帰り道は必要ない
自覚したのはきっと彼女が帰ると聞いたとき、なにもかも手遅れで刻一刻と帰還の日は近づいてくる。一度は帰れないと聞き心が躍ったのに、気のせいだと気づかぬフリをして帰還の日が近づく。
気が狂いそうだった。いや、狂っていた。
本能のままに、衝動的に、衝動的に、その鏡を叩き割った。
何度も何度も手が血塗れになるまで。
防音魔法と後回しの証拠隠滅はどこまで通用するだろう。血だけは念入りに回収でもしておこうか。それよりも、これで彼女は永遠に帰れないという事実に満ち足りた気分だ。
嗅ぎ慣れた彼女の匂い。
(何故ここに!?)
咄嗟に軽い認識阻害魔法を自身にかけて息を殺す。
(大丈夫だ。彼女にはわからない)
すぐにこの光景を見た、彼女の姿を確認するとは思わなかった。
(そうだ。このままどこかに連れ去っても)
「未来は自分で切り開く!テメェを仕留めにきたぜ!ヒャッハー!」
可笑しなテンションで金属バット所持したその姿をジェイドは目撃してしまう。自作自演で鏡を割りに来た女と、一歩先に鏡を割った男の、口裏合わせと利己のための打算なすれ違いが始まる夜の話だ。
◇◇◇
「彼女とはきちんと話し合いなさい。いつものような遠回しな伝え方は駄目です。人間式の方法で伝えなさい、早急に」
「出張から帰ってきて早々なんのことです?」
主張から帰ってくると、社長命令を下された。仕事の報告を一通り終えたジェイドは、投げやりな態度で以上のことを言われる。仕事上の上司に突然の長期休暇を言い渡され困惑していた。普段ならマシな話の切り口をするものだが、ちゃんと伝える気のないフロイドのような話しぶりでアズールらしくない。わかっているのは自身が休んでいる間に、フロイドがこき使われるということだ。我がきょうだいは自身の主張中に何かやらかしたのだろうと考えた。フロイドとアズールがそれを聞いたのなら、やらかしているのはお前だと言われる思考だった。
さて、長期休暇と言うくらいなのだから日数をどれほどと確認して、ジェイドは二度見する。
「この日数は多すぎるのでは?」
「お前を働かせすぎました。この休み中にやりたいことをやりなさい」
「フロイドですね。アズールが僕に対してそんな慈悲深いことを言いません。上手に化けるとは騙されました」
「本当にいちいち一言多いな、普通に首を垂れて感謝してください」
「貴方も大概ですよ」
「この休みにはあなたの番と話し合う時間も兼ねています。あなたたちには想いを確かめ合う時間が必要です」
また彼女の話が出てきた。以前からアズールもフロイドも自分たちの関係に気を遣っていた。一向に進まない関係に痺れを切らし強引に時間を割いてくれたのだろうか。遠回しな言い方でわかりにくいものの応援はしてくれている。普通に長期休暇はありがたい。愛しの番としばしの離れ離れで、まだ会えていない。足りていなかった成分をたっぷり補わなくては。
(この日数があれば、四六時中あの子と居れます)
「この機会を決して逃しません。必ずや僕たちは夫婦になります」
「お前の生々しい話なんざ聞きたくねぇんだよ」
「アズールいつにもまして言葉が乱れていますよ??」
この時間はチャンス、今の関係以上を超える。何度トライしても赤い液体が阻んで進めなかった。あれから数年は経っている。もうそろそろ落ち着いてもいい頃だ。彼女に沿って準備は万全としなくてはいけない。
その様子を見てすべて空回りでちょっとかわいそうだなと、アズールは思っていた。
◆
ジェイドの気分は最高潮だった。出張から帰ってくれば、[[rb:上司 >アズール]]から次の仕事は長期休暇だと言い渡された。休暇が仕事とは思わないでもないが、ありがたく従うことにする。
(いっぱい買いすぎてしまいました)
長期休暇の〝準備〟がてら寄り道して、気分は高揚している。思わずなんてない日に花やらケーキやら、似合いそうな服まで買ってしまう。贈り物は初期に頻繁に行っていたのを、彼女に咎められやむを得なく自重していたが今日くらいハメを外しても良いだろう。両手いっぱいの荷物を車に詰め込むと帰宅を急いだ。浮かれ半分に今後のことを考える。もちろん事故は起こさないように注意して。
フロイドはこの期間中飽きずに働くだろうか、そう考えるジェイドだが問題ないと思っている。自身が抜けたあとは、今のところフロイドしか務まらない。飽き性のきょうだいの性質は、今では学生の頃よりも落ち着きつつある。昔からある程度の決まり事はちゃんとやる性質をもっていた。サボるときもあり行動が破天荒すぎて誤解されがちだが、あのきょうだいは与えられた仕事はきっちりこなす。
フロイドとアズールの間でどんな会話があり、このサプライズが施されたのか疑問はあれど隅に追いやる。長期休暇にどんなプランを立てようかと考えはじめた。
籍は入れたのだが新婚旅行どころか結婚式すらやっていないのを、ジェイドは気にしていた。その時期、アズールが事業を起こして数年経つかどうかの頃合いで非常に仕事が忙しかった。今も忙しいがだいぶ落ち着き安泰している。改善していくことはたくさんあるので、次は社員教育やら社内の雇用制度を見直そうなど検討中だ。
元オクタヴィネルの三人組は、社長と副社長兼秘書に幹部という肩書きなので言わずもがな忙しい身の上。休みはあるが大半は形だけの休みが多い。ビジネスに生きがいを感じてるアズールや、タスク管理スキル持ちジェイドや、落差は激しいが決めるとこは決めるフロイドなので、それぞれうまいことやっていた。
ジェイドにはよかったと、思っていることがある。彼女の提示する期間を跳ね除けてよかったコト。一般的な過程はすっ飛ばしてしまったが、数年後に籍を入れ一緒に住みはじめた選択は大正解だった。あの時の現状を振り返ると、危うく番不足でストレスが溜まるところだった。
今の現状を思い浮かべた。
陸に構えた巣もとい住居に帰れば、最高の癒しが待っている。愛しの番が出迎えてくれたり、夜遅くまで起きていて一緒にごはん食べたり、帰りが間に合わず先に寝ていても二人の寝室であどけなさを残す寝顔を眺めることができるのだ。極めつけに、休日は朝起きれば愛しい番が隣ですやすや眠っている。ちょいと警戒心が低すぎるのは気になるところだが、爆睡してるのをいいことに吸ったりして英気を養い放題。離れていた時期を考えると、彼女の職種や別々の住居のときはこうもいかなかった。お互いの休みの調整に、迎えに行くまでの移動時間又は待ち合わせ時間、その他もろもろエトセトラ。無駄とは言わないがその時間すべてが一緒に入れる時間に変換できるとなると。
(少しばかり苦労して彼女を説得したかいがあったものです。彼女と〝契約〟を更新するのもすんなりいきませんでしたからね)
すんっとした表情のち通常に戻る。
本当は数年後と言わず、すぐさま籍を入れたかった。
◆
監督生がNRC四年生時のこと。
「時間が欲しいんです。一人で生きていける力を、積み重ねていく時間が」
自立に積極的だった少女は、一足先に社会に出ていたジェイドからの申し出を断った。少女の〝事情〟は一通り知っている。社会に出て自分の力だけでこの世界に居場所を作りたがっていた。自身が提案する内容を、男に依存する形だと思ったのか嫌がっていた。最初からスムーズに行くとは思っていない。相手が断るのは予想通り。
契約の主導権はこちらにある。他愛のないスキンシップも人前では恥ずかしがるが嫌悪されたこともない。男女の関係に関して一部問題があるものの、交際は順調に進んでいる。周りにも周知されておりジェイドと監督生の仲を邪魔する者もいない。状況的に何も問題はなかった。契約交際から契約結婚に切り替えることに驚いていたが、結婚することに嫌がってはいない。
ジェイドに余裕をもたらしていたが、気になることもある。一人で生きていく必要はないのに、今目の前に[[rb:一人の男 > 一匹のオス]]が求婚しているのにずっと欲し続けているのに。どうしても伝わらない。それも最初の鏡の契約でややこしい提案をしてしまったからに他ならない。ジェイドはあれだけ愛を伝えても、想いを本気と受け取ってもらえないと不満を募らせていた。
「了解しました。では、どれほどの時間が欲しいのですか?」
「え!?いいんですか!?」
「えぇ、一方的に押し付けるのは、これからは番、いえ、夫婦として問題だと思いますから」
不満は心の内にしまい、計画するのは相手の話を聞いてからしようと思う。この少女一度決めたらビクともしない。斜め上の発想で切り抜けられる可能性もある。無理矢理縛りつけるようなマネをすれば、せっかく築いた少女と周りの認識も改めかねられない。殊勝な態度で答えるジェイドだが、前提からして間違っている部分は都合よく捻じ曲げていた。
「ジェイド先輩!」
「これからは〝ジェイドさん〟と呼んでくださいね」
歓喜しているがおかしなこの関係性をすっかり忘れているようだ。ここに、少女のマブや相棒がいたのなら即座にツッコミがとんできただろう。
(待つのも慣れていますし、相手との距離をじわじわと詰めていくのも得意分野です。ある程度満足させ僕に有利になるように進めますか)
「早速、期間のことなんですけれど10年ほど頂ければ!」
「却下」
「即答!?」
「論外」
「先輩がそれ言いますか!?」
忘れてるようだが、ジェイドは人魚だ。どのくらい寿命差が違うと思っている。
人魚の寿命の推定は数100年以上、いい線行って300年から長寿で800年以上。表沙汰ではあまり主張しないが、妖精族の次に寿命が長い種族とされている。その分、稚魚からある程度の年代に生き残れるまでハードモードだ。異種族恋愛が珍しくなくなった現在でも、種族の違いで立ちはだかる壁は完璧になくなってはいない。魔法のある世界だがそこは現実的。例外によって古に伝わる〝愛の力〟によって強引にロマンチックに解決されることもあるが、それは神が気まぐれで選んだ極一部の人間だけだ。異世界から来たという少女も例外ではないものの、その点に関して本当にごく普通の人間なのでどうかはわからない。そんな人間に惚れてしまった[[rb:男> 人魚]]が思うのもなんだが。
要するに人間の寿命は長生きしたとしても100年ほどしか生きられない。寿命差の部分はこれからクリアしていく問題として、人間の貴重な10分の1を離れて見守るなど望まない予定調和。
長い長すぎる。
10年?10年だと?かわいい、かわいい番の貴重な少女期から成熟した女性へと成長する瞬間を見逃せと?
んなもの、即座に却下だ。
便宜上恋人関係まで持ち込めているのに、成長を見守って10年我慢しろと?
んなもの、即座に却下だ。その条件で許されるのは、学生時代に交遊が少ないパターン、お互い思いあってるにも関わらずすれ違い10年後に結ばれるパターンなど、関係構築に時間が要する場合のみ。
そんな選択するなら即監禁する。ジェイドの作った[[rb:テラリウム > 監禁部屋]]に連れ込みR指定展開待ったなし。在学中ひたすらかわいい番への欲望を捻り潰し、時に迫り鮮血で撃退されていたというのに、これ以上我慢しろというのか。己の理性が擦り切れてしまう。かろうじである良心が木っ端微塵だ。
「さて、この話はなかったことにして、契約書にサインを」
「アズール先輩みたいなことを言いだした!?この契約書、婚姻届じゃないですか!!」
「監督生さん、僕の理性が消失する前にサインをしてください」
「グ、グリム!先輩がまたおかしくなったあああ!」
この人間には問答無用にゴリ押しで責めていくしかないと人魚はそう思い直した。
◆
(……そんな騒動もありましたね)
車を止め家に着いた。
回想に浸りながら、両手に荷物を持つ。あれから想像以上に手強く数年時間はかかったが、こちらの執念と忍耐が勝った。ご覧の通り〝夫婦〟という関係を得た。結婚に伴い彼女の職種も在宅ワークへと転職したので、ジェイドにとってとても都合がいいことになっている。専業主婦がどうしてもいやらしく、懸命に家でできる仕事を探した結果のようだが。彼女は最後まで、自分でいいのかと疑心暗鬼だったが、何をそこまで疑問を抱いていたのか。本人と周りがムネヤケすると思うくらい、わかりすく求愛していたというのに。性的にも差し迫った前科があるのに。
(籍を入れる条件の一つとして、性的接触を控えめしてくれと提示してきましたが、抱き枕でも十分満足できます。離れて暮らすことに比べれば。まぁ、たまにどうしようもない欲はありますが)
だって、しょうがない。
男の子だもん。
ジェイドは内心でブリッコしながら言い訳をした。ここに言っておくが、この男は現在二十台後半である。
(そのどうしようもない、あれこれも。もうすぐ解決します)
(この与えられた機会で、確実にステップアップさせます!!)
菩薩の笑みを浮かべる男は、誓いを胸に掲げた。
◇◇◇
打って変わって、別れを切り出し待ち受けていたのは薄暗い部屋の中。
後悔するように監督生は心の中で思う。
(まさか、こんな展開になるなんて!)
チュ、チュと顔中にキスの嵐。ベットの中で拘束のようなハグに逃げ出せない。耳元は低く甘やかに、常に囁きかけられる。大きな手はすりすりと際どい位置を撫でながら。口元は舌舐めずりをしている。瞳孔の開いた眼が訴えかけてくる。
「ユウさん、ユウさん、今日もダメですか?ねぇ、もうそろそろ……いいでしょう?」
「ダ、ダメです、ダメですっ」
「まだダメなんですね。では、今日も諦めましょう。ふふ、今日もまた一緒に寝ましょうね」
キューキューと鳴き、甘やかな声が降り注ぐ。
長期休暇なのでしばらく働く必要はないという。朝から晩まで好き勝手に生活ができる。お金の心配はいらない。昔からわざわざ言わなくてもそう思わせるほど稼いでいる姿を見せてきたから。彼女に言う。働く必要はない、と。
勤めていた会社は自主退職の形になって今や無職だ。
この男のことだからうまくように事を収めたに違いない。
──貴女は僕のお嫁さん、僕の側にいればいいんです。早く、早く、貴女が欲しいです。明日は許可をくださいね?ユウさん、今日も〝愛していますよ〟
「おやすみなさい、僕の愛しのヒト」
キュクルルと一鳴きして、スゥと寝息が聞こえる。途端に周りは水のようなモノで溢れかえり、防衛魔法がはられまた眠るしかなくなる。今は何時かわからない。外の様子もわからない。でも、先程摂った食事は朝食と言っていた。夢か現実か、ふよふよと境目が曖昧になっていく。
最初は有無言わせない怒涛のディープキス。鼻血と気絶するまで続けられた。気絶したあとも続けられていたかもしれない。腕や足に虫刺されのような跡があったから。ちなみに「これって、キスマーク??」と想像してまた気絶した。オバブロへの耐性はあっても性的なものにはない。クソ雑魚メンタルなので異性との特濃キスでもうキャパオーバー。
キャパオーバーでも、今の状況を整理しなければならない。
勤めていた会社は、気絶している間に強制的に退職させられていた。外部への連絡手段は断たれ、外へと繋がる場所はありとあらゆる方法と魔法で封鎖。窓を取り上げられた部屋に、おそらく一週間ほど監禁された状態になっている。この家の持ち主が居る間は緩和されるが、外へと出られない。家の中ならばうろつける軟禁状態となる。食事等、生活に欠かせない欲求も保証はされている。制限はされているが娯楽も与えられている。考えようによっては。
(こんな、こんな………最高ニート生活!!みたいな状況になるなんて!!)
四六時中、甘やかな囁きと誘惑。契約結婚したとはいえハイスペックのイケメンの猛攻に気がおかしくなりそうだ。監禁という名の囲い込みゲロ甘生活送ることとなっているこの状況は、極限で己の理性が試されていた。
(悔しいことに、イヤじゃないから救いようがないな)
〝ユウ〟はジェイドへの気持ちをはっきりとさせている。現状を省みて、自分はまた間違えてしまったことも。
(助けてーーー!フロイド先輩!アズール先輩!このままじゃ、働けないダメ人間になる!!陥落させられる!!)
眠りから覚ますと、ジェイドの姿が見えない。解放感に包まれながらグッと伸びをする。キッチンの方から物音が聞こえるから、昼食か夕食か作っているのだろう。寝過ぎて眠いと、うつらうつら開いた瞼を閉じていくと。ズルリと硬いものが落ちる音がした。何事かとベットから起き上がる。無造作にかけられたスーツの上着の下に見慣れたスマホが転がっている。
(わ、私のスマホ!!)
反射的にそれを手にしようとして、思いとどまる。あのジェイド・リーチがなんの対策も無しに、あんなところに放置するわけがない。確実に罠だとわかった。このゲロ甘監禁軟禁生活が始まってから常に試されている。好き。愛している。だから離れないで。彼は言葉で表すようになった。強烈な愛情を感じている。自分もそれをイヤだと感じていない。
(………私は!ジェイドさんと、こんな関係になりたかった訳じゃない)
もう下手な行動はとれない。けど、この依存のような閉じた生活は間違っている。
急いでフロイドにメッセージを送った。同時に、バンと扉が吹っ飛んだ。予想通りジェイドが無表情で入室してきた。予想はできていてもいざ対面すると、恐ろしくて体は震え動けない。ゆっくり近づいてきた彼の表情は、近づくにつれて影が落ち見えなくなる。夜目は効かないのでどんな表情しているのはわからない。けれど、まとう雰囲気は怒りを感じた。
「どうして、貴女はいつまでも僕のモノになってくれないんですか?」
感情が抜け落ちた声が落ちてきた。
「フロイドか、アズールに連絡したのでしょう?」
「は、い。フロイド先輩に、伝えました」
「おやおや、誤魔化すことすらしないのですね?」
「ジェイドさんに嘘も誤魔化しも通用しない、から」
「ふふふ、ふふ、そうですね」
「……ジェイドさん!私とおはなし、んむっ!?」
淡々と繰り広げられる会話。感情は抜け落ちているのに穏やかに紡がれる。言いかけて口を塞がれ。シュルリと、シュルリとジェイドは器用に上服を脱ぎ始める。ベットへ連れ戻し放り投げた。ギシッと自身もベットへと乗り上がると、彼女に覆い被さる形になる。
「もう、我慢するの飽きちゃいました」
そう言うと、彼女の衣服をビリっとたやすく引き裂く。
「フロイドはいつ気づくでしょうね?ここへと辿り着くのはいつになるやら。助けに来るまで、楽しみましょうね。大丈夫ですよ。痛くしませんから、おかしくなるくらいきもちヨくしてあげますからね」
もう、何を言って聞き入れてもらえない。
情愛に狂った人魚の暴走は止まらない。
◇◇◇
「じゃあねぇ、ジェイドさん」
「はい。またのおこしをお待ちしております」
媚びた女の声が遠ざかり姿が消えたのを確認すると、ピッシリ正装した首元を緩めて、フロイドはガシガシ頭をかきながら深くため息をつく。一つ思わぬ事態が発生した。アズールから片をつけたと聞いた、ジェイドのハニトラ相手の女がいまさらアクションを起こしてきたからだ。長期休暇中のジェイドが相手にするわけにいかず、ジェイドのフリして対処しろと命令されたフロイドが現在進行形で相手にしている。命令してきたアズールはこの面倒くさい事態を好機と捉え、相手の会社に色々〝お話〟する算段をつけていた。
(いいかげん飽きてきた。疲れた。めんどい)
増やされた仕事とジェイドの抜けた後をフォローするだけなら、さして問題なかったのに。ようやく解放されて会社のVIPルームでダラけるが文句をいわせるつもりはなかった。イライラと不機嫌を隠さず内心で毒づく。フロイドのままなら取り繕うことを放棄するが、ジェイドのフリをしている状態なのでかなり我慢に我慢を重ねていた。
(そもそも既婚者だって知ってて、なんなのあの媚びぃ〜あの女に期待させたやり方がまずかったのは、こっちに非はあるけどさぁ。オレがジェイドじゃないの気づく様子もねぇ。そーいや、小エビちゃんのこと指してんだろうけど、邪魔者て言い方してたよな?思い込みが激しいか、ジェイドがサービスしすぎたのかわかんねぇけど、小エビちゃんに骨抜きにされてるジェイドが他のメスに鞍替えするわけねぇーし。つーか、あのメス臭すぎ。香水つけりゃいいってもんじゃねぇでしょ。ウミネコくんの香水テロなんてカワイイレベル。あ〜〜ウミネコくん、今何やってんのかなぁ。噂でマジで狩人になったとか聞いたけどぉ。あーあ、オレが苦労してんのに、今頃ジェイドは小エビちゃんとヨロシクしてんのかな……あ?想像すっとハラたってきたな。休暇明けに出社してきたら絞めよ)
気分転換と現実逃避で様々をあれこれ考えるが、フロイドは気分が晴れなかった。何か面白いことは起こらないかなと、ソファでダラついていると。ピコンッとスマホにメッセージが表示される。フロイドは鈍い動作で、すぐさま消えた通知メッセージを確認しようとメッセージアプリを開いた。
【ヘルpふロせぱ ジェイどにかん¥きんんmされ、また】
「……小エビちゃんからだ。なんの暗号コレ?」
短いメッセージだった。要領を得ない内容で誤変換されている。これまでのやりとりで、小エビがこんなふざけた内容を送りつけてきたことはない。文面から切羽詰まった緊迫感が伝わってくる。解読する気分でもなかったが、予想される言葉を当てはめていき。フロイドの天才的な直感が、この文章を正しい文面へと導いた。
【ヘルプ】
【フロイド先輩】
【ジェイドさんに】
【監禁されました】
「……ジェイドォォォ!?何やってんの!?」
フロイドの悲鳴は社長室にいるアズールへと伝わり、ブチギレた社長が突入してくるのは数秒後のこと。片割れのゲキ重感情がどこまで拗らせてしまったのかと考えつつも、同じく現状を把握して墨を吐きそうな幼馴染を巻き込み、義妹を救出しに行くフロイドだった。
「どの位置だったけぇ!?オラッ、小エビ無事か!!」
「即席の転移魔法を使用したとはいえ、なんで僕まで連れてくるんだ!?この後会議だったんだぞ!?このバカウツボ!対処してから来るつもりだったのに!クソっ!」
ドッコーン、家を揺らす振動。手当たり次第に扉が吹っ飛ばす音とともにドスの効いた声が響く。
「チッ、一階はいねぇな」
「寝室に居るんじゃないですかね」
「えぇ〜乳繰り合ってたらどうしよ」
「合意だといいんですけどねぇ。身内のそんな場面見たくないですよ」
「オレも」
緊迫しているのかしていないのか、いつもの様子で会話する声は丸聞こえ。そんな会話しつつもドアが吹っ飛ばれたある部屋へ立ち入る。半裸の男が小エビに覆い被さっているのを確認した。薄暗くも夜目が聞く男は、小さな小エビの顔がべちゃべちゃになっているのが見えたので、すぐさま合意じゃないと判断する。腹に力を込めて威嚇するように叫んだ。
「きゃあああああ!ジェイドのキチク!!エッチいいいいい!オラァッ!オニイちゃんからの冥土へのセンベツよおおおおお!」
「ガフッ」
「監督生さん、大丈夫ですか?」
裏返った声とともに2メートル近い男は、振り向きざまの同じ顔した男にラリアットが炸裂させる。続いてドコッバキッと人体から鳴ってはいけない音。
眼鏡の男はグッタリした小エビをズルズルと引きずり安全圏と避難させた。荒い息で大丈夫ですと小さく答えるも、どえらい汁まみれで目線に困る。適当に布を被せてやった。
「……もうすぐで[[rb: TL展開> ティーンズラブ]]になるところ……でした」
「言っている意味がわからない……まだヤラれていない、ということですね?」
品のない会話が続いていると思うも、巻き込まれたアズールは疲れているので取り繕うのを放棄していた。
◇◇◇
帰還のとき自覚したのなら少女を意識するようになったのは。
オンボロ寮の監督生は異世界から来た人間。自身の世界に帰れないらしいと、密やかに噂されていた。
「嘘か本当かどうにしろ、その辺りはデリケートな問題です。今では彼女のために烈火の如く怒る方々に囲まれている。藪蛇を突くような真似はしないように。学園長が正式に発表するまでは待ちましょう」
「小エビちゃんの様子ちらと見たけどさ、そのウワサていうのホントだと思うよ。今回はねソッとしといてやろうかなーて、ちょっかいだすのやめてんの」
理由と言葉はそれぞれとしても、共通して二人は少女を気遣っていた。わかりにくい二人のわかりやすいくらいの[[rb:憐れみ>やさしさ]]。
どうして、ジェイドはそこに好奇の目を向けてしまったのか。直接それを確かめたのか。確かに自身の片隅で、歓喜に近いナニカが心の中で湧き立つ。育んでくんはいけないもの。
図書室で帰る方法を探していた少女の手元にある本は、この世界で生きるための関するものにすべて変わってしまっていた。つい、声をかけた。
「自分は、帰れないみたいです」
「……」
「なんとなく、わかってはいたんです……本当にツイてないですよねぇ」
いつものヘラッと笑った顔から、ぎこちなくなり俯いた。異世界から来たという少年の姿を装う少女は俯き肩を震わせる。それを無言で見ていた。いつものように接しようとしたみたけれど、どれも傷つけてしまいそうだと何も言わず口を閉じた。一度は敵対してから、少しばかり関わり持つようになったただの後輩。騒動に巻き込まれている以外は取るに足らない相手。
打ちひしがれている一つ下の少女の姿を見て、らしくのない罪悪感を抱いてしまった。それからは、その姿を校内で見かけると、どんなに楽し気に笑っていてもあの姿が脳裏にチラつくようになった。
泣く姿を見たことはない。知りたくなった。何を考えどう生きていくのか。この小さな人間が[[rb:この世界 >箱庭]]でどう抗っていくのか。どんな武器を磨き上げていくのか。一つ一つまだ見たことのない、この子の一面をもっともっと。
「一度興味を持つと中々飽きるタチではないんですよ」
「何の話です?」
「僕の話です」
「唐突すぎる」
今日も少女は生きていくためにこの世界を学ぶ。
その隣で並ぶには大きすぎる男がその少女を眺めながら、参考になるだろう本や知識を与えて。
「帰れることになったんです」
「おや、よかったですね」
「えぇ、先輩そっけないですね」
「これでもショックを受けているんですよ、しくしく」
「いつ聞いてもワザとらしい反応!」
嬉しそうな困ったような表情を浮かべ、はにかみながらそれを報告する。伝えられたジェイドはいつもの様子で変わりはない。フザケあった会話が一通り終わると、姿勢を正すように向き合う。
「少しの間でしたが、色々気かけてくださってありがとうございました。自分は、私は知らない道で迷子になったみたいに心細かったんです。だけれど、色んな人やジェイド先輩が寄り添ってくれたから手探りでも進もうと思えたんです」
「………ッ、ふふ、大袈裟ですよ」
「対価は要らないと言われたとき、かなり警戒しましたけどね」
「信用がなくて悲しかったです」
「もう!いいですよ、それ!」
「いつ、帰還されるんですか?」
真剣な顔を緩めケラケラ笑う。ジェイドは動揺を気づかれられないように問う。ほんの少し声が震えていた。グローブの中のメモ切れをグシャリと潰す。渡そうと思っていた丁寧な文字で書かれたスマホの連絡先。図書室に行けばたいてい居て、交換するまでもなかったから。放課後、お昼休み、空き時間、都合が合えばそこへ赴く。日常のルーティンになる頃には「そういえば、交換していなかった」と、妙な感慨を抱きながら文字を綴った。機械同士通信すれば、すぐに済むものだとわかっていても。どんな反応するか見たく、なって。
もう、それは必要がなくなる。
「ジェイドさぁ、大丈夫?」
「飛行術がですか?見ての通りです」
「ちげぇーよ。卑屈じゃん。うっぜ」
フロイドがいつも以上に低く飛行しているジェイドから視線を外すと、遠くでアズールを指導しているリドルに興味が移ってその場から遠ざかった。周りから誰もいなくなったジェイドは、遠くの方にいる和気藹々とした集団の中心を眺めた。異物として際立っていた一人と一匹だが、様々な寮指定の体操服に馴染んでいる。監督生の帰還が本格的に公にされている。今は別れを惜しむように色んな人々が取り巻き、残り僅かな滞在時間を大切にする人間がそこに居た。今日の合同授業も教師たちなりに気遣った編成になっている。少女と深く関わりを持つこととなった生徒たち。特例の生徒に対する処置としてはやりすぎではと囁かれたが、誰もそれに反対する者はいなかった。大人たちからの、一人の少女への〝はなむけ〟のようなものだと、生徒たちは感じとったからだ。
何も持っていなかった少女は、あらゆる困難を乗り越え、時に関わる多くの生徒に影響与え。この学園に大小の変化をもたらし、すべて完了させた。残酷な現実を突きつけられそれでもなお進もうとする。そんな一人の人間のこの世界でのエンドロールが差し迫る。彼女にとってのハッピーエンド。ストレンジャーの帰還。
たまらず、舌打ちをする。
(……今更ですね)
グッと箒の柄を握りしめた。
「ぎゃっーーー!」
「ふなっーーー!」
少し雑に扱ってしまったからだろうか。箒がコントロールを失い、眺めていた集団にド派手にツッコんだ。ピンポイントに直撃して。細身とはいえ190メートルの大男が突撃してくるのだからとんだ人災。小柄な少女と魔獣を下敷きにして、脳震盪が治るのを待ちながら。周りの声が聴こてくる。
自分の名を呼んで激昂している同クラスの彼の声、無様な姿を見て爆笑している兄弟の声、下敷きにされた少女の安否を確認しようとする声、そして。
「ふ、ふふ……ふ、先輩っ、重いですよ……びっくりした、びっくりしたぁ」
「笑いごとじゃねぇーんだゾ!内臓が出ちまったらどうすんだ!」
堪えきれず笑いだして、下に敷いた人間の笑いで震えた体。
ばくばく動く心音が聴こてくるその音が心地よい音。
いつまでも、聴いていたい。
私、私、帰りたくなかった。
私の世界には私の帰る場所が無いから。
鏡割りに来たんです。
すでに割れてたいたんです。
本当です。バットは未使用です。
可笑しなテンションで現れた少女は、都合よく現れた〝目撃者〟にひたすら弁明する。平常時なら考えるまでもなく疑えただろうに。情緒不安定な心と、可笑しなテンションと、特殊な状況が自滅的に追いつめていた。自白するような告白を声にだして連ねていた。
「変なことじゃないなら、なんでもするからお見逃しを〜〜!」
座り込む姿が懺悔みたいだ。ジェイドは愉快な表情を隠し切れず口元を片手で覆う。見るからにして自分がどこまで自白しているのか、対面する相手の様子に気づいていないことがわかる。そうでなければ、オクタヴィネルの副寮長相手にその言葉を使ってはいけない。それとしても〝なんでも〟と言いながら〝変なこと〟と、己の身を少しでも守ろうとする発言混ざっているのは、とても監督生らしい。
ジェイドは嗤う。鏡を割ったときの以上の高揚感で満たされていた。場違いな金属バットを所持していなければ、そもそもこのタイミングで来なければ。チグハグな錯乱した内容は彼なりに都合よく繋ぎ合わせ解釈する。
すべて、演技。
兄弟を含めた感の鋭い者が集まるこの学園を欺いていた。自身だってあれだけこの少女を観察していたのに違和感を感じなかった。まさか帰りたくないなんて思わない。
少女の16年は、この世界には無い。
この世界では何も持っていない。
ゼロから作り上げる困難を承知で、自らその帰り道を壊しに来たなんて!
(僕は、まだまだ彼女を知らない)
最初の印象は冴えない人間。次は、いつも一途に一生懸命で、損するくらいお人好しで、その割に強かで図太い。お綺麗な人間でも無い。
第一印象、第二印象、相手に対する印象なんていくらでも変わっていくというのに、この少女はそれも証明していたのに。故郷に対する哀愁は本物だと思っていた。心の奥底を覗くことはできなかった。
ああ、なんて!
「……愚かで、面白いヒトだ」
ねぇ、ユウさん。
これからはもっと貴女のこと教えてくださいね。
体の節々が痛い。
強打した感覚。
『小エビちゃん、顔面べちゃべちゃだったよな。それ以外は何もされてねぇーの?』
『お答えするのはためらいがあるんですが、実のところ、ひたすらキスされまくってただけなんですよ。フロイド先輩とアズール先輩の即席転移魔法のおかげで、顔面舐め回されてた段階で済みました。心肺停止しそうでしたけど』
『うへぁ、こいつの性癖歪んでんなぁ』
『ご存知なかったんですか?』
『知るわけねーだろ!いくらなんでも兄弟のアレそれ知りたくねーよ!』
『そうですよ、監督生さん。夫妻の事情に口出ししたくありませんが、あなたはもう少しそういった流れに耐性を身につけるべきだ』
『……善処します』
ぼんやりした頭で遠くにエコーしている聴き慣れた声を聞いた。好き勝手に会話している。不名誉な内容だ。少し心外なので否定しよう。
「あ、起きた」
それぞれ、複雑な表情した三人がジェイドの顔を覗き込んでいた。
◆
救出したあと見るにたえないその姿を魔法で整えてやる。ジェイドがあれほど取り乱していた理由を彼女から聞きだす。誤解は解いていたはずだ。ジェイドも呆れるくらい浮かれていた。何がどうなったらこんな状況になるのか。思いかけたもののこの前知った二人の関係も似たように感じており、本人たちに確認するしかない。
『あなたは馬鹿ですか?』
『はい、馬鹿です』
『アレがあなたに対するめんどうな感情を抱いていると、伝わったと思ったのですが』
『はい』
『僕の話は信用できませんでしたか?』
『それは』
事の経緯を知り出た一言。それに反省したようにうなだれる、しゅんとする姿にちょっとだけ可哀想だと感じるも。彼女だけの責任ではないが、文句の一つも言いたくなった。それと別に厄介な方へ転がらぬようかけた労力を無に返したあの取引先の女には、約束を破り余計な介入した責任をとってもらうため、それなりオトシマエをつけてもらおうか。
「どいつもこいつも、そこに転がってるお前も手間のかかるウツボです」
「……痛いです」
少し振り返ってから、目覚めたジェイドの様子を見るアズールは、パシンとその頭を叩いた。非難めいた視線を寄越しながらも、いつもの嫌味は炸裂しない。フロイドに物理的にお灸を据えられて、ようやく正気に戻ってきたか。目の前に横たわる男には、これから説教という名の追撃を与えるのは決定事項だ。
「僕は、お前にもいいましよね?」
フロイドは場所を移して、小エビの面倒を見ている。一度足はツッコんだので最後まで付き合うときめた。学生時代の寮のモットーは今も健在だ。飽き性の自分が根気よく放りださずにいるので、成長したなと自身で褒めながら。
「ジェイドのこと嫌いになった?」
「……」
一周回って冷静になり。ここまでこの〝夫婦〟に介入する必要があるのかと考えがよぎるが、本題へ切り出す。昔から遠回しな聞き方は苦手だ。ごちゃごちゃ言わずにスパッと聞きたいことを聞く。これでもだいぶ目の前の義妹には優しくしてやってる。いつもなら圧でも加えて話を聞き出すが、今日のところは喋りだすまで粘るだけにしておくのだ。エライ。
「嫌いじゃありません、むしろ、その、ジェイドさんのこと……好きだと気づいてしまって」
「えぇー」
言い淀む小エビは意を決したように口を開いた。小さな声音だがはっきりと、その顔は戸惑ったような感情を浮かべている。フロイドはまったくの予想外とこれで別れることはないだろうという微妙な安心感に挟まれた。思わずドン引き声は漏れてしまう。アズールからネチネチ説教受けている、満身創痍のきょうだいには喜ばしい返事ではある。
フロイドの中の常識的部分が、あの状況でどうして気づくのかと疑問を主張している。考えながら目の前の小エビを見てここ最近の暴露を振り返り、この女も大概頭がおかしかったなと結論に至った。
「だから、困ってるんですよ!」
ヤケクソで監禁中に気づいた心境を、フロイド相手に語る小エビ。それでは自分は介入しなければよかったのではと思ったが、きょうだいのあの暴走具合から、なにかしら手を打たねばならない状況であったことには間違いない。情けない顔で気持ちを整理しているのであろう義妹の頭を適当に撫でつつ、どうしたものか考える。何もしてやれることはない。この問題は本人たちでしか解決できない。
「小エビちゃんも、ジェイドみたいに全部ぶつけてみたらどう?」
「え?」
「駆け引きが微妙ならあとはぶつけてみりゃいいじゃん。小エビちゃん、ドストレートは得意しょ?」
「なんとなくわかるような、わからないような」
「ジェイドはオレが持ち帰ることになるから、それまでにどうするか決めな」
「!」
要領を得ない言葉だよと、どこかの金魚に言われただろう。いつまでもすれ違うならば対戦できる機会は作ってやる。ほどほどにお灸は据えたので戦力は半減してるだろ。少々過激な思考だがフロイドなりの激励だった。
アズールとフロイドが、ジェイドの正気かどうか検分。一応安全だと判断したものの暴走した直後ということもあり、アズールが指示して様子見でフロイドの家にジェイドを持ち帰る形に決まる。
持ち帰るとは、心の内で呟くジェイドだがやりすぎたので大人しい。契約結婚という体で必要最低限(ジェイドはそう思っている)しか彼女には伝わっていないというのに、いきなり監禁紛いな方法で感情を押しつけた。少し離れるべきなのはわかっている。愛しいあの子から離れたくないと、喉からキューキュー求愛が鳴り止まない。物思いにふけるジェイドには、フロイドとアズールが不気味な物体を見るように、目を向けていることには気づいていなかった。
土壇場の転移魔法で来たが、そう何回も使用できる類いのものではない。ジェイドの車でアズールは会社に戻り、フロイドの家に行く流れに差し掛かり、玄関の戸に手をかけた時点でその静止の声は響いた。
「アズール先輩待ってください!ジェイドさんを持って帰らないで!」
ジェイドの腕を掴む小さな手。三人は目を見張る。表情は強張ってはいるが、はっきりと意思のある瞳が三人を映した。アズールはため息をはき。フロイドは面白そうに声を上げて笑う。
「仕方がないですね。あなたたちには振り回されてばかりですよ。車は借りて行きますよ」
「いちお、小エビちゃんに防衛魔法はかけといてあげんね。もう暴走すんじゃねーぞ?」
キュクルルルウウウウウウウ、キュウウウウウウウ、キュー
「すげぇ鳴くじゃん」
「大丈夫ですか、これ」
甘焼けしそうな表情で反目になる二人をよそに、ジェイドは監督生を優しく優しく抱きしめた。
◇◇◇
「ジェイドさん、休みませんか?」
気まずい。引き止めたものの、ぎこちない空気が漂う。
帰ってしまった他の二人は居らず、ジェイドと彼女は玄関でずっと同じ状態だ。ぴったりとくっついている。顔だけ動かして彼を見ようとしても、この体制で角度的にキツい。そろそろ疲れないだろうかと抱きしめられたまま思う。ジェイドをボロボロにしたのは彼の兄弟だが、それを召喚したのは彼女なので少しは気にしている。あんなことがあった寝室に連れていくのは恥ずかしい。休ませなければいけないけれど、ソファーで我慢してもらおう。それと、ドッドッドと鳴るこの音。これが聞こえていると思うとさらに恥ずかしい。遅すぎる恋心の自覚。もうちょっと離れて話したいのに、離れようとして動こうとしてもまったく微動だにしない。自分を離そうとしない男の名を、もう一度呼ぶ。
「ジェイドさん?」
「鏡を」
「鏡?」
脈絡なく切りだされる言葉。
「鏡を割った輩が僕だと言えば、どうなさいますか?」
その意味をゆっくり、ゆっくり考える。
それは、自白。
(そうか、そうなのか)
あの鏡を割ったのは、自分を今抱きしめているこの男か。
不自然な点に気づかなかったわけじゃない。薄っすら感じていた疑問や違和感はあった。それは深く考えるほどでもなかった。元来、帰り道がなくなったことに対して怒りや絶望はない。あの時の自分の中に湧いた感情は歓喜だったから。ジェイドが割った事実を聞いてストンと納得してしまった。それに対して憎悪もなかった。えらく遠回りをしていたのだなと思う。何度も何度もわからせられそうになって。その執着を身を持って知ったとしては、なんてわかりにくい表現なのだろうと感じるだけだ。そう思うだけの自分は、きっとどこか歪んでいるのかもしれないが些細なこと。
〝ドッドッド〟
彼の胸の鼓動が自分より大きく聞こえている。
気まずさは、もう無い。
「ジェイドさんは」
「は、い」
「それほど、私と一緒に居たかったんですか?」
「ユウさん」
「私があの日思っていたことは、あなたは知っているはず。私が聞きたいのはあなたの気持ち」
「一緒に居たかった。それがあまりにも自分勝手だとしても。僕と一緒に居るのは辛くなりましたか?」
帰したくないほどこの男は自分のことを。
「私はあなたと一緒に居たいです、この世界で」
もろもろの所業は追々清算させるとして、抱きしめられていた体を思いっきり抱きしめ返す。今は全てぶつけてみる。これからはお互いもっと話しあうんだ。自分の思い知ってほしい、あなたの思いを知りたい。今度はわかりやすく。
「私、ジェイド先輩が好きです」
「僕も、貴女が好きです」
交わすべき言葉を置いたまま割れた鏡の前。
すれ違って長い道のり経て───珍しくべしょりとした顔で微笑む彼に、彼女は嬉しそうに笑った。
end