遠く離れたかの地で貴方は羽ばたいていることを、別れた今でも見守っている。別れたとはいえ、大切な友人であることに変わりはないから。
　しかしあくまで一方的に、見守っているだけ。
　あの子が二度目の海外遠征に行くことになってからは、連絡を取り合っていない。あの子から送られてくるメッセージを、受け取るだけ。
　思い出すのは別れ際に涙を流すあの子の顔。
『アタシから送るだけ、メッセージを送ることだけ、許してください。グラスからの返信はいりませんから』
　それからというもの、海外に行ってる間は連絡を一切取り合わない。
　あの子、エルが海外に旅立ってからもう、半年が経とうとしていた。
　高等部に上がってからエルは活躍の場所を本格的に海外に移して、トレセン学園にはあまり帰らない。
　今日も一件、エルからメッセージが入っている。
「トレーニング、頑張ってるみたいですね」
「グラスちゃん、それエルちゃんから？」
「ええ、元気にしてるみたいですよ」
　カフェテラスでスペちゃんとお茶をしていたら届いたから、ついでにとスペちゃんにメッセージ画面を見せる。
　すると画面を見ていたスペちゃんがこてんと首を傾げていた。
「グラスちゃん、ちょっとスクロールしてもいいかな」
「構いませんよ」
「ありがとう」
　スペちゃんにスマホを渡す。画面の上を滑っていくスペちゃんの指と、スペちゃんの顔をお茶を飲みながら交互に見ていると、スペちゃんの眉間に皺が寄っていく。どうしたのでしょうか。
「ねえ、グラスちゃん。全然返信してないみたいだけど……？」
「はい。私からは一切連絡を取っていません」
「え……ええ！？」
　スペちゃんの驚きようにびっくりして、思わず肩が跳ね上がってしまった。でも、スペちゃんが私とエルの仲を知っていることをよくよく考えれば、これは当たり前の反応で。
「ああ……そういえばスペちゃんには伝えてませんでしたね」
　そして、スペちゃんにはエルと別れたことを伝えていないことを思い出しました。
　よくよく考えてみれば、エルと別れたことは誰にも伝えていませんでしたね。
　短くエルとは別れたことを告げると、ぽかんとしてしまったスペちゃん。その顔がなんだかおかしくて、笑ってしまいそう。
「えっと……どうして……？」
「そう、ですね。このままだといけないと、付き合っていて思いました。付き合っていくうちに距離が近づきすぎて、あの子が甘えすぎるようになってきて。海外に行くときも、私を連れて行けたらいいのにと」
　最初は甘えられることに嬉しさを覚えて、加減はしつつも甘やかしていた。素直に甘えてくれるエルに愛しさを覚えたりもした。
　けれど、それでは駄目なのだと気がついてしまったのだ。連れていけたらいいのにという、そのセリフで。
「それで……別れたの？」
「はい。あの子が一人で何でもできるようになって、私との距離感を間違わないようになるまではと思って。伝えてはないですけどね」
「グラスちゃんは、それで良かったの？」
「ええ」
「エルちゃん、絶対誤解してると思うよ」
「気が付かれなかったら、それまでです」
「グラスちゃん……」
　スペちゃんが悲しそうな顔でこちらを見る。きっと私の立場から、エルの立場から考えて、私の選択が悲しいと感じているのだと思う。
「もしエルちゃんがグラスちゃんの言うとおりになったら、グラスちゃんから復縁のこと話すの？」
「私が世界一の怪鳥の隣に立つのにふさわしければ、言うかもしれません」
「……グラスちゃんって、面倒くさい」
「あら、やっと気が付きました？　スペちゃん、成長したんですね〜」
「そりゃもう高等部だもん！　あっ、グラスちゃんくすぐったいよ〜」
　これ以上の会話は出てはいけないものが出てしまいそうだったから、スペちゃんの頭をなでなですることで誤魔化した。


　　　※　　　※　　　※


　スペちゃんには伝えたセリフが反芻する。
　私が世界一の怪鳥の隣に立つのにふさわしければ。
　ここ最近の国内のレースは一つも落としていない。勝ちを積み重ねては、更なる高みを目指して鍛錬を続ける毎日を送っている。次のレースは念願のマルゼンさんへの挑戦だ。
（マルゼンさんに勝てたなら、会長さんに勝てたなら、私はあの子に相応しいと言えるのかしら）
　強敵という強敵をなぎ倒し、頂へと限りなく近い場所へ行けたなら、私はやっとエルに相応しい私になれるのか。
　考えてみるけれど、わからない。
　心を落ち着けようと窓際で月を眺めようとするものの、まるで今の私の心の内を表すかのような雲がすぐに月を隠してしまった。
　もう寝ようとベッドに向かおうとすると、机の上に置いてあったスマホの画面が点灯する。
「またエルから」
　今エルが滞在しているのは確かドバイだったはず。そんなに時差はないから今は夕方くらいだろうか。多くても一日に一度しかメッセージを送ってこないのに、珍しいなと思いながらメッセージアプリを立ち上げる。

【グラス。明日のレースが終わったらすぐにアナタを迎えに帰ります】

「……えっ？」
　迎えに、帰ります。
　一体、これは。
　明日のレースはドバイのG1。そのレースに挑んでから、私を迎えに帰ってくる。
　迎えに帰るとは、一体どういう意味なのか。
　それに文脈から伝わってくる自信。書いてはないけれど、勝って帰ってくることを宣言し、確信しているように見える。
「ひとまず、明日のレースを見届けねば、ですね」
　もしレースに勝ったのならば、空港に迎えに行こう。それくらいしなければ、エルに対して不誠実な気がしてならない。
「エルが、迎えに来てくれる……」
　どうしてこんなにも私は不安なのだろう。
　きっと嬉しいことのはずなのに、私の胸には不安ばかりが渦巻いている。
　私は明日のレースをちゃんと見ていられるだろうか。


　　　※　　　※　　　※


　画面の向こうでキラキラと輝くエルが見える。全力で走りきって、栄光を掴んだエルが瞳を潤ませながら勝利者インタビューに答えている。
　ウイニングライブでセンターで愛嬌たっぷりに歌って踊るエルが、眩しすぎて、目が眩む。
　最後まで見届けた私の胸はまだドキドキと騒がしくて、落ち着かなくて、他のみんながエルのことを褒め称えているのに、私は一言も発することが出来ない。
「グラスちゃん、グーラースちゃん」
「……あ」
　目の前で手がひらひらと動いていることに気がついて、俯いていた顔を上げればスペちゃんが立っている。
「ずっと何か考え込んでるみたいだったけど、絶対何かあったんだよね。エルちゃん絡みで」
「スペちゃんには、お見通しですね」
「昨日のあれがなきゃ、もしかしたら気が付かなかったかもしれないよ。グラスちゃんがどうしても嫌じゃなかったら話聞かせてほしいな」
「……わかりました。スペちゃんには隠し事は無しです」
　スペちゃんはフジ先輩とスズカさんに私の部屋にお泊りすることを伝えてきて、それから二人で私の部屋に戻りました。
「どうぞ、スペちゃん」
「ありがとう、グラスちゃん」
　小さなテーブルを出して、お客様であるスペちゃんにとっておきの緑茶を用意して、向かい合って二人で座る。
「何があったか教えて？」
「はい。エルからこんなメッセージが」
　昨日エルから送られてきたメッセージを、スペちゃんに見せる。
「わぁ……！　エルちゃん、すごい……！　だって、これって、勝って迎えに行きますって言ってるようなものだよね！？」
「言葉少ないですが、私もそう受け取りました。そして今日、エルは一着をつかみ取ってみせた。だから、困ってるんです」
「……言ってたもんね。世界一の怪鳥の隣に立つのにふさわしければって」
「はい」
　今の私がエルに相応しい自分であるのか、わからない。そんな中途半端な私で世界の座を手に入れた彼女に会って、何を言えばいいのかわからない。
「スペちゃん。私、わからないんです。今の私があの子にふさわしいのか。このまま会ってもきっと私、あの子のことをエルのことを拒絶してしまう」
　視界が潤んでいく。
　私はどうしたらいいのかわからない。わからないまま受け入れるのも、拒絶するのも、どちらもが傷つく。
　私が傷つくだけならいい。
　これ以上、エルを傷つけたくないのだ。
　自分に自信をつけて帰ってくるだろうあの子を傷つけたくない。何をしても、今の私ではエルを傷つけてしまいそうで、それが怖くて、明日が来なければって思ってしまう。
　どうしたらいいのかわからなくて、頭の中がぐちゃぐちゃで。
「グラスちゃん」
　スペちゃんの優しくてあたたかな声と同時に、ふわりと優しく体を包まれる。
「スペちゃん……？」
「大丈夫だよ、グラスちゃん。今グラスちゃんは、エルちゃんのことが大切だからすごく悩んじゃってるんだよね」
　抱きしめられたまま、無言で頷く。
　そうだ。私はエルが今までもこれからもずっとずっと大切だから、こんなに思い悩んでる。
　大切だから、傷つけるとわかっていても別れた。
　大切だから、もうこれ以上傷つけたくない。
　大切だから、世界の座を手に入れたあの子にふさわしい自分でなくてはならない。
「グラスちゃん、大丈夫。エルちゃんに会えばきっと答えは見つかるよ」
「エルに、会えば……」
　スペちゃんは具体的なことは何一つ言ってくれない。けれど、スペちゃんの大丈夫が私を安心させてくれる。怯えている心を優しく包んでくれる。
「スペちゃんの言葉を、信じます」
「うん」
　親身になって応援してくれる友人のためにも、明日は逃げずにエルと向き合わなくてはいけない。
　会えばきっと答えは見つかる。
　スペちゃんがくれた言葉を胸に。


　　　※　　　※　　　※


　エルがどの便で帰ってくるかはだいたい予想が付いたけれど、逸る気持ちを抑えきれず朝早くから空港へと向かった。
　国際線のターミナル近くの椅子に座り、今か今かとエルを待つ。
　今の気持ちを例えるならば判決を受け取る被告人のよう。私とエルがどうなるのか、エルが何をするのか、考えても仕方のない不安ばかりが頭をよぎる。
　エルの言葉を早く聞きたいけれど、聞きたくない。
（……やっぱり寮で待ってればよかったかしら）
　心はどうしても弱気になってしまう。レースのときの心持ちがこんな時でも保てたら良かったのに。
　空港には当然私以外にも誰かを迎えに来ている人たちがいて、小さな子がお父さんの帰りを待ちに待っていた様子だったり、離れ離れだった恋人たちが感動の再会を果たしていたり。そんな人たちは皆笑顔だったり、感動の涙を流していたり。
（私はどんな顔をしてエルを……）
　私の中で想いが煮えて、煮えて、煮詰まっていく。苦しさばかりが募っていく。
　こんなに苦しむのなら、連絡を、全ての繋がりを断ってしまえばよかったのかもしれない。
（でも、断ち切れなかったのは、未練が私にあったから）
　エルの為に別れたけれど、変わらずエルのことが大切で、エルと過ごした恋人としての日々を忘れることはできなかった。
　エルのことを完全に手放すことなんて、できなかった。
「エル……」
　あの子を呼ぶ声はか細く震えていて、周囲の声にかき消されていく。私の耳にしか届かない。
「グラス」
　はずだったのに。
　私の声に応えるようなタイミング。
　私のことを呼ぶ、懐かしい声。
　怖い。あの子の顔を見るのが。
　怖い。私は今きっと情けない顔をしているから。
　怖い。怖い。怖い。

『エルちゃんに会えばきっと答えは見つかるよ』

　怖気づきそうになる私に、スペちゃんの言葉が声とともに蘇る。
（スペちゃんにもらった勇気がある）
　大丈夫。大丈夫。大丈夫。
　ぎゅっと手を握って、深呼吸。
　そしてゆっくりと顔を上げれば。
「グラス、迎えに来てくれたんですね」
　いつものマスクを外した、素顔のエルが私の目の前に立っていた。
「エル、マスクは……？」
「んー、マスコミに見つかったら面倒なので。さあ、見つかる前にサクサクトレセン学園に帰りましょう？」
「あ……はい」
　エルはいつも通りの可愛らしくて明るい笑顔を浮かべて、ここで色々と話すのだと身構えていた私の手をごく自然に握って立たせてくれる。
（エルの手、久しぶり）
　こうしてエルに触れるのは、別れる前以来。別れてからは、普通に接していても、こうして肌を触れ合わせることはしていなかった。二人とも、触れることはためらっていた、と思う。
　久方ぶりのエルの体温は火傷しそうだと錯覚してしまいそうなくらい熱い。でもそれはきっと、緊張で私の手が冷え切っているせい。
　隣を歩くエルは、前に会ったときよりも見上げる形になってしまった。
　繋いだ手は手続きの間は流石に離れたけれど、すぐに繋ぎ直されて、寮に到着するまで離されることはなく。
「ふぅ……、やっぱりマイルームは落ち着きますね！」
　帰ってくるなりエルはベッドに体を預けてゴロゴロとしだした。長時間のフライトで疲れもあるだろうし、今日はこのまま休ませてあげたほうがいいのかもしれない。
「エル、今日はこのまま休みますか？」
「まさか」
　ゴロゴロしていたエルがガバッと勢い良くベッドから起き上がって、ぽんぽんと自分の隣のスペースを叩いた。
（話があるってこと、ですよね）
　エルの表情はおいでと私を招いており、昔にはなかった逆らうことを許さない何かがあった。
　離れている間にこんな顔をできるようになったなんてと、時間の経過を思わせる。
　逃げたい気持ちはほんの少しだけ。でも、その表情に私は逆らうことはできず、ゆっくりとエルの隣に移動する。
　隣に座ってみて、やっぱり実感する体格差。離れている間にエルはまた身長を伸ばしたらしい。
（私は貴方と別れてから、一ミリも伸びていないのに）
　まるで私ばかりが時間に取り残されたみたい。
　隣に座ったけれど、エルの顔が見られない。
「グラス、ごめんね」
「えっ……？」
　唐突の謝罪がエルの口からこぼれ落ちて、それと同時に私の体がベッドに押さえつけられた。
「エル、あの……」
「こうしないとグラス、逃げちゃうと思ったから」
「……」
　逃げちゃうと思った、その言葉に返す言葉はない。このまま休みますかと、先延ばしにしようとした私には。
「グラス、レース、見てくれた？」
「もちろん。……すばらしい走りでした。他を寄せ付けない、圧倒的な、世界を手にするにふさわしい走りです」
　素顔のままのエル。私のことをまっすぐ見つめて問いかけて、私はどうにか視線を逸らさずに答えた。
「エルは、まずは一つですけど世界を掴みました。ずっと前から決めてたんデス。世界を掴んだらグラスを迎えに、ううん。奪いに行くって」
「……奪う？」
「はい。今日はグラスのハート、奪いにきました。もうエルはグラスに甘えてばかりのエルエルじゃないデス。宿題だって自分でやりますし、補習にだってなりません。世界だって取ってきました。グラス。貴方が嫌って言ってもグラスのハートはアタシのものデス」
「っ、随分と、口説き上手になったではありませんか」
「世界で熱烈アプローチを見てきましたからね。それにエルはパッションに溢れた国の生まれです。アナタにはこれくらい言わなきゃって思いました」
　迎えになんて優しいものじゃなかった。
　まさか、素顔のエルが、こんなにも情熱的に口説いてくるだなんて、思わなかった。離れている間に、私の知らないエルになってしまった。
　有無を言わせないなんて、きっと私の知るエルではマスクをしていてやっとのはずで、素顔のエルが私にこんなにも熱い気持ちをぶつけてくれている。
「……でも私は、貴方に相応しい自分なのかわかりません」
　それでも迷いは消えるわけでなく。
　エルの告白を聞いてもなお、考えてしまう。
　いや、聞いたからこそ考えてしまう。
　こんなにも想ってくれている貴方に、私はふさわしいのかって。
「そんなの関係ありません。アタシはグラス、アナタを奪いに帰ってきたんデス。グラスの心が定まってなくても、グラスはエルのものなんデス」
　そんな私の悩みなんて関係ないと、エルははっきりと言い切った。
（これじゃあ告白ではなくて、命令じゃない）
　エルに会えば答えは見つかる。
　見つかったというか、与えられたというか。
　ここまで言わせて、言ってくれるほどに私のことを別れてからもずっと想ってくれていて。
　じわりと視界が潤んでいく。そこからはあっという間に一筋の涙となって零れ落ちていく。
「エルの、馬鹿」
「バカですか」
「ええ、大馬鹿です」
　こんなひねくれ者のことなんて忘れてしまっても良かったのに、一途にずっと想ってくれていたなんてわかったら、落ちるしかない。
　ふさわしいとか、ふさわしくないとか、そんなことは後でいい。
　今ここでエルを否定することは、許されないし、できないのだから。
　──私の心は、エルのもの。
「奪われてあげます。エル、私の心をさらってください」
「クラーロ、ミ・カリーニョ」
　唇が近づいてくる。
　私は瞳を閉じて、復縁のファーストキスを受け入れた。