第2章 息子達
ゼトアはその言葉通り、翌日の朝には姿を消してしまっていた。
母曰く、天界に悟られないように少し遠くに行っているだけで、何か問題があればすぐに戻ってくるとのことだ。
それでも昨日まで当たり前に――いや、まだ会って数日なのにこんな言い方、おかしいんだけど――感じていた存在がいなくなるというのは苦しい。そう、心が苦しい。
朝食を食べ終え食器を流しに片づけたグロッザは、重い足取りで自室に向かう。ゼトアがいないと、なんだか訓練も力が入らなくなってしまう気がした。彼との訓練はそれだけ特別なことだから。
自室の扉を控えめに開ける。自分の部屋なのでノックなんてものはしない。でも今は何故か先客というかルームメイトみたいにグリアスが、平然とベッドに座っている。
昨日の夜、部屋に戻った時から平然と、グリアスはグロッザの部屋で部屋の主を待っていた。
月夜のほのかな明るさに少年の姿は幻想的に浮かび上がる。空を見詰めていたその瞳がこちらに向けられ、みるみるうちに輝きを取り戻す。寝巻に着替えて、今日もこの部屋で寝る準備は万全のようだ。
驚きながらもなんとか扉を閉めると同時に、その柔らかい存在に抱きしめられる。小さな身体で、それなのに大きな存在感を放つのは、その強大な魔力のせいか、それとも惹きつけられるような甘い容姿のせいか。
グリアスが上目遣いに見上げてくる。悪魔のような狡猾さで、甘美な誘惑の瞳をグロッザに突きつける。大きな瞳に自分が映り込み、その甘さの残る小さな手でしっかりと繋ぎ止められる。瞳のなかで自分が震えた。
昼間の戦闘から帰ったグロッザ達を、母はとびきりの夕食で迎えてくれた。どうやら母もこれから三日間、ゼトアが近くにはいないことを察していたようだった。
「何か問題があればすぐに駆け付ける」
ゼトアはそう短く言ったのみで、母もそれ以上特に何か言うようなこともしなかった。言葉以外に交わされた何かを感じて、グロッザの心はざわついた。
最初はさざ波のようだったざわつきも、時が経つ毎に大きな渦を生み出していく。夜には極限まで振れたその渦を、少年の手が汲み取ってくれるようだった。
魔力に酔わされる独特の感覚。強い力に揺さぶられるように、『考えたくないこと』を振り落としてくれる。グリアスと触れ合うのは“気持ちがイイ”と頭が、身体が気付いてしまった。
愛らしい紫のなかで、蒼が細められていく。誘われるように口づけを交わし、頭のなかの『余分なもの』を振り落とす。
今はいらない、余分な存在。考えても今、手に入らない男性≪ヒト≫を。
三日間、彼は帰らない。帰れない。自分がどれだけ渇望しようが、この目の前の少年を救うために戻らない。戻れない。
――オレのことは救ってくれないの?
違う、オレのこれは我儘だ。暴発とか、命とか、そんなものと同じラインに並べてはいけない。
小さな『救うべき存在』に咥内をなぶられる。こいつは母親と、こんなことを毎日――
「グロッザ……」
長い長い拘束から解放され、その形の良い唇から愛らしい音色が零れる。暖かい、優しい声。
「大好きだよ」
柔らかい頬を流れる雫を見て、グロッザは堪らずその華奢な身体をもう一度強く抱きしめた。不安や辛さを包み込むように。見せつけるような歪な愛は、本当に辛いだけだから。
「オレは……」
何か言葉も返さないとと焦るグロッザに、グリアスは小さく笑った。
「いーよ。まだ片想いでもさ。もう少しだけこうさせて」
流れる雫はそのままに、それでも純粋な笑顔だった。
あれから抱き合ったまま眠りにつき、寝坊したグロッザを起こすことなくグリアスは先に朝食に向かっていたようだ。
グロッザが朝食をとっている間に軽く魔力の調整も兼ねて精神統一を行っていたらしい。実戦経験はないという言葉は間違いではないにしろ、こういったことが自然と行える時点で魔力のコントロールに長けていることが窺える。
昨夜はこちらを誘うように流れていた魔力の流れが、今は穏やかに漂っているようだ。強引に引き込まれるような魔力ではなく、自然にグリアスの隣に座り軽くキスをしていた。
自分の意志だと強く意識させられるその行動は、自然な穏やかな流れだった。愛らしい瞳に一瞬の思考の光が宿る。
「あんまり気持ち良さそうに眠ってたから、起こさなかったんだよ」
「うん、ありがとう。明日からは一緒にご飯食べような」
あくまで自然にそう言葉を交わし、逡巡のためにまた無言で見詰め合う。グリアスの口から小さな溜め息が零れた。
「片想いのままでまだ良いって言ったよね? グロッザのこと大好きだから、無理させたくないんだけど?」
こちらの目を覗き込みながら、上目遣いにそう問われる。少し拗ねた、そんな仕草が可愛らしくて、なんだか似合っている。
「オレは……」
昨夜、眠りにつきながら考えていたことを言葉にしなければならない。今手に届かない彼も大事だけれど、彼と共に救う者も大切だった。
「嘘とか、器用なこと出来ない」
「うん。グロッザのそんなところが好き。嘘つきな大人達とは違う」
少年の瞳に鋭さが増す。絞り出されたその声は、憎しみに満ちている。思わず言葉に詰まるグロッザに、グリアスはあくまで優しい笑顔で続きを促す。
「好きな人が……いる」
「ゼトアさん?」
「うん……でも、グリアスのことも大事、になった。守りたいし、一緒にいたいって思う」
「それは、どちらも恋愛感情?」
「それが……わからない、かもしれない」
たどたどしく返しながら、自分で自分が情けなくなり顔に熱が集まるのを自覚する。そんなグロッザに、グリアスは予想に反して嬉しそうに言った。
「そっか。ならまだ恋愛感情じゃないかもしれないね。でもこれからボクのことを好きになってもらったら問題ないよね?」
――そうなのかもしれない。
その方が良いのかもしれない。何故だかそう思った。
「時間もあるし、一緒にこれから訓練しない? そうしないと――」
――ゼトアさんに怒られちゃうよ?
グロッザの心をかき乱すように、少年はその名を続けた。口元に悪魔のような笑みを浮かべながら。