Forget-me-not
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『あの……』
その夜、寝巻きの彼女は言いづらそうに口を開く。
『今日は真さんがベッドで寝てください』
「駄目だ」
『でも、申し訳ないです。ソファから脚も出てるし、毎朝喉の調子も良くないし、目元も隈が出来てますし…』
彼女の申し出を一蹴すれば、俺の不調を指摘される。
それは事実だけれど、同じ環境に彼女を置く気は更々無い。
「…だとしても。お前をソファで寝させる選択肢はない。まあ、同じベッドで寝る気があるってなら別だが……違うだろ」
同じベッド。
という単語で彼女は息を飲んで、見る見るうちに顔を赤く染めていった。
…同じ床で寝ることに、そんな反応を見るのは初めてだったから。なんだか可愛らしかった。
『あの、えっと、でも』
「お前が優しいのは知ってる。気を遣ってるのも解ってる。だから、このままでいい」
そして、この可愛い生き物におやすみのキスも出来ないのだから、同じベッドでなんて寝ようがないのだ。
唇をぎゅっと噛み締めた彼女は、無言で寝室への階段を駆け上がって行った。
思うところ、あるよなぁ。思うところしかないよなぁ。なんて、こちらも無言で見送れば。
ドタドタドタッ
と、転げ落ちるように彼女は駆け下りて来た。
あまりの音に、ソファから立ち上がる。
「は?なに、大丈夫か」
駆け寄る彼女の腕いっぱいに抱えられた、いつも使っている毛布と枕。
『真さんがベッドで寝ないなら、私もベッドで寝ません』
「…あ?」
『わ、私、ここで寝ます。毛布は、真さんが使ってください』
ソファとローテーブルの間、カーペットの上に枕を置いた彼女はそこへ毛布を纏って座り込む。
「は?床で寝る気か?駄目に決まってるだろ!」
『真さんがベッドに行ったら、私はソファ使います』
頑なな彼女は、また唇をぎゅっと噛み締めた。
そう、彼女はそういうやつ。
イイコチャンで、自己犠牲を平然とできるやつ。
そんな彼女に染まった俺は、彼女に対する自己犠牲は払えるし、今回の件は犠牲だなんて思っていない。
…どちらかといえば俺の都合。
「……俺は、あのベッドで一人で寝るなんてできないんだよ」
彼女の隣へ座り込み、噛み締められた唇を避けて顎から頬までのラインを撫でる。
同じ顔、同じ声。でも、違う表情、違う口調。
同じ性格、同じ感性。でも、違う表現、違う発想。
彼女は雨月であって雨月ではない。
「あれは、俺にとって、二人で寝るベッドなんだ。雨月がいるのに一人で寝るなんて」
寂しいだろ。
顔を撫でる手を退ければ、彼女は目を見張った。
それから、ポタリポタリと涙が溢れていく。
『なんで、貴方を、思い出せないんでしょう』
「…」
『わたし、どうしたら、いいんですか。わたしは、真さんが知ってる私じゃないけれど、私が貴方を大切に思っていたのは解るんです』
今度目を見開くのは俺で、言葉に詰まって口を噤む。
『真さんのこと、教えてもらえませんか?私と出会った時のことも、どうやって過ごしてきたのかも、全部』
「……」
『思い出さない方が、よいのですか?』
彼女は酷く不安気な表情で、俺の言葉を待っている。
伝えていいかわからない、伝える勇気がない、思い出してほしい、わかってほしい。
未だ、ぐちゃぐちゃな感情はまともな体を成していなかった。
「雨月はずっと苦しそうだった、無理して笑ってた。そんなこと、思い出さなくていいと思ってる。雨月は俺がそこから助けてくれたってよく言ってたから、思い出したくない記憶と結びつきが強くて一緒に忘れてるんだろ。それだけ、辛かったんだ」
そこまで紡いで、一つの決断。
「俺は、今の雨月も好きだ。また、好きになった。仕草が変わっても、好みが変わっても、言葉遣いが変わっても。お前が優しいのは変わってない。喉が痛むと言えば、レシピも覚えてないのに咄嗟に生姜湯を作ってくれただろ。…惚れ直したんだ。だから、不安かもしれねえけど、そのままでいてくれ。思い出してもいいが、教えようとは思えない」
彼女とのこれからを、どう構築するかはまだ決まってないけれど。何も知らない、今まで以上にあどけなく柔らかな彼女が、泣けないほど辛かった日々を過ごさない本来の彼女ならば。そうあってほしい。
「大切だって言ってくれたのは、嬉しかった。けど、ゆっくり考えてくれたらいい。できれば、受け止めて、考えておいてくれ。俺はこれからも、雨月と家族であろうと思っている」
彼女が外さないでいてくれるエンゲージリングをそっと撫でれば、彼女はか細い声を絞り出す。
『わたしは、貴方のことを、思い出したいっ』
「…っ!」
『わたしが誰かなんて、どうでもいいんです。こんなに私を愛してくれた貴方を忘れてしまった わたし なんて、どうでもいい』
ポロポロポロポロ涙を零して彼女は泣いた。
『なんで思い出せないの。あんなに愛してた、真さんのこと。どうして忘れてしまえたの、あんなに愛してくれた、真さんのこと』
彼女は徐ろに立ち上がり、いつものレシピノートを持ってくると、更に続けた。
『このレシピノート、日付を手書きするタイプの10年日記だったんです。レシピノートなのに天気とか行事とか書いてあるし、最初の数ページなんか何も書いてない。殆どがメニューやレシピで感情や出来事なんて殆ど書いて無かったけれど、真さんのことは、沢山書いてありました』
「…」
『頭が良くて、バスケが上手で、優しくてかっこいいって。それに、貴方が、一人ぼっちの私とご飯を食べてくれたことも、淋しい夜に手を繋いで寝てくれたことも。書いてなくても、何と無く分かりました。それが嬉しくて、どんなに幸せだったか』
ページをパラパラと捲れば、膨大なメニューの中に書き込まれていた、俺がメモだと思っていたコメントの中には
『真君が努力してるって認めてくれた』
『真君と一緒だとよく眠れる』
『真君がいっぱいバレンタインのチョコ貰ってる、ちょっと嬉しくない』
『バスケをしてる真君は格別にかっこいい』
『誕生日にグラタンを焼いてくれた。初めて、誕生日に幸せだって思えた。好き、すごく好き』
メニューとは全く関係ないものが沢山あった。
彼女が言っていた通り、俺ばかりだった。
『こんなに貴方が好きだったこと、思い出せない わたし でも、同じように愛してくれるんですか?こんなに愛してくれた貴方を思い出せない わたし が、今、貴方を好きになってしまったこと、許してくれるんですか?』
その言葉に、思わず、力の限り抱きしめた。
腕を引いて、胸に閉じ込めて、この数日我慢した分を取り戻すみたいに。
「許すも何もねぇんだよ馬鹿。ほんと、お前は見る目ないな、せっかく記憶がなくなったのに、他も見ないでまた俺を選ぶのか」
『嫌ですか?…料理、頑張って覚えますから、』
「ちっげぇよ!…ああ、クソ、本当にお前には敵わないな。手放せないのは俺の方なんだ、記憶がないとか料理ができないとかは二の次なんだよ。いいか、本当はな、お前がなんて言ったって傍に居るつもりだ」
『まこと、さん』
「…どうしたらいいかわからないのは、俺も同じだ。思い出してほしいとも思ってるし、やっぱり忘れたままでいてくれとも思う。それでも好きだから、過去を伝えていいものか、今の気持ちを伝えていいものか、沢山悩んだ。…ふはっ、そういう時、きっかけをくれるのは何時もお前の方だ。今回もな」
腕の拘束を緩めて彼女の顔を覗きこめば、真っ赤な顔で瞳を潤ませている。
「ゆっくりでいいって言った手前、返事は急がねぇが、伝えておくわ。………好きだ、今までも、これからも、ずっと」
彼女に、人生2度目の告白。
高校生の時の告白は顔を見て伝える余裕がなくて、腕に閉じ込めたまましたのは懐かしい。
あの時も、雨月はこんな顔してたんだろうか。
驚きと喜びが綯い交ぜになって、結局泣き顔になってしまった、そんな表情。
『私も、真さんが好き。これからも、傍に居たいです』
俺はあの時と同じように、泣きじゃくる彼女の背を、撫でてあやしていた。
…
……
………
目が覚める、という感覚でいつの間にか寝ていたことを悟った。
手探りで手繰り寄せただろう毛布をまとって、腕に彼女は収まったまま。
(まるで、高校生の時と一緒だ)
「おはよう」
声をかけて前髪を避ければ、彼女はくぐもった声をあげながら目を覚ます。
『おはようござ…っっ』
近さに驚いたのか、顔を手で覆ったかと思えばその手を突っ張って距離を取ろうとする。
「おいおい、随分だな」
『だって、あのですね!』
昨夜、両想いだと確認が出来た俺は彼女を抱きしめる腕を緩めない。
真っ赤になって慌てふためく彼女が可愛くて仕方なかった。
『ぅ…恥ずかしいんです、意地悪しないでください』
距離がとれないと観念すると、顔を覆って俯いてしまう。
「悪いな、意地悪な方が本性なんだ。……嫌いになるか?」
そんな彼女に探りを入れれば、食い気味に返事が返ってくる。
『ならない!ならない、です、でも、あのですね、』
それからゴニョゴニョと呻いたあと。
『心臓が壊れそうです、ドキドキして、苦しい……』
そう呟くや黙り込んでしまった。
俺は益々腕に力を込める。
『…っ!?まこと、さん』
「お前さぁ、いつもそうだよな。自覚なし計算なしのストレートばっか投げてきやがる」
抱き寄せた頭に一つキスをして、小さくため息を吐いた。
「なぁ、抱き返してはくんねぇの?」
それから、そう小さく声をかければ。
怖ず怖ずと背中に手を添えられる。
その時、俺は初めて明確に
(俺を、忘れないでほしかった)
そう思った。
《Forget-me-not》―私を忘れないで―
(抱きしめ返す手の、あまりのぎこちなさに)
(他人から始まるのだと思い知らされてしまったから)
Fin and ↓more↓
それから数ヶ月後。
彼女の21回目の誕生日。
今の彼女にとってはもう、特別なメニューでもないだろうが。グラタンを焼こうとキッチンで1人奮闘している。
今も彼女の記憶は戻らないまま。
それでも俺は今の彼女も変わらず好きでいる。
いっそ、ハグ一つで真っ赤になって身を捩って逃げようとするのが可愛いくらいだ。
時折彼女が背中へ怖ず怖ずと抱きついてきて『…嫌で拒絶してるんじゃないんです…真さんにとってはいつもの行動でも、私は慣れてない事だから。真さんがカッコよすぎて、恥ずかしいんです、ごめんなさい』と言ってくるから益々可愛い。
そんなの嗜虐心を唆られるだけで、「そろそろ慣れてくんねぇ?」と振り返りながら抱き締めては、真っ赤になってまた逃げようとする。
…バカだよなぁ、それを何回繰り返すやら。
当然、そんなんじゃ同じベッドでなんか寝れず。
結局俺はリビング用に布団を買うことになった。
そんな彼女は大学へ諸々の手続きへ出掛けていて。
夕方、帰ってきた彼女を出迎えれば。
ちょうど、オーブンから焼き上がりを告げる軽い音がした。
『…グラタン、焼いてくれたの?』
彼女は目を見張って、その場に荷物を取り落とす。
『ありがとう、真君…っ!』
そして、力いっぱいに飛びついてくるや、きつく抱き締められた。
「…雨月……?」
『嬉しい、ありがとう。それから、ごめんなさい』
背伸びをして、しがみつくように抱き着く彼女は。
「…おかえり、雨月」
紛れもなく、俺が愛した雨月だった。
『…っ、ただいま。…ごめんね、遅くなって』
「まったくだ」
背骨が軋むくらい抱き締め返して、それでもまだ足りなくて泣きそうになる。
「お前に渡した言葉は嘘じゃない。さっきまでのお前だって好きだった」
『うん、わかってる。ありがとう、また、好きになってくれて』
「それは、お前もだろうが。…でも、納得いかねぇ」
いや、泣きそうというよりはもう泣いている。
「どうやったら自分と俺だけ忘れるんだよ…他のことは殆んど思い出してるくせに」
『……真君は忘れたく無かったけど、きっと、私は私を忘れたかったの。あんな手紙が届くような、迷惑かける私を、捨てたかったの。でも、私は真君無しで生きて来れなかったから……ごめんなさい』
「謝るな馬鹿。お前は何も悪くなかったんだから。あの手紙は片付けたから、あの事だけは忘れたままでいい」
『…ほんとに?』
「ああ」
抱きしめた腕を緩めて顔を覗けば、彼女も泣いていた。
ごめんなさいとありがとうを繰り返す雨月の頬を撫でれば、指に擦り寄って微笑む。
「雨月、今日は一緒に寝るだろ?」
『勿論。私も、明日はご飯任せてね』
頷きあって、頬を擦り合わせて、少し見つめて唇を合わせて。
また微笑み合えば、『ぐうぅぅ』と、控えめに彼女の腹が鳴いた。
『お腹空いちゃった』
と恥ずかしそうに笑う雨月に、短いキスをして腕を解く。
「そうだな。冷めないうちに食おうぜ」
End!
《Forget-me-not》―私を忘れないで―
(どんな私でも愛してくれる貴方を知ったから)
(今までの私が忘れられてしまう気がしたの)
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