帰り道は必要ない


 アズール・アーシェングロットには常に悩み事はある。

 新しく浮上した今回の悩みはまったく予想だにしていないもの。悩みダネの一つだった幼馴染のジェイドと、元オンボロ寮の監督生の彼女。陸でも正式な番になったと、ようやく肩の荷が降りたと思いきや。この前深刻そうなフロイドが要領を得ない内容の話をよこしてきた。
『小エビちゃんがジェイドと離婚するんだって、アイツさぁオバブロしちまうかも〜』
『はい??』
『アズールから小エビちゃんに、ちゃんと説明しといてよ。ジェイドが相手にしてたの取引先の女だって。接待相手を本命だと思ってんの。ジェイド報われねー。じゃ、よろしく』
『ちょ、待ちなさい!フロイド!』
 情報を整理すると、以前ジェイドに取引先相手である女性の接待を頼んだ。その仕事している場面を彼女に目撃され浮気と誤解して離婚の準備を進めているというあたりか。ここまでならば、よくあるすれ違い。なぜ自身が夫婦問題に巻き込まれなければならない。
(つっぱねたいところですが、そんな事態になっているのなら後ろめたいものだ)
 心当たりはある。仕事といえど番のいるジェイドに他所の女を任せたのは配慮に欠けていた。まずいことに今回の場合は、相手の女がジェイドに気があり、下心を少し利用してビジネスの駆け引きに使わせてもらった。これは不味かったかもしれない。そこらへんの人魚が番に対する思いはややこしい。あの男は特にソレが強い。その仕事を引き受けるジェイドはかなり渋っていたのを思いだす。
(それとして、すぐに離婚へと決断に踏み切るのは些か早すぎないか?)
 フロイドから話がきたのは、先にそちらに相談した流れか。気まぐれな男だが、義理の妹を可愛がりそれなりに気にかけている。アズールにこの話をぶん投げてきたのは、フロイドなりに考えた末か。彼女も特異な出自ともなれば、身内として近い存在のフロイドを信頼しているのだろう。しかし、家族になったジェイドへの慎重さや相互理解が足りてないような気がする。
(夫婦問題に僕が口出すのもなんですが)
(今回ばかりは仕事にも絡んだ責任です。社長としてフォローを努めましょう)



 事が事なのでジェイドに出張を押し付け。仕事の合間を切り詰めて監督生と話し合いの場を設けた。アズールから話を切り出すと、監督生はびっくりしていた。フロイドから聞いたと言えば納得して複雑なものへと変わる。一応夫の会社の社長兼幼馴染に話を知られていれば当然の心境だろう。
 多少嘘も盛り込むが彼女に誤解だと説明する。今後はジェイドの夫婦関係にややこしくなる仕事は任せない。あの問題になった相手とも拗れる前に手は打っておいた。些細なキッカケで、一組の夫婦に亀裂を入れるのは自身の本意じゃない。

「そうだったんですね、私なんて早とちりを……!」
「ご理解いただけましたか?誤解が解けて何よりです」

 フロイドの〝オバブロ〟とは大袈裟な言い方だが、拗れたらクソ面倒になるジェイドが想像できる。内心冷や汗ありながらも、穏便に済ませた自分の手腕に酔いしれる。恋愛相談も請け負ってきた経験値が功を成した。本人は未だ相手がいないという皮肉には目はそらし。
「勘違いで〝契約解除〟してたら、ジェイドさんに失礼でしたよね。もしかしたら本命の方が現れるかもしれないので、アズール先輩は何か心当たりありませんか?フロイド先輩に聞いてもありえないの一点張りで」
「んん??今なんと?」
「フロイド先輩に聞いてません?私たち契約交際から契約結婚という道のりを経て、仮面夫婦なったということは?」
「知らないですよ!?」
(どういうことです!?フロイド!!ジェイド!!)
 学生時代からふたりの(ほぼジェイド)ゲロ甘を見てきたアズールは知らなかった。想像以上のめんどくさい事情を彼女から聞かされるまで。





 鏡粉砕事件後の監督生の様子は、へたり込み心あらずで憔悴しきっていて、ヘタに声をかけることもできない姿だった。常々帰りたいと願い、一度は絶望を叩きつけられ前を向きそれを乗り越え、ようやく帰れるというところでの惨劇。あの時は捻くれた自分でも心臓の冷える心地がした。誰もが思っただろう、こんな結末はあまりにも。


 鏡粉砕の犯人探しは、学園長を筆頭に先生方が捜索を開始した。
「犯人を探しても帰れないものは帰れないから、この世界で生きていける知識や力を貸して欲しい」
 少女は強かった。捜索の時間をそれに充てがってほしいと望んだ。先生方もだいぶ悩んでいたが、どういう風に話をつけたか打ち切りになった。帰還に関して少女の一連の姿を見ていた周りの者たちは同情し胸を締めつけられ、できる限りの力を貸し与え続けた。
 少女は悲しげに笑うだけで、涙を流した姿は見ることはなかった。普段なら人が良すぎると馬鹿にしていただろうが、故郷へ二度と帰れない苦しみに耐えた強い人間に何も言う権利はなかった。しかし、本人がそれを望んだとしても、鏡の粉砕者がのうのうと生きて然るべき罰も与えられないことに、捻くれた者たちがほっておくはずがない。少女の気持ちどうのこうのより、単純に自分たちの気分が悪かったからだ。カリムやリドルと純粋に怒っている者もいたが。
 それでも、少女は断罪を望まない。
 何かを知っているのではないかと勘繰ったが話を誘導しても口を割ることはなかった。

 それからは、少女の心を癒すように穏やかな学園生活が流れ。あれだけ酷かった事件の陰も薄まってきた。いつの間に交友を深めていたのか、ジェイドと監督生が付き合うことになり、ナイトレイブンカレッジに衝撃が落ちた。公に監督生の性別が女性と知られる事件でもある。それまでは一度目の帰還を断念したさいに親しい者たちに告げられ、ごく一部の生徒の間で信憑性の低い噂となっていたばかり。女子制服は着ていないものの、認識阻害の解かれた姿はそれなりに見える。

 恋は傷を癒すと、聞いたことがある。
 しかし、しかしだ。傷を癒す相手としてはダントツの最下位。人選の間違い。ありとあらゆる他者に対して気の使える男だが、恋愛という繊細な部門で選んではいけない男ジェイド・リーチと名高い。トドメを刺されるからと、周りの者たちは必死に説得していた。
 フロイドは驚きながら面白そうに眺めていたが。
 今の状態の少女にジェイドがやらかすのは目も当てられない。ヤツの所業のアレそれは、寮長であるアズールに槍玉に上がりそうなので阻止したかった。

『今の彼女に好奇心で交際を申し込んではいけません』
『……貴方もそう言うのですか?』
『あたりまえです。ひとえにお前に信頼がないからですよ。脈絡もなく付き合い始めるなんて』
『脈絡なんて必要ですか?彼女は僕の交際申し込みに了承してくださいました。外野は黙っていてください』
『はっ!?お前の方から告白したんですか!!?』
 
 らしくもなく瞳孔を開く男は、番を取られまいとすると人魚の姿と被さった。
 ジェイドの様子のおかしい時期が思い浮かんだ。そう、あれは。
 少女が帰還する噂が流れたころ。

(ジェイド、お前まさか)

 点と点を繋ぎ、その答えを導き出したアズールは言葉を無くした。人魚の愛は一途だ。人間だろうが同じ種族だろうが求めた相手の事情は慮らない。特にジェイドやフロイドのタイプの人魚───マーマンの血筋は。

『もう、アレは僕のモノです』

 鬱蒼と光悦した表情の男は好奇心などではなく、その一言に執着が滲みでていた。



(この前の出来事でわかっていたが、視界の暴力がヤバイ)

 知り合った頃から『恋愛?(嘲笑)何ですかそれ(嘲笑)食べれます?(嘲笑)』それ系統の話題に全部効果音がつきそうなくらいのジェイドが、あのオンボロ寮の監督生に[[rb:愛寵>あいちょう]]するとは。
 アズールは少女に同情したが、助けてやる気は微塵もない。人魚の番に手をだすなんて自殺行為のようなもの。もしも本気で少女の命が危なくなりそうなら、自身に残る慈悲の良心で助けてやらないこともないが。アズールから見ても、ジェイドの少女への求愛行動は凄まじかった。見目はいいのだろうがジェイドという男を知っている側かしたら、脳への打撃と視覚的にキツく何度も墨を吐きそうになる。監督生の見た目が、筋骨マシマシの野郎じゃないことだけがマシだと思えるレベル。
 よりにもよって食堂での事件は特に凶悪。ジェイドが少女に頬擦りする場面を目撃し、大多数の生徒が食事を犠牲にした事件。少女の友人たちは悲鳴あげ。あっちこっちで割れる音が聞こえた。犠牲者の例として、リドルが食事を詰まらせ呼吸困難になり、トレイは「リドルッーーー!」と叫び、珍しく食堂で食事をしていた運の悪いイデアは「目がぁ、目がぁ!」と意味不明なことを喚き苦しみ悶え、地獄の光景を生み出していた。
『フロイド、あれはジェイドですか』
『ウン、ジェイドデス』
『あの物体は本当にジェイドですか?』
『ソダネー』
『お前と同じ顔の男がスリスリ』
『アズール、オレに追い討ちかけるの?いじめるの?』
 もう一人のウツボは、無心で食事を摂りひたすら赤の他人に徹する。最初はきょうだいの行動を面白がっていたあのフロイドも、さすがにその姿に胸焼けしていたようだ。





 聞き終えたアズールに過ぎ去る学園時代の記憶。今まで見てきたゲロ甘光景と語られる事実の温度差が!!そうならば、対して好きでもない相手に頬擦りされていたという事実。
(この女どういう感性を持っているんだ!?)
 すれ違いどころか本人たちの認識が交わっていない。彼女はジェイドの求愛をどういう風に受け止めていたのだ。いや、待てよ。人間式の伝え方で現してないのなら問題が。よくよく思い返せば、ジェイドのアレもどちらかという人魚よりだった気がする。

「監督生さん、アイツから妙な、ことは?」
「妙なこと?」
「ジェイドは監督生さんに対する、伝え方を間違えているような気がしまして、ね?」
「妙な……あっ!ジェイドさんはよく鳴きます!」
「ジェイド鳴くんですか」
「なんだっけ、こうキュイキュイ、キューだったりキュクルルルだったりキュウて、アズール先輩!?大丈夫ですか!?卸したての革靴で犬のフンを踏んだ顔してますよ!?」
「なんだ、その妙な喩え方は。ちょっとダメージを受けただけです」
「そうですか。調べても意味はわかりませんでしたが、鳴いてるジェイドさんは意外と可愛いくて。あとは休みの時とか一日中スリスリと絡みついてきたり」
「うわ、やめろ!ゴホンっ、わかりました。わかりましたよ。ジェイドの行動を説明します。人間のあなたに分かりずらい表現で伝えていたようです」

(あのウツボ!人間相手になに人魚の求愛選択してんだよバカあああああ!!)

 心底呆れている。最愛の番相手にジェイドの本意はまったく伝わっていなかった。彼女の態度からして、190メートルの生き物に懐かれている風に見受けられる。条件を飲んでいたにしろ赤の他人の男にスキンシップを許しいるし、嫌悪感はなさそうだ。細かいことを気にしない性格だからあの男の側にいれたのだろう。だからこそ、彼女の反応は淡白すぎる。
 ジェイドだってそこまで求愛行動が進んでいたなら、かなり我慢していたんじゃないか?今の今までプラットニックな関係を築けているのは周知の事実だ。実際、人魚の嗅覚で表面的なマーキングされているものの、彼女もジェイドもそんな匂いを漂わせていなかった。あの男は無欲じゃない。番に対して欲塗れだ。知り合いの事情なんて知りたくもないが、彼女の勘違いを加速させたのなら確認しておかなければならない。デリケートすぎてどう言葉を選んでいいものか。

(深く考えるのはもういいよな。さっさと聞いてしまおう)

「非常に聞きづらいことですが、あいつはあなたに対して女性として求めたことはありますか?」
「ありますよ。ですが、自分いつも興奮してしまって」
「そう、ちょ、えええ、ジェイドが興奮するんじゃなくて!?」
「いつも未遂で終わっています。ジェイドさんが私に配慮してくれるので」
「配慮とは?」
「話せば長くなるんです」


「あれは……私がジェイドさんのHADAKAを見てしまい、オンボロ寮を血で染めてしまったときのことです……」
「なんて?」


◇◇◇


 実は監督生、ジェイドとどんなやりとりしたのか細かく覚えていない。

 見られたことにかなり錯乱していて、とにかくなんとか黙っていてもらおうと願い乞うたのだ。詳しく調べれば、少女が割ったかどうかなんて濡れ技が晴れる。恐れているのは「じゃあどうして金属バットなんて持って深夜にいたのか?」と聞かれること。隠したかった本心を多くの人に話さなければならなくなる。勢いでここまで来ておいて、実際知られたくない人物の一人に見られただけで歯はガチガチと鳴らし緊張で手汗はべっしょりなのだ。束の間の高揚もすっかり萎んでしまっていた。必死だった。「なんでもするから」という、オクタヴィネルの副寮長に対して、絶対に言ってはいけない言葉を口走っていた。

「……なんでも?」

 食らいつくようにその言葉に反応するジェイドへ、口が滑ったと後悔しても遅い。彼はあの本心の見えない表情で、ジッと少女を品定めをしていた。その判断の一つとして、洗いざらいこれまでの心情を吐かされたが、興味深そうに聞いていた。意外なことにすんなり、他言はしないと約束してくれ、おまけに〝色々〟と証拠を隠滅の手伝い。更に寮へと送り届けるという手厚い対応だった。
 
 男が少女に〝価値〟を見出した、それだけは理解した。
 
 翌朝の迫真な〝演技〟には、その不安も無い混ぜて感情の籠ったのが不幸中の幸い。日が経つにつれ日常生活へ戻っていくが、周りからあの事件の真相に触れる者はいなく。ジェイドが約束を守ってくれているのだと安心した。同時に彼からどんな要求をされるのだろうかと不安でもあり、少女はジェイドのことで頭がいっぱいだった。それに終わりが訪れたのは、ついに彼がある要求を提示した。
「貴女にどんな対価を頂こうか考えたのですが、ちょうど陸の男女交際に興味がありまして」
「だ、男女交際!?ジェイド先輩とダンジョコウサイ!?」
「声が大きいです」
「ア、スンマセン」
 ジェイドからそんな話をふられるとは思わず衝撃で震えた。少女にとってジェイド・リーチは恋愛事に程遠いというイメージがある。関心があったとしてもその対象外だと思っていた。性格に問題があるとしても、容姿端麗で飛行術以外ソツなくこなす完璧人魚であり、相手なんていくらでも選び放題の男。
 なにやら色々メリットなどあげていたが、少女に都合の良すぎる内容で、逆に彼にメリットがあるとは思えず疑問しかわいてこない。むしろ何が目的で、何に利用されるのか不気味だ。そう思っていてもその案に対抗して提示できる代価は持っていない。

「自分はいいですけど、それって先輩にメリットがあるものなんですか?」
「ここは男子校。陸の学生生活を送りながら交際できる女性と言えば、監督生さんしか思い当たる方はいませんでしたし、いざとなったら都合がいいので。あぁ、貴女自身にも興味はありますよ、とても」
「ナニに都合がいいの!?自分は先輩の好奇心を満たせる対象なんですね」
「えぇ。イタイこともイヤなことも致しません。大丈夫ですよ。僕の〝気が済むまで〟お付き合い頂ければ、気が済んだあとも情報漏洩はしないと約束しましょう。それとも、どなたか慕っている方が?」
「い、いるわけないじゃないですか!?生きてくのに精一杯だったんですから」
「ふふ、それはよかった。契約は成立ということでよろしいですね?」
「最初から断れる立場じゃないです。お手柔らかにお願いしますね」

 どちらも甘やかな雰囲気はなく、会社の取引みたいに握手をしてその契約を成立させた。少女は思った。これはすぐに終わりそうだと。少しドキドキしたものの、そのうち退屈すれば打ち切られそうな案件っぽい。
 アズールからもフロイドからも何のアクションなく本当に黙っててくれてるし。
(とりあえず、ジェイド先輩の暇つぶしに付き合ってみるか)
 その後の彼の言う〝陸の交際〟を想像だにしてないレベルで周りの者たち同様、彼女も胸焼けするハメになるのだった。





 モストロのシフトがない日は、ジェイドがオンボロ寮に訪問する日課になっていた。

 すり、すり。
 すり、すり。

 オンボロ寮では異常な光景が繰り広げられる。
 男は少女を自分の膝に乗せ抱っこして、その頭に頰を擦り寄せていた。その小柄な体格は、男の両腕ですっぽりおさまっている。顔を上げたくてもガッチリガードされ、彼がどんな表情でそれをしているのか確認すらできない。
(いつも思うけど、ナニコレ?)
 状況を理解できない少女は、某宇宙猫の表情でされるがままにされていた。


 少女の認識として、交際が始まってからジェイドはおかしくなってしまった。「あれ?先輩。こんなにブッ壊れていたっけ?」と何度も思った。某ゴスマリで毒花をプレゼントした姿を思いだして、相手は感性の違う男と自分自身に言い聞かせる日々。ろくに好きでもない女相手に羞恥心を与えるのだと。てっきり秘密裏に交際が行われるかと思いきや、翌朝にはその話は広まっていた。心配した友人、親しい先輩たちがこぞって声をかけられたものである。大人たちまでもが声をかけてきたことにびっくりしたが、教師としての監督義務なのかもしれない。のちに、どちらかというとジェイドの〝人魚〟の性質の部分を心配していただと知る。受けいられるようになるまでは、とても騒がしい日々だった。
 俗にいうスパダリ行動を平然と行うジェイドの姿。以前から見かけるサービス精神旺盛おかげか受け入れられた。それに強制的に慣らされたのだが。彼がいうカップル特有のスキンシップというヤツだけは、慣れることはなかった。
 それでも、これが妥協案なのだから驚きだ。

 先日、大食堂で行われた大惨事は記憶に新しい。公衆の面前でTPOを弁えないバカップル行為に少女も参った。恋人ごっこだとしてもあれはやりすぎ。ジェイドが周りの反応を気にして、ワザとあのような行動を起こして楽しんでいたとしても実験にも限度はある。本人は楽しかったかもしれないが、あの食堂に居た多くの生徒に対するテロ行為だ。少女もその被害者の一人である。ごく普通に会話していたはずなのに突然の頬擦りされて、飲んでいたスープを近くにいたグリムに浴びせエライコッチャになった。
 その日の夕方、ジェイドに文句を言った。
「ジェイド先輩、昼間のあれは流石に困ります!周りの迷惑を考えてください!」
「お嫌でしたか?」
「私が怒ってるの見えてます!?嫌に決まってるでしょう!」
「テレて怒ってるように見えます。ふふ、可愛らしいですね」
「ポジティブ!!」
 なんと言おうともこの男は気にしない。実験ついでに嫌がらせしてるのかと思ったが、そうではなく純粋にこの交際を楽しんでいるらしい。それがわかったとしても、どこからこんな男女交際を調べてきたのか謎だ。
「とにかく、人前であのような行動は謹んでください」
「嫌です」
「ばっさり!?もおお、なんでこの人が我が強すぎんの!?」
「しかし、そうですね。テレ屋な監督生さんが気にしているあの行動を〝人前〟で気をつけたらいいんですね?」
「ちょっと引っかかる言い方だけど、そうです!」
「では、それ以外で行うことにしましょう」
「へ?」


 すりゅ、すりゅ。
 すりゅ、すりゅ。
 飽きずに彼は自分に擦り付いている。抗議は一応聞き入れてくれたものの、それからはこんな感じ。キャラのおかしくなったジェイドに危機感を感じるも、これも彼の一面かもしれない。結局受け入れる方向に落ち着いてしまった。楽観的な思考の持ち主は流されるがまま時に波に逆らいこの世界で生きてきた。はたして、この場合逆らった方がいいのか判断しかねていた。
(どうせ訴えても聞き入れてくれないから、人前でしないだけマシか)
 はふっと息をはき。こうなったら、満足するまで離してくれないので、ぐでっと力を抜いてジェイドに寄りかかる。

 キュー、キュー

 そうすると嬉しそうに鳴きはじめた。

(うーん、鳴いてるなぁ)

 どうやら、これは故意に鳴らしてるのではなく無意識に出てしまうものらしい。初めてそれを聞いたとき、お腹の音かと思ってあざといと戦慄した。
『先輩のお腹の音可愛らしいですね』
 それとなく聞く方向に持っていけば、相手は不思議そうな顔している。そこでようやく、ジェイドがその音を出してることに気づいていないとわかった。それからは二人っきりときに、あらゆる音が聴こてくるので困惑。聴いている内に、喉で鳴っていると気づき、ジェイドに聞こうか迷ったがまず自分で調べてみた。図書室の該当の人魚の本には載っておらず、さっぱりわからなかった。しかたなく、本人に聞いてみた。
『たまにキューとか、キュクルルみたいな音が聞こえるんですけど……人魚の習性なんですか?』
 触れちゃならないタブーとしたら、世間知らずなので許して欲しいものだと少女は思う。それに、ジェイドは驚いた表情。
『鳴いていましたか?』
『やっぱ鳴いているんですね』
『なぜ、それをご存知で?』
『ご存知じゃないんですよ。本で調べてもわからなくて』
『本には載っていないと思いますよ。人魚でもごく一部にしかわからないかと』
『え、そうなんです?』
『それよりも貴女がこの音を認識できるとは思いませんでした。それも気付かされるなんて。この音を認識できる人間は稀なんですよ』
『へぇ……で、それは一体』
『嬉しいです。監督生さんがわかるなんて嬉しいです!』
『ぎゃっ』
 巨体にダイレクトアタックをかまされ。嬉しそうに振る舞うジェイドに瞠目する。こんなに年相応に喜ぶ姿、キノコや行事毎以外見たことがない。気の緩んだ優しげな笑みは彼の兄弟や幼馴染しか見られないものだ。案外そうではないのかもしれない。短い付き合いでも、自分の何気ない行動で彼が喜ぶならそれはそれでいっかとなる。思っていたより彼に好かれているらしいとわかり、少しドキドキした。勘違いするなとまた自身に言い聞かせる。彼の気が済めばいつか終わりがくる。それまでに彼のことを好きになってしまいそうで己を律していた。

「センパーイそんなに擦り付いて楽しいですか?」

キュ

「そっかぁ、おわっ、耳舐めないでください」

キュイ

「甘えてもダメです」

………キュウ

「もう、しょげないでよ」

 鳴き声だけなら小動物にも思える。回数を重ねてなんとなく言いたいことがわかる。じゃれついてくるのに違和感もなくなってきた。リラックスできるなら彼にもメリットはあるんだろう。
(ジェイド先輩は可愛い……可愛い小動物!!)
 勘違いしないようにするには、無理のある認識だと少女に指摘する者はいない。





 季節も変わり、ジェイドがちょっと大きい小動物に思えてきた頃。周りもすっかり二人はカップルと認識されていた。

(あのジェイド先輩と〝付き合って〟いるんだなぁ)

 少女はしみじみと思う。交際してるように〝見える〟らしい。表向きでは鏡粉砕事件とされる出来事が起こってから数ヶ月経つ。都合よく割れていた鏡に喜ぶ暇なく、ジェイドに目撃されて黙ってるかわりに交際することとなった。いまだに意味がわからない経緯だ。最初はどんな目に合わされるのやらと恐怖だったが、今はそれも消え失せていた。多々困りごとはあるものの、要求通り交際は順調に進んでいる。想像していた「もういいです、満足しました」展開も来ることもなく相変わらずの態度。最近ますますスキンシップが激しくなってる気がする。彼のきょうだいのフロイドもスキンシップが多い、元々そういう性質の持ち主かもと思い直していた。でも、そのフロイドはめっきり触れては来なくなった。聞いてみると「ジェイドが怒るから」とのことだ。それを聞いてジェイドがフロイドに怒るという光景が想像できなくてますます謎が深まるばかり。
「ジェイド先輩が迎えに来るだろ?グリムは預かっておくな」
「子どもみたいな扱いすんなぁ!」
「ありがとう、デュース」
 ジェイドの度重なる行動を目撃し受け入れ難いグリムは、ハーツラビュルに逃げ込むようになっていた。「高カロリーの摂取は肥満の素なんだゾ」と見たことのない真剣な表情つきで言われた。よくわからない。ついでにジェイド訪問時、ゴーストたちも気を遣ってか席を外すようにもなっている。いつもいた賑やかな面々が遠ざかって、寂しく思うがその分ジェイドと一緒にいる時間が増えていく。

(先輩と自分はどんな関係なんだろう?)

 契約だとはわかってる。そこにはたしかな暖かみを感じても、恋愛というものがあるのかは少女はわからなかった。ジェイドには嫌われていないと思う。だけど、『好き、愛してる』という類の言葉も言われたことがなかった。男女交際というよりは身内又は妹ポジションでおさまっているところか。
 その考え間違っていると、突きつけられた。


(グリム許すまじ。はぁ、ジェイド先輩がモストロのシフト入っててよかった)

 その日は急な雑用を押し付けられて寮に帰るのが遅くなった。グリムはさっさと逃走。いつ頃からか、ジェイドは少女が一人で帰宅するのをやけに心配する様になった。どんどん過保護になっていって、日が暮れてきて不用心にグリムもつけずに帰ったとバレたらアズール以上の嫌味を言われそうだ。オンボロ寮の立地の悪さは、いまさらなので勘弁してくれ。 

 急いでパタパタと寮の中へと入る。玄関を閉めると、ただいまと言った。シンと静か。ゴーストもグリムの気配もない。カタンと、お風呂場の方向から物音がした。

(お風呂でも入っているのかな?)

 一緒に入ってしまおうと思い。廊下を歩きながらズボラに制服を脱いでいく。扉の前に立つと、グリムが逃げないように素早く抱きつくイメージトレーニング。ガラッと扉を開けロクに中を見ず、思いっきり物体に抱きついた。

「罰として一緒にアワアワの刑に処す!」

(んん……?面積が大きいし、毛むくじゃらじゃない?)

「お帰りなさい、監督生さん。激しいアプローチですね」
「ぎゃーーー!」

 ふぅと熱を帯びた吐息が聞こえた。そこにいたのは相棒ではない。
 少女はエビのごとく全力で後方へ逃げた。いつかの様に悲鳴をあげる。ポタポタと雫が滴り落ちる髪をかきあげ、艶のある笑みを浮かべる全裸のジェイド。水に濡れた毛玉ではなく水に濡れた人魚(人間vr)。すこぶる顔の良いイケメン。辛うじて腰にタオルは巻かれているが、ちらちら見える太ももあたりの足が際どい。引き締まった足の筋肉が眩しい。言わずもがな上半身腹筋がバキバキ。人魚のときに見たことはあるが印象が全然違う。青緑から肌色の色に変わっただけなのに。
 何の心構えもしてない乙女に圧倒的色気の暴力が襲いかかる。

「ジッと見られると、こちらもテレるものですね」
「あああ、はい、スンマセン!」
 動揺のあまり反射的に謝るが、ここは少女のテリトリーオンボロ寮。声かけもなく許可もなく、あたりまえのように入浴場を使用している男にどこにも謝る必要はない。
「せ、先輩は、どうしてオンボロ寮の入浴場に?」
 目線を彷徨わせてぎこちなく尋ねる。夜遅くにオンボロ寮へ訪ねてくることもあるが、仕事帰りに寄るか、向こうで入浴を済ませている。この時間帯でここで入浴するなんて珍しいどころじゃない。
 急なお仕事で身を清めていた?たまに見せる薄暗い業務へ従事している姿。その内容は気になっても、藪蛇を突くようだと決して聞くことはなかった。それを思い浮かぶが、ちょっと勘弁して頂きたい。自分が入浴するたびに不穏な想像がチラつくではないか。
「それよりも、貴女はどうして帰るのが遅くなったのですか?」
「先生に雑用を頼まれて」
「グリムくんは?」
「さっさと直帰しましたよ?見かけませんでしたか?」
「残念ながら、気配はありませんよ」
「せ、先輩。一人で帰るなんて今までもありましたし」
「何を言っているのですか、貴女は男子校で一人の女性なんですよ?危機感は持つことは必要では?」
「公に周知されたのはジェイド先輩のお付き合いが原因では」
 少女の疑問は完全にスルーし厳しい口調のジェイドが尋ね返す。いいえ、尋問です。お説教タイムの始まりを感知。

(その格好で!?)

 重要な箇所が覆い隠されているとはいえ、肌色成分が多めで目に毒だ。面積が大きいのでどこを見たらいいのか迷う。なるべくジェイドの方を見ないようにして訴える。
「せ、せめて服を着てからお話しましょう!」
「恥ずかしがらないで、僕たちコイビト同士でしょう?」
「ん?交際してますけど、そういう対象とした艶やかな関係でしたっけ?」
「……」
 まだお茶目さを残していたジェイドの様子がガラッと変わる。なにやら地雷を踏んだ空気。喉を鳴らすと、恐る恐る相手の表情を伺う。真顔に切り替わっていた。ひたひたと大きな一歩で、壁際に追いつめられた。いわゆる壁ドンという状況。相手はほぼ全裸というかなりヤバイ状況。誰かが見たら事案だと思うでしょう。

(マズイものに、触れちゃったみたいな?)

 どこまで交際の範囲に入っているか曖昧だった。彼は触れることは多くても色めいたものは感じなかった。そういう対象ではない。少しおかしいところはあるが、仮初の健全な男女交際が基本なのだと安心していたのだ。

「僕、我慢しているんですよ?」

(ナニをガマン!?)

 カマトトぶるつもりはないが、突然の濡れ場導入突入にビビり散らかす。少女はそういうお年頃なので、そういった知識はある。むしろ女の子の方がソッチ系知識の成熟が早い。好奇心はあるし妄想したこともある。いざ自分がその状況になるのは別だ。更にジェイドが少女を、そういう対象に見れるというのも衝撃の事実だった。
「それ以前に、学生ですし、ちゃんとした手順を!?」
 パニックになりながら、必死に離れようとした。余計に刺激を与えていると気づかずに。
「僕はもうずっと前から……貴女が欲しいです」
 脳がショートするには威力が十分だった。屈められ擦り寄る後頭部、レロっと首筋が舐められ。見てしまった情欲を映す瞳。ハラリと腰のタオルが落ちて、腹にぶち当たるアレ。存在の主張が激しいアレ。パニック最高潮の決定打になったのは間違いない。

(デカい!!!)

 ブシャアアア

「監督生さん!?」

 焦ったジェイドの声。どこかで液体が噴出する音。辺り一面に赤色の液体が視界に映る。手を鼻に持っていくと、手の上は血塗れになっていた。ありえない血の量にくらりと意識が遠のく。正しくは血の出しすぎで貧血だ。

 少女は防衛本能から大量に鼻血を出し濡れ場回避し、ジェイドによる強制的確信ラッキースケベは終了した。


◇◇◇

 
 一通り話し終えると、冷めた紅茶を飲み干し一息つく。

「10代の私には刺激が強く耐えきれなかったんです。それが定番化してしまい毎回死にかけ騒動になってしまって……そういうお誘いはなくなりました」

 神妙な顔つきで締めくくられる。ジェイドという男を知っているアズールは、苦悶の表情で唸る声をもらす。監督生の奇行もろもろは置いておく。話が余計にややこしくなるので。未成年という理由は関係なく、手籠にして既成事実を作ろうとしたんだろう。綺麗に取り繕うのが異様に上手いだけで、本心は社会体裁なぞ気にしていない。そんな男が今の今まで手が出せていないのは、番の安否を優先したから。さすがに事に及ぼうとするタイミングで、死にかけるなんぞ一大事だ。

(どう説明する?わざわざデリケートな問題を解説するなんてごめんだぞ!?)

 陸の世界基準を考える。プラトニックな関係の裏側に、こんなアホな事情があったなんて誰が想像できようか。あの男が素直に好きや愛していると伝えている姿は思い浮かべにくいものの。惚気話のウンザリ具合に、相手にも伝えているのだろうと思っていた。実際は周りにはわかりやすいくらいわかりすく、当の本人には捻じ曲がった解釈を与えていたというザマだ。
 アズールは急激にアホらしくなって、全部投げやりにしたい気分になる。これはもうお互い話し合いの機会を作る方がいい。本音を話し合わないと出れない部屋ぶち込むなどして。そんな都合良いもの、NRC在学中の時ならまだしも、そう簡単に現れてくれない。気が進まないがもう少し混み入った事情を聞かねばフォローも悪手になってしまう。

「その話を聞くと、ジェイドがそういう風に意識しているとわかってらっしゃると思うのですが?」
「結婚したときは、ついにと覚悟したものですよ。結果今の今まで何もなかったので、大量の鼻血を浴び続けたジェイドさんは萎えてしまったのかと。そういう欲求はあると思うので、学生の頃よりは自由の身ですし、わざわざ私を相手にしなくても他にいるのかな〜と」

(………ジェイド!!)

 そこまで女と意識されていながらなぜそう思える。不憫におもうが、答えは明確。ジェイドは彼女に大切なことを言葉で伝えていない。彼女はジェイドの本性を知っており、伝えていない部分をたりないなりに解釈してしまっている。おまけに天性の性質で人魚の求愛を難なく受け入れてしまった。少しでも拒絶や距離を置けば結婚する前に、いざこざ起これど今の現状は変わっていたはずだ。どちらがいいかとは言えないが、確実にすれ違っている。
 あのジェイドがこの人間に、どうしてここまで執着しているのか。この人間をこの世界に留めさせるだけの、鏡を粉砕する必要があったのかずっと疑問だった。短くない付き合いからあの男の心情は想像しえても、本人の気持ちは本人にしかわからない。ことごとく鏡の事件にしろ風呂の事件にしろ、あの男の嫌う予定調和を崩す姿が魅力的に見えるのか。ジェイドの感性もフロイドの感性とはまた違ってぶっ飛んでいる。最初こそ衝動的な感情で動いたのだとしても、突拍子もないカウンターに喜んでいそうなところが腹が立つ。
 アズールから見た、あの男の行動や執着は本気だと思っている。そうでなければ、形だけで『番』だと言わない。もっと他の言い回しをする。本気で大事にしようとしているが、年月が経つにつれ痺れを切らしはじめている。どれくらい人間の基準にあわせて『大事』にできるか。もっと早い段階で、彼女の話も聞く機会があればよかったのかもしれない。そうだとしても濁されたのだろうが。

 ジェイドのアプローチに困惑しつつも、彼女なりに受け入れているように見えたから。

「それなら就寝時は別々で寝ているんですか?」
「せめて抱き枕代わりにすると添い寝程度には?」
「一緒にベッドで寝てるんですね」

(………ジェイドォ!!!)

 妙なところで健気さを発揮するな。アズールは言いたかった。彼女の視点から聞く話と、あの男の視点から聞く話が180度違う。フロイドが自身にぶん投げてくるのも無理はない。
 面倒ごとに巻き込んだのは事実なので、あのきまぐれウツボには特別に業務を増やすつもりだが。

「近々ジェイドにまとまった休みを与えます。あなたたちは、お互いちゃんと話し合った方がいい」

 この話を今日のところは終わりにしようと打ち出した。すれ違いを加速させた部分もあるのでしょうがないが、本当になぜ自分がこんなことをしなければ……とアズールは思う。第三者が介入しても、本人たちが腹を割って話さなければ意味がない。おそらく勘違いしていた誤解の部分は解けたはずだが、もう一つの疑問がある。先ほどの話の経緯で『ジェイドには感謝してる。迷惑をかけるつもりはない、穏便に別れる』とは聞いた。割り切りが潔く、離れることに未練は?ジェイドが取引先の相手と歩く姿を目撃しなければ、ずっとその関係のままでいたのか。この人間はあの面倒な幼馴染をどう思っている?

「最後に質問があります」
「えと、はい。なんでしょう?」
「ジェイドと離れるつもりだったんですか?」
「え、それは」
「あなたの話は聞きましたよ。どうせ結婚へとゴリ押ししたのはジェイドの方でしょう」
「ずっと、それが不思議でした。どうして、この人は私にこだわるのか。ネタ切れしたらいつか離れるのかな、そう考えていました」
「ネタ切れ」
「このまま側に居ていいのかな。この人にはもっと他にいるんじゃ……思ってしまうんです」

 困惑しながら彼女は無感情も嫌悪もなく、大切な大事なことを語るようなソレにはちゃんと含まれていた。杞憂だったようだ。
(貴女は、もう、とっくにアイツのことを)
 自身にそれを言葉にするにはむず痒い。あの腐れ縁と彼女が末長く一緒に居ればいいとは思う。

「捻くれた僕が言うなんて皮肉でしょうが、貴女はジェイドのことをどう思っていますか?」


◇◇◇


『貴女はジェイドのことをどう思っていますか?』

 帰りがけに言われたアズールの言葉を半濁する。

(本当はジェイド〝先輩〟と、どうなりたいんだろう?)

 恋人になっても結婚しても、監督生にとってジェイドとの関係は『先輩と後輩』の延長にすぎなかった。ごっこみたいな関係、それで満足だった。意図の読めない真顔の表情で見つめてくる姿に不安は隠して、何も気づいていないフリして側に居続けた。彼が別れたいと言うのなら、その言葉通り何のためらいもなく離れられた。フロイドやアズールに相談するまで、本気でジェイドが自分へのそんな気持ちがないと思っていた。ただの暇つぶし程度だと。
 
 でも、今はどうだろう。

 あの二人が嘘までついて、自分をひき留めるようなことを言うとは考えにくい。二人からはジェイド気持ちを真摯に伝えようとしていた。余計に混乱してしまう。だって、今まで自分に対する彼の行動がすべて。

「ちょっと、そこの貴女」
「はい?」

 答えをだそうとしていた彼女へと、声をかけたのは親しげにジェイドと話していたあの女性。
 終息つきそうな問題は、この捻れた世界ですんなり解決には導いてくれない。





 監督生という人間は、少女の頃から行動力と思考回路が少しズレていた。自分の世界に帰りたくないから、その通行手段である鏡を割ってしまおうと思うくらい。だからこそ、最後まであの学園でやっていけた。そんな彼女の中身を深く知らない相手からすれば、ただの冴えない取り柄のない気弱そうな女にしか見えない。周りからはよくナメられていたし、彼女もその反応に慣れていた。

「貴女が、ジェイドさんの?」

 アズールとの話し合いの帰り道に呼びかけたのは、発端となったあの綺麗な女性。この場面で肯定すればめんどくさいことになると思ったが、一応事実なので否定する必要もない。肯定すると女性はもろに敵意剥き出した。
「貴女みたいな人、あの人には相応しくはないわ」
「わかっているんでしょう?」
 つらつらと、自分を否定する言葉を投げかけてきたのだが、その内容のほとんどがジェイドと契約結婚したときに言われるだろう予想していた言葉。

(まんま、だーーー!!)

 自分自身でシュミレーションした連想台詞集だった。理由としては【万が一妻子が居ても、モテそうなジェイドさんだ。きっと言い寄ってくる女は数多に居るはずだ。結婚したからには立派に虫除けの勤めをはたさないと!】という決意からくるもの。いわゆる昼ドラ系のドラマや漫画に小説と、男女トラブルよる報告・相談・愚痴系のネット掲示板を読み漁り。メキメキと無駄に鍛え上げられていた。周りに知られれば努力する方向性が間違っていると指摘されたはず。不自然なくらいジェイド周りで女性関係トラブルがなく、彼自身が秘密裏に対処していたかもしれない。

 女性の登場は、満を持してみたいな感覚だった。ジェイドがあまりにもハイスペックゆえに、いざ修羅場に遭遇したときのための対策として脳内シュミレーション通りの出来事。何度も行っていたのに実際に対面して硬直した。

「じゃあ、別れてちょうだい。別れなかったら、どうなるかわかるわよね?」
「え、待って……!」

 脳内妄想が突如、現実で再現され。魔法の世界てスゲーとある意味感心していたら。衝撃を受けている内にいつの間にかそのイベントは終わってしまった。女性は捨て台詞のようになにか言っていたが、満足げな表情で勝ったような雰囲気のまま立ち去ってしまう。嵐のような出来事に立ち尽くしたままだった。

「何も、言い返せなかったな」

 自宅へ帰宅した後、通常のダブルベットより大きいベットへと倒れこむ。彼女は落ち込んでいた。せっかくこの日のためにあんなに対策していたのになんというザマだ。女性の言葉にはさほどダメージは受けていない。その言葉たちは常々彼女が自分自身とジェイドの関係に思っていたことだから。
 だけど、今までだったらそうだった。赤の他人にそれら改めて言われると妙に苛立つ気持ちが渦巻く。言われた言葉を思い出して胸がムカムカ。直前にアズールから援護的なフォローもあり、その前はジェイドの兄弟であるフロイドにもあれこれフォローがあった。

(あんたより、私の方がジェイドさんのこと知ってるんだから!好奇心で毒花渡すヤツだし、裏切ったら地の果てまで追いかけるとか言うし!そもそも、人魚だと知ってます!?)

『貴女はジェイドのことをどう思っていますか?』

 乙女心反論にハタッと思考は止まる。アズールに問いかけられた、答えられなかった問いかけ。ジェイドはスペックが高く一見物腰の柔らかい。外面通りの良い人ではないと知っている。本来は我が強くて、きまぐれなフロイドよりも厄介だと知っているのだ。そんな男に数年も振り回されているのだから。
「でも、本当に嫌なことされなかったな」
 フロイドにもアズールにも鏡のことを話しておらず。食堂での事件は趣旨が変わったが人前でするのはやめてくれた。全裸で迫られたときも無理強いはされなかった。好奇心だけだと思っていた。その言葉通りのまま受けとっていた。興味がつきればいつか立ち去ってしまうから、その時になるべく傷つかないように、穏やかにお別れができるように予防線を張っていた。
「ジェイドさん、のこと」
 このまま悶々としてても埒が明かない。ジェイドが出張から帰ってくるのは何時だったか。
 あの[[rb:人魚 >ヒト]]と向き合わなければ。流れのままに受け入れていたかつての少女はついに腹を括る。話し合いの方向になると、今の今まで彼の思い通りに事が進んできたので、どうしようかと悩む。お話に関して、上手も上手の相手に向き合えるのかと考える。いつものように曖昧に誤魔化されるんじゃないか。夫ととなる人物との向き合い方がわからずに、彼女はまた独自にシュミレーションを行う。

 そんな中、不意につけたテレビの特集。
『私たち、離婚しませんか?』
 再現ドラマで夫に離婚届けを叩きつけるの妻の姿だった。

「これだーーー!!」

 猛然とシュミレートが始まる。もちろん、誰も止める者はいなかった。


◇◇◇


 とある一室で、二人の男女が向き合っていた。
 しばしの沈黙のあと、女から話を切り出す。

「私たち、離婚しませんか?」

 神妙な顔つきで幼さの残る顔立ちをした女はそう告げた。いたたまれなくなり瞳を伏せた。げっそりし目元には隈をこさえるほど、悩みに悩み抜いた痕がある。
「なぜ?」
 それを聞いた男は、ドサドサと両手に抱えた荷物が滑り落ち。浮かべていた幸せそうな表情が一転して、表情の何もかもが抜け落ちた顔で尋ね返した。普段の彼なら、女の些細な変化まで見抜けたはずなのに。得意の弁舌は発揮せず、そう問いかけるのが精一杯のよう。
「あなたに不釣り合いだと、私は思うんです。あなたの隣に居る資格なんてない」
 女はいつもの様子と違う男に気づかない。

「………それは、それは」

 ふざけた理由だ。

 そう吐き捨てた男は、足元に落ちた荷物をぐしゃりと潰れてしまうのも厭わず、女の両肩を両手で掴み。顎に手にかけ上に向かせる。ようやく女は男の表情を見て息を呑んで驚いた。

「監督生さん──ユウ、さん。契約違反ですね」

 この関係が始まって、初めて名前を呼ばれたと女は思いながら。見慣れたギザ歯が自身の唇に噛み付くのを眺めることしかできない。

 女は切り出す言葉の選択を間違えた。
 男は愛情の伝え方を間違えたまま。
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