」
「おや、尚更いけそうになったね」
「はいはいっ!タツノオトシゴはメスから卵を貰って、オスが産むって図鑑にありましたよ!」
「だからこの場合はどっちもオスだろ?」
「いやでも妖怪のオス同士なら、ん?お、おお……?うん……?」
「みんな待って待ってアタシ、ちょっとついていけてないから!待って!」
どよめきに再度絶叫が飛ぶ。既に呼び出し当初の緊迫感は失せていたが、取り変わって混乱が鬼罌粟の顔色を改善させてくれない。まあまあ落ち着いて。近侍がふわふわと背を撫でてくるのに縋りたくなったが、手を伸ばす前に主!と加州清光が声を上げる。
「主!ごめんねびっくりさせて。でも安心して!俺、別に則宗とはつきあったりそういう関係じゃないし、主の大事なアイツ、欲しいとか思ってないから!」
「……もう、何、どういうこと……清光……」
「俺はねっ、主のためにじじいの子を産むつもりなだけ!別に俺とじじいはデキてないよ」
にっこりと、花開くように加州清光は笑った。主のために、と彼は言うが、鬼罌粟にはその意味が理解できない。
やけに澄んだ瞳で自分を見詰めてくる初期刀が、これほど恐ろしく感じられたのは初めてだった。背を撫でていた近侍がうーんと小さく唸る。どうすればいいのだろう。途方に暮れる。
「やばい主がスペキャってしまった」
「おいじいさん何とかしろよ、お前の番だろ」
「は!?番……いやいやいや、僕も身に覚えどころか寝耳に水すぎてどういうことなのかさっぱり分からんのだが」
「だからじじいは関係無いって」
背後で交わされる囁きへきゃらきゃら笑って、加州清光は述べる。
「俺、戦じゃ役立たずでしょ?だから考えたんだよね、どうしたら主の役に立てるかって!主さ、癒しが欲しいーっていつもお気に入りの奴らとか短刀とかに言っては触るじゃん?だからさ、気付いたんだよね、お気に入りの奴らの子供がいたらすっごい癒やされるんじゃない!?
良い案でしょ!
俺はさ、性能は期待に添えなかったかもしれないけど……でも、初期刀にしてくれたんだし、ちょっとは好みだと思ってくれてたんでしょ!?だからさ!
ね、俺が孕んだってことを主に信じてもらえれば、俺はひとりでちゃんと産めるよ。俺と主好みのじじいの子供を産んでみせるよ!
主の愛で子供にするんだよ、主がいるって信じてくれればきっとこの子も生まれるよ。励起できる。主が俺達を愛していて俺の愛を信じてくれて俺を祝福してくれるなら、きっと大丈夫!
主好みの男士の子供なら欲しいよね。欲しいものを身籠った俺を認めてくれて可愛がってくれるよね?
俺達の子供が欲しいと思って願いを込めてくれるならちゃんと俺は妊娠できるよ、主のために腹だって裂くよ。
俺から生まれるものでも主は愛してくれるよね?祝ってくれるでしょ?幸せを感じてくれるよね。
俺、お腹も出てくるし可愛くなくなるかもしれないけど、構わないでしょ?愛してくれるよね?主のために主が好きな刀の子供を作れる俺を、愛してくれるよね?
ね、信じてるよ主。ねえ俺のおなかみて、ほらもうこんなに大きくしたんだ。もっとふくらませられるよ、なでてみて?
ひとつで足りないならいくつでも作るから、ね、かわいいっていってよ、たのしみだねってわらって。おれのこと信じて、願って、使ってよほら。
ねえほら、あるじ?俺達の子供、早く起こして?」
加州清光はいつの間にか畳に四肢を突き、座布団を降りていた。
輝かしい笑顔のまま膝で鬼罌粟へにじり寄り、手を伸ばそうとしている。近侍は無言で立ち上がり数歩前に出た。真っ青になって震える主を背に庇うと、右手で柄を握る。
「あるじ」
「……ふむ、まあ今回は間違いなく濡れ衣だが、僕も坊主との子作りに興味がないわけではないな」
投げ出された扇子が床に落ち切るより早く、前に伸ばされていた赤い爪をした白い手は、一回り大きなてのひらに包んで引き下げられた。
迫ろうとする体も肩を掴まれればそれ以上近付けられず、加州清光は眉を眉間に寄せて振り返る。
「……じじい」
後ろから抱き留めるように彼を抱え込み、耳元で落ち着けと宥めたのは、お前の子を成したと名指しを受けた一文字則宗だった。
「僕は坊主の案に協力してもいいぞ」
愛想のいい声が弓なりにしなった口から流れ出した。あくまでも優しい語調。弾むような軽やかさ。
「とはいえ、お前さんが戦に出られんとなるとな?運営に支障が出るだろう」
則宗は語ると同時に自然な動きで加州清光の体の向きを自らと膝を突き合わせる形へ変えさせると、彼の両手を握り込んで近侍へ一瞥をやる。その意図はすぐに読まれた。だが、鯉口から覗いていた刃は留まるだけで仕舞われない。
近侍の役目は審神者を助け、守ることだ。いくら則宗が動きを抑えていようと、先程の言動をすぐに許せる訳はなかった。髭切は構えを解かずに静止する。要した彼も解ってはいるのか、二度仰ぎ見ることはしない。清光はしゅんと顔を曇らせた。
「そんなことないよ、俺、打刀だし」
しおらしい態度は先程の狂気が嘘のようだ。だからこそ正常とは思えない。ただ、害をなそうとする素振りはない。目の前の二人が続ける会話へ、みな聞き入る。
「いいや、局面は動いている。今までの戦場とは訳が違うのさ。これから始まる京都攻略には清光たちが必要なはずだ。そうだろう主?」
諭すように。いきなり話を振られて、鬼罌粟はひっと小さく悲鳴を上げた。知らず縋っていた脚を握り締めると、上からふわふわ「僕らは夜戦に向かないからねえ」と助け船が出る。そうだぞ、と便乗して、則宗は捕まえていた清光の両手をうやうやしく口元へ掲げ、赤い爪へ触れるばかりの接吻をする。
「子は、僕が産もう」
提案はシンプルだ。
「僕はまだ練度が低い。お前さんと同じく先陣にも立てんだろ。そこはお互い同じだが、坊主はこのさき状況が違う。せっかく機会があるのに、身重だと主に使ってもらえないぞ。いいのか?」
人好きのする笑顔が弾ける。肩を揺らしたのは加州清光だが、体を引くことは腕を掴まれているせいで難しい。則宗はニコニコと清光の腹に目をやり、下から舐め上げるように顔を覗き込む。
「なあ清光。このままもし順調に子を産んだとして、すぐに戦場には戻れんぞ。赤子は手がかかる。決意は立派だが、どうやったってひとりで育てるのは大変だろう。まあ、主のそばにはいられんだろうな」
左側の大部分が隠れているに関わらず、見るからに悲しげな表情を作った相手に、赤い目が怯む。
「……だって……」
加州清光が望むものを知っているような流暢な口振りは伊達ではない。彼の横へ逃がした視線は、鬼罌粟に続いている。不測の事態に強ばりきって息すら潜める彼女は、まだ近侍の足の間から清光を窺うだけしかしない。どうして主。せっかく俺が。加州清光は下唇を噛む。伸ばしたい手は動かせない。大きな手で包み留められているからだ。
観衆の視線のうち、いくつかは主からは見えない近侍の静かな表情を注視している。標的たる初期刀は気付いていないが、髭切の本体はまだ抜刀寸前に構えられたままである。
くしゃりと歪む表情と、握られた小さく冷たい指先。主を望んで説得へ視線を返さない彼の横顔に、聴き心地のいい声で重ねて言葉が流れ込む。
「主想いの坊主の提案だ、だあれも悪いようにはしないさ。
ただ、お前さんも出番を逃したくはないだろう?漸く一番隊を張れるんだ。夜戦に晴れ舞台と言うのも少しおかしいが、馴染みの場所の先陣、斬り込み隊長だぞ?重役じゃないか」
清光の視線が揺れた。暗い表情に目だけが少し光を帯びる。
「俺が……?ほんとに?」
「ああそうだとも」
則宗の口からは力強く肯定がなされるが、実のところ全ては“嘘ではない”程度の内容だ。京都攻略に臨む予定なのは本当、新選組の刀が京に詳しいのも間違いない。けれどそれは昨日までの会議では今後の希望に留まっており、歴の浅い当本丸に今すぐ発って出る実力などないのは明白なはずなのだ。
けれど、加州清光は白い頬をほんのりと色付かせて、そんな、と声音に照れを覗かせる。
「主が好きなのは、アンタみたいな刀でしょ……」
「清光のことも愛しているとも!初期刀殿。だから今からお役を貰うんだろう?
という訳だ。な、子は僕が産もう!お前さんの子なら美人だろうなあ」
握り込んだ手に頬擦りをしてみせる古刀は、晴れ晴れと美しい笑顔を崩さない。空気を読んで黙っていた野次馬たちは、ここで漸く少しの余裕を見てちろちろと互いに視線を交わす。
どうやら説得は上手くいきそうだが、これは解決と言っても良いものか。
ぬるい苦笑が混ざり始めた空気を余所に、則宗の柔らかな髪の毛と温かい肌の感触は十分慰めの効力を発揮する。
「ほんと……?愛されてる……主に……?」
「そうだ、全ては愛だとも。安心しろ坊主。
主もいいな。僕たちの為に坊主を取り立ててやってくれるな?」
「えっあっえぇ…?」
もはや展開に付いていけずぼんやりと二人を眺めていた鬼罌粟だったが、いきなり声を掛けられ、つい動かした視線が則宗とかち合うと逃げ場がないことを悟る。笑顔だ。
「な?」
にっこりと。あくまでも親しみを忘れない笑顔の底知れない威圧感に、年若い人間の小娘がどうして逆らうことができようか。
「う、うん……」
「そう……そう……?」
控え目にだが確かに肯定されたのを見て、加州清光が今度はハッキリと目を輝かせた。
包んでいた手をぎゅう、と握ってくる赤い爪のてのひら。則宗はこくこくと首肯を交えつつ、もう一段声を弾ませる。仕上げである。
「ああ、心配ない。主が頷いたのを僕は見たぞ。お前さんも見たろう?」
「そっか…主、俺とじじいの子供、可愛がってくれる?喜んでくれる?」
「え、あ、うん。っはい……」
「な、子も出来るんだ、気をしっかり持ってくれ。戦に出てくれ。大黒柱は任せたぞ。主によぉく仕えて、僕たちをどうぞ養ってくれ」
「あは……ははは!んっ、俺、がんばるね!ふふ!いいお父さんになるから!主、あるじっ任せといて!俺、頑張るから!!」
「ああうん……が、頑張って……?」
座ったまま飛び跳ねんばかりに喜んだ加州清光の表情はすっかり明るく、則宗が片手を放して肩を抱き寄せようと気にもしないようだった。
寄り添った二振の、かくも朗らかなこと。
その無邪気な態度を熟視し、一拍のちに静かに鯉口を閉じた髭切は、喜び合う二振から視線を剥がさないまま足元に未だ縋り付く鬼罌粟の頭を撫でる。
「ねえ主、大丈夫かい?」
「あ、う、うぅ……ん?た、多分……大丈夫、だよ、ね?」
「さあ、どうかなあ。僕には分からないけど」
君が必要だっていうなら、どっちも斬ってあげるから安心しなよ。
ねっ、と当然のごとく告げた声に、彼女は再び顔を青くした。



「なあ清光」
膝枕の体勢で腹に耳を寄せて目を瞑る伴侶に、則宗は囁いた。
今日はとても空の高く澄んだよい陽気で、外からは小鳥のさえずりが輪唱のように重なり合って聞こえてくる。
風呂から部屋に戻ってくる際に清光が持参したサイダーの残りから、氷がカロンと音を立てて蠢く。
てっぺんから僅かに傾いだ午後の太陽が、縁側から細く入り込み清光の足先だけを照らしている。
「僕のことが好きか?」
小さく丸い、緑の黒髪をした頭。片掌に大半を隠せてしまうこうべを撫でながら、則宗は通算幾度目かのその問いをまた落としてみる。
下肢になついていた白い顔の目蓋が上がる。赤い目が、見下ろすにやけ顔の陰を見ながら少し細まった。あはは、とバタバタ廊下を駆ける声が遠くに響いている。そよかぜが窓を抜ける。
つややかな唇が音を出さずに五度動く。前回、前々回と、それより前とも全く変わらぬ同じ答えだった。
動きを正確に読んだ則宗は、そうか、とだけ口にした。
そうして、また何事か腹に話し掛けて始めた清光とそっくりに微笑み、愛し子は、いつ産まれてくれるだろうなあ、と春に満ちた庭を見た。


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