第3章 天使降臨
久しぶりとすら感じる訓練の時間になった。
穏やかな風が吹き抜けるいつものスペースで、腹ごなしを兼ねてグロッザはグリアスと素手での訓練を行う。時には甘くじゃれ合うように、時には激しく真剣勝負。
「だいぶ動きが良くなったな」
二人の動きを見ていたゼトアが素直に褒めてくれた。久しぶりに聞く穏やかなその声に、グロッザの心はゆらゆらと揺れる。
「二人ともまだ小さいのに凄いなぁ」
ストラールもニコニコ笑いながら同意する。
「天使様っていくつなの? ボクから見たらグロッザより若いぐらいに見えるんだけど?」
グリアスが不満げに零した言葉に、天使は特に気分を害したわけでもなさそうだ。笑顔は崩れない。
「器は確か十五とかやったで。俺自体は二百ぐらいやったけど」
「年齢、そんなに生きたら数えないか。オレ達もそんな風になるんだろうなぁ」
あまり関心のない様子で答える天使に、グロッザは思わず自分達の未来を夢想しながら呟く。魔族もエルフも長寿を誇る種族だ。半人半魔であるグリアスも、それなりの寿命になるはずだ。
「それより、器ってことはその身体の人は、その年に死んだってことだよね?」
だがそんなことよりも、隣の少年は違うことに胸を痛めているようだった。
「せや。この辺り一帯が戦場になって、食糧難になったからって、口減らしの子供が捧げられたんや」
「それって――」
生贄だよね、とグリアスは小さく呟いた。
「天への祈りはこの地の豊穣。俺は職務を全うして、この身体を手に入れたってわけや」
「その前の器はどうなるんだ?」
グロッザが聞くと、一瞬天使の目がゼトアを見据えた。だが彼は平然としており、口を挟むようなことはしない。
「前の器の損傷具合によるんやわ。だいたいボロボロなってもうてるから、抜けた瞬間死体になるんが普通やろな」
「身体は使い捨てってわけだ」
グリアスはどうやら天界への憎悪があるのか、いちいち噛みついている。母親が聖職者のグロッザとしては、天界のそういった事情みたいなものは軽くなら聞いていたのでそれが普通のように思ってしまっていた。
だがやはりそこは魔族と天使という種族としての対立なのだろうか。こんな小さな、天界からの攻撃等何もなかったであろう少年にすら恨まれる、根本的な種族としての敵対心のようなものすら感じる。
「せっかくだ。お前が相手をしてやったらどうだ?」
突然ゼトアがストラールに向かって提案。それに天使の笑顔の質が変わる。
「こんなおこちゃまの“遊び”に俺が混ざってええん?」
あからさまな挑発に、グリアスは完全に乗ってしまっている。
「いーよ。天使様と“遊べる”なんてすっごく貴重だし」
「中和する前に吹き飛ばしてまうかもやわぁ」
笑顔の天使に対してグリアスはむっとして、すぐに真顔に表情を戻す。既に魔力の集中のためにその精神を研ぎ澄ましているのだろう。
距離を取るために離れる二人に、ゼトアが静かに「子供相手にムキになるなよ」と溜め息をついていた。
一対一の形に成り行きでなってしまったので、グロッザは見学のために地面にそのまま座り込む。そんなグロッザの隣にゼトアは立ったままだ。
「口調はおかしな奴だが、あいつの戦闘能力は本物だ。天界の武器である愛槍は出さんだろうが、素手でもかなりのものだ」
「けっこう昔から知ってるのか?」
「昔からアレスの首を狙う特攻兵のような立ち位置だった」
「その度に生贄を……?」
先程のグリアスの表情を思い出し、思わずそう零してしまった。ゼトアも静かに頷く。
「天使の降臨は人間からしたら切り札のようなものだ。昔は特にそうだったらしい。それ程までに奴らの降臨は神々しく、力の象徴なんだ」
「あんたも、見たことあるのか?」
「……奴の降臨をな。目的地である西の遺跡、名前は天界の門というらしいが、そこに降りたった奴は――」
そこでゼトアの言葉が切れる。彼の視線の先を追うと、そこにはグリアスの水柱に向かってその手を突き出すストラールの姿があった。その手には激しい光の輝きが満ちて――
「――そこまでだ!」
するりと間に割って入ったゼトアの一言で収拾がつくはずもなく、彼は片手でグリアスを押さえつけ、もう片方の手でストラールを軽く吹き飛ばした。
周りを水浸しにしながらグリアスがもがき、吹き飛ばされたストラールは、にこやかな笑顔で立ち上がる。手の光は消えている。
「なんやなゼトア。えらい過保護やな? 自分の息子でもないのに」
「お前こそ子供相手に何をしている。まさかあやしきれずに愛槍を出すとはな?」
「ちょっとちょけただけやん? 本気にせんといてぇな」
相変わらずニコニコしながら手を振っているストラールに対して、ゼトアの表情は険しい。
「あ、愛槍って?」
「このクソ天使に神が与えた槍のことだ。全てのものを“混ぜ合わせる”神槍だ」
即ち神の武器である。その言葉の重みにグロッザは思わず息をのむ。言葉の深い意味合いよりも、ただただ天使から先程発せられた存在感だけで心が恐怖に支配されそうになる。それは生物の根本を揺るがす根源的な恐怖だった。
「俺の器は損傷が激しなるからな。少しでも同調を早く行えるようにっていう神さんからの贈り物やわ」
「神の犯した罪にしか俺には思えんな」
得意げに語る天使に、ゼトアは小さくそう呟いた。彼の下ではぷぅっと頬を膨らませたグリアスが「もうわかったから放してよ」と抗議の声を上げている。
「ごめんなぁグリアスくん。君があんまり強いさかい、思わず本気出しそうになってもた。やから堪忍やで」
片手を添えながらまるでご機嫌を取るように言う天使に、グリアスはなんとも言えない微妙な表情で返した。確かに本心からの誉め言葉にも感じる。それぐらい、嘘というものをこの天使からは感じないのだ。
「……別にいいけど」
「可愛いやっちゃなぁ。ほら、もうこれで仲直りやでー」
にこにことグリアスの手を引いて立ち上がらせるストラールの姿に、何故か小さな違和感を感じた。