敬語考

 会社にかかってきた電話を取ると、相手は私の派遣元の営業であった。
 私は、いわゆる派遣社員である。派遣会社であるPスタッフに雇用されながら、編集プロダクションに派遣されている。
「上田社長いらっしゃいますか?」と営業の吉岡さんは言う。私はちらりと上田社長の席の方に目をやった。社長は、さっきトイレに行ったか郵便局に行ったかで、フロアから出て行ったばかりである。
 私は吉岡さんに上田社長の不在を告げようとして、一瞬考えた。
 通常、社内の人間が社外の人間に対して、社内の人間についていうときは、敬称や職務は言わない。「上田は今、席を外しております」が正解である。しかし、ここに派遣会社が絡むと厄介である。私は派遣会社の身内であり、編集プロダクションがお客様である。吉岡さんがプロダクションに来たときは、吉岡さんは「弊社の梅澤はどうでしょうか」という言い方をする。また、まだそういう会話をしたことはないが、私が上田社長に吉岡さんのことを言うときは、「Pスタッフの吉岡」と言わねばならず、また、吉岡さんに対しては「上田社長」と言うのが正しい。
 だからこの場合、「上田社長は席を外して~」が正解、だと思う。しかし、電話の相手がPスタッフの営業であり、派遣社員の私にとって身内にあたる人間だということは、私しか知らない。つまり、他の社員が聞くと、ただ単に私が常識のない人になってしまう。
「少々お待ちください」
私は保留ボタンを押して時間稼ぎをした。社長はさっき席を立った、と思ったのだが、私は自席とコピー機を行ったり来たりしていたので、私の気づかぬうちに戻っているかもしれない。社長の席は私の席の右手奥にあるが、私の席から社長が在席しているかどうかはわからない。なぜなら、社長の机の上には人の背よりも高い書類の山ができていて、その山の向こう側に回り込まねば社長の姿は確認できないからだ。社長は戻っているだろうか……と、確認のために席を立とうとしたところで、社長がフロアに戻ってきた。
「社長! Pスタッフの……」と言いかけて私はまた考えた。吉岡から、でいくか? 吉岡さんから、でいくか? と判断する間もなく、社長の方は「ああ吉岡さんね!」と言い、自席に戻って電話を取った。
 こうして私の葛藤は私の内部で完結し、表面的には何の問題もなく、電話の取次ぎミッションは完了した。
学生時代からのアルバイトを七年、派遣社員を足かけ六年やってきた私は、いわゆる新人研修というものを受けた経験がない。電話対応もメール対応も、見よう見まねでやっている状態である。
「拝受」? そんな言葉あるんですね! このメールの文面、二重敬語になっているけれど、削ると却って不遜な感じがしてしまうからこのままでいいかな? 「了解」が失礼にあたるという話が一時期インターネットで話題になっていたけれど、あれは結局根拠のない話だったんだっけ……? 等々。
幸い、私の仕事は接客対応ではなく、取引先も同業者であることがほとんどなので、敬語についてのミスが致命的な問題になることはないと思う。しかし、世の派遣社員の中には接客業についている人も少なくないはずである。派遣元と派遣先と派遣社員が同席する場合の言葉遣いなどはどうしているのだろうか。小学生・中学生向けの国語教材には、尊敬語・謙譲語・丁寧語の使い分けの問題が入っているが、私の知らないところで、派遣会社および派遣社員向けの敬語の使い方マニュアルや研修が広まっているのだろうか。派遣社員が派遣元の営業に対して派遣先の社員のことを呼ぶ場合には役職を付けなさい、等々。多くの派遣会社から派遣社員を取っているような会社の場合、誰がどの派遣会社に所属しているかはわからないから、電話対応の場合は一律に「社外の人間」として扱うのが無難かもしれないが、それにしても厄介なのは日本の敬語問題である。

思えば、子供の頃から敬語にはずいぶん苦しめられてきた。敬語というと、他人や目上の人に対して使うものだが、私の場合は家の中でたいへん困ったのである。
 私の家はいわゆる二世帯家族であった。法的な意味での世帯となると、同一世帯だったのか二世帯だったのか判然としないのだが、要するに父方の祖父母、両親、私と弟という同居型、三世代家族であった。
我が家では、母は祖父母に対して敬語であった。義両親に対して敬語を使うかどうかは家庭によりけりだろう。父の妹である叔母家族もまた二世帯家族だったが、叔母は義両親に対してタメ口なのである。(敬語の反対語としてもっと適切な言葉はないかと探してみたのだが、「常体/敬体」では書き言葉になってしまうので、ここではやむなく「タメ口/敬語」という表現を用いる。)
私は、自分が祖父母に対してどっちを使っていたか、はっきりと思い出せない。ただ一時期混乱していたことだけはぼんやりと覚えている。子供が言葉を覚えるとき、親の言葉遣いを真似するものだと思う。幼い頃はおそらく何も考えずに覚えた言葉を並べていただろうが、敬語というものがあることをうっすら理解するようになってからは、何が正解かわからなくなった。子供なりに、祖父母が父と叔母の両親だということは理解していても、その血縁関係が敬語を使うかどうかに影響しているということまではわからない。私から見れば、両親はセットで、祖父母もセットで、叔母夫婦もセットで、私から見た距離感というのは二人一組単位で成り立っていた。
さて、これが母方の実家に行くと、さらに混乱が強まるのである。母は三人姉弟の真ん中で、姉と弟は家を出て結婚し、それぞれの家庭を持っている。母が実家に行くと、当然親にはタメ口である。姉と弟にもタメ口である。しかしその配偶者には敬語である。そして父はと言えば、母方の親類全員に対して敬語である。
子供心に、「自分から遠い人には敬語、近い人にはタメ口」ということは理解していた。そして私にとって、父方の祖父母よりも母方の祖父母の方が「遠い人」であった。しかし母は、その「遠い人」に対してはタメ口を、「近い人」に対しては敬語を使う。さらにややこしいことに、母方の家は祖父が厳格な人であったために、祖母が祖父に対して敬語を使う家であった。
もう、わけがわからない。
小学校低学年の頃、当時の国語の教科書には、サザエさんを例にして、家族の呼称の一覧を勉強する単元があった。ここでの家族の呼称とは「お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、ねえさん……」等のことである。この単元はすんなり理解できた。かんたんである。自分との関係性を理解して呼べばいいだけのことだからだ。私が知りたかったのは敬語の方である。
サザエさんは、呼称の勉強にはいいかもしれない。しかし、敬語の問題になると、サザエさんの世界はあまり参考にならない。マスオさんは義両親に敬語である。これはわかる。カツオやワカメはマスオさんに対してタメ口である。このあたりからもうややこしい。義兄に対する話し方は、人によって異なるだろう。そして最年少のタラちゃん、これは非現実的である。まだ幼児でありながら、家族全員に対して敬語である。こんな幼児は現実にはいない。
いやしかし、私自身の経験を振り返れば、敬語とタメ口の使い分けができていないためにすべてが敬語になってしまう、そんな子供もいたのかもしれない。一番非現実的な存在に見えるタラちゃん、しかしタラちゃんこそ、私に最も近いキャラクターだったのではないか?
あの教材は今でも国語の教科書に載っているのだろうか。あれは二年生だったか、三年生だったか。小学校の補助教員をしている母に聞いてみたが、一年生しか見ていないのでわからないとの答えだった。
 そもそも、私がこんな子供の頃の敬語問題を思い出したのは、職場の電話対応だけでなく、この母のせいでもある。
 母はもう二十年以上も小学校の補助教員をやっている。補助教員の仕事の形態は、市町村や学校によって異なるらしいが、母に関していえば、一日五時間程度、週三~四日出勤し、教室でじっとしていられない児童や、勉強についていけない児童などの援助をしている。その母がよく「最近の子供は敬語が使えない」とこぼすのである。
 年配者の言う「最近の若者は~」という言葉は、思い込みや偏見であることが少なくないが、市内の小学校、それも一年生ばかりを二十年以上見てきている母の言葉なので、それなりに説得力がある。全体的な傾向なのか近隣の小学校に限った話なのかはわからないが、少なくとも母がそのように感じるだけの変化はあるのだろう。
 家族が多かったり親戚づきあいの多かったりする環境だと、自然と敬語を耳にする機会は多いだろう。核家族だと、親が他人に敬語を使うのを聞く機会そのものがないのかもしれない。しかし私は、母とそんな話をしながら思うのである。「そうはいっても、私もそんなにうまく敬語が話せたわけではないよな」と。
 敬語の仕組みを理解していなかったエピソードとして、小学一年か二年のときの作文の思い出がある。運動会について書いた作文で、前後の内容は忘れてしまったが、私は次のようなフレーズを書いた。
わたしは、せんせいに、
「どうもありがとうございます。」
といいました。
 この頃、私は敬語の仕組みこそ理解できていなかったが、「敬語はあまりやりすぎるとゴテゴテしてしまう」ということはなんとなく理解していた。私が問題視したのは、「どうもありがとうございます。」という文句である。「ありがとう」に、「どうも」と「ございます」がついている。このとき私は、「二つは多い気がする」と思った。そして、どちらか片方にしよう、と考えた。当時私は、「どうも」も「ございます」も、同様の機能を持っていると思っていたのである。
 「どうも」という言葉のひびきが気に入ったのか、そのとき私は、「ございます」を消して提出した。すると、担任は私の作文に赤を入れてこう言った。
「先生に対する言葉だから、『どうもありがとうございます』にしましょうね」
 こういうとき、疑問をうまく言葉にして教師に伝えられるような性格ではなかった。当時はまだ親に話すこともままならなかった。私は「『どうも』があるのに『ございます』をつけるの?」というモヤモヤを抱えたまま、作文を家に持ち帰ることしかできなかったのである。
 この話をすると、母は「そんなことがあったの!」と驚いてから、今度は作文指導の難しさを愚痴り始める。昨日の出来事を書きましょう、と言っても書き出せない。出来事がないわけではない。「動物園に行った」という事実を文にして書きつけることができない子がいるという。「昨日は何したの?」「おでかけした」「どこに?」「動物園」「誰と?」「お母さんとお兄ちゃん」「何を見たの?」「ビーバー」「どうだった?」「かわいかった」「じゃあそれを書き出そう!」という感じで、なんとか単語単語を拾って文章を書かせる。私自身は、コミュニケーションではずいぶん苦労した記憶があるが、作文となるといくらでも書ける子供だったので、「いろんな子がいるなあ」と思いながら聞いている。そして同時に、「日本語難しいな」とも思う。今の内容を一文で書くなら、「ぼくは昨日、お母さんとお兄さんといっしょに動物園に行って、かわいいビーバーを見ました。」となる。二文、三文に分けて「ビーバーはかわいかったです」と続けることもできるが、「動詞を最後に持ってくる」というルールのある日本語だと、子供の言葉をそのまま書きつけただけでは、日本語の文章にならない。ひとまず動詞を最後に残しておいて、どこに、だれと、という修飾語を入れ、主語と述語でサンドイッチしないといけない。今の日本語は言文一致体ではあるが、「話し言葉」と「書き言葉」が根本的に違う。日常会話で右の内容を話すなら、「昨日動物園に行ったよ、お母さんとお兄ちゃんと一緒に。ビーバーを見たけど、すごいかわいかった」で済む。逆に、文章をそのまま話し言葉に持ってくると、何かを朗読しているかのような調子になってしまう。書き言葉は話し言葉ではないという、とんでもない壁がある。
 母と作文の話をしながら、私は伊藤比呂美のエッセイ『レッツ・すぴーく・English』を思い出した。娘たちを連れてカリフォルニアに移住した著者の、英語に関するエッセイなのだが、その中に関係代名詞についての項目がある。著者は、関係代名詞をかっこでくくる、いわゆる「お受験読み」ではなく、語順そのままに理解するべきだという話のあとに、次のような具体例を挙げている。

I read an interesting book わたしは面白い本を読んだんだけど、
そしてつづける、
that それはね、
I bought yesterday きのう買ったやつなんだけどね、
when それはね、
I went to the bookstore 本屋に行ったときなの、
weher そこにね、
they have sofas′ソファが置いてあるの、
………(以下、関係代名詞を使った文が続く)

 母との会話に触発されて、本を読み返して驚いた。まさに母と教え子の会話そのものではないか。日本語の作文で躓く子供も、こうした語順の言語であればスムーズに文章が紡げるのではないのか。「ぼくは行った、動物園に、そこにはね、ビーバーがいてね、それはね、とってもかわいくてね……」
 水村美苗の『私小説』に、アメリカでの国語や作文の授業のシーンがあり、それが日本の作文指導とはだいぶ違っていたことに驚いた記憶がある。高校の頃の英語の授業では、英語の文章は日本語の文章と違ってセンテンスの順番がどうこう、ということを習ったような記憶があるが、それよりもむしろ日米の小学生の「国語」の授業の違いの方に興味がある。日本のような話し言葉/書き言葉の壁はあるのだろうか。
 こういう話を母としていると、母が今度は小学校の英語ネタを話し始める。小学校では三年生ぐらいから英語の授業が始まり、そのためのALTの先生(Assistant Language Teacher この場合はネイティブの英語の先生)がいるのだが、この先生との会話の距離感が難しいというのである。どういうことかと聞いてみると、日本では、先生同士は基本的には敬語である。生徒から先生も敬語である。先生から生徒の場合は人によるが、かしこまった場面でなければタメ口になる先生が多いのではないだろうか。さて、ALTの先生の授業は、「ハロー〇〇(下の名前)!」で始まる。敬語もタメ口もない。曰く、「ハロー! ハウアーユー?」がカジュアル過ぎて違和感があるそうだ。英語が堪能な先生や若い先生たちは流暢な、あるいはカタコトの英語でALTの先生に話しかける。母も職員室で会ったときにはカタコト英語で話しかけてみる。しかしどうにも、文法以前に英語のテンションが難しい、と言うのである。
 その気持ちは、私もよくわかる。
 私はそもそも英語ができない。だから「わかる」と言えるほどわかってはいないのだが、英語を話すには自分の性格を多少なりとも変える必要に迫られる。テンションを一段二段高くしないと「I」すら発声できないのだ。
 もともと、暗記科目が嫌いであった。それゆえに英語も嫌いであった。高校三年の実力テストで偏差値二十九を叩き出し、同級生にも驚かれ、自分には語学を学ぶ能力がないと思っていた。しかし、趣味でドイツ語を学び始めたときに、語学学習には相性があるらしいと気がついた。ドイツ語は多分相性がいい。そして英語は、多分とてつもなく相性が悪かった。
 NHKラジオドイツ語講座を一年やった時点で、すでに十年近く学んだはずの英語よりも喋れるようになっていた。もちろんこれは、ドイツ語の習得スピードが早かったからではなく、それだけ英語ができなかったということである。
 ドイツ語の方が簡単だと感じた理由はいくつかある。発音が聞き取りやすい、綴りと発音が比較的一致している、品詞がわかりやすいなど、要するに私が英語で躓いたポイントで躓かずに済むのである。だが、そういった文法や発音の問題以上に大きかったのが、日本語のテンションを変えることなく会話ができると感じたことだった。あくまで初心者の印象でしかないのだが、日本語で言いたいことをそのままの勢いで伝えることができる。英語は文法の難しさもさることながら(ドイツ語の方が難しい、とよく言われるのだが、私には一目で品詞がわからず、単語同士の繋がりがわかりにくい英語の方が難解である)、発声の際の心理的ハードルが非常に高いのである。これは他の言語と比べてもそうなのだろうか。アメリカ英語とイギリス英語でもまた少し違ってくるのだろうか。
 さて、私の語学アレルギーを払拭してくれたドイツ語だが、学び始めて最初に驚いたのは、名詞に性があることと、敬語のような表現があることだった。
ドイツ語には、英語のYouにあたる単語が二つある。一つは敬称の「Sie(ズィー)」、もう一つは親称の「du(ドゥー)」である。親しい間柄であればduを、そうでなければSieを使う。この敬称、日本語の丁寧語のような形で使えるものだが、日本語と大きく違うのは、上下関係で使い分けるものではないということだ。
日本語の場合、一般的に自分より立場が上の人に対しては敬語を、下の人に対してはタメ口を使う。それに対してドイツ語の敬語は、お互いに同じ二人称を用いる。つまり、上下ではなく距離によって二つの二人称を使い分けているのである。
日本語の敬語文化に振り回されていた自分にとって、そして英語文化のカジュアルさになじめなかった自分にとって、これは新鮮であった。Sieからduに切り替えるときに、お互いに「duにしてもよいですか?」という確認作業が入るのもよい。(この「duにしてもよいか」を切り出すのは、上から下、女性から男性等の序列があるらしいのだが、複雑かつ私自身が理解できていないので割愛する)
一年間ドイツ語を独学した勢いで、ドイツに渡って語学学校に通った。
渡独して数か月、日常会話はまだまだだが、旅行で苦労しない程度にはドイツ語が理解できるようになってきた頃、乗る予定の長距離バスの手荷物に関するルールでわからないことがあり、フェイスブック経由で問い合わせのメッセージを送ってみた。
「こんにちは。質問があります。……」
日本では、公共交通機関がSNS経由で問い合わせに答えることはないと思う。しかし向こうでは、フェイスブックもツイッターも、窓口として機能していることが多いらしい。果たして、メッセージは返ってきた。手荷物の上限について詳しい情報が書かれている。私はひとまず安堵した。それから、文面を読み返して少し驚いた。返ってきたメッセージは、こちらに対して「du」で呼びかけていたのである。私のほうは「Sie」で書いていたにもかかわらず、である。
また別のとき、今度は乗る予定だった電車が大幅に遅延し、料金の払い戻し手続きをする必要に迫られた。駅の窓口で聞けば早いのだが、そこはヒアリングやスピーキングより読み書きの方がマシという典型的日本人である、今度はフェイスブックではなくツイッターのDMで問い合わせのメッセージを送ってみた。
「拝啓 ご担当者様 電車の遅延の返金についてお問い合わせしたく……」
この頃、すでに語学学校でビジネスメールの書き方を勉強した私は、その形式を守りながら「Sie」を使って問い合わせをした。カタコトだけれども、意味と誠意と丁寧さは通じるだろう……それぐらいの文章は書けていたと思う。こちらもすぐにメッセージは返ってきた。返金手続き用の書面のリンクも載っている。これを印刷して駅の窓口に持っていけばよいらしい。迅速かつ丁寧な対応であった。こちらの鉄道会社のDMは、「Sie」で書かれていた。
この使い分けは、実はSNSだけでなく、現実でもかなり混乱しているらしい。基本的には語学学校で学んだ通り、「初対面ではSie、親しくなってからdu」だが、このルールに変化が生じているらしく、特に地域差が大きいようだ。例えば移民や外国人の多いベルリンでは、敬称(Sie)は使わずに最初から親称(du)を使う若者が増えている。私は主にベルリンとハイデルベルクに滞在していたのだが、ベルリンでは、もう何年もドイツに住んでいるにも関わらず、英語で生活しているという人たちが少なくなかった。ベルリンの若者のdu文化の背景には、そうしたことが影響しているのかもしれない。
ちなみに、語学学校では基本的には先生も生徒も「du」だった。しかし、ハイデルベルクの語学学校で一日だけ臨時で教えてくれた先生は「私はSieを使います」と言って、三時間ずっと「Sie」で授業をしていた。日本の学校の先生でも、敬語の人とタメ口の人がいるが、そういう感じだったのだろうか。一律のルールがあるというわけではないらしい。
しかしこうなってくると、困るのは私のような異邦人である。相手に尋ねて済む状況であればそれでいいが、ことはそれだけに収まらない。
ドイツ滞在中、ある年配のドイツ人男性にはこう言われた。「いきなりduでくるのは失礼だから、怒らなければだめだ」と。そう、文化や流行ゆえの親称なのか、侮蔑の意味をこめた親称なのか、あるいは、言語初級者に対して子供に教えるような口調になったがゆえの親称なのかが判断がつかない。
こうした問題は、敬称親称問題以外にもよくある。全然普通ではないことを「こっちではふつうだよ?」と押し切ろうとする輩のことである。実際、ドイツで知り合った日本人女性で、「こっちでは男女同室で旅行するのは普通だから」と、男性に誘われた人がいた。彼女自身がしっかり者なのと、彼女の周りのドイツ人女性たちがこぞって「それはおかしい」「なくはないが相手によるし、その男はヤバイ」と一刀両断したことで事なきをえたが、異邦人の無知につけこむ手口は日本も含め、世界中にありふれている。「ベルリンではduがふつうだよ?」と話しかけてくる人間がいたとして、それが一般的な話なのか、その人の所属するコミュニティではそうなのか、あるいはただの馴れ馴れしい奴なのか、とっさには判断がつかない。
ツイッターなどで、日本の過剰サービスを批判する意図で、海外のレジは無愛想だ、日本もあれぐらい無愛想でいいのだ、いう内容の書き込みを見ることがある。しかし、ニューヨーク在住の美術作家、近藤聡(あき)乃(の)は、エッセイ漫画の中で、自分ひとりだと無愛想だった店員が、白人でアメリカ人の夫と一緒のときはにこやかになることに気づいた、というエピソードを紹介している。フレンドリーさも無愛想さも、それがその土地の普通なのか、外国人ゆえなのか、後者の場合はそれが親切心なのかその逆なのか、外国人の立場からは、なかなかわからないのである。
とはいえ、先に挙げたバス会社のような企業のSNS上のメッセージのduは、侮蔑であるわけがなく、やはりそういう方針なのだろう。
ドイツ滞在中、バス会社や鉄道会社だけでなく、語学学校や役所、宿泊施設ともメールやメッセージのやりとりをしたが、基本的にはSNSのメッセージはdu、メールはSieであることが多かった。「多かった」というのは、先述の鉄道会社のように、どちらにも例外があったということである。
ベルリンに滞在中、語学学校の先生に「Sieとduの使い分けが難しいです」と相談したら、「大丈夫、ドイツ人でも難しいから」と言われた。基準は違えど、敬語問題で頭を悩ませるのは、日本もドイツも同じなのかもしれない。
 ドイツ留学から数年が過ぎた。帰国時にピークに達したドイツ語力はすっかり落ち、今やときどきYouTubeで動画を見るばかりである。ドイツ滞在中に知り合った友人とは、今もたまにやりとりをするが、メッセージはすっかり翻訳アプリに頼りきりである。
「日本語の敬語は難しすぎる!」と、日本語勉強中の友人たちは言う。そのたびに私は「大丈夫、日本人も使いこなせていないから」と、いつぞや語学学校の先生に言われた言葉を繰り返すのであった。

いずれまたドイツに行きたいと思ってた矢先のコロナ禍である。渡独した勢いで作ってしまったドイツのオンライン銀行のカードの有効期限が迫っていた。おそらくもう使うこともないので口座を閉じようと、銀行に問い合わせをした。窓口になっているチャットのAIが「du」で話しかけてくる。こちらが返信すると、私の側に「du」と書かれたアイコンが表示された。その「du」から吹き出しが出て、「すみません、コロナ禍でドイツに戻れないので銀行口座の閉鎖を……」とメッセージが表示されている。途中から有人チャットに切り替わったが、やりとりはお互いにずっと「du」であった。
日本の場合は、砕けた口調のAIチャットもいることはいるが、銀行の有人チャットがタメ口になることはないだろう。SNSやチャットでは「du」が一般的らしいと理解してもなお、下の名前で呼びかけられ、「du」で会話をしていると、「なんでだよ」と思ってしまう。げに難しき、Sie/du問題である。
この銀行の本社はベルリンにあるらしいが、まさか仕事の場やビジネスメールでいきなりduになることはないだろう。しかし、欧州全土に広がりつつあるインターネット銀行である、企業公用語が英語である可能性は高い。そうすると、もはやドイツ語の敬称/親称問題は出る幕がなくなってしまう。ベルリン在住の外国人たちは、仕事でも英語を使っている人が少なくなかったから、十分にありえる話である。
対して日本はどうだろうか。都内では、駅のアナウンスは日本語と英語、画面表示は日英中韓、電器屋には多言語を話す店員がいたり、翻訳用の端末が置かれたりしているが、まだ「英語さえ話せればなんとかなる」という雰囲気はない。また、仮にそういう地域ができたとしても、日本語の敬語が消えることはないだろう……。そう思っていた。
ところが先日、妙なものを見つけたのである。
高校入試の過去問に目を通していたときのことである。それは、敬語に関する作文問題であった。教師に話しかける言葉としてどれがふさわしいかを選んだ上で、それを選んだ理由を述べよというものだったが、その選択肢というのが、尊敬語(先生、召し上がりますか)、丁寧語(先生、食べますか)、タメ口(先生、食べる?)なのである。
敬語の正誤問題であれば、タメ口を選べばバツである。尊敬語か丁寧語かのような微妙な問題もあまり出題されない。一般的な感覚からすれば、先生に対してタメ口は使わない。敬語として正しい尊敬語を選ぶか、丁寧語を選んだ上で「尊敬語だと他人行儀すぎるので」といった説明をつけるのが無難だ。しかしこれは正誤問題ではなく、作文問題である。まさか選択肢として準備しておきながら、タメ口を選んだ時点でバツ、などという酷い採点制度はとっていないだろう。作文問題の常識にのっとれば、タメ口を選んだ上で説得力のある作文を書けば、高得点が狙えるということだ。しかし、書くとしたらどんな作文が可能か? 先生に対してタメ口をきく、それを正当化するための論理とは?
思いつくのは、やはり外国語を根拠にするというアプローチだ。英語には敬語がない。いや、実際にはビジネスマナーもあれば丁寧な言い回しもあるのだが、日本語のような形の敬語はない。また、ビジネスマナーのような丁寧語を教師生徒間で使うとも思えない。日本では先輩後輩の上下関係も絶対で、中高の先輩に対しては成人してからもずっと敬語、というようなことが起こりえる。そうした文化に一石を投じる生徒を、この高校は求めているのではないだろうか。
あるいは、こういう視点はどうか。メディアが尊敬語を使う対象といえば皇室である。皇室に対する敬語に慣れてしまっている私でも、つい最近「眞子さま」がいきなり「眞子さん」に変わったことには強い違和感を覚えた。ルールとしてはそうなのだろうが、昨日まで「さま」呼びしていた人物が、ある日から「さん」呼びになる。なんだこれは。この変化をリアルタイムで見ていた中高生なら、日本の敬語の構造に疑問を持つかもしれない。そして、何十年も続いている、メディアと皇室の敬語問題に関する議論にたどり着くかもしれない。そこから日本語の敬語そのものに疑問を持つ生徒が、出てこないとも限らない。
来たれ、日本の敬語文化に物申す新入生。どこの都道府県の何年の入試問題だったか失念してしまったが、これは学校側からの中学生に向けた壮大なメッセージだったのではなかろうか。もしこの問題でタメ口を選んだ受験生がいたら、その答案を見てみたい。そしてその受験生がどのような高校生活を送るのか、こっそり見守りたい。
ちなみに、日々敬語に悩まされている私だが、全部タメ口でいいじゃないかといわれたら反対する。その距離感は近すぎる。それはちょっと、気持ち的に困ってしまう。派遣会社の電話応対一つで混乱に陥る私だが、要するに混乱の要因は尊敬語と謙譲語である。「日本の敬語は難しい」と言われる所以もここにあると思うのだが、果たして、なくなって困るものだろうか? 丁寧語さえあれば十分なのではないのか――?
受験生たちは、あの問題にどのような回答をしたのだろうか。言葉はナマモノである。今の中学生の感じる敬語の在り方や敬語への疑問などが、十年後、二十年後の社会を変えるかもしれない。そしてそのとき私は、間違いなくその時流に取り残される。「わし」や「~じゃ」といった言葉が、フィクションで老人語として使われるようになっていったように、「です・ます」が老人の言葉になることもあるのだろうか。
さすがに十年二十年ではそんなことは起こらないだろうが、友人とチャットで話していて「顔文字や記号の使い方が二十年前のインターネット掲示板を彷彿とさせる」と言われたことのある身としては、あながちあり得ないとも言い切れない、と思ってしまう。
毎回時候の挨拶を入れてメールを送ってくる取引先の、その時候の挨拶の末尾が「ですね…!」となっているのを見ながら、丁寧さとカジュアルさのバランスの絶妙さに感心しながら、こちらはどんなテンションでメールを返したらよいかと悩む。そして要件だけの味気ないメールを送ってしまう。すると先方は、変わらない「……!」のテンションのままで、こちらが先方の名前の漢字を間違えていることを指摘するメールを送ってくる。
真っ先に確認するべきは敬語ではない。要件を過不足なく誤字脱字なく書くことが最優先事項である。テンションがどうこうというのは、その後のことである。

さて、派遣法による三年雇い止めルールの影響で、私は運良く派遣先に正社員として雇われた。こうして、派遣会社を挟んだ敬語問題は解決するともなしに消えてしまった。
しかしビジネス敬語に疎い私は相変わらず「拝受 意味 使いどころ」などと検索しながら、メールをぽちぽち打っている。私のパソコンの液晶画面の縁では、「名前、電話番号 要確認」と書かれた付箋が揺れている。
(了)




引用・参照文献
伊藤比呂美(二〇〇五)『レッツ・すぴーく・English』岩波書店
水村美苗(二〇〇九)『私小説―from left to right』(ちくま文庫)筑摩書房
近藤聡乃(二〇二〇)『ニューヨークで考え中 ⑶』亜紀書房

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