第3章 天使降臨
あの遺跡でゼトアはただひたすらに、息子達の癇癪が治まるのを待った。子供の癇癪を治めるのは親の務めだからだ。
だが砂嵐はいくら待っても治まることはなかった。しかし地鳴りは朝には治まった。それはつまり、息子達の邪魔をするものがなくなったということだった。
彼等の身体はまるで古くからそこにあったかのように収められていた。
まるで天界へと続くかのような階段が崩れ落ちているその上に、光を体現した白き鉱石に彫り込んだかのように、グロッザとグリアスの身体が埋まっていた。
階段から生え伸びたようなその光の鉱石は、生物と同じように脈動していた。思わず手を伸ばした者を傷つける鋭利な表面には、他者への拒絶、嫌悪といった気配が充満している。
これが彼等の拒絶のカタチだった。歪な愛情の終着点。
「砂嵐が舞ってるんは、この地方だけなんか?」
「ああ。元より砂漠地帯であるこの地方だけのようだ。隣接する荒野の一部も巻き込まれてはいるようだが」
「もうこの地には、天使は降臨出来んな」
「我らが魔王ももう視通せない。どちらにとっても痛手だな」
言葉ではそう言いながら、二人共その表情は柔らかい。魔力を遮る砂嵐は天高く広がっており、天界からの介入も、魔王の目視すらも許さない。
ゼトアは天使の横顔に何も言わずにキスを落とした。傷ついた女の身体に、自分に出来る最大限の気持ちを乗せて。
それはゼトアにとっては初めての感覚だった。全てである魔王の目を盗んだ、初めての背徳の味だった。
自分でも、魔王ですらもわかっていなかった。自分は、自分で思っていた以上にこの女のことも、息子のことも愛していたのだ。
ゼトアの乾いた心に、温かいものが流れ込む。触れ合う肌から流れ込むのは、愛しき女の魔力の揺らぎ。それはとても静かで穏やかな、母親の気配だった。全てのものを慈しみ、その心を痛めた聖職者の気配。
心にはいろいろな面がある。愛情も優しさも怒りも嫉妬も、全てが混ざり合っている。今はとても穏やかな、愛を重ねていた頃のままの彼女だった。
ゼトアの優しい笑みに、天使はその顔を逸らしてしまった。それは彼の心からの行動か、それとも内底に残る彼女の心の影響か……
「もう俺には、天界の力はない。これで完全に堕天使やわ。どうしてくれんねん?」
顔を逸らしたまま続けられた言葉に、ゼトアは苦笑する。心身共に愛していた彼女の身体を、もう一度確認するかのように見やる。
美しかった銀髪は、薄汚れていても尚輝きを失ってはいない。魔王に染められた趣向には、再会した時から気付いていた。ゼトアですらほんの小さな違和感だったのだ。当の本人が気付いている可能性は低い。
――愛していた。
そして、この天使のことも。このまま朽ち果てるには惜しいと、この砂嵐に乗じてここまで運んで来る程に。愛しき傷跡は敢えてそのままに、欲望を刺激する朱を滴らせながらの行軍だ。
甘き、そして狂おしいまでの愛情を、この天使は放っていた。それはもう、初めて出会った時からずっと。
初めての降臨は、今はもう砂嵐に隠されたあの遺跡で。あの時代は平然と人間が捧げられていたその儀式には、今よりも強大な意思と意味が込められていた。戦局を左右する大いなる意味が。
天界からの使徒による一方的な蹂躙に備えて、魔将達は降臨の地を襲撃する。その時はたまたまゼトアがその遺跡に向かっただけだ。
いや、たまたまではない。偶然や運命の悪戯といった言葉は、魔王アレスの前では存在し得ないのだから。
魔王は視ていた。その遺跡に、とてつもない強大な魔力が降臨すると。一番の側近であるゼトアを向かわせたのは、きっと、何物にも勝る信頼からだと、そう思っていた。今までは。
きっと魔王は、この出会いを望んでいたのだ。
まるで天空へと続くかのごとく空へと伸びる階段は、その魔力にひれ伏すように崩れ落ちた。遥か上空からの圧し潰されるような魔力に対して、人が造り上げたものなど無力に等しい。
力の象徴のような降臨の間を、天使は吹き飛ばしながら降り立った。その身に宿す神々しい力に、襲撃したゼトアも思わず見入る程だった。
護衛の人間、聖職者達、そして魔族達。それら全てを等しく裁いた天界の使者は、魔将との一騎打ちの末その器を破壊され天に戻った。それからはまるで因縁のように、この天使は降臨する度にゼトアへ殺意を剥き出しにしてくるのだった。
魔王アレスの首を直接狙ってきたのもそうだ。その歪んだ殺意が膨れ上がった末の結末だ。だが、それのおかげで、それまではただ好敵手とだけ見ていた天使への気持ちが変わった。
彼のその歪んでしまった心こそが、自分の求めていたものだった。それはゼトア自身が歪んでしまっていることも少なからず影響しているのかもしれない。
自分の根っこの大事な部分は、きっと、魔王アレスのもので、それはつまり愛しき存在により歪まされたものなのだ。彼もきっと、歪まされたのだ。だから好ましい。歪なカタチの愛情が産まれる。
「なぁ、どこに向かってるんや?」
天使が顔を背けたまま呟くように問いかけた。目には一面の砂嵐しか映しておらず、魔力の尽きかけたその身では、もう現在地や周りの魔力を探るといったことも出来ないのだろう。弱りきった、無力な器。
「俺のことはもう放っとけって。どうせ魔王んとこ行くまで、俺の器も精神も持たん」
天使の言うことは正しい。この傷ではもう身体の治癒も行えず、徐々に弱って、いつかは死ぬ。器はその生命活動を終了し、堕天使と化した彼の精神は、地を這う器と共に打ち捨てられる。天界の誓から外れた哀れな代償として、生命の輪から外されてしまう。それは無に限りなく近い、地獄だ。
「そうだろうな。お前の墓場まで連れていく」
「……なんや、それ?」
天使がやっとこちらに顔を向けた。その美しい色合いの碧と目が合い、薄く微笑む。心と同じように揺れるその輝きが愛しいのだ。
「お前の墓場だよ。ずっと考えていた」
「……なんやねん、それ」
「お前を永遠に眠らせる、俺だけの特別な場所だ」
純粋なる天使に死という概念はない。その活動を止めるには、地上の理の届く存在に――堕天させるしかないのだ。そしてゼトアは、愛するこの天使を、自分だけの場所に葬ることにした。魔王アレスの目の届かない、背徳の園へと。
「……プロポーズみたいに言うなや」
天使はまた顔を背けながら小さくそう言った。それはこちらへの抗議というよりは、内なる彼女へその言葉を馴染ませるような声音だった。
「死にかけの天使に言う言葉ちゃうし、ましてやもう身体取られてもた嫁さんに言う言葉でもないわ」
少しの沈黙を挟んで、天使は取ってつけたように続ける。まるでおどけるようなその声は、泣きだしそうな空気を感じさせた。
「すまないな」
「ほんまにお前は、謝らなあかんことがあり過ぎるわ」
天使の横顔は笑っていた。その深い碧に懺悔と後悔、そしてただただ幸せだという証が溢れる。流れ出るその雫を咎めるようなことはしない。だが、触れることもしない。天使の言葉を自らに深く刻みつける。
――本当に、その通りだ。
「それで? 俺の墓場ってどこなん?」
「俺と彼女が出会った場所だ」
「ふーん? そんな、運命的な出会いやったんや?」
天使の問いにゼトアは頷く。ゼトアを見る天使の表情が彼女らしく笑った気がした。