第3章 天使降臨
酷く喉が渇く夜だった。
どこか不安を煽るような、そんな焦燥感にも似た喉の渇きを潤すために、グロッザは一人食堂に向かう。
グリアスは緊張もあったからかよく眠っていた。寝る前にもう日課になった口づけを落とすと、それはもうすやすやと、見ているこちらまで安らぐような寝息を立てていた。
あまり音を立てないように、努めて静かに扉を開けた。それは自室で眠っているグリアスと、扉を開けた先にいるであろう二人の男への気遣いだった。
食堂のテーブルに向かい合ってワインを飲んでいた。だが――
「極上の香りだな……」
ゼトアの手には半分程ワインの注がれたグラスが握られている。棚から出してきたものだろう。さっそく空けられているその赤ワインは、夕方にグロッザとグリアスが店から貰ってきたものだった。店の店主も天使の降臨は知っていたようで、大役を果たした母へと言っていたはずだ。
だが母への贈り物を勝手に飲まれたことよりも、彼のグラスに注がれたものが問題だった。彼の掲げるグラスの上で、血まみれの天使――ストラールの腕から血が滴っている。
光の衣から覗いたその片腕から、いやに人間臭い赤い血が流れ落ちている。その極上の雫はまるで吸い込まれるように彼の持つグラスに注がれる。元から入れられた果肉の赤に、その異なる朱が混ざり込む。
途端に甘ったるい匂いが空間を満たした。少年から香る情欲の香りとはまた異なる、貫くような誘いだった。
その答えを求めて彼に眼を向けても、彼はグラスの香りに夢中になっているようだ。深きダークブルーには、グロッザの姿は映っていない。
「グロッザくんはまだダメやで。これはオトナの楽しみやからな」
悪戯っぽい笑みを浮かべて、ストラールが傷ついていない方の手でしーっと唇を押さえる仕草をした。掲げていた腕も引っ込めて、少し乱れていた衣を着直す。その瞬間には流れ出ていた朱は嘘のように止まっていた。それでも噎せ返るような部屋の香りはそのままで。
「あんた……何をしたんだ?」
あのゼトアがまるで夢見心地という表情で放心している。彼は魔族の軍人の幹部で、こんな醜態なんて絶対に見せたりしない。
オレの知ってるゼトアはこんな――こんな顔はしない。こんな……遠く離れた相手を想う、そんな顔はしてはいけない!
「俺はな、こいつの目の前で、魔王にじっくり時間かけて殺されたんや。あ、前の器の話やで?」
まるで楽しい思い出話のように天使は答えた。それは質問の答えではなかったが、それでもオレの心を強く惹きつけた。
続きを教えて。なんであんたは――そんな愛おしそうに彼を見ているの?
「こいつの目の前でさ、手足も羽も腹も裂かれて、どんどんどんどん弱っていって、魔力も尽きて器を保つことが出来んくなる。そして身体から精神が引き剥がされる、その時に、ゼトアは俺を――」
目の前まで迫ってきていた天使に、扉は閉められた。不自然な程に音もなく閉じられたその扉に、グロッザは追い詰められる。寝巻の腹部を捲り上げられ、もう片方の指先が脇腹を弧を描くようになぞる。酷く冷たいその指は、まるで刃物でもあてられているかのようだ。不気味なまでの快感がぞくりと走る。
「闇の眷属の血で焼かれながら、全身を切り落とされながら……狂っとるやろ? でも、ええねん」
指先の動きは変わらない。これは彼等の情事なのだ。切り刻まれながら殺された天使は、その魂に歪んだ快楽を刻まれた。それを忘れられぬ翼を失った天使はまた、新たな贄を――腹を裂かれ翼を折られ、臓物と共に欲望を撒き散らす光を手に入れた。
「モンスターごときじゃ、さすがに翼の再生は不可能や。でも、それもええねん……俺は、君のことが欲しなった」
ゆるゆると動いていた指先に力が込められる。光の粒子がその指から零れ落ち、グロッザの露出した肌を細く炙る。ペン先で刻まれたような文様が焼き込まれた腹が、ぞくりと疼く。古代文字のような酷く頼りない揺れるような文様は、まるで自身の心のように不安を煽る。
「な、なんだよ!? これ!」
あまりの出来事に、やっと抵抗の声を上げることが出来た。それすら許さない甘い香りが、より一層強くなる。
「君に挿れるための入口やわ。反発凄いやろしこれからゆっくり慣らしてやるから……あ、ヤらしい意味ちゃうで? 君をコレで貫くためや」
天使がそう言うと、その手に光に包まれた槍が現れた。光の魔力そのものを感じさせるそれは、物質というよりは魔力の塊に近い。身長はグロッザと同じくらいなのに、ゼトアが扱っていた槍よりも長さがある。
「愛しい人を眼の前で貫かれる……その快楽をゼトアにも教えてやりたいんやわ」
――愛しい、人? オレのことを言っている? オレが、愛しい……の?
腹から感じる魔力が強くなった。思わず細めた視線が流しにそのままになっていたシチューの鍋を捉える。表皮から熱され、まるで煮込まれた鍋のようにグツグツと内部で吹き立つ程に煮立っていく心。醜い嫉妬と憧れと、好意と願望が混ぜこぜになった愛しきスープ。鍋に残る焦げや汚れが、そのまま自分の心のようだった。
「オ、オレは……愛されてない」
後片付けもされずに放置されたそれは、まさしく自分自身で。何度も考え至ったその結論に、何度も何度も行きつく度に、心が悲鳴を上げるのだ。
「そうなん? こんなにゼトアの匂いがプンプンするのに?」
天使がキスを仕掛けようとして、その動きが固まった。急激に近くなった視線に捕まり、目を離すことが出来ない。焦燥感にも似た誘惑で、天使は微笑を零すのみ。
「どうやら俺は人間に染まり過ぎたみたいやわ。これ以上エルフの血の濃い君のことは触れんらしい。この身体離したら話は別やろうけど、君は身体に天使降ろす呪文知らんやろ? どうせ」
あーあ、と大袈裟な溜め息をつきながら、しかし天使の目はすぐに爛々と輝きだす。一向に離れない距離感に、グロッザは不安を覚える。
「これ以上触ったら……ほらっ」
天使がグロッザの首元に口元を近付ける。その瞬間、まるで火花のように光の粒子が飛び散った。いきなりの熱と光に、グロッザは慌てて距離を取るためにテーブルに突っ伏し――ゼトアの瞳に自分を映した。
真正面で座ったままの彼に、グロッザの身体は固まってしまう。テーブルに両肘をついた中途半端な体制のまま、背後から天使がその手を伸ばす。
捲れ上がったまま露出した背中にその指が触れる。ぞわりと飛び上がりそうなその感覚に、しかしなけなしの理性が声を上げることだけは制止する。
指先が触れるだけなら、あの反発ともとれる火花は上がらない。しかし、徐々にジリジリとその予兆のようなものが触れている肌に感じ取れるようになる。
「ビリビリして、気持ちエエ? 俺もやわ。ほら見てや?」
甘ったるい声音で背後から天使がその手をグロッザの目の前に持ってくる。その手は酷く爛れていた。理由はわかりきっている。反発による熱で天使の肉体が焼かれているのだ。
「君って凄い刺激的な身体してるんやな。俺、そういうん……好きやで?」
目の前の手から血が流れ出る。酷い火傷のような傷口から、やたら鮮明な朱が流れている。酷く甘い、その誘惑の香りが口元に運ばれる。
途端に痛みを感じる程の熱に、それでもグロッザは抵抗出来ない。目の前のグラスを掲げるその手が、その奥でいやらしく光るダークブルーが、グロッザの意識を占領する。
――見ないで。愛してもいないのに。オレは全てになれないのに。
「そんな魔力揺らしたら、さ……」
焼け爛れたその手をグロッザから離しながら、天使はするりとテーブルに腰掛ける。清らかなる血に咥内を炙られながら、グロッザの意識はそこで途切れた。