第3章 天使降臨
それはとても不自然だった。
朝食を終えてから自室で眠っていた母親が、いきなり夕方には天界の門に向けて出発すると言い出したのだ。
そしてその申し出に、彼も天使も特に反論もせずに出発の準備を整えていた。
グロッザ達が教会に帰って来た時点で既に昼はまわってしまっていたので、もう数時間もしたら出発することになる。
出発といってもそれ程用意の必要ないグロッザは、母親の顔を見に彼女の自室の扉を開けた。
「母さん……もう身体は大丈夫なの?」
扉を閉めながら顔色を窺う。ベッドから既に起きだしていた母は、儀式用の白を基調とした神官服に着替え、確かに朝よりは幾分か顔色も良さそうだった。
「ええ。だいぶ魔力も回復したから、出来るだけ早く中和を行いたくて」
だが、心配して声をかけるグロッザにも、母はただそう答えるのみ。
恐らく朝の天使の言葉が効いたのだろう。母は真面目で勤勉な聖職者なのだ。天使にあんな言葉を吐かせたと、自分を責めているに違いない。
「グリアスもかなり落ち着いてるんだし、もう少し寝てても――」
「――大丈夫よ。だから、心配しないで」
少しでも落ち着かせようと掛けた言葉もそう遮られ、グロッザは溜め息をつきそうになる。天界なんて、嫌いだ。
すると先程閉めた扉からノックの音が響いた。
「どうぞ」と言いながらグロッザが扉を開けると、そこにはゼトアの姿があった。
「邪魔をしてすまないな。これから向かう遺跡だが、街道から外れて砂漠地帯を抜けることになる。時間にしたら短いが、しっかりと準備はしていけ」
ゼトアは既に準備は整っているらしく、その背には槍が背負われている。出発にはまだ少し時間があるので、おそらく武器の最終確認を行うのだろう。街道から外れるということは、モンスターに襲われる可能性があるということだ。
「わかった。あんたは、知ってる場所なのか?」
「近くが戦場だったこともある。あの辺りの地形には恐らくあの天使より詳しいだろうな」
「さすが軍人様」
「お前は、軽口ばかり叩いていないで、自分の用意もしておけ」
大きな手で突然頭を撫でられて、思わずグロッザは俯く。不意打ち過ぎてただただ狼狽してしまった。母親の目の前なのに、何やってんだよと、彼へなのか自分へなのかわからない文句が頭の中で回る。
「……あ、あぁ」
小さくしか返事出来ない自分に彼は薄く笑うと、そのまま外への扉に向かって廊下を歩いて行った。
「じゃあ、母さん。オレも準備してくるよ」
熱くなった顔を見せないように、グロッザも慌てて廊下に出る。母の返事等聞く余裕もなかった。
天界の門を目指し、グロッザ達はその砂漠を横断していた。
街へと繋がる街道から少し足を踏み出せば、そこにはこの地方特有の砂漠地帯が広がっている。街道付近はまだ乾いた大地という印象だったその風景が、一時間も歩けば砂一色になっていた。
砂漠の夜は寒く、そして物騒だ。
この人間という種を寄せつけない死の砂漠は、非常に獰猛な野生モンスターが棲息しており、近隣の街の住人からは死の大地だと呼ばれている。そのため完全に日が落ちるまでに、可能な限り危険な砂漠地帯を抜けておかなければならない。
大型の爬虫類から凶悪に進化したような見た目のモンスターに何度か襲われながらも、ゼトアとストラールがしっかりと警戒していることもあり、女子供の歩くペースに合わせているにしては順調に進めているとグロッザも感じていた。
元よりその女子供というのも身体の軽いルツィアと戦闘能力も高いグリアスなので、あまり正しいカテゴライズではないのかもしれない。自分は、多分この二人と同じく子供、だろう。
「この調子なら完全に日が落ちるまでには辿り着けるな」
先頭を歩くゼトアが振り返りながら声を掛けてくる。あくまでいつもと変わらない態度の彼だが、ちゃんとその言葉の奥にはこちらを鼓舞する気遣いを感じられる。
最後尾を歩く天使が「やっとか。歩くん苦手やわー」とうんざりした様子でぼやいた。グロッザは隣を歩くグリアスに微笑みかける。母親は……なんだか部屋を出てから気まずくて、それからまともに顔を見れていない。
「まだ砂漠地帯を抜けたわけじゃない。気を抜くなよ」
続けられた彼の言葉に前を向くと、こちらを射抜くようなダークブルーと目が合った。強い視線に絡めとられる。
隣で少年に手を握られる。その瞬間その視線は逸らされていて、また前を向いた彼の背中を、グロッザは少しぼんやりした頭で眺めていた。聖なる魔力が強く感じられたような気がした。
ゼトアの言う通り、その場所には日が落ちきる前に到着することが出来た。街を出たのが日が傾き始めた頃だったので、やはりかなり早いペースでここまで来たことになる。
いくら街から近い位置にある遺跡だと言っても、モンスターからの襲撃を気にしながらの緊張感のせいか、グロッザは内心予想以上の疲労を感じていた。
ここに向かう最中、ゼトアからある程度の距離を聞いて問題なさそうだと高を括っていた自分が憎い。死の大地という異名は伊達ではなく、本当に縦断するだけでも生きた心地がしない砂漠だった。
グロッザは目の前に佇むその遺跡を見上げる。
背はそこまで高くない石造りの円形の建物だ。ところどころ風化が進んでいるようで、人の手入れがされている様子はあまり見えない。砂漠の砂ぼこりの影響か、全体的に砂漠に溶け込むような色合いになってしまっている。
「えらい寂れてもたなぁ」
天使も後ろで同じことを思ったらしく、そう呟いている。
「昔は違ったの?」
グリアスの問いに、ストラールではなくゼトアが答えた。
「ここは元は降臨用の神殿だ。この地より戦線が動いてからは必要なくなり打ち捨てられたのだろう」
「ほんま、身勝手な奴らやで。この前降りた時に壊してもた外観もそのままになってもうてるし。昔はもうちょい違ったんやけどなぁ」
天使が言っているのは天井部分のことだろうか。外から見える円形の天井部分が、半分ほど崩れ落ちたままになっている。まるで、内部からの衝撃で外側に弾け飛んだように瓦礫が散乱している。外に露出してしまった部分は螺旋階段のようで、そのまま壊れずに残っていれば天へと続く階段のように見えたことだろう。
「申し訳ありません……」
隣で小さくなって謝っている母親を、グロッザは慰めることができなかった。庇うこともできない。あれから結局母の顔は、まともに見れていないままで。親子の間の微妙な空気に、誰も特に口を出したりはしない。
「ママさんだけが悪いわけちゃうからなぁ。むしろここは人間の仕事やろし」
「同感だな」
息子とは違う角度で、天使自身がフォローに入った。そこにゼトアも同意し、母の纏う空気がようやく柔らかくなる。顔色を見れば済む話なのに、何故かつい魔力を探って彼女の心を推し量ろうとしてしまっている。
「もうじき日が暮れる。中和にしろ野営にしろここでは無理だ。中に入るぞ」
暗くなりだした空を見上げ、ゼトアが皆を中に促す。グロッザ達が遺跡にひとつだけ空いていた空洞のような入口に向かうなか、彼のその瞳は闇を湛えだした天に向けられていた。