Forget-me-not
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それでも、その翌日までは入院させた。
体調が心配だったのは勿論だが、あの忌々しい封筒の処理をする時間が欲しかった。
然るべきように落ち着くし彼女には金輪際関わらないよう手を打ってある。
腹立たしさこそ残るが、結果的に彼女と更に縁遠くできたのは良かったと思うことにした。
「ただいま」
『ただいま、です』
そして、記憶のない彼女を、病院から連れて帰ってきた。
家への帰り道は解らないが電車には乗れる。
普段使ってるスーパーは知らないが、セルフレジは使える。
どれが家の鍵かは解らないが、解錠と施錠はできる。
そういう記憶喪失の彼女。
靴を揃えて脱いで、狭い廊下から広い1LDKに抜けて驚いた。
『…キッチン、広いですね。いや、リビングもですが』
「元々は喫茶店だったところにフローリングを敷いたらしい。だから台所も広くて、大きめの備え付けのオーブンまである。キッチンカウンターはその名残だな。…よく、ここで雨月が調理してるのを眺めてた」
『私は、料理ができるのですか?』
「得意だった。俺は、お前の料理より美味い飯を知らない」
『………』
正確には、雨月の料理しか食べられなかったのだけど。普通は共依存なんて受け入れないだろうから、黙っていた。
「俺は全く料理が出来なくてな。手伝うのはサラダ用のレタスを千切るような簡単なやつか、ホイップクリームやメレンゲの泡立てなんかの力仕事くらいだ」
『ホイップクリームということは、お菓子も作ってたんですか?』
「たまにな。雨月自身は菓子作りは苦手だと言っていたが…惣菜に比べてって意味だろうな。普通に美味かったぞ、ケーキもクッキーもゼリーも」
調理器具をぐるりと見渡した彼女は、小さく溜息を零した。
『ごめんなさい…私は、料理が出来ないと思います』
「謝ることはないだろ。やってみればいいし、出来なくたって暫くは困らない筈だ」
俺はともかく、彼女は外食でもスーパーの惣菜でもいいのだから。
「廊下の奥は洗面所と風呂がある。二階は、ここの扉を開けると階段がある」
『階段の前に扉?』
「これも喫茶店の名残だな。2階がプライベートスペースというか居住空間だったから。今は無いが鍵もあった」
階段を上がって、寝室。比較的広い部屋と狭い部屋の二部屋あるが、広い方が二人の寝室で、もう片方は衣装部屋…ウォークインクローゼットみたいなものだ。
収納もあるが狭いので、入っているのは使わないけど捨てられないものや捨ててはいけない書類…卒業アルバムとか契約書とかを仕舞っている。
寝室にはダブルサイズのベッドと小さなサイドテーブルが2つ、他には質素な飾り棚しかない。
飾り棚だって、並んでいるのは婚約指輪の入っていた化粧箱だけだ。
「そっち側が雨月の服とか鞄。流石にカラーボックスの中までは共有してないから、適当に漁って着替えてくれ。洗濯物はそのカゴにいれて下まで持ってきて、脱衣所に洗濯機あるから案内するわ。……ゆっくりでいいぞ、先に降りてるから何かあれば呼んでくれ」
彼女を残して1階に戻ったのには理由がある。
着替えを覗かないのは当然として、彼女の日記帳の隠し場所だと睨んでいるから。
彼女は先月の俺の誕生日に『自分も使ってるから』といって十年日記を渡してきた。
俺の日記は寝室のサイドテーブルの引き出しに入っていて、彼女も知っている。けれど、彼女の日記はそこに無い。そもそも、彼女が日記を書いているところを見たことが無い。
ともすれば、俺が覗かない場所なんて服や下着を仕舞う場所しか思い当たらなかった。
彼女は、日記に嬉しいことも悲しいことも書けるようになったと言っていた。それでいて『真君ばっかり』とまで言っていたから。何か思い出せるといい、なんて淡い期待もある。
『……あの、これは部屋着で合ってますか?』
暫くして彼女はカゴを携え、少し縒れたパーカーとスウェットで降りてきた。
「ああ」
本当なら、最近は20歳の誕生日に贈ったワンピースを始終着ていた。
『可愛すぎて外でも着れる』と当時本人が言っていたから、部屋着には見えなかったのかもしれない。
…
……
それから、一通り家のことを説明し終わって。
コーヒーを携えてダイニングテーブルについた。
家にはインスタントコーヒーもあるしレギュラーコーヒーとサイフォンとミルもある。
俺自身はインスタントコーヒーしか淹れられないが、雨月はサイフォンを使って淹れてくれた。
アイツはブラック飲めないどころか腹壊すから大して飲めないって言って、俺にブラックを差し出しながら自分はコーヒーミルクを飲んでいた。
「……コーヒーが苦手なわけじゃねえのか」
『えっと、普段はミルクと砂糖を?』
「ああ。コーヒーフレッシュじゃなくて牛乳をガバガバ入れてた。寧ろ牛乳にコーヒーの風味を足してるだけだったな。飲み過ぎると腹壊すって言ってて、アイスコーヒーは飲めないみたいだった」
今、眼の前にいる雨月は、何も入れない真っ黒なホットコーヒーを普通に啜っている。
何も入れなくても飲めるみたいだ。
『体質は変わらないでしょうから…アイスコーヒーは控えますね。苦味というか、コーヒーが不得手な訳ではなさそうです』
今までは両手でカップを持っていた彼女が、片手でカップを持ちソーサーに手を添えている姿も見慣れない。
容姿は変わらないのに、好みや細やかな所作が違和感を生む。
彼女なのに、彼女じゃない。
「……」
『えっと、私は甘いものが好きだったのですか?』
「好きだった。って言っても、目が無いって程じゃないな。人並みに好きで、疲れた時に食べたいとかデザートは別腹とか、そういう感じ。…洋菓子も和菓子も、焼き菓子も生菓子も全部美味そうに食べてた」
記憶にある雨月は、ココアを好んでいたり、みかんジャムにご満悦だったり。
一方で、コーヒーの苦味やワインの渋味には顔を顰めている。
「…料理で好きなのは、グラタンだった」
『グラタン…何か思い入れが?』
「さっきも言ったが俺は料理が殆どできない。唯、雨月の誕生日だけはグラタンを焼いてる。…普段やらないとか、そうじゃなくて、一人で用意すると半日以上かかるんだ。日常で費やすには効率悪いだろ。きっかけは……CMが美味しそうとかだった」
ここまで話していて、自分の中にせめぎ合いが起きていることに気づいた。
俺は、雨月に記憶を取り戻させたいだろうか?
俺のことを全く覚えていないのは遣る瀬ないものがあるし、寂しいという感情だって持っている。
それでも、「せっかく、あの男のことも忘れているのに」と考えている自分がいるのも確か。
自分がどんな境遇で、裏切られて、傷ついて、我慢して育ってきたかを、知らない方が幸せなんじゃないかという思いが湧き上がってくる。
『…そういえば、CMどころかドラマや本もピンとくるものが無いですね。あまりメディアに興味が無かったのでしょうか』
「いや…それも人並み、だと思う。ホラーは苦手だったが映画もドラマもそれなりに見ていた。ミステリーが好きで、特定の俳優やアイドルが出てるからって理由で見ることは無かったと思う。本は、最近は読んでないな。高校生までは色々な文学作品を読んでた」
彼女に、何を伝えようか、情報を選んでいる。
ミステリーは好きだけど、血生臭いサスペンスとかドロドロの昼ドラは苦手、…不倫や家庭問題を取り扱いがちなジャンルは避けていたとは伝えられなかった。
「人並みじゃなかったものは、やっぱり料理なんだよな。高校生の時からずっと、俺の弁当も作ってくれてた。今も、そういうのが学べる大学に通ってる」
立ち上がって、雨月が使っているレシピノートとクロッキー帳をテーブルに持ち出した。
レシピノートはレシピとして完成してるやつ、クロッキー帳は構想とか案とかイメージ図みたいな具体的でないやつが書き溜められている。
『クロッキー帳の………カルパッチョに使う魚介とバーニャカウダに使う野菜の候補リスト、フリッターにする魚の種類とソースの種類、ビーフシチューは確定で…何かのお祝いですか?』
「先月の、俺の誕生日のメニューだな。20歳になったから、酒も飲むっていって、赤と白どっちのワインにも合う料理を考えてくれてた。……こんなに書き出してるとは思わなかったが。」
『このメニューに決めるまでの案も決まってからの構図というかラフ画というか…凄い数ですね』
「没にしたメニューも美味そうなのばっかだな。サラミのピンチョスも、かぼちゃのキッシュも、ミートボールも鮭のクリーム煮も。…まだ食ったこと無いものがあるなんて驚いた。いつか作る予定だったのかもな」
『…』
「他にもあるぜ?おせち料理に郷土料理、海外の料理もあったな」
クロッキー帳もレシピノートも、寧ろ俺が楽しかった。
懐かしい。
高校生の、まだ付き合う前に作ってくれた野菜スープや誕生日メニューのトルティーヤなんかまでメニューが残ってる。
雨月は俺が勝手に見ることを予想していないのか、見られても構わないと思っているのか『真君がおかわりしてくれた、多めに作っても◎』『真君は青魚のマリネは缶詰めのが好み。生のイワシは☓』『真君と一緒に食べたいものリスト』そんなメモが至る所に書いてあった。
眼の前の彼女は、そこまで読んでいるかわからない。
ペラペラとページを捲っては、小首を傾げるばかりだった。
なんて声をかけようか。次の話題を探していれば、『ぐうぅぅ』と、控えめに彼女の腹が鳴いた。
「…こんな時間か、夕飯だな」
『あ、えっと、』
恥ずかしそうに腹を押さえる雨月が新鮮で、思わず笑ってしまう。
俺の知ってる彼女は素直に『お腹空いちゃった』と照れ笑いをしただろう。
でも、付き合う前だったら、こんな反応だったかもしれない。
俺が笑ったことで一層恥ずかしそうな彼女を連れて、キッチンへ向かった。
キッチンへ来たが、これが一番の難点だ。
俺は料理ができない。
冷蔵庫と野菜室にあった雨月が下拵えをしたものは、彼女が入院している数日で食べ切ってしまった。
そもそも、それだって。多分揚げるだけの串カツが作れずフライパンで無理やり焼いた。焦げたり生だったりして、全然思った味にはならなかった。最初から焼くだけの柳葉魚も半分炭になったし、鮭のホイル焼きは付け合せのレモンの味しかしなかった。
生で食べれる野菜は重宝して。トマトとレタス、キャベツは使い切ってしまった。
そういえば、米も炊いてない。
「あー……どうするか」
冷蔵庫には、卵4つとハム1パック。ピクルスと紅生姜の瓶、牛乳と調味料。
野菜室には大根と白菜。生姜が一欠。
「冷凍庫は、あんまり使ってなかった気がするんだよな」
冷凍庫は、製氷皿とアイスクリーム。
ブロッコリー、コーン、エビ、イカのパック。……あるもので、何が作れるんだ?
いや、あるものを使ったメニューを知らない訳じゃないんだが、今から俺が作ったら日付が変わる。
『…これ、下にもう一段ありませんか?』
「…あるわ。忘れてた」
普段触らないって怖いよな。冷凍庫の底を二段にしているのを失念していた。
そんな俺を見兼ねたのか、彼女が冷凍庫を漁り始める。
『まめにストックしてるんですね』
「下処理の終わった食材をストックするとは言ってたな。匂い移りしやすいから、料理を冷凍しても長くは持たせられないって」
それからふと、手を止めた。
『本当に、好きだったんですね』
「そうだな。料理系の大学に通ってるくらいだし」
『いえ、あの、私が、貴方を』
「…」
『一食ずつ保存してあるお弁当、真さん宛の付箋がついてます』
"真君へ。いっぱい食べたい時の豚丼"
"真君へ。眠れない時の鶏と卵の雑穀粥"
"真君へ。寒い日のポトフとドリア"
"真君へ。辛いものが食べたい時の担々麺"
"真君へ。風邪を引いた時の葱生姜粥"
"真君へ。貴方が褒めてくれた鶏の唐揚"
"真君へ。初めて一緒に食べたうどん"
7種類、2食ずつ。
二人暮らしにしては大きい冷蔵庫の冷凍室で、それらはかなりのスペースをとっていた。
全てに、作った最近の日付と、どれだけ温めたらいいかを書いた付箋も付いていて。
「…ああ。俺には勿体ないくらい、愛してくれてた」
『…』
「俺も、同じだけ、それ以上に、大切に思ってる」
こんなに、雨月が愛しい。
「……うどんにするか。今の雨月にとっては、これが俺と"初めて一緒に食べたうどん"になるもんな」
1食分ずつ、丼に移して電子レンジで温めながら思う。
日付を鑑みるに、雨月はあの忌々しい封筒が来てから、この弁当のストックを作り始めた。…いや、もっと前から作っていたのかもしれないけど、ここで一新したのだと思う。
自分に、何かあっても、俺が困らないように。
7種×2食なのは、彼女と俺の分じゃない。
朝飯を食べない俺の、昼と夜の分。でなければ、14食全てが俺宛の付箋なわけない。
『真さん、台拭きやお箸はどちらに?』
「こっちだ」
真意を知る彼女の記憶が眠っているのだからしょうがないけれど。
歯がゆい。遣る瀬ない。いじらしい。
全部纏めて抱きしめたいのに、それが出来ない。
…
……
………
『…美味しいです』
「そうだな」
正面に座る彼女は、頬を緩ませてうどんを啜っている。
いつもは彼女が『おいしい?』と言葉にせずとも首を傾げるので、ただニコニコと食事をしているのも、やはり新鮮だった。
それでも、彼女とする食事は「美味しい」と感じるのだから。仕草や言葉遣いに違和感を覚えても、俺は彼女を"雨月"と認めているのだろう。
食べ終えた食器を洗おうとするのを制して、彼女からスポンジを取り上げる。
「今日は、風呂入って休めよ。疲れただろ」
『……はい、お言葉に甘えて、そうします』
そして、風呂場へ向かう彼女を見送って思い至る。
(アイツ、一人で眠れるだろうか)
そしてすぐに解決した。
(ああ、大丈夫か。病院では一人だったし、隈があるとか睡眠不足とか、そんな感じじゃなかった)
家にはベッドが1つ。
ダブルサイズだから離れて寝るほどのゆとりはない。…別々に寝ることなんて予想していなかったし、替えの布団や客用なんてものもない。
俺がリビングのソファで寝れば済む話だ。
どのくらい続くのかは解らないが。
『真さーん…』
リビング用のハーフケットとバスタオルでしのげるだろうか…なんて考えていれば。
か細く俺を呼ぶ声が脱衣場から聞こえてくる。
「なんだ?」
『バスタオルは、どれを使っていいんでしょうか?』
「鏡の横にあるラックに入ってる、柄物は雨月の分だ。どれでもいい」
『柄物…シマエナガとかですか?』
「ああ。鳥でも花でも好きに使ってくれ」
脱衣場のドア越しに会話をするなんて、初めてだ。
記憶が無いって大変だな。もっと細かく伝えないと、彼女は不便かもしれない。
『真さーん…』
「どうした?」
『替えの服、忘れました…』
「………とってくるから、文句言うなよ」
普段なら据え膳なんだがな!
そのままタオルに包んで寝室まで連れ帰ってたはずだ。
悶々としながら、2階から彼女の着替えを選んで運ぶ。
パジャマを兼ねたフロントオープンのワンピースと、見覚えのある中で一番シンプルな下着一式。
「ドアの前に置いとくからな」
廊下に置いて、わざと足音を立てて脱衣場から遠ざかる。
暫くして、申し訳なさそうに風呂上がりの彼女がやってきた。
『…すみません』
「いいって。俺もそこまで気が回らなかった」
見慣れた、彼女へ贈った部屋着のワンピース。
袖のフリルを摘んで、彼女は恥ずかしそうに口元を隠す。
『これ、ルームウェアだったんですね。あんまり可愛いから、躊躇してしまいました』
「最初に着た時もそんなこと言ってたぞ。可愛すぎて外にも着ていけそうだって」
『そうかもしれません。でも、なんていうか、可愛すぎて逆に外には出れないかも…です。えっと、気の許せるとこでないと着れないといいますか…』
「……それは、最初にお前が着たときに言った言葉だな。あんまり似合うから、俺以外の前で着ないでくれって頼んだ」
『…っ』
「お前の意図したことじゃないんだろうが、覚えて無くても全部忘れてる訳じゃないみたいで、少し安心した。似合ってるよ、雨月」
上手く微笑めただろうか。
感情がぐちゃぐちゃだ。
思い出してくれ、あの時の思い出を共感していつもみたいに笑ってくれ。
そう願っているのに。
今みたいに、何も知らずに はにかんでいてくれ。
辛いことなんて何も思い出さずにいてくれ。
そう、心の何処かで歯止めがかかる。
「………風呂入ってくる。ベッド、一人で使ってくれ。俺は一階で寝るから」
『は、はい』
「待ってなくていいぞ。よく休めよ、おやすみ雨月。また、明日な」
『ええ、おやすみなさい』
振り切るように、話題を変えて。
階段を上っていく彼女を見送ってから風呂場へ向かった。
熱い湯にどっぷり浸かってみたものの、ゆっくりする気分でもなくて。結局シャワーで済ませてリビングへ戻る。
ソファへ沈んで、噛み殺したような溜息が出た。
そもそも雨月が怪我をしたことから腹立たしいのに、記憶まで奪っていきやがる。
これは雨月のせいじゃないから、どこにもぶつけられない苛立ちだ。
…そう、雨月は何も悪くなくて。
この状況に戸惑っているのも当然彼女で。
そんな彼女と、築き上げたはずの関係が残ってなくて。
…それを憂いているのは俺だけで。
今日、一番感じたことはなんだっただろう。
思い出して欲しいか、忘れていて欲しいか、だったら。思い出して欲しいと思ったことの方が多かったかもしれない。
でも、それ以上に。
彼女を抱きしめられないことが、触れられないことが、歯がゆいと思った。
恋人になる前から触れ合うことは普通だった俺達には、意識して触れないことがとても窮屈で。
(片想いって、多分こんな感じなんだろうな)
幼馴染でもない、共依存もない、恋愛感情もない、そんな関係になったことは無かったから。雨月に対して一方的に好意を募らせている状況が初めてだった。
(クッソ、寝れねぇのは俺の方だわ)
まだ寒い2月。暖房をつけたままハーフケットに包まって。
無理矢理瞼をきつく閉じた。
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体調が心配だったのは勿論だが、あの忌々しい封筒の処理をする時間が欲しかった。
然るべきように落ち着くし彼女には金輪際関わらないよう手を打ってある。
腹立たしさこそ残るが、結果的に彼女と更に縁遠くできたのは良かったと思うことにした。
「ただいま」
『ただいま、です』
そして、記憶のない彼女を、病院から連れて帰ってきた。
家への帰り道は解らないが電車には乗れる。
普段使ってるスーパーは知らないが、セルフレジは使える。
どれが家の鍵かは解らないが、解錠と施錠はできる。
そういう記憶喪失の彼女。
靴を揃えて脱いで、狭い廊下から広い1LDKに抜けて驚いた。
『…キッチン、広いですね。いや、リビングもですが』
「元々は喫茶店だったところにフローリングを敷いたらしい。だから台所も広くて、大きめの備え付けのオーブンまである。キッチンカウンターはその名残だな。…よく、ここで雨月が調理してるのを眺めてた」
『私は、料理ができるのですか?』
「得意だった。俺は、お前の料理より美味い飯を知らない」
『………』
正確には、雨月の料理しか食べられなかったのだけど。普通は共依存なんて受け入れないだろうから、黙っていた。
「俺は全く料理が出来なくてな。手伝うのはサラダ用のレタスを千切るような簡単なやつか、ホイップクリームやメレンゲの泡立てなんかの力仕事くらいだ」
『ホイップクリームということは、お菓子も作ってたんですか?』
「たまにな。雨月自身は菓子作りは苦手だと言っていたが…惣菜に比べてって意味だろうな。普通に美味かったぞ、ケーキもクッキーもゼリーも」
調理器具をぐるりと見渡した彼女は、小さく溜息を零した。
『ごめんなさい…私は、料理が出来ないと思います』
「謝ることはないだろ。やってみればいいし、出来なくたって暫くは困らない筈だ」
俺はともかく、彼女は外食でもスーパーの惣菜でもいいのだから。
「廊下の奥は洗面所と風呂がある。二階は、ここの扉を開けると階段がある」
『階段の前に扉?』
「これも喫茶店の名残だな。2階がプライベートスペースというか居住空間だったから。今は無いが鍵もあった」
階段を上がって、寝室。比較的広い部屋と狭い部屋の二部屋あるが、広い方が二人の寝室で、もう片方は衣装部屋…ウォークインクローゼットみたいなものだ。
収納もあるが狭いので、入っているのは使わないけど捨てられないものや捨ててはいけない書類…卒業アルバムとか契約書とかを仕舞っている。
寝室にはダブルサイズのベッドと小さなサイドテーブルが2つ、他には質素な飾り棚しかない。
飾り棚だって、並んでいるのは婚約指輪の入っていた化粧箱だけだ。
「そっち側が雨月の服とか鞄。流石にカラーボックスの中までは共有してないから、適当に漁って着替えてくれ。洗濯物はそのカゴにいれて下まで持ってきて、脱衣所に洗濯機あるから案内するわ。……ゆっくりでいいぞ、先に降りてるから何かあれば呼んでくれ」
彼女を残して1階に戻ったのには理由がある。
着替えを覗かないのは当然として、彼女の日記帳の隠し場所だと睨んでいるから。
彼女は先月の俺の誕生日に『自分も使ってるから』といって十年日記を渡してきた。
俺の日記は寝室のサイドテーブルの引き出しに入っていて、彼女も知っている。けれど、彼女の日記はそこに無い。そもそも、彼女が日記を書いているところを見たことが無い。
ともすれば、俺が覗かない場所なんて服や下着を仕舞う場所しか思い当たらなかった。
彼女は、日記に嬉しいことも悲しいことも書けるようになったと言っていた。それでいて『真君ばっかり』とまで言っていたから。何か思い出せるといい、なんて淡い期待もある。
『……あの、これは部屋着で合ってますか?』
暫くして彼女はカゴを携え、少し縒れたパーカーとスウェットで降りてきた。
「ああ」
本当なら、最近は20歳の誕生日に贈ったワンピースを始終着ていた。
『可愛すぎて外でも着れる』と当時本人が言っていたから、部屋着には見えなかったのかもしれない。
…
……
それから、一通り家のことを説明し終わって。
コーヒーを携えてダイニングテーブルについた。
家にはインスタントコーヒーもあるしレギュラーコーヒーとサイフォンとミルもある。
俺自身はインスタントコーヒーしか淹れられないが、雨月はサイフォンを使って淹れてくれた。
アイツはブラック飲めないどころか腹壊すから大して飲めないって言って、俺にブラックを差し出しながら自分はコーヒーミルクを飲んでいた。
「……コーヒーが苦手なわけじゃねえのか」
『えっと、普段はミルクと砂糖を?』
「ああ。コーヒーフレッシュじゃなくて牛乳をガバガバ入れてた。寧ろ牛乳にコーヒーの風味を足してるだけだったな。飲み過ぎると腹壊すって言ってて、アイスコーヒーは飲めないみたいだった」
今、眼の前にいる雨月は、何も入れない真っ黒なホットコーヒーを普通に啜っている。
何も入れなくても飲めるみたいだ。
『体質は変わらないでしょうから…アイスコーヒーは控えますね。苦味というか、コーヒーが不得手な訳ではなさそうです』
今までは両手でカップを持っていた彼女が、片手でカップを持ちソーサーに手を添えている姿も見慣れない。
容姿は変わらないのに、好みや細やかな所作が違和感を生む。
彼女なのに、彼女じゃない。
「……」
『えっと、私は甘いものが好きだったのですか?』
「好きだった。って言っても、目が無いって程じゃないな。人並みに好きで、疲れた時に食べたいとかデザートは別腹とか、そういう感じ。…洋菓子も和菓子も、焼き菓子も生菓子も全部美味そうに食べてた」
記憶にある雨月は、ココアを好んでいたり、みかんジャムにご満悦だったり。
一方で、コーヒーの苦味やワインの渋味には顔を顰めている。
「…料理で好きなのは、グラタンだった」
『グラタン…何か思い入れが?』
「さっきも言ったが俺は料理が殆どできない。唯、雨月の誕生日だけはグラタンを焼いてる。…普段やらないとか、そうじゃなくて、一人で用意すると半日以上かかるんだ。日常で費やすには効率悪いだろ。きっかけは……CMが美味しそうとかだった」
ここまで話していて、自分の中にせめぎ合いが起きていることに気づいた。
俺は、雨月に記憶を取り戻させたいだろうか?
俺のことを全く覚えていないのは遣る瀬ないものがあるし、寂しいという感情だって持っている。
それでも、「せっかく、あの男のことも忘れているのに」と考えている自分がいるのも確か。
自分がどんな境遇で、裏切られて、傷ついて、我慢して育ってきたかを、知らない方が幸せなんじゃないかという思いが湧き上がってくる。
『…そういえば、CMどころかドラマや本もピンとくるものが無いですね。あまりメディアに興味が無かったのでしょうか』
「いや…それも人並み、だと思う。ホラーは苦手だったが映画もドラマもそれなりに見ていた。ミステリーが好きで、特定の俳優やアイドルが出てるからって理由で見ることは無かったと思う。本は、最近は読んでないな。高校生までは色々な文学作品を読んでた」
彼女に、何を伝えようか、情報を選んでいる。
ミステリーは好きだけど、血生臭いサスペンスとかドロドロの昼ドラは苦手、…不倫や家庭問題を取り扱いがちなジャンルは避けていたとは伝えられなかった。
「人並みじゃなかったものは、やっぱり料理なんだよな。高校生の時からずっと、俺の弁当も作ってくれてた。今も、そういうのが学べる大学に通ってる」
立ち上がって、雨月が使っているレシピノートとクロッキー帳をテーブルに持ち出した。
レシピノートはレシピとして完成してるやつ、クロッキー帳は構想とか案とかイメージ図みたいな具体的でないやつが書き溜められている。
『クロッキー帳の………カルパッチョに使う魚介とバーニャカウダに使う野菜の候補リスト、フリッターにする魚の種類とソースの種類、ビーフシチューは確定で…何かのお祝いですか?』
「先月の、俺の誕生日のメニューだな。20歳になったから、酒も飲むっていって、赤と白どっちのワインにも合う料理を考えてくれてた。……こんなに書き出してるとは思わなかったが。」
『このメニューに決めるまでの案も決まってからの構図というかラフ画というか…凄い数ですね』
「没にしたメニューも美味そうなのばっかだな。サラミのピンチョスも、かぼちゃのキッシュも、ミートボールも鮭のクリーム煮も。…まだ食ったこと無いものがあるなんて驚いた。いつか作る予定だったのかもな」
『…』
「他にもあるぜ?おせち料理に郷土料理、海外の料理もあったな」
クロッキー帳もレシピノートも、寧ろ俺が楽しかった。
懐かしい。
高校生の、まだ付き合う前に作ってくれた野菜スープや誕生日メニューのトルティーヤなんかまでメニューが残ってる。
雨月は俺が勝手に見ることを予想していないのか、見られても構わないと思っているのか『真君がおかわりしてくれた、多めに作っても◎』『真君は青魚のマリネは缶詰めのが好み。生のイワシは☓』『真君と一緒に食べたいものリスト』そんなメモが至る所に書いてあった。
眼の前の彼女は、そこまで読んでいるかわからない。
ペラペラとページを捲っては、小首を傾げるばかりだった。
なんて声をかけようか。次の話題を探していれば、『ぐうぅぅ』と、控えめに彼女の腹が鳴いた。
「…こんな時間か、夕飯だな」
『あ、えっと、』
恥ずかしそうに腹を押さえる雨月が新鮮で、思わず笑ってしまう。
俺の知ってる彼女は素直に『お腹空いちゃった』と照れ笑いをしただろう。
でも、付き合う前だったら、こんな反応だったかもしれない。
俺が笑ったことで一層恥ずかしそうな彼女を連れて、キッチンへ向かった。
キッチンへ来たが、これが一番の難点だ。
俺は料理ができない。
冷蔵庫と野菜室にあった雨月が下拵えをしたものは、彼女が入院している数日で食べ切ってしまった。
そもそも、それだって。多分揚げるだけの串カツが作れずフライパンで無理やり焼いた。焦げたり生だったりして、全然思った味にはならなかった。最初から焼くだけの柳葉魚も半分炭になったし、鮭のホイル焼きは付け合せのレモンの味しかしなかった。
生で食べれる野菜は重宝して。トマトとレタス、キャベツは使い切ってしまった。
そういえば、米も炊いてない。
「あー……どうするか」
冷蔵庫には、卵4つとハム1パック。ピクルスと紅生姜の瓶、牛乳と調味料。
野菜室には大根と白菜。生姜が一欠。
「冷凍庫は、あんまり使ってなかった気がするんだよな」
冷凍庫は、製氷皿とアイスクリーム。
ブロッコリー、コーン、エビ、イカのパック。……あるもので、何が作れるんだ?
いや、あるものを使ったメニューを知らない訳じゃないんだが、今から俺が作ったら日付が変わる。
『…これ、下にもう一段ありませんか?』
「…あるわ。忘れてた」
普段触らないって怖いよな。冷凍庫の底を二段にしているのを失念していた。
そんな俺を見兼ねたのか、彼女が冷凍庫を漁り始める。
『まめにストックしてるんですね』
「下処理の終わった食材をストックするとは言ってたな。匂い移りしやすいから、料理を冷凍しても長くは持たせられないって」
それからふと、手を止めた。
『本当に、好きだったんですね』
「そうだな。料理系の大学に通ってるくらいだし」
『いえ、あの、私が、貴方を』
「…」
『一食ずつ保存してあるお弁当、真さん宛の付箋がついてます』
"真君へ。いっぱい食べたい時の豚丼"
"真君へ。眠れない時の鶏と卵の雑穀粥"
"真君へ。寒い日のポトフとドリア"
"真君へ。辛いものが食べたい時の担々麺"
"真君へ。風邪を引いた時の葱生姜粥"
"真君へ。貴方が褒めてくれた鶏の唐揚"
"真君へ。初めて一緒に食べたうどん"
7種類、2食ずつ。
二人暮らしにしては大きい冷蔵庫の冷凍室で、それらはかなりのスペースをとっていた。
全てに、作った最近の日付と、どれだけ温めたらいいかを書いた付箋も付いていて。
「…ああ。俺には勿体ないくらい、愛してくれてた」
『…』
「俺も、同じだけ、それ以上に、大切に思ってる」
こんなに、雨月が愛しい。
「……うどんにするか。今の雨月にとっては、これが俺と"初めて一緒に食べたうどん"になるもんな」
1食分ずつ、丼に移して電子レンジで温めながら思う。
日付を鑑みるに、雨月はあの忌々しい封筒が来てから、この弁当のストックを作り始めた。…いや、もっと前から作っていたのかもしれないけど、ここで一新したのだと思う。
自分に、何かあっても、俺が困らないように。
7種×2食なのは、彼女と俺の分じゃない。
朝飯を食べない俺の、昼と夜の分。でなければ、14食全てが俺宛の付箋なわけない。
『真さん、台拭きやお箸はどちらに?』
「こっちだ」
真意を知る彼女の記憶が眠っているのだからしょうがないけれど。
歯がゆい。遣る瀬ない。いじらしい。
全部纏めて抱きしめたいのに、それが出来ない。
…
……
………
『…美味しいです』
「そうだな」
正面に座る彼女は、頬を緩ませてうどんを啜っている。
いつもは彼女が『おいしい?』と言葉にせずとも首を傾げるので、ただニコニコと食事をしているのも、やはり新鮮だった。
それでも、彼女とする食事は「美味しい」と感じるのだから。仕草や言葉遣いに違和感を覚えても、俺は彼女を"雨月"と認めているのだろう。
食べ終えた食器を洗おうとするのを制して、彼女からスポンジを取り上げる。
「今日は、風呂入って休めよ。疲れただろ」
『……はい、お言葉に甘えて、そうします』
そして、風呂場へ向かう彼女を見送って思い至る。
(アイツ、一人で眠れるだろうか)
そしてすぐに解決した。
(ああ、大丈夫か。病院では一人だったし、隈があるとか睡眠不足とか、そんな感じじゃなかった)
家にはベッドが1つ。
ダブルサイズだから離れて寝るほどのゆとりはない。…別々に寝ることなんて予想していなかったし、替えの布団や客用なんてものもない。
俺がリビングのソファで寝れば済む話だ。
どのくらい続くのかは解らないが。
『真さーん…』
リビング用のハーフケットとバスタオルでしのげるだろうか…なんて考えていれば。
か細く俺を呼ぶ声が脱衣場から聞こえてくる。
「なんだ?」
『バスタオルは、どれを使っていいんでしょうか?』
「鏡の横にあるラックに入ってる、柄物は雨月の分だ。どれでもいい」
『柄物…シマエナガとかですか?』
「ああ。鳥でも花でも好きに使ってくれ」
脱衣場のドア越しに会話をするなんて、初めてだ。
記憶が無いって大変だな。もっと細かく伝えないと、彼女は不便かもしれない。
『真さーん…』
「どうした?」
『替えの服、忘れました…』
「………とってくるから、文句言うなよ」
普段なら据え膳なんだがな!
そのままタオルに包んで寝室まで連れ帰ってたはずだ。
悶々としながら、2階から彼女の着替えを選んで運ぶ。
パジャマを兼ねたフロントオープンのワンピースと、見覚えのある中で一番シンプルな下着一式。
「ドアの前に置いとくからな」
廊下に置いて、わざと足音を立てて脱衣場から遠ざかる。
暫くして、申し訳なさそうに風呂上がりの彼女がやってきた。
『…すみません』
「いいって。俺もそこまで気が回らなかった」
見慣れた、彼女へ贈った部屋着のワンピース。
袖のフリルを摘んで、彼女は恥ずかしそうに口元を隠す。
『これ、ルームウェアだったんですね。あんまり可愛いから、躊躇してしまいました』
「最初に着た時もそんなこと言ってたぞ。可愛すぎて外にも着ていけそうだって」
『そうかもしれません。でも、なんていうか、可愛すぎて逆に外には出れないかも…です。えっと、気の許せるとこでないと着れないといいますか…』
「……それは、最初にお前が着たときに言った言葉だな。あんまり似合うから、俺以外の前で着ないでくれって頼んだ」
『…っ』
「お前の意図したことじゃないんだろうが、覚えて無くても全部忘れてる訳じゃないみたいで、少し安心した。似合ってるよ、雨月」
上手く微笑めただろうか。
感情がぐちゃぐちゃだ。
思い出してくれ、あの時の思い出を共感していつもみたいに笑ってくれ。
そう願っているのに。
今みたいに、何も知らずに はにかんでいてくれ。
辛いことなんて何も思い出さずにいてくれ。
そう、心の何処かで歯止めがかかる。
「………風呂入ってくる。ベッド、一人で使ってくれ。俺は一階で寝るから」
『は、はい』
「待ってなくていいぞ。よく休めよ、おやすみ雨月。また、明日な」
『ええ、おやすみなさい』
振り切るように、話題を変えて。
階段を上っていく彼女を見送ってから風呂場へ向かった。
熱い湯にどっぷり浸かってみたものの、ゆっくりする気分でもなくて。結局シャワーで済ませてリビングへ戻る。
ソファへ沈んで、噛み殺したような溜息が出た。
そもそも雨月が怪我をしたことから腹立たしいのに、記憶まで奪っていきやがる。
これは雨月のせいじゃないから、どこにもぶつけられない苛立ちだ。
…そう、雨月は何も悪くなくて。
この状況に戸惑っているのも当然彼女で。
そんな彼女と、築き上げたはずの関係が残ってなくて。
…それを憂いているのは俺だけで。
今日、一番感じたことはなんだっただろう。
思い出して欲しいか、忘れていて欲しいか、だったら。思い出して欲しいと思ったことの方が多かったかもしれない。
でも、それ以上に。
彼女を抱きしめられないことが、触れられないことが、歯がゆいと思った。
恋人になる前から触れ合うことは普通だった俺達には、意識して触れないことがとても窮屈で。
(片想いって、多分こんな感じなんだろうな)
幼馴染でもない、共依存もない、恋愛感情もない、そんな関係になったことは無かったから。雨月に対して一方的に好意を募らせている状況が初めてだった。
(クッソ、寝れねぇのは俺の方だわ)
まだ寒い2月。暖房をつけたままハーフケットに包まって。
無理矢理瞼をきつく閉じた。
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