Resros  ―遺物―

 日は既に中天を過ぎ、傾きかけた日差しが柔らかい反射光として森の中に降り注いでいた。
 リオは観察の場を移し、今度は泉の傍に鎮座している大岩に生えている苔を検めていた。表層に生えている苔たちがちょうど花を咲かせている。この大岩はどうやら蛇紋岩のようだと彼は検討をつけた。
 表から見た時は気が付かなかったが、裏から見ると大岩には頑張れば人ひとり通れそうなくらいの、大きな亀裂が走っている。側に泉もあることだし、水の侵食で割れたものだろうか。遠くから見ると、ひび割れた卵のように見えなくもない。亀裂の中には、細かい苔がびっしりと生えていて、地衣類の生命力の強さを感じさせる。
 リオはこの苔に目をつけた。前に一度、よく似たものを見たことがある。今はもう衰えた、古い生命力の残滓――強い死の瘴気が残った場所の指標としてよく利用されるサンゲソウだ。旧く巨大な死は、長期にわたって新しい生命を拒む。だから、瘴気の環境下でも生育できる生命は非常に限られる。サンゲソウはそのひとつだ。そして、リオが探している目的のもののひとつでもあった。
 亀裂の中を覗くと、手前側よりも亀裂の奥深くに向かって、苔の群生する密度が上がっているのが見て取れた。内部の苔はほんのわずかに発光もしているようだ。
 この岩はおそらく、自然にできたものではない。人工、いや、魔工というべきか。
 日照りをもたらしたかどうかはともかく、瘴気を残すほど強大な力を持った何か・・がここにいたことは間違いないらしい。
 これまで泉の周りを中心に植生を調べてきたが、この苔が生えていたのは二箇所だけ。ひとつはこの大岩。もうひとつは、背後の丘に開いた洞穴の中だ。
 この洞穴は、最初に来た時には見えていなかった。斜面に繁茂した植物たちで巧妙に隠されて、見えなくなっていたのだ。リオが森をくまなく、注意深く観察して、ようやく見つけることができた。最初は別段気になる程でもない、かろううじて子供が頭を突っ込めるくらいの、小さな穴だった。だが、今では大人がしゃがんだら入れるくらいの大きさに見えている。記憶違いでなければ、洞穴は徐々に大きくなっているようだった。
 夏至の晩が近づくに連れて。
 リオは洞穴の中を覗き込んだ。大岩の亀裂と同じく、奥深くに行くにつれて、サンゲソウの群生する密度が上がっている。そのせいで、奥に行くほど岩肌のぼんやりとした光が強まっているように見える。通常の人間なら昼間の強い光のもとで洞窟の内部を視認するのは困難だが、リオの目には苔の淡い光がよく見えた。
 意識を集中して、闇にじっと目を凝らす。覆われた薄皮のヴェールを一枚ずつ剥がすように、重なり合って固まった襞をそっと解すように。そうするうち、リオの鋭い目はもうひとつ、洞窟の壁の特徴を捉えた。
 苔に覆われていてわかりづらいが、壁面は石を組まれて作られている。つまり、自然物ではない。随分と古い石組みのようで、ところどころ崩れ、石組みの元の形を見分けるのは困難になっているが、強いて言えば隧道のようなものかもしれない。彼はふと、先日赤ら顔と鷲鼻の男から聞いた昔話を思い出した。
 思い出した途端、不意にひとつの推論が目を逸らし難い確信へと変わり、迫ってきた。
 これは墓だ。
「そこが気になる?」
 急な声に驚いて振り向くと、いつの間に近づいていたのか、紅い瞳の娘がリオの真後ろに立っていた。彼女の真紅の瞳が、真っ直ぐに彼へと注がれている。無言の視線は、言葉にはならない圧を感じさせた。
 リオは狼狽を悟られないように、慎重に言葉を選んだ。
「ここは……珍しい苔が生えてるね。中を調べてみても?」
「だめよ」
 ぴしゃりと即答が返ってきた。にべもない。
「危険なのかい?」
「どうかしら。強いて言うなら、この森全体が、そんなに軽々しく土足で踏み込んじゃいけない場所だって、最初に言ったはずだけれど」
 今度はリオが黙る番だった。交渉しようとしたところで、彼女は一歩も退いてはくれなさそうだ。大人しく帰ったほうがいいだろうかと、思案しながら手帳に目を落とす。
 すると、じっと彼を見つめていた娘が、おもむろに口を開いた。
「あなたやっぱり、よく見える・・・・・のね」
 それは確信だった。下を向いていたリオの肩が小さく動いた。
「目はいいってよく言われるよ」
「この洞穴、普通の人には今もただのウサギの巣穴くらいにしか見えないはずなのよ。魔術師でもないのにそれだけ見えたり聞こえたりしたら、大変でしょうに」
「……もう慣れたかな」
「ほんと、都合のいいひとだこと」
 リオは落ち着いて娘を見上げた。彼女の紅く沈んだ瞳は真剣で、冗談のつもりではなさそうだった。人を暖めれば殺めもする、炎を、自然そのものを思い起こさせるような瞳だった。リオは胸の辺りがひやりと冷たくなるのを感じた。
 いつの間にか周りの音は、葉擦れも、鳥の声もしなくなっていた。森全体が二人をじっと注視するかのように、黙していた。
 リオは観念して、溜め息をついた。
「ここは誰のお墓だい?」
「あなたには関係ない」
 リオは黙って首を振った。
「ここには本来、町の人たちに言い伝えられている竜がいたはずだ。でも、生きた竜の痕跡はどこにもない」
 娘の形のいい眉根がぎゅっと寄った。
「あなたも他の人と同じ、伝説の宝物なんかを探しているの? 馬鹿馬鹿しい、そんなものはここにはないわ。あるのはもっとおぞましい、積み上がった呪いだけ。金やら銀が欲しいなら、諦めて」
「そうじゃないよ。俺は宝はどうでもいいんだ」
「ならどうして危険を承知で、わざわざ物色までするのかしら」
「知りたいんだ。ここで何があって、何が残ったのか。残ったものと残らなかったものの差はどこにあったのか」
 娘の瞳が揺れた。一瞬だったが、リオはその動揺を見逃さなかった。
「……嘘。ただ知りたいって理由だけで、こんなところに首を突っ込むような命知らずなんていないわ」
「信じなくてもいい。でも、俺と君は協力できるはずだ。だろう? 君も何かを探してる。だから危険を承知で、俺の前に出てきた。なら、俺にも力になれることがあるんじゃないのか」
 リオはなおも言い募った。娘の瞳は陽炎のようにしばし揺らぎ、彼女はそんな迷いを断ち切るかのように瞳をぎゅっと閉じた。
 それまでじっと止んでいた風がほんの少し、さわりと吹いた。幼い子をそっと撫ぜる手にどこか似ていた。
 彼女は静かに瞼を上げると、つかえていた息を吐いた。それからついと視線をリオから背けた。
「悪いけど教えられないし、知らない方がいい。これ以上は言わないわ。その中には誰も、何者であれ入ってはだめ」
 その声にもはや迷いはなかった。リオは俯き、洞穴へと顔を向けた。
「……かれは、退治されて悪霊になったのかい?」
 彼女の瞳がかっと燃え上がった。周りの草木が一斉に起き上がり、ざわめく炎となって聳え立ったように、リオには感じられた。植物たちは早口で何かを捲し立てては、物凄い速さでどこかへと遠ざかっていった。
 おそらくは一瞬の出来事だったのかもしれない。気が付けば二人は鬱蒼とした木々の下の、暗い木陰に立っていた。先程までの洞窟も泉も、明るい草地も、まるで初めから存在していなかったかのように、忽然と消えていた。そこにあったのはただ黒い、深い森の姿だった。娘の目に燃え立った束の間の怒りは、暖かな灯と共に消えていた。
「もうここには来ないで」
 引き留める間もなかった。彼女はそれだけ言うと、つと踵を返して森の奥へと遠ざかっていく。下草を踏む音に、どうして今まで気づかなかったのか、彼女がずっと裸足だったことにリオは思い至った。
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