リクエスト1
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
《届けメロディ》
金曜日の夕暮れ。
仕事から帰った部屋は蒸し返っていて。涼しい風でも入ってこないものかと、ベランダに面する窓を一杯に開け放った。
スーッと流れ込んでくる風。
涼しいとは言えないが、部屋の湿気を払うには十分だ。
ふと、生温い風と蝉の鳴く声に混ざって。何かのメロディーが聞こえてくる。
弦楽器の音色、バイオリンだろうか…。記憶が正しければ、カイザーのバイオリン練習曲だ。
その音色は何回か音階を往復したあと、聞き覚えのある旋律を奏で始めた。
なんの曲だったか…確かに聞いた事があるのに曲名がでてこない。
(何と言う曲だったか)
耳を澄ませて、その旋律を追い掛ける。きっと、一番有名であろうフレーズを何度も繰り返し弾いているのだろうが、思い出すことができない。
(それにしても…)
今にも転んでしまいそうな、なんともたどたどしいメロディーだ。
思わず苦笑いしそうになるのを堪えてベランダを後にする。
人の努力を笑うものではないし、そのうち思い出すだろう。
翌日の昼過ぎ頃、何気なく目をやった窓の外。
向かいの公園に黒いケースを持って入っていく少女が見えた。
マンションの中層階からも少女とわかったのは、紺色のスカートと白いブラウスだったから。
そして聞こえてきた覚束ないメロディーに、黒いケースはバイオリンだとわかった。
相変わらず思い出せない曲名。
頼りないメロディー。
気付いた時には、陽射しの降り注ぐアスファルトへと歩き出していた。
蝉時雨の中、響いてくる音色を頼りに少女を探す。
そして、公園のはずれ、木々の影にその姿をみつけた。
譜面台を立てて、バイオリンを構えている。間違いないだろう。
そんな事を思っていた時、音が止んで。ふと交わった目線に、自分が何をしに来たのか思い出した。
「それは…何と言う曲だろうか」
『あ、……ユーモレスク、です』
「ああ。ドボルザークか」
名前を聞いてしまえば、何故思い出せなかったのか不思議なくらいだ。
「感謝する、練習の邪魔をしてすまなかった」
『い、いえこちらこそ。お聞き苦しくてすみませんっ』
「聞き苦しい、とは言わないが…まだ練習が必要のようだな」
『…はい……』
「!その、説教をするつもりではないのだ、そんなに落ち込まないでほしい」
一目瞭然なほど、しゅんとした彼女に慌てて言葉をかける。
誰だって初対面の人間に説教まがいのことをされたら嫌だろう。
『いいんです。まだ始めて2年ですから、練習が必要と言われて当然なんです…』
「……もう一度、弾いてみてはくれないか。ヴァイオリンは弾けないが、音楽の嗜みはある」
『あっ、は、はい』
彼女は弾かれたように背筋を伸ばして、楽譜へと目を向ける。
そして、一つ深呼吸をしてから弓を動かし始めた。
……
…………
………
『どう…でしょうか?』
「む…」
やはり、どこか頼りない、たどたどしいメロディー。
辛辣に述べるのならば、貧弱な音色。といったところか。
しかし、彼女の表情は真剣にそのもので、必死に音符を追っていた。
「…技術は練習するより他ない。だが、もっと自信をもって音色を響かせたまえ。もし自信が持てないなら、持てるようになるまでテンポを落としてでも繰り返すことだ」
ありきたりな言葉だろうことは解っているが、これ以外の言葉はみつからなかった。
『…自信、ですか』
「君の音色は磨けばきっと美しくなる。…それに、君のヴァイオリンはもっと歌いたがっているようだからな」
"頑張りたまえ"
そのまま帰ろうと背中を向けた。
『あ、あのっ!』
それを呼び止める少女の声。
『私っ、帝都高校音楽科の羽影雨月といいます!…来月の第二土曜の演奏会、み、見に来て頂けませんか!』
「……私は御剣だ。予定が空いていたら伺おう」
…………ヒロイン視点…………
振り返らずに答えたその背中を見送ったのは、約1ヶ月前の話。
ミツルギさん、というあの人。
弾いている時に無表情で聞いていたから、とても怖い印象だったけれど。
"頑張りたまえ"
そういった時の小さな微笑が頭から離れない。
だから、あれから今まで以上に沢山練習した。
蝉の声に負けないように、あの人のところまで届け…って想いながら。
そして今日は、高校案内を兼ねた外部向けコンサートの当日。
たった一回会っただけの私の演奏、聴きにきてくれるだろうか……
「ちょっと雨月、緊張しすぎだって。顔怖いよ?」
『へ?だ、大丈夫ですよ!緊張してないです』
「主旋律が緊張してないのも問題だけど?」
『か、からかわないで下さいよぅ』
「あはは、ま、リラックスしてさ。自信もってこ」
舞台裏で固まっていた私を、ヴィオラを抱えた友人が気遣かってくれた。
そうだ、自信をもって。
このヴァイオリンを響かせるのが、あの人に一番感謝を伝える方法だ。
開演時間。
緊張と期待と不安と喜びと、綯い交ぜになった心境に高鳴る胸。
ゆっくり深呼吸して、ステージを上った。
『…!』
校内コンサートの会場は大会で使うホールのような施設はない。
だから、いつもより明るくて近い客席。
その最後尾、紅いスーツと白いヒラヒラが目に止まった。
(ミツルギさん…)
指揮者が礼をして、指揮棒を構える。
(聴いて下さい、私の音……)
……
……………
…………
自分の演奏が終わって、舞台裏に戻った後。
楽器だけ手早く仕舞って客席へと走る。
…もういないかもしれない。
案の定客席では見つけられなかった姿を探して外へ飛び出す。
すると、校門へ向かって歩いていく紅い後ろ姿が目に入った。
『…ミ、ツルギ、さ…っ』
慌てて追い掛けた為、息は絶え絶えだし、声も掠れている。
でも、なんとか追いついてその背を呼び止めた。
「…羽影クン、だったな」
『は、はい!来て頂いて、ありがと、ございます』
「ああ。練習を聞いていたところ、上達しているように思えたのでな。本番での音を聴こうと」
『練習、聞いてらしたんですか?』
「聞いてた、というよりは…私の部屋からだと聞こえてしまうのだよ」
……本当に、私の音色は届いていたみたいだ。
意図しない形ではあったけれど。
『…そ、ですか』
「いい演奏だったと思う。頑張ったのだな」
また、小さな微笑を零す彼に、キュッと胸が締め付けられる感覚がした。
これは、恋、というやつだ。
「音楽科か…ヴァイオリニストをめざしているのだろうか?」
『はい、将来の夢なんです』
「ならば…もっと頑張る必要があるようだな」
嫌味の含まれない、自然な台詞だった。
まして、"期待しているよ"と、続いた言葉は私のテンションを上げるのには十分で。
『ミツルギさん、またお会いできませんか?』
「…、どういう意味だろうか?私にヴァイオリンは教えられないが…」
『あ、の…す、好きになってしまったんです、御剣さんのこと……』
多分。
今まで生きてきた中で、一番の勇気を使った。
少し驚いたような素振りをして、ミツルギさんは口を開く。
「……君が、もし。本当にヴァイオリニストになって、その気持ちが揺らがなかったら応えよう」
『…』
「だから、たまには練習の成果を聴きに行く」
『そ、それって…!』
「私はこの後仕事があるのだ。…時間がある時に公園で。では、また」
去ってゆく後ろ姿は、一月前と変わらなくて。
違うのは、"また"という希望ができたこと。
単にかわされてるだけかもしれない。それでも。
あの公園で練習する音は彼の耳に届く。
(どうか、私の音が)
(彼の心まで届きますように)
………………
…………
……御剣視点……
あれから8年後。
若き女性ヴァイオリニストが注目を集めている。
今日の初リサイタルは生中継される程だ。
私はそれを自宅でモニター越しに見るのだが。
冒頭でアップにされた彼女の顔は、とても大人になっていた。
『ご来場の皆様、液晶の向こうの皆様、本日はありがとうございます。どうぞ楽しんで頂けると幸いです』
そして、一つ。深く深呼吸をした。
『…御剣さん。見て下さってますか?あの時から私の想いは変わっていません。もし…あの言葉が本気だったのなら、私を、迎えに来て下さい』
(『…私事を失礼いたしました。それでは一曲目、ドボルザークのユーモレスク、お聞き下さい』)
後半の言葉をどこか遠くに聞きながら。気づけば日差しの降り注ぐアスファルトへと歩き出していた。
(ああ、迎えにいこう)
(そのリサイタルが終わるまでに)
Fin