第2章 息子達
「一緒に寝よ?」
扉の前で寝巻き姿のグリアスが、その身には大きすぎた枕を引き摺りながら立っていた。闇を湛えたままのその瞳が、グロッザを捕らえて離さない。
「な、なんでオレ?」
「んー? ゼトアさんなら良かったの?」
「ち、そ……そんなことないけど……っ」
「じゃあ……一緒に寝よ?」
まるで罠に落ちてしまったような、そんな感覚に陥りながら、なんでこんなことになってしまったのかとグロッザは頭を抱えたくなった。
どうやらあの部屋でグリアスは、一種の瞑想状態に入ってしまっていたらしい。生物としての必要な行動一切を廃し、ただただ魔力を高めるための儀式。そういったものに精神を支配されていたのだという。
ゼトアが言うには、高すぎる魔力を持つ子供には希にあることらしい。「アンタもそうだったのか?」と聞いたら「幼馴染みがそうだった」とだけ返ってきた。
そう言った時の彼の表情が、なんだかムカつくから思い出さないようにする。そんな顔は望んでない。
両親と死別したグリアスをそのままにしておくことは、また今回のようなことを引き起こす要因にもなりかねない。なので教会に連れて帰り、魔力の中和をするまでは共に生活することになったのだ。
食堂にて母のお手製カレーを食べながら、グリアスは明るい笑顔を見せている。美味しい、美味しいと喜ぶ姿は、大きな魔力を持つ魔族という事実などどこかに吹き飛ばしてしまう。
まだ幼さの残る甘い顔立ちに、大きめの瞳が愛らしく揺れる。柔らかそうな生地のクリーム色をしたシャツを着ているので、カレーで汚れないか心配だ。
「偉大なる天の御力を使い、邪なる魔力を中和するしかないわね」
自室の本棚から、一際古い古文書のようなものを引っ張り出した母がそう告げると、ゼトアも静かに頷いた。
「それが賢明だな。少しばかり闇の魔力に引き摺られ過ぎている。このままだと身体に負担が掛かってしまう。天使共の力を借りるのは癪だが、邪なるものを祓うにはそれ以上の手がないのも事実だ」
「……まだ、天界は嫌い?」
母がすがるようにゼトアを見るが、彼は小さくすまないと断ってから続ける。
「お前達は信仰対象としてしか見たことがないだろうが、俺達魔族と天界は古より対立関係にある。我らが王が即位する以前は、前線にて奴らとやりあうことも珍しくなかったからな」
「天使様とやりあったのか? スゲー」
「奴らは人間……いや、俺達全てと根本的に違う。例えるなら恐怖心のない、殺戮機械。そして……本能に忠実だ」
最後には嘲笑を浮かべたゼトアに、少し恐怖を覚えた。母の表情も暗い。
この話題はあまり良くない。丁度良いタイミングで、グリアスが欠伸をしたのが目に入った。
「今日は疲れただろうし、もう寝ようか」
優しくそう促すと、短い緑髪がコクンと応じた。彼の荷物はあの部屋からすでに客室に運び込んでいる。着替えだけなので少ないものだった。玩具は必要なのか聞いたら、小さい頃遊んでいただけなので、何故あんな風に転がっていたのかわからないと返ってきた。
小さな身体がテーブルから離れたので、グロッザも立ち上がる。食器を流しに片付けると、彼も真似してついてきた。それを見てルツィアは小さく吹き出す。
「あらあらグリアスくん、ありがとう。お利口さんね」
「……懐かれているな」
ゼトアまで小さく笑っていたので恥ずかしい。突然グリアスに手を握られた。仲の良い兄弟のように手を繋いだ姿を見て、ルツィアは聖母のような笑みを湛えた。
掌に馴染む小さな温もりに、さすがに振り払うことも出来ず、そのまま寝室へと向かうしかなかった。
部屋の前までちゃんと案内した。ちゃんとトイレの場所も教えたし、おやすみとも言った。
だがグロッザが部屋に入った数分後には、寝巻きに着替えたグリアスに侵入を許してしまっていた。
狭いベッドに二人で横になる。部屋の明かりはすでに消しており、窓から落ちる月の光だけが唯一の光源だ。優しく淡いその光に、グリアスの魔力に染まった肌が浮かび上がる。
魔族というものをグロッザは、あまり身近に感じたことはなかった。
戦線から逃げ延びた者等、グリアスの親のような存在は何人か見たことがあったが、それらは皆魔力の低い者ばかりだった。
軍人のような高い魔力を有した存在。肌が自身の力に染め上げられる程の存在が、目の前で寝息を立てている。
闇の魔力により薄く紫に染まった肌は、それでもきめ細かい透明感に満ちていた。
柔らかい少年特有の肌に誘われるように、その頬を指先でなぞる。隣に人がいるという安心感からか、グリアスは横になると同時に寝息を立て始めた。
その小さな身体に一体どれだけの不安を押し込めてきたのだろうか。彼の存在自体はグロッザも知っていたし、何度か姿を見かけたこともあったのに。
「もっと遊んでやればよかったなぁ」
小さくそう呟くと、少年がこちらに寝返りを打った。
んーっと小さな、柔らかい声が聞こえて思わず笑みが溢れる。可愛い弟が出来た気分だ。寝惚けているのか、小さな手が動き、また繋がれた。暖かい感覚が流れ込んでくる。
「好き……」
小さな口が言葉を紡ぐ。
「え?」
いきなり深い闇を思わせる紫の瞳が開かれ、その言葉の意味より先に、流れ出る雫に慌ててしまう。耳より先に目が、手が、理性的なものを剥がしていく。
「グロッザはボクと似てる……だから好き」
「す、好きって? それに……似てる?」
上手く頭が回らないのに、突然そんなことを言われても困る。小さな手が指の間の小さな隙間すら埋めようときつく絡みつく。頬を撫でていた手を押さえられ、もう片方の手がグロッザの顔を引き寄せる。
何がなんだかわからないでいるうちに、小さな甘い唇にキスを奪われていた。一気に甘い香りに包まれたような気がして、頭のなかをかき乱される。
自由な方の手でなんとか少年の身体を押し退けるも、力が上手く入らず拒絶というにはあまりに頼りないものになってしまう。
「ボクはグロッザが好き」
もう一度グリアスはそう言って、今度は跨がるようにしてキスを仕掛けてくる。
拒否しようと頭では思っても、先程の甘い痺れるような香りをどこかで求めている自分にも気付いた。なす術もなく、深く深く交わされる。心地よいその甘さに、脳から溶かされていくようだった。
小さな、この温もりが愛おしい。繋いだ手を離すことも忘れ、何度も何度も受け入れた。押し退けるために伸ばした手は、いつの間にかグリアスの背にまわしていた。
少年の唇がやっと離れる。そのまま首筋を這っていく感触に頭のなかがビリビリと痺れて……
――ガチャリ。
突然隣の部屋の扉が開いた。老朽化が進んでいるこの教会は、ほとんどの扉でこういった音が鳴る。それはごく自然なことで、この場合も音の主に他意はない。でも隣って――
「や……やめ、ろ……」
隣の気配が気になって、小さな抗議しか出来ない自分が情けない。でもダメだ。隣には聞かれたくない。
「なんで? グロッザも気持ちいいんでしょ? ならボクでいいよね?」
悪魔のような――魔族だから言葉的には間違っていないか? ――笑みを浮かべながら、グリアスは少年とは思えないキスをもう一度仕掛けてくる。それをグロッザはなんとか押し戻す。
木製のベッドがギシリと鳴いた。コイツ、わざと音を立てるように動いてる。
「な、なに……が?」
「グロッザも親にリヨーされてるんでしょ? お父さんから気持ちいい魔力いっぱい貰うんでしょ? ボクと一緒だよ」
「な、何言ってんだよ? オレは父さんは見たことないし、魔力を貰うなんてそんなこと、してないってか、やり方も知らない」
目の前で少年がぽかんとした表情になった。悪意が消え去り、その表情は今までで一番年相応に感じた。大きな紫色の瞳が揺れる。
「……そういうことか。なるほどねー」
急にわかったような口を利くグリアスに、ようやく腹が立ってきた。彼を跨がらせたまま、一気に腹筋だけで起き上がる。
座ってしまえば視線の高さは逆転する。まだ跨がらせたままではあるが、気持ち的にはだいぶ落ち着いた。固く繋がれていた手は離れている。
「一体なんなんだよ。それに……好きって」
自分で言っていて恥ずかしくなるが、疑問を口にせずにはいられなかった。ダメだ。まだ混乱はしてる。
「ボクね、お母さんといつも繋がってたの。魔力と気持ち良さ、たくさん貰ったんだよ」