二月十四日の高熱
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「まあ! リッカってば、それってもしかして、もしかして……! あれでしょ!
バレンタインチョコ!」
「ちがいます」
……ちがいます、ともう一度、今度は強めに言い切ってみせる。
実際、今日持参したものはチョコレートで間違いないのだけど。
輝くような目でそれを見つめている防衛担当AIのスフィンクスにひとつ弁明をしないことには、どうやら今日のヘリオポリスの地は踏めそうにないらしい。
咳払いの後に、口を開く。とりあえず言葉を紡ぐ。
──これは、あれです。
なんとも中身のない文章になってしまったが、視線はこちらを向いてくれたので言葉を続ける。
……なにせ相手が相手なのもので、そうなるとたかだか菓子切れひとつにも意味合いが生じてしまう。
つまるところ、供物とか、捧げ物だとか、そういう。
もっとも、ヘリオポリスの神々がそういった類のものを要求するようなことはないのだけれど。
そうは言っても、たとえ彼らが人間に対して友好的だとしても、それはそれ。
彼が時空管理機構ヘリオポリスの管理AIであることに変わりはなく。管理AIとはすなわち、この仮想世界ALICEにおける神様であり。
で、あれば。ある日突然いちユーザーがなんの前触れもなく手渡しするものにもなにかしらの正当な理由があってしかるべきだとわたしは思う。
まあつまり、つまりだ。
僭越ながら、これは日頃の感謝、労い、お見舞い、そういった気持ちの、ほんの表れである。
神様に対して菓子切れひとつなんて身の程知らずかもしれないけど、きっと彼なら許してくれるだろう。
いつだって感謝はしているつもりだけど、だからこそ贈り物のひとつだってしたいこともある。
……と、いうわけで。
これに深い意味はない。断じてない。
これはたまたまラッピングしたチョコレートというだけであって、そして今日が二月十四日というだけであって、別にこれになにか呪いじみたものをかけてなんかない。ないったらない。
「ただの、手土産です!」
……といった力強い主張が言葉の大群となって、滑らかに口を衝いて出た。
大きく息を吐きながらここまで言う必要があっただろうかと一瞬顧みるが、ここまで言わなければ彼女はわかってくれないだろうと強く思い直す。
スフィンクスはにこやかそのものといった様子で耳を傾けていた。
わかっていただけたのだろうか。だとしたら彼女は道を示してくれるはずだった。
……が、そうはならなかった。
「本当に?」
にこやかな笑顔のまま、彼女が迫る。いや、迫ったように見えた。
心なしか笑顔の圧が強く感じられて、言葉も詰まる。
そんな調子のまま彼女も言葉を続けた。
「ねえ、本当に? 本当にそれはただのお土産なの?
リッカさん手ずからラッピングしたように見えるけれど……もしかして中身も手作りなのかしら?
よく見たら飾りも凝っているのね。とても素敵だと思うわ。渡したい相手への気持ちが籠っているのがわかるもの。
それで……本当に今日はヘリオポリスの誰かにただお土産を渡しに来ただけなの?」
傍目には愛らしい笑顔で世間話をしているように見えるのだろうが、おそらくはスフィンクス本人もそのつもりなんだろう。
他意などなく、ただ彼女は彼女らしくしているだけにちがいない。
スフィンクスが裏表のない信頼できるAIというのは、わたしもよく知っている。
……が、どうも詰め寄られている気がしてならない。多分に自分自身の気持ちの問題でだ。
いつぞやアカデミアあるあるとして聞いた研究発表会での恐怖の文言こと「素人質問で恐縮ですが」を言われた彼らの気持ちとはこんな感じなのだろうか。なるほど、耳が痛い話だ。
「嘘は言ってないし……」
そう、嘘はひとつも言っていない。
蚊の鳴くような声だとしてもそれは誓って言えることなのだが……いつの間にか逸らしていた目線の先にまたスフィンクスの笑顔が映る。
わたしの顔を覗き込んで、彼女は言った。空にも神にも聞かせられない内緒話のように、少し抑えた声で。
「渡したい相手って……オシリス様?」
形容し難い声が出た。
なんでわかったの、一言もその名前は出さなかったのに。そう言葉にする前にスフィンクスの言葉が被さる。
やはり彼女は微笑んでいた。呆れられているのかと思ったけれど、目を細めて笑う彼女の姿はまるで見守るような、慈愛を感じさせる穏やかなものだった。
彼女の視線は、丁寧に丁寧に包まれた手元の菓子に向いていた。
「オシリス様を想って作ったのなら、リボンはその色になるだろうなって思ったの。
……ただのお見舞いならタイミングなんていくらでもあるのに、こんな日に来たのだから、そういう意味だと思われるのは自然じゃない?」
今日のスフィンクスはやたらと突っ込んでくる。
いかにもバレンタインという日の空気が好きそうな彼女らしいといえばらしいのだが、今日に限っては、いや今日だからこそか、それがどうにも門番の試練に思えてならない。
風船の空気が抜けていくような、そんな気持ちになってきた。
──あの優しい神を困らせることだけは、絶対にしたくない。
もとより独りよがりと糾されてもしかたない感情がより一層に気力を奥底まで落ち込ませる。
深層には弱気な自分自身が横たわっていた。無意識にこぼれた言葉は、それが発したものだった。
「……迷惑……かな」
匿名希望でスフィンクスに預けるなり、もっと別のものにするなり……そもそも渡さない、という選択肢もあった。
これまでに何度も頭を過って、結局選ばなかった手段がすべて直前になって戻ってくる。
ここで引き返すのが一番簡単だろうかと、スフィンクスの小さな足をぼんやり見ながら考えていた。
ぺちん、と音があったかどうか、そんなごく軽い衝撃が両頬にあたえられた。
床を向いていた頭がスフィンクスの両手によって持ちあげられる。
そして言葉を発する間もなく肩に彼女の手が置かれたかと思うと、視界がぐるり変化した。
えいやっ。かわいらしい声が聞こえた。
そういう遊具のように百八十度回転させられて、背後に位置したスフィンクスに今度は肩をぽんと押される。
二歩三歩と蹈鞴を踏んだ先には、過去に何度か通った廊下……ヘリオポリスの管理AIが座す、施設最深部へと続く道が広がっていた。
驚いて振り向くと、スフィンクスは元気よく手を振っていた。
レッツゴー! ……と言っている。
防衛担当AIからの立ち入り許可と受け取っていいのだろう。加えると、多分、応援されている。
「迷惑なわけないじゃない。
そんなのリッカさんだってわかってるからこそ、ここまで来たんでしょ?
がんばってね。きっと喜んで受け取めてくれるから!」
いつも以上に輝くような笑顔と、弾んだ声だった。
……同じヘリオポリス所属AIである彼女がそう言うのならきっと、きっと大丈夫なんだろう。
感謝を込めて手を振り返して、軽い足取りのまま彼女に背を向ける。自然と頬は心と一緒に緩んでいた。
そうだ、彼は贈り物を無下にするような神じゃない。それが好意からくるものであれば、なおのこと。
自惚れなんかじゃなく、彼はそういう神だ。ALICEを見守り、人を慈しむ。
わたしは彼のそんなところに──……。
……日々、感謝しているわけだ。
どんな心持ちだろうと、することは決まっている。いつもありがとうございますとただ一言述べて、手渡すだけ。
難しいことなんてなにもない。普段と同じように接したらいいのだから。
彼と話をするのはこれがはじめてではないし、少なくとも普段と同じようにと言えるだけの積み重ねはある。
だからそう、過度に緊張なんてしなくていい。する必要はない。するわけがない。
だというのに。
ベリアルに話せば笑い飛ばしてくれるだろうか。
……まったくいつも通りにいかなかったことを。
色鮮やかな床面がわたしを直視していた。わたしも真上から床の模様を見ていた。
九十度。それは直角を表す数字であり、今のわたしの姿勢である。
畏れ多くも神を前にした民の姿勢としてなら完璧だった。
言うまでもなく、いつも通りという言葉からは遠くかけ離れてしまっている。
これまで彼相手にそんなへりくだったお辞儀をした記憶は存在しない。だって彼はその立場の割にあんまりかしこまったことを望んだりしないのだから。
だというのに。だというのにだ。
通された部屋で彼を待っていた。
いつも通りに、いつも通りにと自分に言い聞かせながら。
なぜかいつも通りじゃない心臓を抑えるべく深呼吸を繰り返しながら。
そう時間の経たないうちに彼が現れて、彼はいつも通り、こちらに向けて優しげに声をかけた。
最初の返事が裏返ったのは深呼吸の途中からだったと思いたい。
もうその時点でのたうち回るほど恥ずかしいのだけど、その後が問題だった。
こんにちは、今日もいい天気ですね。そう言うくらいの気軽さで、わたしは目的を果たしたつもりだった。
いつもありがとうございます。こちらほんの気持ちです。もしよければ召しあがっていただけたら幸いです。
そんな感じのことを口にしたはずだった。
そう言いたかったのだ。
そして口を開いた。
そこで、直前になってふとスフィンクスの無邪気な言葉が思考の前面に現れた。
その不意の出来事にうっかり気を取られてしまって、そして。
一瞬ですべてが過去形になった。
あれだけ必死になってスフィンクスに説いた心構えと共に。
吃りに吃って、焦りが焦りを呼んで、そうなるともう手がつけられない。口にしたものが文章になっていたかどうかも自信がない。
情けないことに後半は消え入りそうな声だったのを自覚している。
挙げ句の果てに、なぜかこの体勢だ。
直角九十度の深々としたお辞儀で、両腕は地に対して並行に、用意したチョコレートを差し出す形をとっている。
なにもかもが思い描いていた想像に当てはまらない結果となってしまった。
そのうえ差し出した以上後にも先にも引けず、無理矢理彼の手に握らせてじゃあわたしはこれでと立ち去るのもなんだか気が引ける。
第一、あまりの居た堪れなさに顔があげられない。
いっそこのまま強制ログアウトでもされたい気持ちだった。
ところで、人間の思考は案外易々と時間を超越する。
これだけあれこれと考えながら実際に過ぎ去った時間は数秒程度で、まっすぐ伸ばした腕が力尽きるよりも前に、落ち着いた声が促した。
「用件は分かった。まずは顔を上げてくれ」
……というわけで、恐る恐る直立の姿勢に戻る。
目を合わせる勇気は留守で、どこへともなく視線を彷徨わせていた。
そこに彼がいることはわかる。見てはいないけれど、ちょっとだけ涼やかに微笑んでいるということも。
きっとそうなんだろう。彼のほうはわたしとちがって、悲しいほどにいつも通りだろうから。
「そうか、今日はそういう日だったな。
バレンタインのチョコレートか。親しい者に渡すらしいが」
「ちがっ……」
……。
……無意識に出かけた言葉を喉の奥に押し込む。
腹は括ったつもりだ。もうそういうことでいい、と。
そう言われることを想定していなかったとはさすがに言わない。
スフィンクスは正しい。二月の十四日という日にラッピングされた小包を持ってきておいて、そんな意図はなかったというのはいくらなんでも無理があるだろう。そんなことはわかっている。わかっていながらここまで来たのは、ほかでもないわたし自身だ。
親しい相手に渡す。嘘偽りのないその課題が達成できるのならこの際なんでもいい。
本心をたしかに、今度こそ冷静であろうと気持ちを落ち着かせながら、また視線を泳がせる。
次の瞬間、なにもかもが吹き飛ぶことになるとは思いもせず。
とはいえ、あくまで彼は何気ないように、それこそ「こんにちは、今日もいい天気ですね」とでも言うような落ち着き払った声と表情と自然さで、爆弾をぶん投げた。
「冥府の神に惚れるとは……ずいぶんな変わり者だ」
衝撃のあまり、今度こそはっきりと顔をあげてしまった。
今日はじめて真正面から向き合った視線が繋がれる。
さっき咄嗟に押し込んだ言葉がまた同じ形で出かかった。そして今度は、彼によって遮られた。
「違ったか?」
唐突に仕事をなくした口を空けたまま、呆然と立ち尽くす。
肯定も否定もない。言葉もない。この場合どう答えるのが正解なのか、考える余裕もなかった。
だって、本人に面と向かって問いかけられる予想はしていなかった。
恐ろしいくらいに気高く見えて、その実とても心優しくて、慈しむような微笑が、今日はなんだか妙に自信ありげに映る。
なんというか、勝ち誇ったような。
ようやく動かせるようになった視線を手元の包みに落として呟く。
肯定でも否定でもなく、問いかけ返すように。
「……受け取ってくれないんですか」
我ながらなんともかわいげのない言い方だった。実のところ開き直っている節さえあった。
ほとんど自滅とはいえ散々大恥をかいた直後に衝撃発言を真正面から受けて、ネジが数本弾け飛んだかもしれない。
からかいでも冗談でもそれならそれでいいし、そのうえでちょっとした仕返しのつもりだった。
神様相手になにをしているんだと思われそうだけど、本当に自分でも心からそう思う。
……後悔だって満載だ。
どうしてうまくいかないんだろう。もっと後腐れなく終わらせるつもりだったのに。
心の奥底からまた声が聞こえてくる。情けないやら申しわけないやらで、涙腺に少しの痛みが走った。
いろんな感情が行ったり来たりするなかで見下ろす小包に、自分のものではない手が重なる。
すぐそばで吐息を感じた。
悶々と考え事をしていたから、彼が数歩近付いたことにも気付いていなかった。
小包に触れかけて、だけど触れようとせず彼は言った。
「……しかし困ったものだ。
オレとしては、あまりアナタを好きになりたくないのだが」
え、の形に口が開いて固まった。
ずっと落ち着きなく跳ねていた心臓が真っ先に驚き、次いで頭から全身が隈なく冷えていく。
間を置かずに嫌な予感が重くのしかかってきて、急激に足元がおぼつかなくなる感覚に変わる。
……聞き間違い、ではないだろう。こんな間近で、あんな切実な声で言い切られて、なにをどう聞き間違えようか。
理解するよりも前に後ずさろうとして、考えるより先に口が回ろうとする。
自分の体裁など後回しな最善策の前触れだった。
泣き出すなんてみっともなさを極めた姿を晒す前に、とにかく表面上だけでも明るく立ち去ることを、せめて最後にこそいつも通りの姿であることを、なによりもまず成功させるつもりだった──が。
わたしが動くよりもはやく、小包を持つ指先を軽く撫ぜた彼の手が、無理矢理笑顔の形を作ろうとしていた頬に触れた。
風が掠めるように、だけどたしかに、触れていた。
頬を包む手のひらの熱も、耳の間近で感じる少し骨張った指先の感触も、今流れている時間の只中にあった。
溢れるほどに優しい手付きが熱を通じて伝わってくる。硝子細工を扱うような、存在を確かめるような──それでいて切なげに、熱っぽい、ような。
至近距離にある眼差しもまた。常なら降り注ぐ陽を遮る大きな葉を思わせる冷涼な色のそれは、今だけはよく知った柔和なものではなかった。
「……アナタを想うほどに、オレは己を抑えきれなくなる。
アナタを、冥府の底へ引き込みたくなる。
オレの領域にいてくれたらと、すぐそばに在ればいいと……そう、願ってしまう。
不相応な望みだと思っている。
アナタには陽の当たる世界が相応しい。在るべき場所は実りと温もり溢れる生者の世界だと……そう、分かってはいる。
……そうだろう? アナタを永遠の時の中に閉じ込めてしまいたい、などと……」
自分のものとは違う大きな手が頬を滑って、首の薄い皮膚へ指先が引っかかる感触に体がびくりと跳ねる。
……今のリアクションは適切なものだっただろうか。変な声とか出ていなかっただろうか。
なんとも言えない空気が落ちる。沈黙のなかで気恥ずかしさも極まると申しわけない気持ちになるものだ。
上目だけで窺うことしかできなかったけれど、なにを心配するでもなく冥皇神は穏やかに、優しく微笑んでいた。
……あの熱は、影もなく去っていた。
「…………すまない、少し冗談が過ぎた。そう怯えた顔をしないでくれ。
……怖がらせるつもりはなかった」
添えられていた手が離れていく。ほんの数分越しだろうに、久々に感じられるヘリオポリスの乾いた外気が心地よかった。
よほど頬が火照っているでもなければ、というほどに。
呆気に取られたまま、そのときのわたしはどれほど間抜けな顔をしていただろうか。
「贈り物は受け取ろう。
……ありがとう」
そう言って包みを受け取って笑う彼の表情は、そのときに見たものは、やっぱりいつも通りだった。
……一瞬だけ互いの指先が触れ合ったのは、受け渡しの動作として自然なことのはずだ。
頭ではわかっているのに、頬から手が離れたときにその指先が自分の唇を掠めたことを思い出して、そんなことまで変に意識してしまう。
痛いほどに鼓動が胸を打つ。
隠し通すつもりで奥底にしまい込んで、何重にも鍵をかけて、当たり障りのない言葉で覆い尽くしてきたはずの感情が、いとも容易く殻を破り子どものように跳ね回っていた。
気付かれなくても構わないと、たしかにそう決意しておきながら最後の意地でバレンタインという日に都合よく乗ってしまって──それでもなおいつも通りと言い張り、親しい相手への感謝なんて名目でしか表せなかったものに、見返りや返礼など求められない。
ただ笑って受け取ってくれたら、わたしはそれでよかった。それだけでよかったのに。
『──きっと喜んで受け取めてくれるから』
スフィンクスのあの言葉は、こうなることを見越してのものだったのか。
まさか。そんなのは自惚れも思い込みも甚だしいだろうに。
……でも。
独占欲じみた言葉、あたかも一生涯の関係を願うような、少なくともそんな勘違いをさせるような内容のものを、果たして冗談で言うような神だっただろうか、彼は。
自分の頬に触れる。
あれがわたしの自惚れでも思い込みでも、彼のからかいでも冗談でもないのなら。
……熱冷めやらないそこに触れた彼の指先もまた同じように熱く感じたことを、胸の高鳴りが覚えていた。
了
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