Encrucijada ―分かれ道―
「やっぱり、諦めないのね」
泉の奥の岩に腰掛けた彼女は、ため息をついた。
久しぶりにたどり着いた森の奥の泉のほとりは、最初にここへ来た日から何も変わっていなかった。木漏れ日が降り注ぎ、小川のせせらぎと小鳥のさえずりとそよ風が陽だまりに満ちている。強いて挙げるとすれば、リオがいつもとは反対側の、大岩の裏手にある斜面のふもとから空き地に入ってきたことだ。こちら側からだと、大岩の亀裂がはっきりと見える。
「どうやってここまで来たの?」
責めるでも驚くでもなく、穏やかな調子で彼女は尋ねる。小さな蜂が岩の上に止まり、娘は戯れにそれを指の上に乗せた。リオのことなどまるで興味がないかのようだ。リオは懐から土産物の赤石を取り出した。
「石の跡を辿ってきた。いつも使ってた道は君たちに塞がれちゃったからね」
それは半分本当で、半分は嘘だった。石由来と思われる魔力の跡は確かにあったが、それはひどく掠れ、ほとんど見分けがつかないほど途切れ途切れで、迷わず辿れるほどはっきりとは残っていなかった。正確には、分かれ道を逆に曲がったのだ。森に入った最初の日、狼に出会って引き返した道。そこを辿ると、反対側からこの広場に続いていたのだ。狼のことを伏せたのは、まだ確かめたいことがあるからだった。
「これを売りつけてきた土産物屋の主人が言うには、この石は金の森で採れたそうなんだ。彼は柘榴石って言ってたけど、多分偽物だと思う。でも、土産屋の主人もあながち間違いとは言えない。蛇紋岩は柘榴石を産出することがあるだろう?」
リオは娘の乗っている黒い大岩を指さした。
石は石を産む。石に魔力があるなら、それが生まれた場所にも当然、魔力が宿る。生命の力は死と誕生、両方に宿るのだから。
「少なくとも、かつては柘榴石の産出があったんだと思う。今はもう、皆が知らなくてもね。森に財宝が埋まっているって類の伝説は、その手の宝石の産出からできたものかもしれないね。この石がどうしてあの土産商の手にこれが渡ったのかまでは、俺は知らない。でも、君は知っているはずだ」
娘は黙って彼の手の石を見つめている。その目に浮かぶのは沈んだ赤で、感情はうかがえない。
石は一見ただの玻璃玉に見えるが、改めて眺めてみると、日光を透かして赤の奥に仄かに黄金が輝いている。最初に土産物屋で買った時には、こんな模様はなかったように思う。リオは彼女の答えを待たずに続けた。
「この森には魔力の源が二つある。そして、君はこっちの 力には手を出せない。違うかい? だから俺は、君に森を追い出されても、もう一つの跡を辿ってここまで来られたんだ」
娘は答えず、不満げに眉を顰めた。蜂は蜜を求めて泉の方へ飛び立っていった。
「この土地には元々、二つの信仰体系があった。今残っているのは一つだけどね。でももう一つの古い伝承も、完全に廃れてしまった訳じゃない。伝承が二種類に分かれて残っているのが証拠だ。元々別の伝承だったのか、あるいは、ひとつの出来事をそれぞれの視点から語ったのかは分からないけれど、それらが長い時を経て変質し、混ざり合った。
ひとつは君の力、琥珀 竜を由来とした力だ。これについては君のほうが知ってるから、俺から説明することも特にない。でも一つだけ言うとすれば、竜はより古いもうひとつの伝承の後釜に座る形でこの土地に到来したはずだ。だから伝承にある通り、争いがあったりしてもおかしくないだろうね。
で、もうひとつのより古い信仰のほうだけど、これは石と狼に関連していた。はっきりした言語記録はもう残っていないけれど。それでも、土の下から出てきた石像や、住民の間にも断片的に残っているものはある。葬儀の伝統という形でね。葬儀の慣習は特に土地に根強く残る風習の一つだけれど、アンバルデオロの町も例外じゃない。
竜信仰だった礼拝所を今の修道院に改修する際に、建物の下からたくさんの人骨が出てきて、その場所が古い墓所だったことがわかったんだ。そして、人骨はどれも、口の中に柘榴石を含んだ状態で埋葬されていたと記録にあった。赤くて丸いパンを葬式で食べたり供えたりする慣習は、死者の口に石を含ませる古い時代のやり方が形を変えて残ったものだと思う。それと、墓所の壁には、同じく柘榴石を咥えた狼の姿が彫刻されていたそうだ」
最後の部分は、実をいえば老修道女の受け売りだった。修道院の改修記録を見せてくれた老婆は、古びた羊皮紙を開きながら記録の補完として先々代の修道院長からの口伝と、自分の見解を聞かせてくれたのだ。「町のやつらは酒ばっかりで騒がしいったらありゃしない。うちで出すのはこれだけだよ」という言葉と共に、薄めた果実茶と小麦菓子をテーブルに出しながら。
「そしてこの慣習だけは、古い信仰が忘れ去られても、新しい祭儀の中で生き残った。竜にパンを与えていたという儀式がそれだ。修道院の戸口に、これを模した彫り物があるよね。これはその儀礼を示したものであると同時に、より古い時代の図像を流用したものだと推測できる。理由は、修道院に残されている『竜は赤く焼けた石を飲み込んで死んだ』っていう言い伝えだ。これは、民間に残っている伝承が戯画化されているのと対照的に、儀礼にまつわる言い伝えが残された形なんじゃないかな。重要なのは、竜が焼けた赤い石 を飲み込んだという点。赤い石を飲み込むのはここでは死者になることの特徴だから、死んだとする見方が多分自然なんだろうな。でも、俺はもっと単純に見てもいいんじゃないかと思うんだ。つまりさ、『飲み込む』は、自分の体内に取り込むことだろ? それって、力を取り込むって意味のほうが、よそ者の俺にとってはしっくりくるんだ。より古い時代の墓所の上に礼拝堂を建てたこともだけど、戸口の彫刻とそれに付随する伝承は、赤い石が象徴するもの を継承したことを意味しているんじゃないかと思ったんだ。
赤い石が象徴するものとはつまり、墓の守り神とされていた古代生物である石の狼。ここの洞窟の石組みと、修道院の地下墓所から続く古い塁壁の石組みは、様式が同じだ。そして、どの種類の伝承でも共通して、竜が眠っている場所はここ、ボスケデオロの丘だということになっている。
竜の図像がより古い図像と似通っていること、二つの信仰がどちらもこの墳丘を起点としていること。導き出せることは、このお墓は本来、竜のじゃない。より古い、そして今はもう断片としてしか残っていない石狼信仰の、残滓だ」
そう言うと、リオは岩の横の洞窟を指し示した。
町の人々は、単なる昔話やお伽話ではなく、自分たちの大事な歴史として伝説を受け継いできた。しかし、その性質がかえってことを複雑にした。全く同じ姿で残り続けられるものはない。いくら手を尽くそうと、全てのものは変容し、歪み、部分的にでも失われていく。琥珀竜に継承された赤石の儀式は残ったが、より古い石狼の古代生物、その実態は忘れ去られた。伝承から狼の姿が抜け落ちた結果、現在のアンバルデオロの伝承は本来異なるものが複雑に重なり合い、枝分かれし、結果、互いに矛盾を孕むようになってしまった。
一つの伝承から複数が枝分かれしたのではなく、複数の伝承がそれぞれに混ざり合った。アンバルデオロの伝説の実態を、リオはこう推測したのだった。
泉の奥の岩に腰掛けた彼女は、ため息をついた。
久しぶりにたどり着いた森の奥の泉のほとりは、最初にここへ来た日から何も変わっていなかった。木漏れ日が降り注ぎ、小川のせせらぎと小鳥のさえずりとそよ風が陽だまりに満ちている。強いて挙げるとすれば、リオがいつもとは反対側の、大岩の裏手にある斜面のふもとから空き地に入ってきたことだ。こちら側からだと、大岩の亀裂がはっきりと見える。
「どうやってここまで来たの?」
責めるでも驚くでもなく、穏やかな調子で彼女は尋ねる。小さな蜂が岩の上に止まり、娘は戯れにそれを指の上に乗せた。リオのことなどまるで興味がないかのようだ。リオは懐から土産物の赤石を取り出した。
「石の跡を辿ってきた。いつも使ってた道は君たちに塞がれちゃったからね」
それは半分本当で、半分は嘘だった。石由来と思われる魔力の跡は確かにあったが、それはひどく掠れ、ほとんど見分けがつかないほど途切れ途切れで、迷わず辿れるほどはっきりとは残っていなかった。正確には、分かれ道を逆に曲がったのだ。森に入った最初の日、狼に出会って引き返した道。そこを辿ると、反対側からこの広場に続いていたのだ。狼のことを伏せたのは、まだ確かめたいことがあるからだった。
「これを売りつけてきた土産物屋の主人が言うには、この石は金の森で採れたそうなんだ。彼は柘榴石って言ってたけど、多分偽物だと思う。でも、土産屋の主人もあながち間違いとは言えない。蛇紋岩は柘榴石を産出することがあるだろう?」
リオは娘の乗っている黒い大岩を指さした。
石は石を産む。石に魔力があるなら、それが生まれた場所にも当然、魔力が宿る。生命の力は死と誕生、両方に宿るのだから。
「少なくとも、かつては柘榴石の産出があったんだと思う。今はもう、皆が知らなくてもね。森に財宝が埋まっているって類の伝説は、その手の宝石の産出からできたものかもしれないね。この石がどうしてあの土産商の手にこれが渡ったのかまでは、俺は知らない。でも、君は知っているはずだ」
娘は黙って彼の手の石を見つめている。その目に浮かぶのは沈んだ赤で、感情はうかがえない。
石は一見ただの玻璃玉に見えるが、改めて眺めてみると、日光を透かして赤の奥に仄かに黄金が輝いている。最初に土産物屋で買った時には、こんな模様はなかったように思う。リオは彼女の答えを待たずに続けた。
「この森には魔力の源が二つある。そして、君は
娘は答えず、不満げに眉を顰めた。蜂は蜜を求めて泉の方へ飛び立っていった。
「この土地には元々、二つの信仰体系があった。今残っているのは一つだけどね。でももう一つの古い伝承も、完全に廃れてしまった訳じゃない。伝承が二種類に分かれて残っているのが証拠だ。元々別の伝承だったのか、あるいは、ひとつの出来事をそれぞれの視点から語ったのかは分からないけれど、それらが長い時を経て変質し、混ざり合った。
ひとつは君の力、
で、もうひとつのより古い信仰のほうだけど、これは石と狼に関連していた。はっきりした言語記録はもう残っていないけれど。それでも、土の下から出てきた石像や、住民の間にも断片的に残っているものはある。葬儀の伝統という形でね。葬儀の慣習は特に土地に根強く残る風習の一つだけれど、アンバルデオロの町も例外じゃない。
竜信仰だった礼拝所を今の修道院に改修する際に、建物の下からたくさんの人骨が出てきて、その場所が古い墓所だったことがわかったんだ。そして、人骨はどれも、口の中に柘榴石を含んだ状態で埋葬されていたと記録にあった。赤くて丸いパンを葬式で食べたり供えたりする慣習は、死者の口に石を含ませる古い時代のやり方が形を変えて残ったものだと思う。それと、墓所の壁には、同じく柘榴石を咥えた狼の姿が彫刻されていたそうだ」
最後の部分は、実をいえば老修道女の受け売りだった。修道院の改修記録を見せてくれた老婆は、古びた羊皮紙を開きながら記録の補完として先々代の修道院長からの口伝と、自分の見解を聞かせてくれたのだ。「町のやつらは酒ばっかりで騒がしいったらありゃしない。うちで出すのはこれだけだよ」という言葉と共に、薄めた果実茶と小麦菓子をテーブルに出しながら。
「そしてこの慣習だけは、古い信仰が忘れ去られても、新しい祭儀の中で生き残った。竜にパンを与えていたという儀式がそれだ。修道院の戸口に、これを模した彫り物があるよね。これはその儀礼を示したものであると同時に、より古い時代の図像を流用したものだと推測できる。理由は、修道院に残されている『竜は赤く焼けた石を飲み込んで死んだ』っていう言い伝えだ。これは、民間に残っている伝承が戯画化されているのと対照的に、儀礼にまつわる言い伝えが残された形なんじゃないかな。重要なのは、竜が焼けた
赤い石が象徴するものとはつまり、墓の守り神とされていた古代生物である石の狼。ここの洞窟の石組みと、修道院の地下墓所から続く古い塁壁の石組みは、様式が同じだ。そして、どの種類の伝承でも共通して、竜が眠っている場所はここ、ボスケデオロの丘だということになっている。
竜の図像がより古い図像と似通っていること、二つの信仰がどちらもこの墳丘を起点としていること。導き出せることは、このお墓は本来、竜のじゃない。より古い、そして今はもう断片としてしか残っていない石狼信仰の、残滓だ」
そう言うと、リオは岩の横の洞窟を指し示した。
町の人々は、単なる昔話やお伽話ではなく、自分たちの大事な歴史として伝説を受け継いできた。しかし、その性質がかえってことを複雑にした。全く同じ姿で残り続けられるものはない。いくら手を尽くそうと、全てのものは変容し、歪み、部分的にでも失われていく。琥珀竜に継承された赤石の儀式は残ったが、より古い石狼の古代生物、その実態は忘れ去られた。伝承から狼の姿が抜け落ちた結果、現在のアンバルデオロの伝承は本来異なるものが複雑に重なり合い、枝分かれし、結果、互いに矛盾を孕むようになってしまった。
一つの伝承から複数が枝分かれしたのではなく、複数の伝承がそれぞれに混ざり合った。アンバルデオロの伝説の実態を、リオはこう推測したのだった。
