ちくわぶの野望


 欧米はグルテン不耐性の人が多いから、グルテンフリー製品が充実していると聞いたことがある。
 数年前に一年間ドイツに滞在していた頃、小麦アレルギーだというドイツ人女性に会ったことがある。ベルリン滞在中に、向こうで知り合った日本人たちと「インターナショナルグリーンウィーク」という、食品の国際見本市に行ったのだが、そのとき日本人の友人が連れてきたのがその女性だった。自分もアレルギーを発症することになるとは知りもしない私は、「ドイツは小麦製品が多いから大変でしょう?」と日本語ドイツ語まじりの言葉で尋ねた。すると彼女は、こちらはグルテンフリーの食品が多いからそんなに大変ではないと言い、ちょうど見本市に出店していたグルテンフリー食品のメーカーを示した。そのメーカーの名前は忘れてしまったが、私もスーパーでときどき見かける商品で、値段もそれほど高くなかった。
 アレルギーを発症してから、家族や友人に「ドイツにいるときじゃなくてよかったね」と言われたが、言葉の通じない国で医療を受ける不安などはあるにしても、食生活だけを考えれば、向こうの方がずいぶん暮らしやすいのかもしれない。
 欧米のグルテンフリー事情を調べるうちに、この十年ほどの間にアメリカでもグルテンフリー商品の市場がかなり拡大していることを知った。またアレルギーの有無にかかわらず、健康ブームの一種としてもグルテンフリーの需要が高まっているため、市場が広い。ラーメンなどは日本の米粉製品も輸出に乗り出したらしく、日本よりも先にアメリカで販売されているものもあるらしい。たしかに、日本国内よりもアメリカの市場の方が遥かに広い。日本のグルテンフリー製品の開発は、海外の市場の連動する形で進んでいるようだ。
 つまり、グルテンフリーのちくわぶも、欧米圏での需要が高まれば開発されるかもしれないということだ。欧米でちくわぶがブームとなり、小麦アレルギーやグルテン不耐性の人々がグルテンフリーの製品を求め、企業が開発に乗り出す。日本の米粉製品会社も、それに気づいてちくわぶを作り始める。米粉だけではどうしても団子の食感になってしまうが、さまざまな材料を混ぜ合わせ、蒸す温度を調節し、試行錯誤を繰り返すことで、あのもちもちの触感、独特の舌触りを再現することができるかもしれない。
 しかし、そもそも欧米圏でのちくわぶの知名度はいかほどだろうか。
 ドイツに滞在中、寿司屋やラーメン屋はよく見かけたし、何度か行った。ベルリンでドイツ人の友人に連れられて行った店は日本人が経営している日本風のラーメン屋だったが、ハイデルベルクで語学学校の仲間たちと行ったところは、日本風ラーメンの店のふりをしていたが、日本のそれとも中華料理の麺類ともベトナムのフォーとも違う、何か別の「ラーメン」であった。ベルリンの語学学校では、中国人の少年に「昨日日本料理食べたよ、ラーメン」と言われて、そうかラーメンは中国人から日本料理と認識されているのかと驚いたが、これだけ広まっているからこそ、グルテンフリーを求める声も多く、グルテンフリーのラーメンを出す店も増えているのだろう。
 それに比べて、ちくわぶはどうだろうか。
 そもそもちくわぶは、おでんの具の一つであり、単品では食べない。欧州最大の日本人街デュッセルドルフに行けば、おでんを出す店もありそうだが、そもそもおでんは、多くの日本人にとって、店で食べるというより、冬に家で食べるものである。最近はコンビニおでんが定着したため、一人暮らしの私などは、おでんが食べたければコンビニに行く。都内にはおでん専門店がいくつかあるが、酒飲みでもない自分が行くには、少しばかり敷居が高い。もしおでんが欧米で売られているとしたら、おでんスタンドではなく日本食レストランの一メニューとしてだろうし、その場合、ちくわぶの優先順位はかなり低いような気がする。
 万事休すか……。私は自分で作ったカボチャと厚揚げの煮物をつつきながら、ワールドワイド・グルテンフリーちくわぶの夢を諦めかけた。実家では、この煮物の中にもちくわぶが入っていたものである。母はなんでもかんでも煮物にしてしまう人で、おでんの鍋に入り切らなかった材料が、煮物になっていることがよくあった。ウィキペディア英語版の「Chikuwabu」のページには、ご丁寧に「単品で食べられることはほとんどない」と書かれているが、単品ではないにしろ、おでん以外の食べ方はあるものだ――。
 そこで私にコペルニクス的転回が起こった。
 なにもちくわぶの用途をおでんに限定する必要はない。餅と同じように食べてもいいだろうし、最近若者に人気のチーズハットグのようなアレンジも可能かもしれない。ちくわの穴に入れるものはきゅうりが定番だが、ちくわぶの穴はあらゆるものを受け入れ、新たな発想を生み出すイマジネーションの源ではないだろうか――。
 私なんぞが思いつくようなことは、だいたい他の人がもうやっているものだ。検索したら案の定、ちくわぶハットグなるものが出てきたのである。それだけではない。すでにちくわぶを用いたさまざまなアイデア料理を紹介している、「ちくわぶ研究家」なる人物が存在した。「ちくわぶの世界」という著書もある丸山昌代氏は、自身のYou Tubeチャンネルで、ちくわぶの新たな世界を開拓していた。焼く、炒める、スイーツにする……。おでんの具ではない、ジャパニーズスナックと化したちくわぶがそこにあった。
 そう、ちくわぶが世界の「CHIKUWABU」になるには、おでんの狭い鍋から飛び出す必要があったのだ。
 寿司がアメリカでカリフォルニアロールに化けて逆輸入されたように、欧米に輸出されたちくわぶは、私たちの知らない「CHIKUWABU」となり、日本では考えられなかった進化を遂げるだろう。小麦アレルギーやグルテン不耐性の人々が「CHIKUWABU」を求める。欧米の企業はグルテンフリーちくわぶの開発に乗り出す。欧米での「CHIKUWABU」の市場規模に気づいた日本企業も、グルテンフリーちくわぶを開発し、グルテンフリーとなったちくわぶは、やっと私の家のおでん鍋に戻ってくるのである。
 コンビニおでんにグルテンフリー商品が当たり前に並ぶようになったとき、東京のソウルフードちくわぶは、世界の「CHKUWABU」になっているかもしれない。     (了)
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