Forget-me-not
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(…やらかした)
暖房をつけたまま寝たのは不味かった。
そうしないと寒くて耐えられなかったとは思うが、乾燥で声が掠れている。
『おはようございます』
「おはよう」
『喉、大丈夫ですか?…って、ソファで寝たんですか!?』
「…一組しか寝具がないんだ。出会って数日の他人と同じベッドで寝れないだろ」
それを聞いた彼女は酷く狼狽して、申し訳なさそうに項垂れた。
『お気遣い頂いて、すみません』
「気にするな。よく寝れたか?」
『はい、お陰様で』
それから、ソファ横へしゃがんで俺と視線を合わせる。
『真さんは朝ごはん食べますか?私は、食べていましたか?』
「……食べない。雨月は、学校の日は軽くつまんでたな。予定のない日は食べなかった」
『そうですか』
「食べるか?…米、結局炊いてないな。買い物行って、外で食べてもいいぞ。モーニングやってるとこもある」
起き上がろうとすれば、彼女は両手を突き出して制するような動きをした。
『いえ、大丈夫です。それより、真さん、のど飴とか風邪薬ないですか。いえ、喋らないで頂いて、ああ、えっと』
「心配してくれんのはありがたいが、風邪じゃなくて乾燥しただけだ。飴はないが、蜂蜜が棚の何処かにある」
そう伝えると、休んでて下さい、寝てて下さいと念を押して。台所で湯を沸かし始めながら、昨日見せたレシピノートを慌ただしく捲っている。
それから、あるページで止まり。冷蔵庫から小さなタッパー、棚から蜂蜜を出して、調理器具の引き出しを暫く漁ったかと思えば。
マグカップへ湯を注ぐ音。
…この匂いを、知ってる。
『レシピノートにあった、生姜湯です。どうぞ』
差し出されたカップには。
生姜と蜂蜜の入った生姜湯。
喉が痛むとき、よく彼女が作ってくれていた。
「ありがとな」
受け取ったのを見届けて、彼女は『顔洗ってきます』と席を外した。
俺も飲み終わったら行こう、なんて逡巡して。
熱いカップに口を寄せた。
…
……
午前中を家で過ごし、昼に"風邪を引いた時の葱生姜粥"の付箋が貼られた粥を二人で食べれば。現金なもので喉の調子はかなり回復した。
『真さん、私が通っている学校は近いですか?』
「行ってみるか?中まで入れるか分かんねえけど」
『お願いします。あと、外着を見繕って頂けると助かります、クローゼットを見ても着るイメージが沸かなくて』
困ったように眉を下げた彼女に、好んで着ていた濃い灰色のワンピース、白いタートルネックと赤いチェックのマフラーを渡した。
なんとなく、彼女がこの服装をする時は自分も白いパーカーとグレーのパンツを着て、インナーのシャツをチェック柄にしている。色味を似せたり、柄を揃えると雨月は喜んでいた。
今の彼女は特に思うことも無いようで、渡されるがままに着て、言われるままに学校までの道を辿る。
校門の前で来たけれど、休校中で中には入れなかった。
暫く外観を眺め、外周を2周して。
もう帰ろうかと校門前で足を止めれば、彼女はふいに校舎を振り返る。
それから、徐ろに口を開いた。
『…花ちゃん?』
それは、大学に入ってからついた彼女のあだ名だった。花宮雨月で、苗字から取った"花ちゃん"。
「思い出したのか?」
『あ、いえ…なんだか、そう呼び止められた気がして…私のことですか?』
「ああ。大学ではそう呼ばれてた。苗字が花宮だから」
『なるほど。……そうですね、思い出したとは違う気がしますが、ここでどんな生活をしていたか何となく分かる感じがします。講義室の位置とか、時間割みたいなものが、薄ぼんやりですけど』
「十分だろ。来た価値があった」
大学のことが思い出せるだけでも、これからの生活はかなり楽になるはずだ。
春休みが明けるまでに解決しなかったら、休学だって考える必要があるんだし。
『花ちゃん…』
噛みしめるように何度か呟いた彼女は、『連れてきてくれてありがとうございます』と言葉を締めて帰路を歩みだした。
ついでに買い物もして、夕飯は冷凍の弁当以外に汁物でも作ろうという話になり。
いや、俺はやっぱり殆どなにも出来なかったけれど、彼女は冷蔵庫にあった大根で味噌汁を作ってくれた。
体が覚えている…ということも無いようで調理自体はかなり覚束無い。
包丁で皮むきをしようとして左手の親指を切り、ピーラーに持ち替えて左手の人差し指を擦りむき、短冊切りにするときにもまた切った。
『…っ!』
「大丈夫か?」
ガーゼと絆創膏を手に彼女のもとへ向かう。
ガーゼを当てるほどではないか、圧迫して止血した後、それぞれの傷へ絆創膏を貼る。
包丁で怪我をする彼女なんて初めてだったから、その辿々しさが愛しくて思わず手の甲を撫でれば。彼女の肩がビクリと震えて我に返った。
「あ、」
悪い、と言う前に。彼女が俺の手の甲を撫で返した。
『手当て、ありがとうございます。お味噌汁、もう少しで出来そうなんで、待ってて下さいね』
真っ赤な顔で微笑む彼女に、こちらもあてられて。
「おう、待ってる」
妙に照れて顔が熱くなった。
出来上がった味噌汁は、やや形が不揃いな大根で薄味ではあるものの「彼女が作った料理」なのだから。
「…美味いな」
『よかった、ありがとうございます』
まずい訳もなく。
ただ、雨月のスキルが努力と経験によって磨かれていたことは明白になったけれど。
向かいで食事をする彼女が、安心したように笑っているのに懐かしさを覚えた。
………
……
…
彼女が記憶を失って10日、家に戻って1週間経った。
彼女の記憶と結びつきそうな場所を幾つか巡り、辿々しいながらも料理をし、ソファで一人で寝る日々を送って。
共依存だった俺達は、今のところ俺の一方通行となっている。
一向に戻らない彼女の『彼女自身』の記憶とは裏腹に、最近の生活の記憶を朧気に思い出した彼女は。
…大学でどう過ごしてたかは思い出せるのに、料理の仕方や俺達のことはさっぱり抜け落ちたまま。
そんな状態でも、この数日レシピノートとずっと睨み合って、沢山の切り傷や火傷を作りながら料理をしている。
その不器用さと、一途さと、健気さに募る想いは、紛れもなく「恋」で、「片想い」だった。
恋をする前から家族だった俺達は、家族になる前から共依存だったわけで。
何もなくなった今、こんな形で、俺は雨月に初恋をした。
触れることができないもどかしさの前で、少しでも雨月を…
眺めていたい、話していたい、そんな風に思ったのは初めてだ。
今までは、願わなくても望まなくても、彼女はそこにいてくれたのだから。
(関係に名前を付けなくても一緒にいられるほど、子どもではなくなってしまった)
(手放さない方法、考えねぇと、)
彼女の記憶がすべて戻れば、それで済む話。
けど、思い出さないでほしいこともあるし、思い出さなくてもいいとも思っている。それならそれで、俺達が「夫婦」で居続ける方法を考えなければならない。
『……私は、どうやって料理を覚えたんでしょう』
この、焦げた魚と薄い味噌汁と硬いご飯を食卓に並べて、意気消沈としている彼女に対して。
「焦んなくていいぞ。二十年かけて培ったもんだ、そう直ぐに出来ないだろ」
『いえ、でも…これを食事として提供するのは忍びないです』
「気にすんな。俺が作っても大差ない。それなら、雨月が作った…雨月と作った飯の方がずっといい」
うまく微笑んでいれば、離れずにいてくれるだろうか。
『………真さんは、優しいんですね』
「ふはっ!言ったろ、俺はお前が心底好きで結婚したんだ。料理が得意なのも幼馴染だったのもお前を形成する要点ではあるが全てじゃねえ。…何があってもお前を守りたくて家族になったんだよ」
多分、俺のことを全く思い出せないからこそ、彼女は俺と同居している。
他人の不幸を喜ぶ俺を、意図的に他人を傷つけることを厭わない俺を知らないから。
『それを、優しいって言うんだと思います』
頬を染めて微笑み返してくれる彼女は、俺に対して好意を抱いているだろうか。
高校生の頃に「優しい人が好き」と言った彼女と変わらずにいてくれたらいい。
(誰に嫌われようと構わないが)
(雨月だけは、失いたくない)
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