第3章 天使降臨
朝の日差しとはまた違う、激しい、暖かな光に目が覚めた。太陽からの恵みに割り入るように、その光は天から真っ直ぐに注がれている。
母の祈る聖堂に、一本の光が繋がった。光の魔力が安定している。
隣でグリアスも既に起きていた。顔を洗って着替えも済ませている。グロッザも洗面台に向かう。
二人の間に会話はもう必要ない。今は、迷いや疑いを漂わせる、そんな行為は必要ないのだ。
出会った日にも着ていたシャツを着た彼は本当に愛しくて。グロッザもあの日に着ていたのと同じ服装に着替え、その手を取って聖堂へと向かう。強い光の魔力に交じって、微かに魔の気配を感じながら。
聖堂への扉は二つある。一つは廊下からそのまま続く裏口のような扉。昨日の惨状などまるで最初からなかったように、そこは静寂に包まれていた。塗りたくられた血は掻き消え、光の粒子も霧散している。
叩き割られた窓だけが、唯一の主張に感じられた。ガラスの破片を踏まないように気を付けて、二人は廊下を抜けていく。外を一度経由して、正面の大扉の前に立つ。
天からの使者を迎えるのだ。本能的に、こうしなければならないと悟っていた。そして外――外界からの出入り口には、大いなる闇の背中もあった。
ゼトアが静かに立っていた。鋭利に光るその槍の先端を隠すこともなく、もう見慣れた外装の背に回している。街の中心地から離れたこの場所ならば、人の目を気にする必要もない。
感情の読みにくい口元に薄く笑みが浮かぶ。グロッザは目を思わず逸らして、隣に立つグリアスに強く手を握られて、視線をもう一度彼に戻した。
「降臨の準備が整ったようだな。光の魔力が安定した今なら、俺も入ることが出来る。入るぞ」
「ああ」
短くそう返事をして、彼のために扉の正面を譲る。厳格な装飾がなされたこの扉は、本来二人がかりで押し開けるものだ。だが、彼は初めて来た時と同じように片手で、いとも簡単にその扉を押し開ける。
教会の中はいつもと変わらない空気に包まれていた。隅々まで心遣いが行き渡ったその聖堂の真ん中――腹を串刺しにされた女を映したステンドグラスの正面で、母が祈りを捧げていた。
天界からの光がスポットライトのように彼女を照らしている。まるで天界の一部になったような、そんな神々しい光景に、グロッザは声を掛けることを躊躇う。グリアスも同じだったようで、大きな瞳に驚きと困惑が浮かんでいる。
「早く彼女を解放してやれ。もう、降りてきているのだろう?」
天界への侮辱とも取れる口調でゼトアは言った。静寂を貫く空間に、彼の声が響き渡る。空気が震えた。歪な羽音が近付いてくる。
ズタズタに引き裂かれたシエルが、開け放たれたままの扉から現れた。見るも無残な朱をまき散らしながら、それでも優雅に羽ばたき、その場へと捧げられる。
母の真上に静止したシエルが一際強く輝いた。それに呼応するように、天界からの光も輝きを増す。そのあまりの眩しさに思わずグロッザは目を瞑る。
一気に光に圧し潰された空間に、先程までとは違う異質な翼の音が混じり、やがてそれに取って代わった。
光が止んだことが瞑った瞼越しにもわかった。恐る恐る目を開けると、母の目の前に見知らぬ青年が立っていた。
思わず駆け寄ろうとした身体を、前に歩き出ていたゼトアが制止する。
青年は見かけは人間のようだった。まるで色素が抜けたかのような薄い茶色が美しい癖のある短髪に、同じく色素を感じられない白い肌。無駄な筋肉のない理想的な身体を包む白い衣だけが、ステンドグラスに描かれた天使との唯一の一致であった。端正な顔立ちのせいか人間らしさは感じられないが。
「随分……人間らしくなったな」
挑発的な笑みを浮かべながら、ゼトアが更に言葉を続ける。彼の物言いから、おそらく昔から敵対していた天使なのだろう。確かに人間から放たれる魔力とは異質なものを、目の前の青年は放っている。
青年の目がゆっくりと開かれる。グレーがかった瞳にも、人間らしい温かみは感じられない。造り物のような空気が、更に色濃くなるだけだった。機械仕掛けのように冷たく、その口が開かれる。
「久しぶりやなぁ、ゼトア……まだあの魔王の側近やってるんか?」
冷徹に、しかし心をかき乱すような声音だった。冷たく、しかし妙な訛りを帯びた言葉のアンバランスに、不本意にも惹き込まれるような錯覚を覚える。
「天界から見ていたのだろう? それに……なんだその物言いは」
ゼトアが少し表情を曇らせて聞いた。片耳に手を当てて、耳障りだと態度で示す。
「この人間の身体の名残やわ。人間共、俺ら天使に力を請いながら、生贄には魔力の足りひん粗悪品を並べるんやから世話ないで。おかげでまだ光の翼を復元出来ひんままや」
「確か最後に見たのはユニアセレスの谷だったか」
「そうや、そこでお前にその時の器をやられて、代わりに捧げられたこの身体を新しい器にした。ほんまにお前のことは、何回殺しても足りんわ」
そこで初めて天使は笑った。にやりと背筋の凍る、そんな笑みだった。
「今回の願い事は俺との闘いではないんでね。残念だったな」
光と闇の旧知の会話を困惑して聞いていたグロッザ達に、相反する二人の男の視線が突き刺さる。母が慌てて立ち上がり、天界への欲求を伝える。
「大天使ストラール様。その偉大なる光の御業で、ここに控えます闇に落ちし子の魔力を浄化していただきたいのです」
母の言葉に応えるように、グリアスがグロッザの前に進み出る。真っ直ぐ前を見据えたその表情は見えないが、少し指先が震えていた。
「ふーん……闇の魔力か……確かに誰かさんより強いかもなぁ」
一歩一歩近づきながら天使――ストラールはグリアスを見定める。魔力の質を読み取るその瞳には何の光も燈らず、その口元は仇敵への挑発を忘れない。
「……その器で、今すぐ出来るのか?」
ゼトアが溜め息をつきながら問いかけた。もう天使はグリアスの目の前だ。その手が優雅な動作で少年の顎に添えられる。グリアスは抵抗出来ない。
「……良い素材や」
天使の眼が細められる。そこに危険な何かを感じて、グロッザは素早く少年の前に立ち塞がる。顎に触れていた指先を振り払い、少年を自分の身体の後ろに隠してやる。
天使はされるがままで、抵抗するようなことはなかった。呆然とした眼でグロッザを見詰めてくる。やがてその眼が振り払われた自身の指先に行きつき、その口元に先程の笑みがまた浮かんだ。
「質問に答えろ」
ゼトアの声が天使の意識を引き戻す。
「ここでは魔力の中和は出来ん。誰かさんが捧げものに悪戯したせいで、どうも魔力の調子が悪ぅてな」
全てを見透かした眼でこちらを見られ、グロッザはそのプレッシャーに動けなくなった。やはり天界からの使者。異様なまでの圧力を発している。
「どこまで行けば良いんだ?」
だろうな、と一人頷き、ゼトアは天使に続きを促す。二人の男の間に、一瞬探るような気配があった。
「ここから西にしばらく行ったところにある――」
「――砂城の骸だな」
天使が記憶を追うように告げた目的地を、ゼトアは随分と天界に似つかわしくない表現をして引き継いだ。
「そんな物騒な呼び名、天界では言わんで」
「生命の死により降臨するお前達には適切だと思うがな」