第3章 天使降臨
その愛槍は静かに、ゆっくりと愛しき存在を貫いた。天界からの祝福を体現する神々しい光を零し、貫いた身体から滴る朱すらも儀式めいたものに錯覚させる。
どくどくと流れ出るその朱を見詰め、ゼトアはただその“儀式”を見届ける。痛々しいまでの光景に、天使の表情は穏やかだ。すでに終わりを迎え入れているその精神は、痛みよりも安らぎをそこに見出しているのだろう。
優しい笑みを湛えるその頬を、そっと手でなぞる。暖かい体温をまだ感じるその身体が、これから流れ出る血と同じように冷えていく。熱の消えていくその様に、自身の胸の内が熱くなるのを自覚する。
――最後まで、本当に俺は……
思わず出た自嘲の笑みに、答える者は今はいない。いつもなら、狂おしいまでの欲望を掻き立てるエメラルドグリーンが、今は見えない。視れないのだ。
いつもなら、半分咎めるように笑い、半分――『全て』を捧げていた憂いのある笑みが、今はない。これまでは『全て』を捧げた。今だけは、捧げていない。
先程まで自分をからかい半分に咎めてくれていた天使ももう喋れない。大地に縫い付けられた身体が、淡く緑色に輝き出し、その地との同化を始めていた。
まるで絵の具が溶け込むかのように、大きな波紋と渦を作りながら、天使は大地と同化する。水面に走る動揺がごとく、その波紋は小さく、だが確実に地平線の彼方へと走っていく。そしてそれを追うかのように、淡い緑の光もまたゆっくりと大地に浮かぶ波紋となって消えていく。
足元をそれらが走り抜ける瞬間、どこか懐かしい、暖かい空気が顔を撫でたような気がした。それは彼女が初めて自分のために作ったシチューの香りか、はたまた天使が初めて見せた神々しい翼の羽ばたきか。
柔らかいその空気の動きが、走り抜け、そして重苦しい砂嵐にとって代わる。まるで何かを咎めるようなその重圧に、ゼトアは思わず苦笑い。
――甘い甘い恋に嫉妬したか? お前が思っているような清らかな女ではなかったぞ?
爽やかなるあの頃の記憶等、すぐさま歪められた快楽の様にとって代わっていた。愛おしい愛情を歪に歪められた行為に塗り替えて、その身を闇に堕としていった。一心に一心に、自分だけを求めるように。ただ闇へと、暗い暗い一筋の光もないこの心の奥底へと。自分の隣に居る<ある>ようにと。ただ一つある、一対の光。あるのは、エメラルドグリーンの輝きのみ。
光と闇の対なる魔力の影響か、彼女の身体はその闇の魔力に酔わされていた。まるで心までをも犯されるようなその行為に、純白が塗り替えられていく。美しく儚げなエルフの女は、闇にその身も心も囚われた。
天使もまた、闇に囚われた。本来天使にとっての性的興奮は、自身への信仰心からくる狂おしいまでの服従からなるものである。その為彼らへの捧げものは信仰心の強い信者から選ばれることが多く、そこに性別や種族は関係がない。あるのは心の潔癖――神のみを信仰するという愚かな心である。
そんな心が魔王であるアレスや、その部下であるゼトアにあるはずもなく、まさしくこの天使は生れながらにして堕天使となる資質を秘めていたとしか思えない。
自身の器である肉体を傷つけられることを歓び、そして信仰心等全くない魔王に対して狂った嫉妬を滾らせていた。闇にズタズタに引き裂かれたのは、器ではなくその精神だったのだろう。彼との戦闘を行うたびに、彼のその白き翼が黒く染められていく様を見るのがゼトアの楽しみだった。決して口に出すことはなかったが、きっとアレスも楽しんで視ていたことだろう。
ゼトアの槍に貫かれる度、その顔に被虐の笑みが浮かぶ。その様を見るのが楽しみで、天使の降臨と聞けば口元に浮かぶ残酷な笑みを消すことに苦労した。今も尚、この地に溶け込むその顔を、無心に見詰めることは不可能だった。たとえその顔に、被虐の笑みが浮かばなくとも。たとえその瞳の奥で、愛しき碧が揺れなくとも。たとえその碧から、優しさの詰まった雫が流れなくとも。
愛していた。心の底から。歪な愛のカタチしか知らぬ、ゼトアにはこれが最高の、最良のカタチだった。
――お前の欲しがった愛ではなかったのかもな。だが、俺が与えられるのは、これだけだ。
すまない、と小さく小さく呟いた。もう誰も聞くことのないその声に、砂嵐がごうっとひと際強く吹き荒ぶ。まるで何かの返事のようなその轟音に、ゼトアはまたも苦笑い。
誰にも聞かせることのない謝罪は、本当に聞かれたくない者にのみ、それを伝えずにいられたようだ。砂嵐に守られた、この空間だからだろう。ゼトアと、息子の魔力が混ざり合った末のこの砂嵐に、親子の間の意思疎通を阻害するものは何もない。
目の前で彼女の身体が完全に地面に溶け込んでいた。その身体があった中心部分に、小さな命が芽吹いていた。本当に小さな小さな、だが強い生命を感じさせる存在だ。今はまだ赤子同然の細い芽だが、あと何百年もすれば砂漠の生命を支える巨木となるだろう。
「お前の新しい命、か……」
優しい笑みを浮かべながらそう問い掛けると、砂嵐に交じって鈴の音が聞こえた気がした。鈴を転がしたような彼女の笑い声のようだった。そして羽音がひとつ。まるで耳元を鳥が舞ったかのようなその力強い羽ばたきに、この命の未来を約束された気がした。
「天使の祝福に聖女の祈りがあるのなら心配はないな。俺が死ぬまでは枯れるんじゃないぞ」
そう伝えてから瞳を閉じる。耳元に咎めるような声が聞こえたような気がしたからだ。
『またそんなこと言って……貴方はいつもそうなんだから。そう言いながら貴方は迎えに来てくれたでしょ? だから今度も……待ってるから』
『ほんまにママさんカワイソウやわ。今回は俺も一緒に待ってやれるから、もう……あんまり、泣かすんやないで。あと、魔王には「絶対殺す」って言っといてや』
幻想と知りつつその言葉に小さく頷く。砂嵐のなか、それは幻想というにはあまりにも確かで……
『もう、行っちゃうんだ?』
甘い香りが辺りに漂い、愛くるしいその声がゼトアの神経を捉えた。鼻が、耳が、少年の存在を捉え、その目でつい、その小さな身体を探してしまい苦笑する。彼はもう、彼等の身体はもう混ざり合っているというのに。
「すまないな。人を……魔王を待たせている」
今更隠すことでもない。魔力によって心は繋がっている。だからこそ、本心からの言葉を続ける。
「俺にとって『全て』と言える存在だ。俺はあいつのためなら命を懸けるし、全てを差し出す覚悟で行動している」
『……うん。よくわかってる』
少年の言葉が微かに震えた。そして……
『わかってるから、もう行って……』
息子の拒絶が、静かに聞こえた。悲しみとも怒りとも取れぬ、だが確かに冷たい、そんな声だった。わかっている。そうさせたのは自分自身だ。
「ああ。最後に、グリアス……」
『わかってるよ。その木に水分を送れって言うんでしょ?』
「話が早くて助かるな」
『なんとなく、もうゼトアさんのことはわかったからね。もう、グロッザのことはボクに預けて、魔王様の元に行っちゃいなよ!』
最後はそう捲し立てられて、ゼトアは最後まで苦笑いをする羽目になった。最後に聞いた息子の声に向けて、心の中の言葉は最後まで口にすることはなかった。