早春のギムナジウム
イザベラ・ハーゼが背中まであったブロンドの髪をばっさり切り落として現れた日は、級友ばかりでなく教師までもがどよめいた。
短くつめた襟足が寒いのか、ただ単に落ち着かないのか、何度も首に手を回し、襟足をつまむイザベラを見かねて、寒いのならマフラーを巻いておきなさいとある教員が叱り、次の授業の教員がマフラーを取れと叱って、素直に従いながらもむくれた表情を隠さないイザベラに、級友たちは笑いをこらえるのに必死だった。
しまいにはうしろの席の生徒がその白い首筋をつついて、イザベラが「ひゃっ!」と声を上げ、歴史の男性教師に二人揃って資料室の整理を命じられた。
「あーあ、ハーゼの巻き添えだ」後ろからの友人のヒソヒソ声に、
「今のはアナのせいだからね!?」とイザベラが応じる。
その小声の小競り合いを教師に睨まれ肩をすくめる二人に、生徒たちの何人かはこらえきれずに噴き出した。突然の変化に好奇心半分心配半分といった気持ちを抱いていた級友たちは、イザベラに半ば呆れつつも彼女の態度が休暇前となにも変わらないことに安堵したのだった。
二週間の冬季休暇後の、最初の授業日だった。多くの子かそうであるように、イザベラもまた休暇の終わりまで実家で過ごし、最終日の夜に寄宿舎に戻ってきたから、他の生徒たちは朝になるまで彼女の変化に気づかなかった。だれかにつかまれば根堀り葉掘り聞かれるだろうと思った彼女は、口がすっかり隠れるようなかたちにマフラーを巻いて、同室の子との挨拶もそこそこに、そのままベッドにもぐりこんだ。
夜が明けて、まず寝室で騒ぎが起こった。次いで食堂。食堂では上級生たちに捕まり質問攻めにあったから、教室にたどり着いたのは授業開始のギリギリで、三年生の級友たちは息せき切って飛び込んできたイザベラの姿に驚きつつも、何があったのかと聞く時間をもたなかった。
イザベラが入学したのは十一歳のときだった。奨学生として入学した彼女だったが、教師がそれを告げるまで、級友たちの多くが、彼女も自分たちと同じように貴族か富豪の子女なのだろうと早合点した。奨学生は各学年に一人から三人の割合でいるが、みな入学時は貧しい身なりをしていて一目でそれとわかる姿をしている。制服のないこの学校では、家庭の経済状況が生徒の服装に現れる。十一歳のイザベラは、どこか外国風の雰囲気のある美しい服を身にまとっていて、周りと比べて遜色がないどころか、愛情もお金もたっぷりかけて育てられたように見えていた。
一年のころは今よりも髪の色が薄く、ほとんど金に近かったから、背中までおろしたたっぷりとした髪は自然とみんなの目を引いた。
色素の薄い青い目ばかりが精悍で、きつい顔というわけでもないのに、不思議と強い印象を与える顔つきをしていた。
教師が二人の奨学生の名を告げたときは、生徒たちの間から驚きの声が上がった。
「父は軍人だけれど、軍人の家系ではなくて貧農の出だから、豊かではないんだ」
家のことを尋ねられると、イザベラは涼しげに笑ってそう答えた。きちんと整えられた服については
「父の友人が恥をかかないようにとお古を仕立て直してくれたんだ。自分で仕立てたわけじゃないよ」と、少し恥じらうように目を伏せて答える。
奨学生として入学しただけあって成績は抜群で、教師の問いに鋭い眼差しではきはきと答える。貧しくても教養のある家庭で、かくあるべきとして育てられたのだろう――。級友たちはみな、彼女のふるまいを見てそう納得した。
ラテン語が苦手そうなところを除けば、彼女に奨学生らしいところは一つもなかった。授業中も、教師にも周りの生徒に遠慮することなく自分の意見を言うさまは、家庭教師に教育されてきた多くの子女からは新鮮で、それでいて近寄りがたい雰囲気も感じさせていた。
それが思い違いだったと級友たちが気づくのは、その最初の週の最終日のことである。
金曜日の最後の授業は数学で、はじめての週末を前に浮き立った生徒たちは、ほとんど授業に身が入っていなかった。教師のほうでも、一年の最初の一週間の疲れを察して、平易な問題にとどめるのだが、それがまた、少女たちの眠気を誘う。
十月、窓の外では高木から丈の低い草までが鮮やかに色づき、みなの休暇への思いを煽るように揺れていた。
授業が終わると、どっとため息が漏れた。うつらうつらしていた多くの生徒は、やっと開放されたというようにと机につっぷし、体を伸ばし、食堂に向かうべく荷物を整え始めた。
そのときである。
リスがいる!
夢うつつの状態で窓の外を眺めていたイザベラが、突然高い声をあげた。
級友たちが驚いてそちらを見たときには、イザベラはもう開け放たれた窓をひょいと飛び越え、スカートのひだを腕に抱えて芝生の上を走り出していた。
ハーゼ(野うさぎ)が野リスを追いかけている――。
教室内の級友たちは、あっけにとられてイザベラを見つめていた。
野リスはイザベラに気づくと一目散に駆け出して、生け垣の下に潜り込んで見えなくなった。野うさぎの姓を持つ少女は生け垣まで走っていって、四つん這いになって野リスの見えなくなった穴をのぞきこんでいる。
「ほんとうに野うさぎ(ハーゼ)ね……」
誰からともなくそんな言葉が飛び出して、級友たちは互いに顔を見合わせた。
ギムナジウムに通うような女の子はこんな風に走り出したりしない――イザベラがそう気づいたときにはすでに遅かった。イザベラは慌てて立ち上がると、スカートをバサバサとはたいて回れ右をした。
「リスには逃げられたの? ハーゼ」
窓の外まで戻ってきたイザベラに級友の一人が声をかけると、彼女は赤い頬で頷いた。
「ちょっとハーゼ、玄関から入ってきなよ!」
窓枠によじ登ろうとするイザベラを別の子が慌ててたしなめると、イザベラは耳まで真っ赤になって、大慌てて玄関から教室に戻った。
イザベラが戻ると、教室内は不思議な空気で満たされていた。ぽかんとしてイザベラを見つめる子、肩を震わせて笑っている子︙︙。
「見事な走りっぷりだったわよ、野うさぎちゃん」
一人が笑ってそう声をかけると、一斉に笑いがはじける。イザベラは真っ赤な顔であいまいに笑って、教室をぐるりと見回していたが、みんなの視線が自分に向いているのに気づくと耐えかねたように顔を覆って叫んだ。
「あー、恥かかないように頑張ってたのに!」
イザベラの走りっぷりは教員室からも見えていた。
「面白い子が入ってきたねえ!」
真っ先に嬉しそうな声をあげたのは、物理科のディートリヒ女史である。眉をしかめた教師もいたが、それを見越して先に声を上げるのが、彼女のいつものやり方だった。
「ジーニー・マクレガーもとんでもないけど、あの子も……なんて名前だっけ?」
女史はクッキーをかじりながら、キョロキョロと机を見回し名簿を探す。
イザベラ・ハーゼだ、と誰かが言うと、そのあまりにもぴったりな名前に教員の間でも笑いが起こった。
そのイザベラが、今度は髪を切り落として現れた――。級友たちはもちろん、教員もその姿にざわついた。野リス事件であっさりと本性をみせたイザベラだったが、上品な服までその場しのぎの装いだったわけではなく、本人は着飾るのが好きなようで、スカートを振り乱して走り回るくせに、いつも可愛らしい服を着ている。髪を結うのもおっくうではないようで、時間があるときは自分が走り回るのを見越してきっちり結い上げて、その器用な手先で友人の髪なども結ってやる。放課後の談話室で、イザベラが友人の髪を櫛りながらおしゃべりに興じる姿をディートリヒ女史も何度か見ていた。
今や、開き直って自ら「猫っかぶりの野うさぎ」と笑うイザベラは、お調子者だがそのぶん度胸があって、入学時からそのふるまいを面白く思いながら眺めていたが、あの変化はさすがに何かあったのだろうかと不安にもなる。
十三歳、思春期である。イザベラに限らず、雰囲気が変わったり、不安定になったりする少女は多い。他の子と同じように揺れ動く時期なのだろうと、教員室でコーヒーを啜りながら、幼い頃の自分を思い出す。
「どうしたんでしょうかねハーゼは」
ハーゼの名前に、思わず耳が反応する。
「どうします、ジーニーのようになったら」
男性教師らがそう話しながら入ってくる方にくるりと顔を向けながら、
「なったら、何か問題でも?」
とディートリヒはにっこりと笑った。
男性教師たちは気まずそうにああ、とかいや、とか呟くと、顔を背けて自席に落ち着いた。
「男かな」
ルイーゼの言葉に、ジーニーは目だけ動かして隣の席の友人を見た。
一年から五年までが食堂に集まっていた。木製の長テーブルのいちばん隅の席に腰掛けて、ジーニーとルイーゼは静かに食事をとっている。生徒は各学年に二十人程度しかいないが、食堂は百人も入ればいっぱいで、少女たちは二つの長テーブルに身を寄せ合ってスープを啜っていた。
「何が?」
黒パンをかじりながらジーニーが言う。ルイーゼはちらりと他の同級生たちの方に目を向け、「髪切った理由」と続けた。イザベラを含む数人が、斜め向かいで食事をしている。その頭どうしたの、と同級生だけでなく上級生からも驚かれ、かっこいいかなと思って、と照れたようにと笑う。
「なあにその理由」と隣でアナが口を尖らせるのが二人ジーニーの耳にも聞こえた。
ジーニーは、頬張ったパンを飲み下してから「なんでもイデオロギーに結びつけるのはよくない」といつものとろんとした目のまま言ってスープをすする。
イデオロギーね……と口の中で繰り返して、ルイーゼは苦笑しながら肩をすくめる。
「だいたい、男が理由で髪を切るってどういうこと」
ルイーゼは、黒パンにバターを塗りながら少し考え込み、
「好きな男ができたとか、男に振られたとか……逆に、言い寄られたのが嫌で切っちゃったとか……」と続ける。
ジーニーは食事の手を止めずに友人の話を聞いている。
「それから、親に結婚を勧められて反発してとか?」
明るい調子で四つめを付け加えると、ルイーゼはどう? と言うようにジーニーをちらりと見てパンをかじった。
「その中からなら三つめ」
「四つめは?」
「ハーゼの親はそんな変態じゃない、たぶん」
変態、という言葉にルイーゼは小さく笑った。
三年生のもう一人の奨学生、ジーニー・マクレガーもまた、イザベラとは違う意味で人の目を引く生徒だった。他の生徒よりも頭一つ高い背丈、そばかすだらけの顔に、短く刈った波打つ赤髪。貧しい移民の出で入学当初は兄の古着を着ていたから、最初は誰もがその出で立ちに驚いた。入学時は十一歳だったが、その外見は十三・四の少年のようで、一目で彼女が奨学生だということが見て取れた。
奨学生の中には、学校の雰囲気に馴染めず、同級生らとの間に壁を作ってしまう者もいる。せっかくその頭脳を見込まれ入学しても、その能力を存分に開花させることができずに脱落してしまう少女も少なからず存在した。ジーニーの姿を見た教師たちは、彼女もそうなってしまうのではないのかと危ぶんだ。もうひとりの奨学生のイザベラが、野リス事件のあとに却って友人らと打ち解けていったのに対して、自ら級友たちと馴染んでいこうとしないジーニーは、早々に教室で孤立し始めていた。
けれど、教師たちの心配は杞憂であった。周りがどれだけ心配しようとも、彼女自身が自分の孤立も、級友たちと話が合わないことも、何一つ苦にしていなかったのである。
ジーニーを奨学生にと推薦した、貧民街で慈善活動を行っている修道女たちは、マクレガー兄妹を突然変異だと言い表した。ルノンからザッセンに流れてくる貧民は多く、そうした者のほとんどがザッセン語を話すことはもちろん、ルノン語の読み書きもあやうい。兄妹の両親もまた、人口が飽和し貧民の増加したルノンの都市部からザッセンに流れてきた人たちだった。
長男のロニーは二歳でアルファベットを読み始め、四歳になるころには大人向けの本を読み、五歳になると修道院の図書室に入り浸った。多くの人々に長男のことを天才だ天才だと褒めそやされて、夫妻は二歳違いの妹をジーニー(賢い子)と名付けた。天才と名付けられた娘は、名を体現するかのように、兄のマネをしながら知識を蓄えていった。
教室では孤立気味のジーニーだったが、その堪能なルノン語に惹かれて声をかけたのが一歳年上のルイーゼである。語学が堪能なルイーゼは、ジーニーにルノン語を教わる傍ら、ラテン語を教えた。ラテン語の堪能な教師は市井には少ない。奨学生が一様にラテン語を苦手とするのはこのせいで、ジーニーはラテン語の読み書きは一通りできたものの、辺境のラテン語教師の影響で発音だけがめちゃくちゃであった。その発音を矯正しながら、学校では学べないようなルノン語の俗語までをジーニーから教わる、という形で、頻繁に連れ添うようになっていた。
「ジーニー、あとで部屋行っていい? 新しい本を買ったんだけどわからない単語が多すぎて」
パンの最後の一切れを飲み込んでから、ルイーゼ言う。本とは、ルノン語の小説である。語学が堪能なルイーゼは、学年で習うルノン語の長文を飛び越えてさまざまな外国語の本を読む。ルノン語が母語のジーニーは、よくその読解の手伝いをしてやるのだった。
「いいよ、マイヤー先生も夜までいないし」
ジーニーは三枚目の黒パンを何もつけずに頬張りながら、もごもごと答える。
生徒たちは通常、四、五人の相部屋で寝起きしているが、ジーニーだけは例外で、寮を監督する教師との相部屋で、ルイーゼはすっかりそこに入り浸っている。
やった、とルイーゼが笑う。
「休暇の話も聞きたいし」
ルイーゼが指先と口を布巾で拭きながらそう言うと、ジーニーはもぐもぐと口を動かしながら眉根を寄せる。
「たいくつだったよ。ロニーも帰ってこなかったし」
「学校に残ったの?」
「いや、友達と先生の家に行ったらしい。天体観測をしに行ったって」
「いいなあ、楽しそう」
心底羨ましそうに言ってジーニーの横顔に目を向けたルイーゼが、急に真顔になった。ルイーゼは友人の顔を覗き込むように顔を近づけると、「ジーニー、ちょっとごめん」と言って、ジーニーの額にかかる赤毛をかきあげ、おでこにぺたりと掌を当てた。
「やっぱり」
ルイーゼが顔をしかめる。
ジーニーは頭を押さえられているのにも構わず新しいパンに手を伸ばそうとしたが、黒パンが山になっていたかごがもう空なのに気づくと、目をつぶって観念したように頭をたれた。
「ゆうべまた本読んでたんでしょ」
「ご明察」
ジーニーは目をつぶったまま諦めたように答える。
ジーニーは頻繁に熱を出す。兄のロニーもジーニーも、何かに熱中すると寝食を忘れてそれに夢中になり、そのあとで熱を出す。熱のある間はこんこんと眠り続け、起きると空腹を感じて一気に食事をする。部屋が一人だけ例外なのもそのせいで、授業と自習でめちゃくちゃに勉強した翌日は、教室にも食堂にも現れないことが多かった。
飛び級をしてもおかしくない頭脳を持ちながらそれをしないのは、ひとえにこの体調のせいだった。
「でも、今日はそんなにたいしたことない」
「そんなこと言って、今日話しこんだら明日出てこないんでしょ」
手を離し、食べ終わった食器を重ねながら、ルイーゼは言う。
「おとなしく寝てなさい」と言われ、ジーニーは子供のように素直に「はい(ヤー)」と頷いた。
入学時に人目を引くような貧しい身なりをしていたジーニーは、その後教師に言われて奨学金で服を仕立てて、二年に上がるころには、目立つがそれなりに教室に馴染むようになっていた。
出自にしろ体調にしろ、学校内ではとかく異端なので孤立してしまうのではないかと心配した教師も多かったが、勉学に熱中しすぎる以外は特に問題もなく、友人と積極的にかかわらない代わりに、揉め事を起こすこともなければ、素行不良を咎められることもなかった。
むしろ、揉め事は教師との間での方が多かった。
「ハロー! フラオ・ディートリヒ。精が出るわね」
中庭で、生け垣に残っていた冬至祭の飾りを片付けていたディートリヒは、背後から聞こえた明るい声に手を止めて振り返った。同僚のコッホ女子が、凍った芝をざくざくと踏みながら、両腕を広げて大股で歩いてくる。
「ハロー! フラオ・コッホ。手伝ってくれるの?」
ディートリヒは、飾りの一つを片手で持ち上げて笑顔を向ける。
「あとこれだけ?」
と尋ねると、コッホはスカートを抱え込むようにしてしゃがみこみ、生け垣の下の方のオーナメントを木の枝から外し始めた。
町ではすでに冬至祭の雰囲気は消え去っているが、学校は冬至祭と同時に休暇に入るので、いつも片付けは休み明けになる。寮では子どもたちが人形棚や聖樹飾りを片付けているはずだった。
二人は休暇の話をしながら飾りをひとつひとつ籠の中に入れていく。木彫りの天使の人形や、きらきらとしたガラス玉は、学校が開校してから教員や生徒たちが少しずつ持ち寄って、増えていったものだった。
最後のひとつを外し終え、ディートリヒが籠を抱えて立ち上がると、コッホは傍らを歩きながら
「ジーニーのようには、なろうとしたってなれないわよねえ」
と含み笑いをしながら囁いた。ディートリヒは、一瞬なんのことかと考えて、すぐに気づいて笑いだした。コッホは、教員室でのディートリヒと男性教師のやりとりを聞いていたのである。
「あの二人、どっちも変わり者だけど、性格は全然違うじゃないの」
言外に、あいつらは生徒を全然見ていないのだという気持ちを含んでいるのがディートリヒには伝わってくる。
「ヘルマン先生はジーニーにやり込められたことがあるから。ハーゼまでそうなるのが怖いんだろうね」
ディートリヒが言うと、コッホは豪快に笑った。
「アレは痛快だったわよね。あなたは聞いてたんだっけ? 羨ましい」
「言えば再現してくれるんじゃない? 彼女なら自分が何言ったか覚えてるだろうし」
ディートリヒの言葉にコッホは「末恐ろしい子ねえ」と苦笑する。
「聞いてみたいけどさすがにそれはね。ま、学校にいればまた何かあるでしょ。次に期待してるわ」
ジーニーがまたやらかすことを前提にした同僚の言い方に、ディートリヒはくっくと笑う。
「次は誰が犠牲になると思う?」
ディートリヒが声を潜めて尋ねると、コッホは少し考えてから口を開いた。
「やっぱりまたヘルマン先生じゃない?」
女性教員に痛快と言わしめた「アレ」とは、ジーニーたちが二年生の頃に起きた、ちょっとした珍事である。イザベラが本性を表したのが野リス事件なら、ジーニーが本性を現したのはそのヘルマン先生の歴史の授業であった。
授業中、教師が数十年前に成立した女性参政権の話に触れたときである。
「とはいえ、女の本分というものは子を産み育てることにこそある」
ヘルマン先生は、自身の持論を話し始めた。そうした考えをもつ人は男女ともに少なくなく、生徒たちの中にもこの言葉だけなら同意する者は多かった。しかし、ヘルマンはそれ以前から生徒たちからあまり好かれていなかった。
少しばかり走り回れば、娘のくせに嘆かわしいと言い、授業中には他の女性教諭を侮蔑するようなことも言う。
また始まった、という気持ちが生徒たちの間に広がった。
ヘルマンの持論の矛先は、目の前に生徒たちに向けられる。
「君たちがいくら優秀だとはいえ、君たちはいずれ子を産み、育てる。所詮、その崇高な使命を遂行しながら男に敵うようにはできていないのだ。君たちの中には大学に進む者もあるだろうが、女としての本分を疎かにしては――」
学校理念の否定ともとれるようなヘルマンの演説をぶった切ったのは、生徒たちが聞いたことのない言葉だった。
――”くっだらねえなあ“
教室に響き渡った低い声に、みんなは一瞬きょとんとなった。それから声のした方を振り向いた。ジーニーが、口の端を歪めて笑っている。それを見た生徒の何人かは、それがルノン語のスラングらしいと思い当たった。生徒たちは意味はわからないまでも、何か不穏な言葉が吐かれたことは感じ取って、息を飲んでジーニーとヘルマンを見比べた。
ヘルマンは、怒るよりも驚きが勝ったようで、見たことのないような表情をしている教え子を見つめている。
「すみません、気分が高ぶるとつい母語が出てしまいまして」
ジーニーは丁寧なザッセン語で改めて言い直す。それとともに、顔からいびつな笑みも消える。
ジーニーの声にヘルマン先生は我を取り戻し、憮然として声をはりあげた。
「マクレガー! ”くだらねえ”とはどういうことだね」
「くだらない、という意味です」
ジーニーはスラングをザッセン語に言い換える。
「そんなことはわかっている! 今の発言の意図を聞いているんだ」
「言葉のままの意味ですが」
「私の発言がくだらないというのかね」
「はい」
悪びれる様子も物怖じする様子もないジーニーに、教室中ははらはらとした空気に包まれる。
「それがどういうことかと聞いている!」
ヘルマン先生は黒板を叩いて声を上げる。
「……ええ、わかりません?」
ジーニーは困惑げに言う。煽っているように聞こえるが、本気で困惑しているようでもあり、生徒たちには判断がつかない。
「マクレガー! はっきりと言い給え。君は私の考えを否定するのかね」
「はい」
「それならばその根拠を述べてみろ」
ジーニーは口を開きかけて、一瞬目を泳がせた。
「……ルノン語でもいいですか」
「今はルノン語の授業ではない!」
ジーニーはため息をつく。
「わかりました」
ジーニーはゆっくりと立ち上がった。そのときのジーニーは、一年の冬に仕立てたきちんとした服を着ており、まっすぐに立つとその長身がさまになるようになっていた。
おもむろに口を開いたジーニーは、ザッセン語で女性参政権運動について述べ、それに関わった活動家の思想を述べた。
事実を淡々と述べるだけだけのジーニーに、(このとき多くの生徒が「ヘルマン先生の話よりわかりやすい」と思っていた)ヘルマンは
「そんなことは私の授業でやったことだろう」とジーニーの話を中断する。
「話の流れで必要なことだったので」
とジーニーは悪びれずに言い、授業では触れていないような、ある実験の話をし始めた。叱りつけるタイミングを窺っていたヘルマンは、いらいらとした様子で「そんな話は聞いたことがない」呆れた顔を作ろうとする。
「ルノン語の論文にあります。まだ翻訳されてないんですよ。学者の怠慢です」
暗にそれを読んでいないヘルマンを批判する言葉である。ヘルマンは激高した。
「いい加減にしたまえマクレガー! 女にそんな知識は必要ない。君がいい例だ。女が知識を身につけると君のように小賢しくなる!」
「男であればそのようには言われないでしょう」
ジーニーの声が鋭くなっていく。
「君はメスだ!」
ヘルマンは怒鳴った。
「いいえ!」
ヘルマンの言葉にかぶる勢いでジーニーが答える。いつも眠たげに半分閉じられていた目は、今はくっきりと開かれて、淡い茶色い瞳がはっきりとヘルマンを見つめている。
「私は人間(man)です」
ジーニーは静かに、けれどよく通るはっきりとした声で言い切った。
ヘルマンが使った「メス(Weib)」という言葉は、かつては「女」を指す言葉だったが、今では侮蔑的な意味を持つ言葉として、公の場では使われない。ジーニーはそれを即座に否定したのだった。
「話にならん、君は男(Mann)ではない」
そう言って教室を出ていこうとするヘルマンに、
「今のWeibという言葉は取り消してください」
と声を上げる。さすがに自分でも失言だったと思ったのか、ヘルマンは扉の前で立ち止まり、「それは確かに間違っていた。君は女(Frau)だ。人間だ。しかし決して男(Mann)ではない!」
始めは多少落ち着いついていた声音が、おわりのほうでは叫ばんばかりになっている。
「勉学において差はありません、なぜなら――」
「くどい!」
言いかけた言葉をヘルマンに中断されたジーニーは、ぎっと顔をしかめると
「”めんどくせえな、わかんだろルノン語ぐらい”」
と早口で吐き捨てた。
その早口のスラン語混じりのルノン語は、ルイーゼにだけは聞き取れたが、ヘルマンにはわからなかったらしい。ヘルマンは一瞬口を開いたまま固まった。その一瞬の間を突いてジーニーは一気に喋り始めた。
ジーニーはルノン語になると急に口調が荒くなり、表情まで変わる――そういう噂は以前からあった。しかしジーニーとルノン語で一通りの会話ができる生徒などルイーゼぐらいだったから、他の生徒はその片鱗しか見たことがなかった。
まるで別の人格が乗り移ったように、ジーニーの目つきが鋭く豹変する。そこからはジーニーの独壇場だった。
「ザッセンではこのように言われていますが」と、言えるところはザッセン語で話しながら、何かの概念を表す単語や引用は「フラオ・ウフルはこのように言います」と前置きをしてからすべてルノン語でぶちまける。さきほど吐き捨てたようなスラングとはうって変わって、大学でも通用する正しいルノン語である。だが、母語を話すときと同様に表情はころころ変わり、ときには嘲笑的な笑みさえ浮かべた。
豹変したジーニーに、ヘルマンは毒気を抜かれたようにぽかんとしていたが、それでもジーニーの言葉の意味をなんとかザッセン語に置き換えて理解すると、すでに赤くなっていた顔はさらに赤く、目はぎしぎしとつり上がっていった。けれど、そこに切り込むことができない。
――あのヘルマン先生が押されている!
生徒たちはジーニーの言葉がほとんど理解できなかった。しかし、ヘルマン先生が顔を真赤にしていること、そのくせジーニーの言葉を理解しきれてないことなどは伝わってきて、二人を見比べながら無言のままジーニーに喝采を送った。
ジーニーが一年の冬に仕立てた服は裾のたっぷりとしたズボンだった。スカートは嫌だ動きやすいものがいいとジーニーが言い、仕立て屋が面白がって最先端のデザインを取り入れたものだったが、背の高いジーニーにはよく似合っていた。そのジーニーが、二つの言語を器用に使いこなして、演説をするように語る姿は、少女たちには年上の青年のように見えた。
「申し訳ありません、ザッセン語でどう訳したらいいのかわからない言葉が多すぎて、ルノン語に頼ってしまいました」
ひとしきり話し終えると、ジーニーは声の調子をぐっと押さえて、いつもの口調になって言った。
「どちらの言葉でも説明できるように精進します。授業を中断してしまい申し訳ありませんでした」
そう言うと、軽く頭を下げて席についた。顔を真赤にしているヘルマン先生とは対象的に、ふう、と息をついたジーニーは、もういつもの眠たげな顔に戻っていた。
ヘルマンは何も言い返さなかった。その姿は、生徒たちには言い返せなかったようにしか見えなかった。
ヘルマンは、赤い顔のまま釣り上がっていた目をゆっくりと閉じ、大きく息を吸うと、
「マクレガー、君の態度は大いに問題がある」
と、肩を震わせてゆっくりと言った。
「君は、この学校にふさわしくない。あとで校長から話があるだろう。待っていなさい!」
ヘルマンはそう言い捨てると、ドアを乱暴に閉めて教室を出ていった。
教室中がしんとなった。
――ジーニーが退学になってしまう……?
ヘルマン先生の足音が聞こえなくなると、少女たちはこわごわとジーニーの方に視線を向けた。
当の本人は、走り回ったあとの子供がうとうととするように、椅子にだらりと腰かけて目を閉じている。さっきまでの迫力はもうどこにも残っていない。
沈黙を破ったのは、机を叩く音だった。コン、コン……と、指で机を叩くものがいた。ルイーゼである。机を叩くのは拍手と同様、賛意を示す行為である。
級友の中で唯一すべてを聞き取れていたルイーゼは、ジーニーの言葉の一言一句に頷いていた。顔を上げたジーニーと目が合うと、最高だった! という気持ちを込めて、にこりと笑みを浮かべてみせた。
ルイーゼの叩く机の音に気づくと、他の生徒たちもコツコツと机を叩き始めた。まばらに、しかししっかりとした称賛の音が教室中に広がっていく様子を、ジーニーはぼんやりと眺めていたが、やがてはっと気づいたように椅子に座り直すと、教室を見回し
「ごめんなさい、授業中断しちゃった」
と、眠たげな目で申し訳なさそうにそう言った。
短くつめた襟足が寒いのか、ただ単に落ち着かないのか、何度も首に手を回し、襟足をつまむイザベラを見かねて、寒いのならマフラーを巻いておきなさいとある教員が叱り、次の授業の教員がマフラーを取れと叱って、素直に従いながらもむくれた表情を隠さないイザベラに、級友たちは笑いをこらえるのに必死だった。
しまいにはうしろの席の生徒がその白い首筋をつついて、イザベラが「ひゃっ!」と声を上げ、歴史の男性教師に二人揃って資料室の整理を命じられた。
「あーあ、ハーゼの巻き添えだ」後ろからの友人のヒソヒソ声に、
「今のはアナのせいだからね!?」とイザベラが応じる。
その小声の小競り合いを教師に睨まれ肩をすくめる二人に、生徒たちの何人かはこらえきれずに噴き出した。突然の変化に好奇心半分心配半分といった気持ちを抱いていた級友たちは、イザベラに半ば呆れつつも彼女の態度が休暇前となにも変わらないことに安堵したのだった。
二週間の冬季休暇後の、最初の授業日だった。多くの子かそうであるように、イザベラもまた休暇の終わりまで実家で過ごし、最終日の夜に寄宿舎に戻ってきたから、他の生徒たちは朝になるまで彼女の変化に気づかなかった。だれかにつかまれば根堀り葉掘り聞かれるだろうと思った彼女は、口がすっかり隠れるようなかたちにマフラーを巻いて、同室の子との挨拶もそこそこに、そのままベッドにもぐりこんだ。
夜が明けて、まず寝室で騒ぎが起こった。次いで食堂。食堂では上級生たちに捕まり質問攻めにあったから、教室にたどり着いたのは授業開始のギリギリで、三年生の級友たちは息せき切って飛び込んできたイザベラの姿に驚きつつも、何があったのかと聞く時間をもたなかった。
イザベラが入学したのは十一歳のときだった。奨学生として入学した彼女だったが、教師がそれを告げるまで、級友たちの多くが、彼女も自分たちと同じように貴族か富豪の子女なのだろうと早合点した。奨学生は各学年に一人から三人の割合でいるが、みな入学時は貧しい身なりをしていて一目でそれとわかる姿をしている。制服のないこの学校では、家庭の経済状況が生徒の服装に現れる。十一歳のイザベラは、どこか外国風の雰囲気のある美しい服を身にまとっていて、周りと比べて遜色がないどころか、愛情もお金もたっぷりかけて育てられたように見えていた。
一年のころは今よりも髪の色が薄く、ほとんど金に近かったから、背中までおろしたたっぷりとした髪は自然とみんなの目を引いた。
色素の薄い青い目ばかりが精悍で、きつい顔というわけでもないのに、不思議と強い印象を与える顔つきをしていた。
教師が二人の奨学生の名を告げたときは、生徒たちの間から驚きの声が上がった。
「父は軍人だけれど、軍人の家系ではなくて貧農の出だから、豊かではないんだ」
家のことを尋ねられると、イザベラは涼しげに笑ってそう答えた。きちんと整えられた服については
「父の友人が恥をかかないようにとお古を仕立て直してくれたんだ。自分で仕立てたわけじゃないよ」と、少し恥じらうように目を伏せて答える。
奨学生として入学しただけあって成績は抜群で、教師の問いに鋭い眼差しではきはきと答える。貧しくても教養のある家庭で、かくあるべきとして育てられたのだろう――。級友たちはみな、彼女のふるまいを見てそう納得した。
ラテン語が苦手そうなところを除けば、彼女に奨学生らしいところは一つもなかった。授業中も、教師にも周りの生徒に遠慮することなく自分の意見を言うさまは、家庭教師に教育されてきた多くの子女からは新鮮で、それでいて近寄りがたい雰囲気も感じさせていた。
それが思い違いだったと級友たちが気づくのは、その最初の週の最終日のことである。
金曜日の最後の授業は数学で、はじめての週末を前に浮き立った生徒たちは、ほとんど授業に身が入っていなかった。教師のほうでも、一年の最初の一週間の疲れを察して、平易な問題にとどめるのだが、それがまた、少女たちの眠気を誘う。
十月、窓の外では高木から丈の低い草までが鮮やかに色づき、みなの休暇への思いを煽るように揺れていた。
授業が終わると、どっとため息が漏れた。うつらうつらしていた多くの生徒は、やっと開放されたというようにと机につっぷし、体を伸ばし、食堂に向かうべく荷物を整え始めた。
そのときである。
リスがいる!
夢うつつの状態で窓の外を眺めていたイザベラが、突然高い声をあげた。
級友たちが驚いてそちらを見たときには、イザベラはもう開け放たれた窓をひょいと飛び越え、スカートのひだを腕に抱えて芝生の上を走り出していた。
ハーゼ(野うさぎ)が野リスを追いかけている――。
教室内の級友たちは、あっけにとられてイザベラを見つめていた。
野リスはイザベラに気づくと一目散に駆け出して、生け垣の下に潜り込んで見えなくなった。野うさぎの姓を持つ少女は生け垣まで走っていって、四つん這いになって野リスの見えなくなった穴をのぞきこんでいる。
「ほんとうに野うさぎ(ハーゼ)ね……」
誰からともなくそんな言葉が飛び出して、級友たちは互いに顔を見合わせた。
ギムナジウムに通うような女の子はこんな風に走り出したりしない――イザベラがそう気づいたときにはすでに遅かった。イザベラは慌てて立ち上がると、スカートをバサバサとはたいて回れ右をした。
「リスには逃げられたの? ハーゼ」
窓の外まで戻ってきたイザベラに級友の一人が声をかけると、彼女は赤い頬で頷いた。
「ちょっとハーゼ、玄関から入ってきなよ!」
窓枠によじ登ろうとするイザベラを別の子が慌ててたしなめると、イザベラは耳まで真っ赤になって、大慌てて玄関から教室に戻った。
イザベラが戻ると、教室内は不思議な空気で満たされていた。ぽかんとしてイザベラを見つめる子、肩を震わせて笑っている子︙︙。
「見事な走りっぷりだったわよ、野うさぎちゃん」
一人が笑ってそう声をかけると、一斉に笑いがはじける。イザベラは真っ赤な顔であいまいに笑って、教室をぐるりと見回していたが、みんなの視線が自分に向いているのに気づくと耐えかねたように顔を覆って叫んだ。
「あー、恥かかないように頑張ってたのに!」
イザベラの走りっぷりは教員室からも見えていた。
「面白い子が入ってきたねえ!」
真っ先に嬉しそうな声をあげたのは、物理科のディートリヒ女史である。眉をしかめた教師もいたが、それを見越して先に声を上げるのが、彼女のいつものやり方だった。
「ジーニー・マクレガーもとんでもないけど、あの子も……なんて名前だっけ?」
女史はクッキーをかじりながら、キョロキョロと机を見回し名簿を探す。
イザベラ・ハーゼだ、と誰かが言うと、そのあまりにもぴったりな名前に教員の間でも笑いが起こった。
そのイザベラが、今度は髪を切り落として現れた――。級友たちはもちろん、教員もその姿にざわついた。野リス事件であっさりと本性をみせたイザベラだったが、上品な服までその場しのぎの装いだったわけではなく、本人は着飾るのが好きなようで、スカートを振り乱して走り回るくせに、いつも可愛らしい服を着ている。髪を結うのもおっくうではないようで、時間があるときは自分が走り回るのを見越してきっちり結い上げて、その器用な手先で友人の髪なども結ってやる。放課後の談話室で、イザベラが友人の髪を櫛りながらおしゃべりに興じる姿をディートリヒ女史も何度か見ていた。
今や、開き直って自ら「猫っかぶりの野うさぎ」と笑うイザベラは、お調子者だがそのぶん度胸があって、入学時からそのふるまいを面白く思いながら眺めていたが、あの変化はさすがに何かあったのだろうかと不安にもなる。
十三歳、思春期である。イザベラに限らず、雰囲気が変わったり、不安定になったりする少女は多い。他の子と同じように揺れ動く時期なのだろうと、教員室でコーヒーを啜りながら、幼い頃の自分を思い出す。
「どうしたんでしょうかねハーゼは」
ハーゼの名前に、思わず耳が反応する。
「どうします、ジーニーのようになったら」
男性教師らがそう話しながら入ってくる方にくるりと顔を向けながら、
「なったら、何か問題でも?」
とディートリヒはにっこりと笑った。
男性教師たちは気まずそうにああ、とかいや、とか呟くと、顔を背けて自席に落ち着いた。
「男かな」
ルイーゼの言葉に、ジーニーは目だけ動かして隣の席の友人を見た。
一年から五年までが食堂に集まっていた。木製の長テーブルのいちばん隅の席に腰掛けて、ジーニーとルイーゼは静かに食事をとっている。生徒は各学年に二十人程度しかいないが、食堂は百人も入ればいっぱいで、少女たちは二つの長テーブルに身を寄せ合ってスープを啜っていた。
「何が?」
黒パンをかじりながらジーニーが言う。ルイーゼはちらりと他の同級生たちの方に目を向け、「髪切った理由」と続けた。イザベラを含む数人が、斜め向かいで食事をしている。その頭どうしたの、と同級生だけでなく上級生からも驚かれ、かっこいいかなと思って、と照れたようにと笑う。
「なあにその理由」と隣でアナが口を尖らせるのが二人ジーニーの耳にも聞こえた。
ジーニーは、頬張ったパンを飲み下してから「なんでもイデオロギーに結びつけるのはよくない」といつものとろんとした目のまま言ってスープをすする。
イデオロギーね……と口の中で繰り返して、ルイーゼは苦笑しながら肩をすくめる。
「だいたい、男が理由で髪を切るってどういうこと」
ルイーゼは、黒パンにバターを塗りながら少し考え込み、
「好きな男ができたとか、男に振られたとか……逆に、言い寄られたのが嫌で切っちゃったとか……」と続ける。
ジーニーは食事の手を止めずに友人の話を聞いている。
「それから、親に結婚を勧められて反発してとか?」
明るい調子で四つめを付け加えると、ルイーゼはどう? と言うようにジーニーをちらりと見てパンをかじった。
「その中からなら三つめ」
「四つめは?」
「ハーゼの親はそんな変態じゃない、たぶん」
変態、という言葉にルイーゼは小さく笑った。
三年生のもう一人の奨学生、ジーニー・マクレガーもまた、イザベラとは違う意味で人の目を引く生徒だった。他の生徒よりも頭一つ高い背丈、そばかすだらけの顔に、短く刈った波打つ赤髪。貧しい移民の出で入学当初は兄の古着を着ていたから、最初は誰もがその出で立ちに驚いた。入学時は十一歳だったが、その外見は十三・四の少年のようで、一目で彼女が奨学生だということが見て取れた。
奨学生の中には、学校の雰囲気に馴染めず、同級生らとの間に壁を作ってしまう者もいる。せっかくその頭脳を見込まれ入学しても、その能力を存分に開花させることができずに脱落してしまう少女も少なからず存在した。ジーニーの姿を見た教師たちは、彼女もそうなってしまうのではないのかと危ぶんだ。もうひとりの奨学生のイザベラが、野リス事件のあとに却って友人らと打ち解けていったのに対して、自ら級友たちと馴染んでいこうとしないジーニーは、早々に教室で孤立し始めていた。
けれど、教師たちの心配は杞憂であった。周りがどれだけ心配しようとも、彼女自身が自分の孤立も、級友たちと話が合わないことも、何一つ苦にしていなかったのである。
ジーニーを奨学生にと推薦した、貧民街で慈善活動を行っている修道女たちは、マクレガー兄妹を突然変異だと言い表した。ルノンからザッセンに流れてくる貧民は多く、そうした者のほとんどがザッセン語を話すことはもちろん、ルノン語の読み書きもあやうい。兄妹の両親もまた、人口が飽和し貧民の増加したルノンの都市部からザッセンに流れてきた人たちだった。
長男のロニーは二歳でアルファベットを読み始め、四歳になるころには大人向けの本を読み、五歳になると修道院の図書室に入り浸った。多くの人々に長男のことを天才だ天才だと褒めそやされて、夫妻は二歳違いの妹をジーニー(賢い子)と名付けた。天才と名付けられた娘は、名を体現するかのように、兄のマネをしながら知識を蓄えていった。
教室では孤立気味のジーニーだったが、その堪能なルノン語に惹かれて声をかけたのが一歳年上のルイーゼである。語学が堪能なルイーゼは、ジーニーにルノン語を教わる傍ら、ラテン語を教えた。ラテン語の堪能な教師は市井には少ない。奨学生が一様にラテン語を苦手とするのはこのせいで、ジーニーはラテン語の読み書きは一通りできたものの、辺境のラテン語教師の影響で発音だけがめちゃくちゃであった。その発音を矯正しながら、学校では学べないようなルノン語の俗語までをジーニーから教わる、という形で、頻繁に連れ添うようになっていた。
「ジーニー、あとで部屋行っていい? 新しい本を買ったんだけどわからない単語が多すぎて」
パンの最後の一切れを飲み込んでから、ルイーゼ言う。本とは、ルノン語の小説である。語学が堪能なルイーゼは、学年で習うルノン語の長文を飛び越えてさまざまな外国語の本を読む。ルノン語が母語のジーニーは、よくその読解の手伝いをしてやるのだった。
「いいよ、マイヤー先生も夜までいないし」
ジーニーは三枚目の黒パンを何もつけずに頬張りながら、もごもごと答える。
生徒たちは通常、四、五人の相部屋で寝起きしているが、ジーニーだけは例外で、寮を監督する教師との相部屋で、ルイーゼはすっかりそこに入り浸っている。
やった、とルイーゼが笑う。
「休暇の話も聞きたいし」
ルイーゼが指先と口を布巾で拭きながらそう言うと、ジーニーはもぐもぐと口を動かしながら眉根を寄せる。
「たいくつだったよ。ロニーも帰ってこなかったし」
「学校に残ったの?」
「いや、友達と先生の家に行ったらしい。天体観測をしに行ったって」
「いいなあ、楽しそう」
心底羨ましそうに言ってジーニーの横顔に目を向けたルイーゼが、急に真顔になった。ルイーゼは友人の顔を覗き込むように顔を近づけると、「ジーニー、ちょっとごめん」と言って、ジーニーの額にかかる赤毛をかきあげ、おでこにぺたりと掌を当てた。
「やっぱり」
ルイーゼが顔をしかめる。
ジーニーは頭を押さえられているのにも構わず新しいパンに手を伸ばそうとしたが、黒パンが山になっていたかごがもう空なのに気づくと、目をつぶって観念したように頭をたれた。
「ゆうべまた本読んでたんでしょ」
「ご明察」
ジーニーは目をつぶったまま諦めたように答える。
ジーニーは頻繁に熱を出す。兄のロニーもジーニーも、何かに熱中すると寝食を忘れてそれに夢中になり、そのあとで熱を出す。熱のある間はこんこんと眠り続け、起きると空腹を感じて一気に食事をする。部屋が一人だけ例外なのもそのせいで、授業と自習でめちゃくちゃに勉強した翌日は、教室にも食堂にも現れないことが多かった。
飛び級をしてもおかしくない頭脳を持ちながらそれをしないのは、ひとえにこの体調のせいだった。
「でも、今日はそんなにたいしたことない」
「そんなこと言って、今日話しこんだら明日出てこないんでしょ」
手を離し、食べ終わった食器を重ねながら、ルイーゼは言う。
「おとなしく寝てなさい」と言われ、ジーニーは子供のように素直に「はい(ヤー)」と頷いた。
入学時に人目を引くような貧しい身なりをしていたジーニーは、その後教師に言われて奨学金で服を仕立てて、二年に上がるころには、目立つがそれなりに教室に馴染むようになっていた。
出自にしろ体調にしろ、学校内ではとかく異端なので孤立してしまうのではないかと心配した教師も多かったが、勉学に熱中しすぎる以外は特に問題もなく、友人と積極的にかかわらない代わりに、揉め事を起こすこともなければ、素行不良を咎められることもなかった。
むしろ、揉め事は教師との間での方が多かった。
「ハロー! フラオ・ディートリヒ。精が出るわね」
中庭で、生け垣に残っていた冬至祭の飾りを片付けていたディートリヒは、背後から聞こえた明るい声に手を止めて振り返った。同僚のコッホ女子が、凍った芝をざくざくと踏みながら、両腕を広げて大股で歩いてくる。
「ハロー! フラオ・コッホ。手伝ってくれるの?」
ディートリヒは、飾りの一つを片手で持ち上げて笑顔を向ける。
「あとこれだけ?」
と尋ねると、コッホはスカートを抱え込むようにしてしゃがみこみ、生け垣の下の方のオーナメントを木の枝から外し始めた。
町ではすでに冬至祭の雰囲気は消え去っているが、学校は冬至祭と同時に休暇に入るので、いつも片付けは休み明けになる。寮では子どもたちが人形棚や聖樹飾りを片付けているはずだった。
二人は休暇の話をしながら飾りをひとつひとつ籠の中に入れていく。木彫りの天使の人形や、きらきらとしたガラス玉は、学校が開校してから教員や生徒たちが少しずつ持ち寄って、増えていったものだった。
最後のひとつを外し終え、ディートリヒが籠を抱えて立ち上がると、コッホは傍らを歩きながら
「ジーニーのようには、なろうとしたってなれないわよねえ」
と含み笑いをしながら囁いた。ディートリヒは、一瞬なんのことかと考えて、すぐに気づいて笑いだした。コッホは、教員室でのディートリヒと男性教師のやりとりを聞いていたのである。
「あの二人、どっちも変わり者だけど、性格は全然違うじゃないの」
言外に、あいつらは生徒を全然見ていないのだという気持ちを含んでいるのがディートリヒには伝わってくる。
「ヘルマン先生はジーニーにやり込められたことがあるから。ハーゼまでそうなるのが怖いんだろうね」
ディートリヒが言うと、コッホは豪快に笑った。
「アレは痛快だったわよね。あなたは聞いてたんだっけ? 羨ましい」
「言えば再現してくれるんじゃない? 彼女なら自分が何言ったか覚えてるだろうし」
ディートリヒの言葉にコッホは「末恐ろしい子ねえ」と苦笑する。
「聞いてみたいけどさすがにそれはね。ま、学校にいればまた何かあるでしょ。次に期待してるわ」
ジーニーがまたやらかすことを前提にした同僚の言い方に、ディートリヒはくっくと笑う。
「次は誰が犠牲になると思う?」
ディートリヒが声を潜めて尋ねると、コッホは少し考えてから口を開いた。
「やっぱりまたヘルマン先生じゃない?」
女性教員に痛快と言わしめた「アレ」とは、ジーニーたちが二年生の頃に起きた、ちょっとした珍事である。イザベラが本性を表したのが野リス事件なら、ジーニーが本性を現したのはそのヘルマン先生の歴史の授業であった。
授業中、教師が数十年前に成立した女性参政権の話に触れたときである。
「とはいえ、女の本分というものは子を産み育てることにこそある」
ヘルマン先生は、自身の持論を話し始めた。そうした考えをもつ人は男女ともに少なくなく、生徒たちの中にもこの言葉だけなら同意する者は多かった。しかし、ヘルマンはそれ以前から生徒たちからあまり好かれていなかった。
少しばかり走り回れば、娘のくせに嘆かわしいと言い、授業中には他の女性教諭を侮蔑するようなことも言う。
また始まった、という気持ちが生徒たちの間に広がった。
ヘルマンの持論の矛先は、目の前に生徒たちに向けられる。
「君たちがいくら優秀だとはいえ、君たちはいずれ子を産み、育てる。所詮、その崇高な使命を遂行しながら男に敵うようにはできていないのだ。君たちの中には大学に進む者もあるだろうが、女としての本分を疎かにしては――」
学校理念の否定ともとれるようなヘルマンの演説をぶった切ったのは、生徒たちが聞いたことのない言葉だった。
――”くっだらねえなあ“
教室に響き渡った低い声に、みんなは一瞬きょとんとなった。それから声のした方を振り向いた。ジーニーが、口の端を歪めて笑っている。それを見た生徒の何人かは、それがルノン語のスラングらしいと思い当たった。生徒たちは意味はわからないまでも、何か不穏な言葉が吐かれたことは感じ取って、息を飲んでジーニーとヘルマンを見比べた。
ヘルマンは、怒るよりも驚きが勝ったようで、見たことのないような表情をしている教え子を見つめている。
「すみません、気分が高ぶるとつい母語が出てしまいまして」
ジーニーは丁寧なザッセン語で改めて言い直す。それとともに、顔からいびつな笑みも消える。
ジーニーの声にヘルマン先生は我を取り戻し、憮然として声をはりあげた。
「マクレガー! ”くだらねえ”とはどういうことだね」
「くだらない、という意味です」
ジーニーはスラングをザッセン語に言い換える。
「そんなことはわかっている! 今の発言の意図を聞いているんだ」
「言葉のままの意味ですが」
「私の発言がくだらないというのかね」
「はい」
悪びれる様子も物怖じする様子もないジーニーに、教室中ははらはらとした空気に包まれる。
「それがどういうことかと聞いている!」
ヘルマン先生は黒板を叩いて声を上げる。
「……ええ、わかりません?」
ジーニーは困惑げに言う。煽っているように聞こえるが、本気で困惑しているようでもあり、生徒たちには判断がつかない。
「マクレガー! はっきりと言い給え。君は私の考えを否定するのかね」
「はい」
「それならばその根拠を述べてみろ」
ジーニーは口を開きかけて、一瞬目を泳がせた。
「……ルノン語でもいいですか」
「今はルノン語の授業ではない!」
ジーニーはため息をつく。
「わかりました」
ジーニーはゆっくりと立ち上がった。そのときのジーニーは、一年の冬に仕立てたきちんとした服を着ており、まっすぐに立つとその長身がさまになるようになっていた。
おもむろに口を開いたジーニーは、ザッセン語で女性参政権運動について述べ、それに関わった活動家の思想を述べた。
事実を淡々と述べるだけだけのジーニーに、(このとき多くの生徒が「ヘルマン先生の話よりわかりやすい」と思っていた)ヘルマンは
「そんなことは私の授業でやったことだろう」とジーニーの話を中断する。
「話の流れで必要なことだったので」
とジーニーは悪びれずに言い、授業では触れていないような、ある実験の話をし始めた。叱りつけるタイミングを窺っていたヘルマンは、いらいらとした様子で「そんな話は聞いたことがない」呆れた顔を作ろうとする。
「ルノン語の論文にあります。まだ翻訳されてないんですよ。学者の怠慢です」
暗にそれを読んでいないヘルマンを批判する言葉である。ヘルマンは激高した。
「いい加減にしたまえマクレガー! 女にそんな知識は必要ない。君がいい例だ。女が知識を身につけると君のように小賢しくなる!」
「男であればそのようには言われないでしょう」
ジーニーの声が鋭くなっていく。
「君はメスだ!」
ヘルマンは怒鳴った。
「いいえ!」
ヘルマンの言葉にかぶる勢いでジーニーが答える。いつも眠たげに半分閉じられていた目は、今はくっきりと開かれて、淡い茶色い瞳がはっきりとヘルマンを見つめている。
「私は人間(man)です」
ジーニーは静かに、けれどよく通るはっきりとした声で言い切った。
ヘルマンが使った「メス(Weib)」という言葉は、かつては「女」を指す言葉だったが、今では侮蔑的な意味を持つ言葉として、公の場では使われない。ジーニーはそれを即座に否定したのだった。
「話にならん、君は男(Mann)ではない」
そう言って教室を出ていこうとするヘルマンに、
「今のWeibという言葉は取り消してください」
と声を上げる。さすがに自分でも失言だったと思ったのか、ヘルマンは扉の前で立ち止まり、「それは確かに間違っていた。君は女(Frau)だ。人間だ。しかし決して男(Mann)ではない!」
始めは多少落ち着いついていた声音が、おわりのほうでは叫ばんばかりになっている。
「勉学において差はありません、なぜなら――」
「くどい!」
言いかけた言葉をヘルマンに中断されたジーニーは、ぎっと顔をしかめると
「”めんどくせえな、わかんだろルノン語ぐらい”」
と早口で吐き捨てた。
その早口のスラン語混じりのルノン語は、ルイーゼにだけは聞き取れたが、ヘルマンにはわからなかったらしい。ヘルマンは一瞬口を開いたまま固まった。その一瞬の間を突いてジーニーは一気に喋り始めた。
ジーニーはルノン語になると急に口調が荒くなり、表情まで変わる――そういう噂は以前からあった。しかしジーニーとルノン語で一通りの会話ができる生徒などルイーゼぐらいだったから、他の生徒はその片鱗しか見たことがなかった。
まるで別の人格が乗り移ったように、ジーニーの目つきが鋭く豹変する。そこからはジーニーの独壇場だった。
「ザッセンではこのように言われていますが」と、言えるところはザッセン語で話しながら、何かの概念を表す単語や引用は「フラオ・ウフルはこのように言います」と前置きをしてからすべてルノン語でぶちまける。さきほど吐き捨てたようなスラングとはうって変わって、大学でも通用する正しいルノン語である。だが、母語を話すときと同様に表情はころころ変わり、ときには嘲笑的な笑みさえ浮かべた。
豹変したジーニーに、ヘルマンは毒気を抜かれたようにぽかんとしていたが、それでもジーニーの言葉の意味をなんとかザッセン語に置き換えて理解すると、すでに赤くなっていた顔はさらに赤く、目はぎしぎしとつり上がっていった。けれど、そこに切り込むことができない。
――あのヘルマン先生が押されている!
生徒たちはジーニーの言葉がほとんど理解できなかった。しかし、ヘルマン先生が顔を真赤にしていること、そのくせジーニーの言葉を理解しきれてないことなどは伝わってきて、二人を見比べながら無言のままジーニーに喝采を送った。
ジーニーが一年の冬に仕立てた服は裾のたっぷりとしたズボンだった。スカートは嫌だ動きやすいものがいいとジーニーが言い、仕立て屋が面白がって最先端のデザインを取り入れたものだったが、背の高いジーニーにはよく似合っていた。そのジーニーが、二つの言語を器用に使いこなして、演説をするように語る姿は、少女たちには年上の青年のように見えた。
「申し訳ありません、ザッセン語でどう訳したらいいのかわからない言葉が多すぎて、ルノン語に頼ってしまいました」
ひとしきり話し終えると、ジーニーは声の調子をぐっと押さえて、いつもの口調になって言った。
「どちらの言葉でも説明できるように精進します。授業を中断してしまい申し訳ありませんでした」
そう言うと、軽く頭を下げて席についた。顔を真赤にしているヘルマン先生とは対象的に、ふう、と息をついたジーニーは、もういつもの眠たげな顔に戻っていた。
ヘルマンは何も言い返さなかった。その姿は、生徒たちには言い返せなかったようにしか見えなかった。
ヘルマンは、赤い顔のまま釣り上がっていた目をゆっくりと閉じ、大きく息を吸うと、
「マクレガー、君の態度は大いに問題がある」
と、肩を震わせてゆっくりと言った。
「君は、この学校にふさわしくない。あとで校長から話があるだろう。待っていなさい!」
ヘルマンはそう言い捨てると、ドアを乱暴に閉めて教室を出ていった。
教室中がしんとなった。
――ジーニーが退学になってしまう……?
ヘルマン先生の足音が聞こえなくなると、少女たちはこわごわとジーニーの方に視線を向けた。
当の本人は、走り回ったあとの子供がうとうととするように、椅子にだらりと腰かけて目を閉じている。さっきまでの迫力はもうどこにも残っていない。
沈黙を破ったのは、机を叩く音だった。コン、コン……と、指で机を叩くものがいた。ルイーゼである。机を叩くのは拍手と同様、賛意を示す行為である。
級友の中で唯一すべてを聞き取れていたルイーゼは、ジーニーの言葉の一言一句に頷いていた。顔を上げたジーニーと目が合うと、最高だった! という気持ちを込めて、にこりと笑みを浮かべてみせた。
ルイーゼの叩く机の音に気づくと、他の生徒たちもコツコツと机を叩き始めた。まばらに、しかししっかりとした称賛の音が教室中に広がっていく様子を、ジーニーはぼんやりと眺めていたが、やがてはっと気づいたように椅子に座り直すと、教室を見回し
「ごめんなさい、授業中断しちゃった」
と、眠たげな目で申し訳なさそうにそう言った。
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