Chapter1〜籠の鳥は戻ってくる
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「お父さん……何でここに……? 仕事は……?」
震える足で、一歩一歩後ずさりするが、逃げる隙すら与えないような威圧感を纏って、黒い影はじりじりと、こちらに詰め寄ってくる。
「仕事というのは嘘だ。最近、トワの動きが怪しいような気がして、独自に調べていたんだが……まさかわざと家を空けた途端に、こんな治安の悪い所に出かけていくとは……!」
どんどん近寄ってくる怒りの表情に、私は何も言い返せない。冷や汗が一筋、額を伝う。
「あれ程言ったではないか! ナワバリバトルは精神を侵す毒だと! しかも何だ、あの酷い負け方は! ジンドウ家の名に泥を塗るような真似をして!」
ロビー中に響き渡るような怒鳴り声が、鼓膜を揺さぶる。周囲の人々が何事かと窺うようにこちらに向ける視線までもが、私の身体に深く深く突き刺さっていく。本能的に襲い来る恐怖から逃げるように、私はぎゅっと目をつぶって、一歩また一歩と後退していく――だが、背後にあるのはもう壁だけだ。無機質なコンクリートの感触が背中に伝わって、もう逃れることはできないのだと、全身が諦めの境地に入る。
「っ……ごめん……なさい……」
私はとにかく一刻も早くこの状況から抜け出したい一心で、泣きそうになるのを堪えながら、その言葉を絞り出した。
「分かったらさっさと帰るぞ、トワ。さあついて来い。……おい、言っておくが決してトワを逃がすんじゃないぞ。力ずくでも連れ帰るんだ」
「承知致しました、ご主人様」
父がボディーガードたちに命じて、逃げられないように四方八方を囲まれる。もはや私にはどうすることもできない。周りの景色さえも視界に入ることはなく、空っぽになった思考を引き摺って、ただ父の後ろを機械人形のように従順に辿りながら、ロビーを出て車に乗り込むことしかできなかった。
***
「お嬢様、こちらが本日の特製デザート、旬のフルーツタルトでございます」
「……もうお腹いっぱいだって、さっきから言ってるでしょ」
「ですがお嬢様、先程から普段の半分も食べていらっしゃらないようですが……。それに、フルーツタルトはお嬢様の大好物では……」
「……とにかく今は、全然食欲ないの。後でちゃんと食べるから、冷蔵庫に入れておいて頂戴」
「かしこまりました、お嬢様……」
メイドさんが、見るからにみずみずしく新鮮なフルーツを贅沢に乗せたタルトを運んで、キッチンへと引き返していく。ダイニングテーブルには、中途半端に食べかけの料理が残ったままの皿が並んでいる。
あのフルーツタルトも、きっとまた父が頼んで作らせたのだろう。――昔から、ずっとそうだったから。
……それは10年以上前のこと。家族で外に出かけていたある日、私は公園のソフトクリームの屋台を目にして、あれが食べたいと父にねだった。だが父は、「立ち食いなどという品のない行為は、ジンドウ家の者には相応しくない」と言って、聞き入れてくれなかった。不貞腐れる私に父は、「その代わり、家に帰ったらうちの料理人の特製ソフトクリームを用意してやろう。あんな安っぽい屋台のものより、ずっと美味しいぞ」――そう言って、とろけてしまいそうな程に美味しい、私だけのための特別なソフトクリームを用意してくれたのだ。
「ジンドウ家の者として、相応しい振る舞いを」――父のその教えに、私の欲しいものややりたい事が潰されることは、昔からよくあることだった。けれど、それを不満に思ったことなど、これまでにはなかった。なぜなら、潰されてしまった分、それを上回る幸せ、それを上回る贅沢を、父から与えられてきたからだ。それが私にとって最大の幸せなんだと、納得しきっていた。今回だって、きっと同じことだ。
……なのに。今回ばかりはどういう訳か、いつまで経っても気分は晴れない。料理人たちが腕によりをかけた夕食も。いつもなら別腹で平らげてしまうほどの大好物のフルーツタルトも。私の中に眠る欲望は、全く反応する気配を見せないのだ。
***
母と兄が一時帰国してくる、と聞かされたのは、それから2週間ほど経ったある日のことだった。明後日の夕方からしばらく母がこちらに戻ってくる予定で、それに合わせて兄も帰国してくるという知らせを、父から伝えられたのだ。
「…………」
私は今日も、自室の窓からぼんやりと庭を眺めていた。
あの日以来、父はもう二度と私が勝手に外に出ることのないように、徹底した監視を行うようになった。玄関も庭も、常に誰かが見張っているし、一人では決して家の外には出してもらえない。外出の時は必ず二人以上で、行き先を伝えて行かなければいけない。そんな状況で、またあの時のようにナワバリバトルになんて、行けるはずがなかった。
(……いいんだ、これで。これが本来の、私のあるべき姿のはず)
そう自分に言い聞かせながら、庭の木々に視線をやる。
窓越しに見えるのは、昼下がりの陽光に照らされた緑の葉と、色とりどりの花々だ。風にそよぐ葉は、どれも同じ緑色に見えるようだが、よく見れば枝の先に芽吹いたばかりの若い葉から、太陽に向かってその身体を広げる大きな葉まで、一枚一枚、僅かに異なる色をしている。辺り一面に咲く花も、それぞれが違う色、形、模様で、庭を彩っている。通り道に敷かれたレンガさえ、その一つ一つに、微かな色の違いがあり、何一つとして同じ色のものは存在しない。
窓の外も、家の中も。世界は数えきれない程の色で溢れている。だけど――
(…………やっぱり、つまらない)
真っ先に頭の中に浮かんでくるのは、いつもその言葉だった。
外の景色を彩る花も、フルーツをたっぷりと乗せたタルトも、クローゼットの中の色とりどりの服も、まばゆく光る宝石のアクセサリーも。今の私には、何もかもが取るに足らないものに思えて仕方ない。父に連れ帰られた、あの日からずっと、見えるもの全てが輝きを失ったようで、この世界そのものが、空虚に感じられてしまう。
世界はもっともっと、たくさんの彩りと、楽しい出来事で満ち溢れているはずなのに。数え切れないほどの輝きが、そこに存在するはずなのに。それでも私は――それをたった2色だけのインクで覆い尽くしてしまった方が、ずっとずっと満たされていて、何よりも楽しかったと記憶しているのだ。
(これはきっと――私への罰だ。父の言うことを聞かず、ナワバリバトルという毒に溺れてしまった罰なんだ)
自分で自分に、そう言い聞かせる。ここはナワバリバトルに触れる前と同じ世界、だけど、醜い欲望と快楽を求めてしまったが故に、ありふれた楽しみも美しさも、もう何も感じることはできなくなってしまっている。まるで何もかもが灰色の世界に閉じ込められてしまったように、私はただ、何の夢も刺激も無い、退屈な日々を過ごす他なかった。
(お母さんやお兄ちゃんが帰ってきて、家族4人が揃ったら、また、元の楽しい日々に戻れるのかな)
当てもない希望を宙に浮かべながら、私はただ、窓の外を流れる雲を、じっと目で追っていた。
震える足で、一歩一歩後ずさりするが、逃げる隙すら与えないような威圧感を纏って、黒い影はじりじりと、こちらに詰め寄ってくる。
「仕事というのは嘘だ。最近、トワの動きが怪しいような気がして、独自に調べていたんだが……まさかわざと家を空けた途端に、こんな治安の悪い所に出かけていくとは……!」
どんどん近寄ってくる怒りの表情に、私は何も言い返せない。冷や汗が一筋、額を伝う。
「あれ程言ったではないか! ナワバリバトルは精神を侵す毒だと! しかも何だ、あの酷い負け方は! ジンドウ家の名に泥を塗るような真似をして!」
ロビー中に響き渡るような怒鳴り声が、鼓膜を揺さぶる。周囲の人々が何事かと窺うようにこちらに向ける視線までもが、私の身体に深く深く突き刺さっていく。本能的に襲い来る恐怖から逃げるように、私はぎゅっと目をつぶって、一歩また一歩と後退していく――だが、背後にあるのはもう壁だけだ。無機質なコンクリートの感触が背中に伝わって、もう逃れることはできないのだと、全身が諦めの境地に入る。
「っ……ごめん……なさい……」
私はとにかく一刻も早くこの状況から抜け出したい一心で、泣きそうになるのを堪えながら、その言葉を絞り出した。
「分かったらさっさと帰るぞ、トワ。さあついて来い。……おい、言っておくが決してトワを逃がすんじゃないぞ。力ずくでも連れ帰るんだ」
「承知致しました、ご主人様」
父がボディーガードたちに命じて、逃げられないように四方八方を囲まれる。もはや私にはどうすることもできない。周りの景色さえも視界に入ることはなく、空っぽになった思考を引き摺って、ただ父の後ろを機械人形のように従順に辿りながら、ロビーを出て車に乗り込むことしかできなかった。
***
「お嬢様、こちらが本日の特製デザート、旬のフルーツタルトでございます」
「……もうお腹いっぱいだって、さっきから言ってるでしょ」
「ですがお嬢様、先程から普段の半分も食べていらっしゃらないようですが……。それに、フルーツタルトはお嬢様の大好物では……」
「……とにかく今は、全然食欲ないの。後でちゃんと食べるから、冷蔵庫に入れておいて頂戴」
「かしこまりました、お嬢様……」
メイドさんが、見るからにみずみずしく新鮮なフルーツを贅沢に乗せたタルトを運んで、キッチンへと引き返していく。ダイニングテーブルには、中途半端に食べかけの料理が残ったままの皿が並んでいる。
あのフルーツタルトも、きっとまた父が頼んで作らせたのだろう。――昔から、ずっとそうだったから。
……それは10年以上前のこと。家族で外に出かけていたある日、私は公園のソフトクリームの屋台を目にして、あれが食べたいと父にねだった。だが父は、「立ち食いなどという品のない行為は、ジンドウ家の者には相応しくない」と言って、聞き入れてくれなかった。不貞腐れる私に父は、「その代わり、家に帰ったらうちの料理人の特製ソフトクリームを用意してやろう。あんな安っぽい屋台のものより、ずっと美味しいぞ」――そう言って、とろけてしまいそうな程に美味しい、私だけのための特別なソフトクリームを用意してくれたのだ。
「ジンドウ家の者として、相応しい振る舞いを」――父のその教えに、私の欲しいものややりたい事が潰されることは、昔からよくあることだった。けれど、それを不満に思ったことなど、これまでにはなかった。なぜなら、潰されてしまった分、それを上回る幸せ、それを上回る贅沢を、父から与えられてきたからだ。それが私にとって最大の幸せなんだと、納得しきっていた。今回だって、きっと同じことだ。
……なのに。今回ばかりはどういう訳か、いつまで経っても気分は晴れない。料理人たちが腕によりをかけた夕食も。いつもなら別腹で平らげてしまうほどの大好物のフルーツタルトも。私の中に眠る欲望は、全く反応する気配を見せないのだ。
***
母と兄が一時帰国してくる、と聞かされたのは、それから2週間ほど経ったある日のことだった。明後日の夕方からしばらく母がこちらに戻ってくる予定で、それに合わせて兄も帰国してくるという知らせを、父から伝えられたのだ。
「…………」
私は今日も、自室の窓からぼんやりと庭を眺めていた。
あの日以来、父はもう二度と私が勝手に外に出ることのないように、徹底した監視を行うようになった。玄関も庭も、常に誰かが見張っているし、一人では決して家の外には出してもらえない。外出の時は必ず二人以上で、行き先を伝えて行かなければいけない。そんな状況で、またあの時のようにナワバリバトルになんて、行けるはずがなかった。
(……いいんだ、これで。これが本来の、私のあるべき姿のはず)
そう自分に言い聞かせながら、庭の木々に視線をやる。
窓越しに見えるのは、昼下がりの陽光に照らされた緑の葉と、色とりどりの花々だ。風にそよぐ葉は、どれも同じ緑色に見えるようだが、よく見れば枝の先に芽吹いたばかりの若い葉から、太陽に向かってその身体を広げる大きな葉まで、一枚一枚、僅かに異なる色をしている。辺り一面に咲く花も、それぞれが違う色、形、模様で、庭を彩っている。通り道に敷かれたレンガさえ、その一つ一つに、微かな色の違いがあり、何一つとして同じ色のものは存在しない。
窓の外も、家の中も。世界は数えきれない程の色で溢れている。だけど――
(…………やっぱり、つまらない)
真っ先に頭の中に浮かんでくるのは、いつもその言葉だった。
外の景色を彩る花も、フルーツをたっぷりと乗せたタルトも、クローゼットの中の色とりどりの服も、まばゆく光る宝石のアクセサリーも。今の私には、何もかもが取るに足らないものに思えて仕方ない。父に連れ帰られた、あの日からずっと、見えるもの全てが輝きを失ったようで、この世界そのものが、空虚に感じられてしまう。
世界はもっともっと、たくさんの彩りと、楽しい出来事で満ち溢れているはずなのに。数え切れないほどの輝きが、そこに存在するはずなのに。それでも私は――それをたった2色だけのインクで覆い尽くしてしまった方が、ずっとずっと満たされていて、何よりも楽しかったと記憶しているのだ。
(これはきっと――私への罰だ。父の言うことを聞かず、ナワバリバトルという毒に溺れてしまった罰なんだ)
自分で自分に、そう言い聞かせる。ここはナワバリバトルに触れる前と同じ世界、だけど、醜い欲望と快楽を求めてしまったが故に、ありふれた楽しみも美しさも、もう何も感じることはできなくなってしまっている。まるで何もかもが灰色の世界に閉じ込められてしまったように、私はただ、何の夢も刺激も無い、退屈な日々を過ごす他なかった。
(お母さんやお兄ちゃんが帰ってきて、家族4人が揃ったら、また、元の楽しい日々に戻れるのかな)
当てもない希望を宙に浮かべながら、私はただ、窓の外を流れる雲を、じっと目で追っていた。