人外さんと人間ちゃん
夜の学校は怖い。
怖いのに。
どうして、この世界の夜は幻想的なのだろう。
月に照らされるナイトレイブンカレッジはとても美しい絵画の様だ。そういえば、と少女は思い出す。ウィンターホリデーに入る頃、世間話していた一つ年上の先輩が楽しげに話していたこと。
『普段は賑やかですが、生徒のいない静まり返った雰囲気は趣があるんですよ』
『え?先輩、夜の学校を徘徊してるんですか??ツノ太郎とお揃いですね!』
『おやおや、監督生さんは複数へ喧嘩を売るのがお上手なようだ』
『売ってませんよ!?』
凄みのある笑顔にはなったものの、夜の校舎のことを話す彼はやけに楽しげに見えた。それが印象的で少し興味が湧いたのだと思う。ふわふわした足取りで、ランタンは辺りを照らす。懐中電灯もあったが、気分的にランタンに決めたのはよかったかも知れない。いつもなんやかんや相棒や友人たちが、なにかしら一緒に居たので、一人で夜に出歩くのは滅多になかった。ちょっとした冒険する気分。
「うん、たしかに趣があるかも」
記憶の中の彼に答えるようにこぼした。
──その姿を見つけたケモノがいた。
彼はずっと観察していた、その獲物に興味があったから。
カレはずっと見ていた、そのエモノへ欲望を膨らませていたから。
事の発端は、休日前の夜。
「忘れ物しちゃった!」
机に散らばる鞄の中身を見て叫ぶ少女の声は、悲壮感に帯びていた。週明けに提出する課題のレポート用紙を、教室に置いてきてしまったことに気づいた。頭を抱えて唸る。忘れ物はあまりしない方だが、ホームルーム終了直後に学園長に雑用で呼び出され、帰り支度がおざなりになったせいだ。
(しかたがない、取りに行こう)
座っていたイスから立ち上がり、寝間着からいつもの大きめな制服に着替えはじめる。明日にでも取りに行けばいいものの、休日を使って徹夜でレポートを完成させようと予定を立てていた。少女こと監督生のやる気はおさまる気配がない。自分は必ずやり遂げる。ふんすっ、と鼻息荒くする。なのに、あいにく相棒のグリムは健やかな寝息をたてて夢の中へ旅立っていた。役割分担として座学は監督生で実技はグリムと、自分たちで決めているので責められない。それぞれに課題を出されたとき以外は、筆記は監督生の役目だった。
日頃の授業でも、ぷにぷに肉球で文字を書く奮闘してる姿を見て、イグニハイドのイデアやオルトのような電子?魔導?タブレットが魔獣にもあればいいと思っていた。しかし、機能が多すぎると使いこなせないだろうなとも、ぼんやり考える。元の世界にあった、ラクラクホンのようなものがあればいいのにと思う。
今度、オルトにでも聞いてみようか。
部屋を出る前に、時計を見れば22時過ぎ。日付が変わる前に戻れそうだ。実質、オンボロ寮には寮の門限はない。監督生と、グリムと、イタズラゴーストとして住み着いていた三トリオしかいない。学園長によって管理と注意はされてはいるが、基本的に放任主義である。その他にも、真夜中に首輪をつけた同級生が突撃してきたあの事件、廃墟に散歩しにくる先輩寮長がいたり、契約で先輩兄弟に寮を追い出されたりと、巻き起こる昼も夜も関係ない様々事件に慣れたせいか、忘れ物を取りに行くくらいなら大丈夫だと自己完結する。
入り口に置いてある懐中電灯とランタン。どちらを使おうか悩んでいるとふよふよゴーストたちが姿を現した。
「お嬢ちゃん、こんな時間に何処へ行くんだい?」
「教室に忘れ物しちゃって、ちょっと取りに行ってくるよ」
「一人で?やめとけやめとけ」
「オンナノコが出歩くのは危ないよ」
「え、学校の敷地内だし……私の性別知ってるの限られているし」
「キミにワルさをする子に会ったらどうするんじゃ」
「それこそ、いまさらじゃない?こんな時間まで嫌がらせしにくる奴いるかな?」
「グリ坊連れてお行きよ」
「もう寝たよ、あ、話してたら時間がなくなっちゃう!じゃ、ちょっと行ってくるね!回収したらすぐ戻ってくるからさっ!」
気分的にランタンを引っ掴んで飛び出した。今日のゴーストたちはやけに心配性だ。それなりに放任していてくれるスタンスでいたのに。今日は引き止めようしているように感じた。ついていきそうな気配もしたりして、逃げるように飛び出してきてしまった。もしかしたら、ルンルン気分なのを見透かすされていただろうか。
「悪さするわけじゃないから、忘れ物取りに行くだけだから」
一人言い訳染みた言葉を呟いた、気分は高揚していた。
「どうする?爺さん、後ろからこっそりついていく?」
「良い子だけど、魔法が使えないことがどんなに危ない目にあうかわかってないからねぇ」
「お年頃は難しいからのぉ」
ある日、突然現れたイレギュラーの新入生。時を重ねて、今では大事なこの寮の寮生の子。出自は異世界からと知り、ゴーストの身になったあとでも驚くことばかりだと感嘆したものだ。ゴーストたちにとって、大事な一人と一匹。無知であるがゆえに綱渡り状態のこどもたちに、ハラハラドキドキして子育ての気分を味わう。
この学園は珍しい部類に属する物分かりの良い娘だが、少々意固地な部分があった。無知ではあるが、かといって馬鹿でもなく聡さを感じさせる。困難を乗り越える気概は持っていた。しかし、ゴーストも心配させる致命的な危機管理の欠如。常識が違う世界で育った弊害なのだろうが、ひんやりさせるその行動力に彼らなりに心配して暖かく見守っていた。
「運には恵まれてない子じゃが〝悪運〟には見放されていない子じゃ──まぁ、このまま放置するのもまずい。少しばかりおまじないをかけて置いてやろうかの」
パチンと音が鳴り妖精の鱗粉なようなものが、監督生の後を追っていた。それに気づくことはない。
ゴーストたちの親心に似た心配りが、後に起こる出来事に大きく影響を及ぼすことになる。
元の世界では学校の校則や、補導、親が再三注意していたので、物分かりのいい子だった娘はそのルールを破ることはなかった。母親は鬼のような顔して、娘に夜に出歩くことを禁じていた。どことなく危機管理が欠如していた娘を心配してのことだったのだろう。
それは娘が高校に進学するときまで進行形で続いていた。その頃には16へと年を重ねていた娘にも、さすがに過保護すぎると煩わしい感情が芽生えていた。友達付き合いやら部活の練習など、それらは健全に育つ必要なものだ。成長過程で身につけた知識で訴える娘の言い分に、耳を傾けた母親はさすがに「それもそうか……」とうなづく。緩和された門限に喜ぶかわいい娘に、母親は「ただし!」と付け加えた。報連相はしっかりすること。必ず一人で帰らない。出歩かないなど、いつもと同じことを少し変えて言い含めた、そして、最後に。
『オンナノコをこわがらせるこわ〜いオバケがいるから、気をつけるのよ』
曖昧すぎる言い方に、いつも疑問が浮かんだ。言う通りにして聞き流していたけれど、その日はついに理由を尋ねた。
『なんで、オンナノコ限定なの?オトコノコは?』
『え!?あ〜そうね。性別問わず子供が夜に出歩くのは危険だけれど、大人も同じなのよ?危ないことに巻き込まれやすいの、テレビのニュースとかでも、いたましい事件が報道されてるでしょ?』
『それも、そっか……うん、わかった。気をつけるよ。でも、お母さん。高校生にもなってオバケはないよ〜』
『いや……ねぇ、純粋に育てすぎちゃったかしら?』
『ん?どういうこと?』
珍しく困った表情で母親は笑っていた。
その疑問も高校に入学してできた女友達の生々しい話やら、ちょっとえっちなアレソレの情報に日々、衝撃受けることとなる。少女にとって、それ系統の話は苦手意識ができてしまった。
回想から戻ってきた少女は、ふぅと息をつく。
今では懐かしい思い出。
夜に子供が出歩くことはない。現在ランタンを灯りがわりにして、浮かれるように軽やかに歩く、監督生と呼ばれる少女もその一人だった。幻想的な月に照らされる建物たちを眺め歩きながら、元の世界での記憶を懐かしむ。
心配性の母親を思い出して少し心を痛める。発狂して錯乱していないか心配だった。でも、そんな母親にはとても頼りになる父親がいる。自身の性格も父親譲りの図太さなので、父親が居れば大丈夫だと楽観的な考えでいるようにしていた。センチメンタルになりつつも、切り替えの早さはピカイチだと自負している。
少しずつ近づく校舎への道のりは、学園の敷地内だが冒険している。異世界へ身一つ放り出された少女は、数々の騒動を乗り越え自信をつけて──慢心した勘違いをしていた。
今の自分なら大丈夫だと。
「道を、間違えたかも」
忘れ物を回収という目的を達成し、浮かれと安心で通る道を間違えてしまったようだ。ランタンはあるが魔道具ではない市販品。遠くの方まで照らすことはできない。監督生自身、夜目は効かない、魔法も使えないので、目を凝らしながら行ったり来たり。これ以上進んでも、どこに出るかわからない。考えて元来た道を戻ることにした。それが妥当な解決策だろう。道を間違えたことで焦燥感に、少し心臓がバクバクしている。
まさかの迷子。意気揚々とした冒険気分はみるみるうちに萎んでいき、不安な心で思いだすのは余計なもの。
【夜の校舎を一人で歩くとき、ナニカを捕食する音が聞こえたら覗いてはいけない】
脅かすように記憶の友人・エースは神妙に話しはじめる。NRCにも怪談があるらしいと聞いたのは、いつかの急遽自習となった午後の時間だった。暇を持て余し自習することも放棄したヤンチャどもは、それを皮切りに怪談話大会となった。元の世界でも聞いたような七不思議のようなものだったり、どこのホラー映画だというような話など。怪談話大会の流れになったのは、学生特有のあのよくわからないノリだったのだが。
(私の馬鹿ー!なんでこんな時に思いだすー!)
余計な考えを振り払いながら頭を振る監督生は、小さな光の粒が無音で降り注いでいることに気づかない。
……ビチャリ……
音がした。彷徨う足は、びくりと止まる。数歩先の曲がり角から聞こえた。怖い話を思い出したから、無意識に拾った幻聴だと思おうとしても、金縛りにあったように体は動かない。
……グチャッ……ブッチィッッ
〝ナニカ〟を引きちぎる音が鮮明に聞こえる。
…………ァッ…………
「………ッ」
か細い、人の声に似た。
金縛りが解けるように、出かかる悲鳴を慌てて手で押さえた。このまま踵を返して逃げるべきだと本望は訴えているのに、ふらふら吸い寄せられるように歩みはその方向へと。
(止まれ!止まれ!見るな!)
自分自身に言い聞かせても、真逆の行動は止まらない。曲がり角に辿り着き先を照らすようにランタンは掲げ照らす。
ギュイ
──ソレは低く唸った。
見てしまった。
そう、見てしまった。
灯りで照らしているのにぼやけた光景。はっきり見えないのに、捕食している大きなシルエット。周りに転がるヒトのようなカタマリ。黒い水が床にブチまけられていた。あたりに漂う鉄の匂いで、それは〝血〟だと理解する。
はっきりと見えるならば。視界に広がる陰惨な光景。
バケモノがスローモーションでこちらを振り返る。片方だけ目のようなものが光っていた。
「………ぎっ、ぎゃあああああ!!でたぁぁぁ―――!!!!!」
つんざく悲鳴を轟かせ、監督生は踵を返し全力疾走で逃げた。
何分、何十分経ったのだろうか。息を切らせながら監督生は足をもつれさせ必死に逃げている。後ろから、バケモノが追いかけてきている気配を感じる。距離が縮まったり離れたりして一向に捕まりはしない。本来なら監督生のような凡人の体力などでは、とうに捕まえられ喰い殺されているはずだ。
いまだに逃げ生き続けていた。酸素の足りない頭で考える。逃げ惑う獲物を狩りするように楽しんでいるのではないか、と。もう足が限界だった。泣きベソをかきながらも、目に入った空き教室に飛び込む。机の下に隠れて息を殺す。
(助けて、誰が助けて)
息切れした呼吸を静かに静かに整えながら。隠れ潜む。心の中で助けをこうが都合よくヒーローは現れない。
──少女の心音に反応するように、カレらがかけた魔法が発動した。
ベチャ、ベチャと粘ついた水の音。バケモノは突然途切れた獲物の痕跡に足を止めた。探るように監督生の居る教室の扉を開け、急に動きを止めた。何に興味を引いたのか猛然と離れていく足音。やり過ごすことに成功して、ホッと息をついた。
安堵したものの、安全な場所へ逃げなくてはいけない。学校に人喰いのバケモノが徘徊してるなんて思うわけない。誰に報告すればいい。スマホを身につけるのを忘れていたことに、今になって気づき額を壁に打ち付けたくなった。
「学園長、に」
自分を落ち着かせるためにささやく。友人たちの寮に繋がる鏡舎も、学園の敷地内にある自寮も、おそろしく遠い。真夜中になろうとする時刻かもしれないが、部屋に滞在していることを願うしかない。お小言はくらうだろうが、食われるよりは遥かにマシだ。命大事に。
バケモノに遭遇するという危機的状況だというのに、少女はどこか冷静に受け止めていた。夢だと思っていた突然の異世界転移に、適応していった人間の本領発揮であった。だが、少女にとって確実に頼りになる存在を思い浮かばない。
意を決して立ち上がり、息を殺しながら扉へ向かう。確認のため音を立てないように顔をだす。安全確認が終了し命懸けの大脱出がはじまろうとしていた。
「アレ?A組の監督生じゃん?何してんの?」
「ヒェ」
異様なくらい無音の世界に、ぬとりとした男の声。それは、聞き覚えがない。ビクリと全身震わせる。声した方へ顔を向けると、暗闇の中に知らない男子生徒。彼は監督生を知っているのか、親しげな雰囲気を感じる。監督生を気にかける言葉が続く。はっきり見えない視線はぬとりとしている。少しだけ背筋が粟立った。
◇◇◇
硬直した監督生を気にせず、遭遇した男子生徒は忘れ物をしたらしく、こっそり取りに来たと話した。B組でイグニハイド寮所属ともさらりと付け加えられる。ピンときていないのがバレていて曖昧に苦笑した。片手に持つ教科書をひらひら主張して、同じ理由でここに居るとようやくわかると、監督生は息を吐きだした。すぐさま自分が見たバケモノの話をする。とても、悠長に会話してる状況ではない。
「それ、境目の怪物ていう七不思議じゃない?真相は学校側が保持している貴重な魔道具や書物の部屋への通路を、生徒たちが悪戯や悪用しないよう侵入阻止のトラップ幻覚魔法がかけられてるらしいよ」
「すごく臨場感あったよ!?ち、血の匂いだって!」
「あはは、ここどこだと思ってんだよ?魔法士育成学校なんだから、先生たちが半端な対策するわけないじゃん」
「そ、そっか。そうだとしたら、悪戯生徒を全力阻止する名門校にギモンが」
「うちの生徒は問題ありだから」
「そこはごまかさないんだね」
「あー、あと、ホラ、監督生て魔法使えないだろ?幻覚魔法にダイレクトに影響されてるんじゃないの?」
切羽詰まった早口で事のあらましを話すと、男子生徒は半笑いの表情で答えてくれた。聞き終わり、その第一声がその言葉だった。
あの見たものは、本当に幻だったのかと納得できない気持ち悪さがあるが、魔法の学校ならそういう理由もあるのだと受け入れることにした。この男子生徒の言葉にも否定するところはない。ゴーストたちが心配していたのはそこら辺もあったのだと、帰ったら謝ることを心に決めた。
とはいえ、幻覚魔法にかかってるのだとしたら、解いてもらうしかない。変わらず、お小言覚悟で学園長室に向かうことにした。あのバケモノが幻だとわかったから、少し緊張感が薄れていた。
「教えてくれてありがとう。じゃあ、自分は学園長室に行ってみるよ。魔法解いてもらわなくちゃだし!おやす……」
「え!?スマホは!?」
「急いで取りに来たから忘れちゃって、だから」
「へぇ……今の時間、学園長いるの?」
「わかんないから、直接」
「校舎から出れば解けるよ。つーか、こんな夜中に女の子が出歩いてちゃ危ないよ」
ここで会ったのも何かの縁だし寮まで送ってやると、腕を掴まれ少々強引に歩き出した。あまりの急展開についていけず、少し引きづられながらも歩いていく。この男子生徒とは、ほとんど面識がない。特にイグニハイドは人との接触を避けたがる節がある。失礼だが意外だった。こんなに親切にしてくれる生徒もいるんだなと、これまでの波瀾万丈な学生生活を思い返していた───だからこそ、関わりのない相手からの親切に違和感を感じていた。
おかしな違和感はあった。
送ってくれるはずが、オンボロ寮へ向かう道とは違う方向へ辿っているのだ。どこかで鳴り響いていた警鐘音に、聞かぬフリをするべきではなかった。尋ねるとその問いを無視され、本能的に危機を感じた。掴まれた腕はおかしなほど強い。意を決し足に力を込め、振り向かない相手の太ももを思いっきり蹴る。バランスを崩した。
今度は男から逃げるために、夜の校舎を全力疾走する羽目になる。「待ちやがれ!!」後ろから豹変した男の怒声が聞こえた。
(なんで、こんなことになるの!?)
気づかぬフリをした。一つの想像を思い浮かべ吐き気がしそうだ。あらゆるものにふれていく内に、そういった知識くらいはある。遠いものだと。限られてはいるが、普段から異性だと知られながらも同性のように扱われていた監督生には、程遠い別世界の話だと。
それは、ただの暴力ではない。女の性を、尊厳を、踏みにじる行為だ。母もカレらも心配していたのはこの事だったのだ。今、ようやくわかった。最悪の形で。
「逃げないでよぉ」
真後ろでねっとり興奮した声が聞こえた。ゾッとする。害されることがわかっているのに逃げないわけがない──衝撃波を浴びた。残酷にも、いとも容易く転がされる。
(魔法を、使われた)
ぐわん、ぐわんと揺れる。打った頭を抑え痛みで涙が滲む。体の上に男が乗ってきた。フッーフッーと興奮した息。これからなにを行われるのか、少女は知っている。無縁なものだと思っていた、おぞましき行為。
「たすけ……」
ゴッ!!
叫ぼうとして頬をぶたれ。これ以上叫ばれないように男は口元を塞ぐ。少女はじたばたもがき、その拍子に口の中へ男の親指が入った。
「君が、夜に、一人で、歩いているのが、悪いんだよ……!」
今まで他の奴らが居たから近づけなかったんだ、ぼくはずっと見ていたのに、ぶつぶつ訳の分からないことを呟いている。口調がいくつも変わりその様子は異様で。ゴリッと、硬い感触。足に硬い物が押し付けられた。
──いやだ!
──いやだ!
片方の手でスラックスを脱がそうとするがうまくいかない。全身に走る嫌悪感。硬直してしまう。少女必死に考える。このままでは。
ギュッと唇を噛み締めようとして、ガリッと男の親指を噛んだ。
「イテッ!」
男が悲鳴を上げた。口の中で血の味がする。恐怖と嫌悪とこの状況を打開することだけを、必死に考える少女の思考は麻痺していた。
(このまま踏みにじられるなら、この指を)
歯に力を込めた。男は自身の親指の違和感に気づいたのか、焦ったように口元から取り出そうとする。片手で首を絞められ口を開きそうになり耐える。今できる最大の抵抗。
痛みで悲鳴をあげはじめ───覆いかぶさっていた男が姿を消した。叩きつけられる音が響く。グルルルと、鳴き声が聞こえた。
寝転んだ状態でおそるおそる見上げると、大きな黒いカタマリがこちらをジッと見下ろしていた。
「……っ!」
悲鳴を飲み込む、さきほど必死に逃れようとしたバケモノだ。まぁるい金のひとみが、値踏みするよう見ている。
視線はそらされ、バケモノが呻き声をあげる男の方へ向かった、男が呻き声をあげて逃げようとしている。少女はぼんやりした頭で、さきほどまでの自分を見ているようだと思った。
状況が一変する。逃れようとする男に覆い被さり、嫌な音が鳴り響く。バケモノの影から見える男の体は小刻みに痙攣していた。咀嚼する音は幻聴でもなく、視界に映るそれは幻覚でもなかった。それなのに、目の前の光景は液晶越しに映る映像のようで。動かなくなった体の一部。くるりと、ソレはこちらを振り向いた。
───まずい、次は私だ
頭では逃げなければならないとわかっているのに体は動かない。なにもかも、ぼんやりと眺めている自分がいる。パックリと大きな口を開いた。鋭く噛み砕けそうなギザギザの歯が見えた。まぁるい金の瞳と、また視線があった。不思議だ。知性を灯すような、どこかで見覚えのある既視感。心当たりにたどり着く前に、揺れる脳と視界。ウデのようなものが、こちらに伸びてくる。
逃げることを放棄した。運命を受け入れるように瞳を閉じる。涙は流しているのか、もうわからない。走馬灯のように、短いような長いような蘇る記憶。後悔ばかり蘇り、同時になんとも言えぬ安堵に満ちる。
あの世界に帰ることができるのだろうか。尊厳を踏み躙られるよりは、よかったよね。
「イタくないと、いいな」
せめてもの懇願を最後に、暗く意識は沈んでいく。
───監督生さん、監督生さん
───起きてください、風を引きますよ
遠くから落ち着いた声に呼びかけられる。馴染みのある声だ。自身のことを心配している。こちらへ語りかけ、柔らかさが含まれた低音は耳に心地良く眠気が強くなる。
───ねぇ、早く起きてくださらないと
「喰べちゃいますよ?」
ボクがまだガマンしてる間に、早く起きて。
ハッと目を覚ます。
「……しんでない?」
起きた場所はベットではなく学校のどこかの場所。バケモノもあの男子学生の死体もなにもない。
なにもなさすぎる。
(夢でも見てた?あれだけの惨事、どこにも)
「大丈夫ですか?」
「ぎゃっ」
囁きに驚く。何処に潜んでいたのか。独自の特徴を持つ一個上の先輩。真横には心配気な表情で覗き込む美しい顔面。さらりと左側にある一房の黒のメッシュが垂れている。
「おやおや……まるでバケモノを見たように驚かれますね?」
くすくす笑う一つ上の先輩、ジェイド・リーチが居た。
夢から覚めた気分だった。
ジェイドにここで寝ていた理由を聞かれて、朧げな記憶を探りながら話をする。休み明けの課題に必要なものを取りに来て、ナニかを咀嚼するバケモノに遭遇して、隣のクラスの男子生徒と一緒に逃げていて、それから、それから───その子が食べられてしまったのだ。
自分の話を聞いた先輩は考えこむように黙り、その口を開いた。
「――ふむ、もしかすると、××の校舎の魔法仕掛けにまんまと引っかかったのかもしれませんね」
「え!?」
「噂では、この広い学園は素行の悪い連……生徒たちが悪戯や悪用しないように、学校側が保持している貴重な魔道具や書物の専用の部屋があるそうです。その通路を侵入阻止のトラップ幻覚魔法などが仕掛けられてるそうですよ」
「すごく臨場感ありましたよ!?ち、血の匂いも!」
「此処は魔法士育成学校、先生方が対策を講じたのでしょう」
「そうだとしたら、悪戯生徒を全力阻止する名門校にギモンが」
「ふふ、エキセントリックな生徒が多いですので」
「そこはごまかさないさないんですね」
「監督生さんは魔法使えません、施された幻覚魔法に大きく影響されてるのだと思います。それに、なにやら……いえ、これは気のせいですね」
(あれ……こういう会話した、よね?)
弓形になる瞳で、言いかけたジェイドはしげしげとこちらを見る。魔力がないことは事実なので、彼の含みのある物言いに何も思わなくなっていたが、不思議な既視感に引っ掛かりを感じていた。一通りの会話が終わると、監督生はジェイドがなぜここに居るのか問う。
「以前にも言いましたように、夜の散歩が趣味なんです。仕事終わりに気分転換していたところ、これを見つけました」
にっこり笑ったまま寮服の懐からマジカルペンを取り出しふるりと振った。途中からどこかに落としてしまった自身の忘れ物が現れる。丁寧に渡されるそれを促されるまま受け取ると、思慮深い顔で言った。
「さぁ、日付も変わる頃です。こんな夜更けに女性が出歩いていては危ない」
(夢の中でも同じやりとりしたような……?)
ジェイドは監督生の性別を知る限られた一部に属す存在だ。彼の普段の振る舞いからして、異性である自身を気遣ったのであろう。
受け取ったものを今度は落とさないように、大事に持ち直した。
校舎から出れば魔法は解けると説明を受けながら、監督生の気分はどんどん下がっていく。悪趣味な悪夢を見せられたことと、自分の軽率な行動に対する自己嫌悪だった。行きは楽しかったのに、すっかり気持ちは萎えてる帰り。出かける前に心配していたゴーストたちにあやまろう。
「あっ」
重大なことに気づき立ち止まり、血の気がひく。落ち込む自身にを利かせてくれているのかキノコの話をしていたジェイドは、様子が豹変した監督生を凝視する。
「先輩……この親切の対価はいかほどでしょうか!?」
色々なことが起こり心奪われていたが、あのオクタヴィネル寮の副寮長に充分すぎるほどの親切を受け取っていた。
「あぁ、そのこと……ですか。いいえ、対価は要求いたしません」
「請求書の見積もりだしてないからですか!?」
「本心から辞退したのですが、対価を要求したほうが安心するのですね?」
「すみません!!心遣い感謝します!!」
「では、生徒のいない静まり返った雰囲気は趣があるんです。今度仕切り直す気持ちで、ご一緒に夜に散歩してみませんか?」
まったく話を聞いてくれない。いつかどこかで聞いた台詞に、あの時とは違い引き攣ったように「善処します」とその誘いへの返答を濁す。本当に善意からの行動だったらしいが、駆け引きを読めなかった自身は墓穴を掘ってしまったようだ。
内容自体難しいことではないが、あんな事があった後なので「このタイミングで!?」という気持ちが強い。
「ーーなので、今日の夜は、夢見の良くなる〝おまじない〟をかけてあげましょう」
「うわっ」
前に見た妖精の鱗粉のように魔法がかけられる。どんよりした気持ちがおさまった気がする。
「体が、ぽかぽかしますね」
「安眠を促す魔法の一種です。たいした魔力は使わないので、おまじない程度のものですよ」
「先輩が優しすぎる」
「僕のことをなんだと思っているのでしょう……しくしく……」
優しげな声音に耳に心地よく馴染み、ジェイドがどんな表情で話しているのか見たくなった。見上げる高度が上がっていき、月明かりに照らされる美形。その美しさにドキッと音が鳴った。
「……いつにも増して顔が良く見える!?これが、吊り橋効果!?」
「監督生さんは、ヒロイン力が足りないと思いますよ」
予定より大幅遅い帰宅。ジェイドともにオンボロ寮に戻ると、ゴーストたちがマッハで二人を取り巻きぷりぷり怒る。主に監督生に対してだ。
ジェイドが要領よく、ことの次第を説明してくれた。ゴーストたちも、神妙な顔で話してくれた。もうすぐ学園長に報告して、捜索するところだったらしい。学園長に伝われば各寮長たちも招集される流れになったのかもしれないので、危ないところだった。よくお世話になってる、ハートの寮長の姿を思い浮かべ震えた。オフられる。
口々に言う最もな正論に監督生は正座して聞く。今回のことはかなり反省している。しおらしい姿に、ゴーストたちの説教は尻すぼみになっていく。
「お嬢ちゃん、えらい落ち込んでるねぇ……おおお!?」
「何かあったのか、い!?」
「どうしたんじゃ……んん??んんん!?」
ゴーストたちが、びっくりしたように声をあげる。その声に監督生もびっくりする。何か起こったのか。
「どうしたの?」
「え、あー、うん?」
「これは、ちょっと……」
言いにくそうな表情するゴーストたちは、監督生とジェイドを交互に見比べている。一体どうしたというのか。
「人魚の坊や、好奇心もほどほどにしてくれんか?」
「好奇心はありますが……ゴーストさんたちが心配されてるようなことにはなりません、ご安心を」
「……このくらいのおまじないなら大丈夫かね?」
「今夜限りのようだしの」
「なんの話!?」
「おまじないの話だよ」
「さっき、先輩が夢見が良くなるて言ってたやつ?」
「夢見が良くなる??」
「はい。監督生さん、ご自身の行動にだいぶ落ち込んでられたので、今夜はぐっすりと眠られるように夢見がよくなるおまじないをかけたんです」
話についていけず、ゴーストとジェイドのやりとりを監督生は不思議そうに見ていた。もしや、さきほどのおまじないヤバいモノだったのかと思ったが、ゴーストたちが微妙な表情を浮かべていたので判断しかねる。なお、ジェイドに聞いても教えてくれなさそうなので諦めた。
翌朝。
結論言うと、夢を見たがぐっすり眠れた。昨日の出来事はすっかり抜け落ち、すっきりしている。体が軽い。鼻歌混じりに相棒のグリムと自分の朝食を作る。
「お嬢ちゃん、気分はどうだい?」
「どこも悪くないかい?」
「顔色は良さそうじゃが」
「おはよう、みんな。夢見た以外、普通に眠れたよ」
「そうか、よかった」
「夢てどんな感じさ?」
口々問い詰めるゴーストたちは自身の夢に興味深々だ。そんなに気にされると怖い。話してみて、それがどうなものなのか判断してもらおう。
「どんな感じて、なんか月が綺麗でジェイド先輩と夜の校舎で散歩して、踊って、水の中を揺蕩うていう夢を見たよ。昨夜の出来事が衝撃すぎて影響されたんだと思ってるんだけど……この夢に意味があるの?」
この世界の常識にはまだまだ疎いので、精神にも体にも悪影響がないなら大丈夫だと、自分ではそう思ったが……ちょっとデートぽかったのは恥ずかしいので気のせいにする。
「あらぁ、あらあらあら〜意外といいじゃないのぉ」
「ヤダァほんとねぇ、あの坊や意外と優しいじゃないの」
「〝お呪い〟との相性が良かったんじゃなぁ」
訳知り顔のゴーストたちは不憫なモノを見る表情から、途端にニヤニヤした表情でオネェ言葉で喋りだす。反応から緊迫した問題がなさそうだが、変な誤解をされているようだ。
「なんか、よくわかんない誤解してるけどっ!吊り効果だからっっっ!!」
老齢のゴーストたちは[[rb:咬魚の誘惑 >お呪い]]をかけられた娘を心配こそすれ、生者たちの変わるであろう関係を静観する。異種族同士の年若い男女の未来が良いものであるようにと、思いながら。
◇◇◇
隣のクラスで退学者がでたらしい。
理由は家の事情だとか、校則を破ったからとか、有る事無い事好き勝手に言われている。
昼の食堂で、グリムから昼食を守りつつ、エースの話を聞く。そういったような話には耳聡い友人だ。自分のスマホを見ながら事細かに詳細が話している。どこか、安心したような表情だ。
「エース、なんか嬉しそうだね」
「赤の他人の退学で喜ぶなんて性格悪いんだゾ」
「僕たちだって人事じゃなかっただろ?」
「ちげぇーし!そいつが、ちょっとよくない意味で気になってたの!!」
「よくない意味?」
「……あーね、視線が」
ちらちら、こちらを見るエースの顔はとても言いにくそうで、普段からはっきりした物言いをする彼らしくない。エース除いた三人は、ハテナマークを浮かべ食事を続けた。
「いや、やっぱなんでもないわ!デュース、ソレいただきっ!」
「あっ、オイ!」
妙な雰囲気を打ち消すようにエースがデュースのおかずをつまむ。文句言われつつ、見ていた画像をスワイプで閉じる。所有者にしか見られなかった画像には退学者が映っていた。
映っていたのは───彼女が『悪夢の中で一緒に逃げた男子生徒』だった。
end
〝咬魚の誘惑〟
ごく一部の原初系統の人魚が使う、心を迷わせ自身にさそい込むときに用いられる呪術。術者によってその効果は様々で、大概は依存症状を引き起こし精神に大きく影響し死亡することが多い。よって、ワンダーランドでは禁止されていた。人魚属の間でもタブーとされている。近年、異種属間のグローバル化が進み原種の血を持つ者が極々一部になってきたため、その効力が落ちたことにより禁術法を見直された。今では、人魚属独自の恋占いに使われることの多いお呪いとなっている。【異種属文化と呪術魔法の歴史】第2××ページ参照