第2章 息子達
ガリガリと、剣先が床を傷つけている音が聞こえる。それは自分が両手に持つ双剣からの悲鳴に他ならない。床を微かに傷つけながら、グロッザは聖堂へと向かっている。
誰にも取られたくない。その気持ちは、みんながみんな持っているのに。
母は彼と再会し、女になってしまった。オレの母さんなのに。グリアスも変わってしまうかもしれない。そもそも中和を持ち出したのは彼だ。
オレのことを護ると言った。たくさんたくさん口づけを交わして、愛情を感じたのはオレだけだった。大きな魔力の本流に流され乱され、彼の全てにはなれなかった。
姿を視ることも、言葉を交わすこともせず、母は狂えるほどの醜い感情をその魔力に潜めていた。『全て』に向かって向けられたその感情が、昨日、息子に向けられた。初めての憎悪。初めて感じた母からの嫉妬。
だがそれは彼に対してはことごとく無力で。息子の心を焼くその熱源に、彼は残酷な笑みを浮かべていた。その眼にエメラルドグリーンを――灼熱と化したステンドグラスに刻まれた、愛しい『全て』を象徴する彩を映しながら。
変わらない愛が欲しい。自分の元からいなくならない。変わらない。ずっと、ずっと不変の愛情が。
彼は――くれない。でも少年は――くれると言った。年齢よりもよっぽど魅惑的な表情で、年相応の純粋なる真っ直ぐな瞳で。
彼は少年を護らない。ならば愛しい恋人を護るのはオレだけだ。
聖堂の扉に手をかける。外から直接繋がる大袈裟な大扉ではなく、居住スペースから入る裏口と言える箇所のため、その扉の装飾は廊下に並ぶ他の扉と変わりない。
その扉からビリビリと拒絶の光が放たれて、グロッザはそのまま後ろに吹き飛ばされた。光の粒子が扉の周りを警戒するように浮かんでいる。
それが母の拒絶だとわかった時には、声にならない叫びをあげて切りかかっていた。また弾かれる。吹き飛ばされて無様にしりもちをつく。それでも止められない。自分を裏切る奴らなんていらない!
中和なんてしなくても、今のグリアスの魔力の調子は穏やかだ。瞑想状態にもならない至って正常な状態なのに、なんですぐさま危険を冒して――今の彼ではなくなるかもしれない危険を冒さないといけないのか。
オレ達は今のままで良いんだ! 魔族とエルフでも反発もしない! もう二人で、ずっと一緒にいられるだけで良いから。
何度も何度も立ち上がっては吹き飛ばされて、身体中が痣だらけになる。それでも切りかかることはやめられない。“彼”を……“彼”をオレだけのものにしてください。
痛む身体に鞭打って、大きく跳躍しながら切りかかる。聖堂への扉のある廊下は、天井までの空間が広くとってある。まるで外での戦闘訓練のように高く飛び上がり、勢いをつけてもう一度切りかかる。
だがそれすらも無慈悲に吹き飛ばされた。窓を突き破り、教会の外まで吹き飛ばされた。ガラスが割れる派手な音が響く。
「く……く、そ……」
剣を杖のようにしてなんとか立ち上がる。足元で割れたガラスが鋭利な音を立てた。ぶち破った衝撃で身体中に細かい傷が出来ていた。傷は浅いが血が滴る。よろよろとした足取りで窓に近づきながら、その眼は足元の輝きから離せなくなる。
割れたガラスはごく一般的な普通のガラスで、彩なんてものはない。もちろんステンドグラスなんてものでもない。だが、足元のガラス達は、深く交わう緑色をしていた。遥か上空から見下ろすエメラルドグリーンに、この身を醜態≪ココロ≫を見られている。
上空を見上げなくてもわかる。その強すぎる魔力は雲を割り、『全て』を映す鏡に存在を映していた。その全てを見通す眼が細められる。
ジャリっという大袈裟過ぎる――彼が出すには過ぎる音を立てて、ゼトアが背後に現れた。その足音はまるで魔王への敬礼。踵を合わせ、忠誠を誓うその姿を夢想する。尊敬と愛情がない交ぜになった瞳を空へと向けているのが、振り返らなくてもわかってしまった。
「天使の降臨は明日だぞ。興奮して眠れないのか?」
あくまでスタンスは変わらずに、喉の奥でそう言って笑う。低い彼の声に、耳が心が反応する。そしてそれを彼の『全て』に視られている。立っているのも苦しくて、窓枠に手を掛けてようやく全身を支える。強大過ぎるその魔力に、上から後ろからなぶられる。
背後の彼は――抱き締めには来てくれない。満足に立てなくなったオレの腰を愛おしそうに支えてはくれない。愛おしそうに――支えてくれただけで、彼の愛はこの憎々しい緑に注がれていた。今もこの前も、オレを愛してくれたわけではないのだ。
「あんたこそ……魔族は近寄るな」
低い声で言い放つ。それでも彼は薄く笑ったままで。
「心配しなくてもこれ以上は近づけない。聖なる光が強すぎてな。お前がここまで来てくれるなら、俺はお前の望むことをしてやれる」
――望むこと?
「言葉にしなくてもわかっているぞ。お前の魔力は駄々洩れで、流されやすいからな」
また喉の奥でくくっと笑われる。それが酷く懐かしく感じて、思わず振り返ろうとする。彼の顔が見たい。魔力と枷のような言葉を落とし込む、そんな彼じゃなくて。今ではもう、酷く昔に感じる、あの優しい求めてやまない彼の顔を。
その瞬間、空間に羽音が響き渡った。雄々しく、しかし何故だか弱弱しいその羽音は、聖堂の扉の前に飛翔した。
傷つき瀕死の重傷を負ったままのシエルだった。翼は切り落とされており、本来ならもう死を待ち動くこともままならない身体。だが、天界への捧げものと化したその聖なる身体は、裂かれた肉片等気にとめることもなく力強く羽ばたいていた。
「ふん……献上品が天使の真似事か。“身体”の損傷は二の次なのは昔と変わらないな」
嘲笑を伴った彼の言葉にもう振り返ることは出来なかった。目が、脳がこの聖なる光を伴う鳥型モンスターを、天の御使いだと認識してしまっている。目を逸らせられる神々しさではない。それはとても罪深き行いだ。
繊維だけで繋がっていた翼が引きちぎれた。ボトリと落ちた血の塊に、だが翼は何事もなかったかのように羽ばたきを続ける。もうその肉体は、天界の所有物。だからこの“地上”の理は通用しない。
シエルが一際激しい光を放ち、グロッザの身体はまた吹き飛ばされた。今度はゼトアに抱き留められて、痛い思いはしなかった。
「は、離せっ」
慌ててその手を振り払い、一歩進んで構え直す。シエルが窓枠から外に出てきた。
「次が来るぞ。お前は“光を断ちに来た”のだろう?」
ここに来た目的を今一度思い出す。
そうだ。オレは光を――殺しに来たんだ。ほとんどそんな自覚はなく、まるで何かに急き立てられるようにここに来た。
光を――母を殺そうとしていた。なんで? 母さんは彼を奪っちゃいないのに……奪い取れないのは一緒なのに。
「グリアスを護るんだろう? この街を、少年を護るんだろう?」
そうだ。グリアスを中和させないために、この光の御使いを殺せば良いんだ。
「神殺しは大罪だ」
背後から誘うような言葉。御使いは神の意志そのもの。もうこの鳥は低俗なモンスターではない。光を伴ってこちらに向かってくる。
「俺が、お前の望みを叶えてやる」
光が激しさを増す。剣を敵に必死に向けながら、だがその震える剣先に殺す意志等とうになく。視界を奪うその光量に、余分な彩が消えていく気がした。
光から逃げるように彼の胸に倒れこむようにして、それから逃げた。剣が片手から滑り落ちる。
刃物が肉を断つ音が、酷く不気味に空間に響いた。