第三章
森は入った時と同じように、ぶつりとその道を途切れさせ、今では懐かしさすら感じる柔らかい青みがかった月の光がリチャード達に降り注いだ。
「ようやく森を抜けたな。ほれ、あの小さく見える街がそうだ」
少し元来た森に視線を投げてからガリアノが、前方に小さく見える色合いに向かって指を差しながら言った。
「この世界の街は夜には消灯時間でも決まってんのか? フヨウの街を見た限りじゃ、深夜は灯りを消してるみたいだったけどよ」
レイルの指摘にリチャードも頷く。目の前に小さく見える街であろう場所には、人工の――いや、魔法の光のようなものは見えなかった。
「魔法の力は全て己の魔力を消費する上に、最近では環境破壊も深刻なので、レイル殿の言うように『魔法を使える時間帯』を決めているのです。街によって少しずつ異なるでしょうが、この時間帯は大方の街で“消灯時間”となっていると思われます」
サクの相変わらず丁寧な説明に納得していると、ガリアノがパンとその大きな手を叩いて鼓舞するように言った。
「さあ、目的地の『シダザクの街』の開門時間に合わせるためにも、今夜は野宿になるぞ。あの手前の平原辺りが良いだろう。そこまであと、もうひと踏ん張りだ」
「あそこまで行けば人の気配が濃厚なために野生モンスターも寄り付かないでしょう。お二人共、もうすぐですよ」
ガリアノが指差した今夜の目的地まではあと少しの距離だった。歩き疲れた身体ではあるが、それでも目標が見えている道のりは、リチャードの心に再び歩き出す元気を与えてくれる。
「結局一日歩きっぱなしだったな。レイル頑張ろう」
「問題ねえよ。さっさと歩こうぜ」
隣にもそう笑い掛け、彼女から想像以上に力強い返事が返って来て思わず笑ってしまう。瞬発力や判断力は飛び抜けている彼女だが、身体は普通の女の子だ。体力はやはり男に比べたら少ない。今だって悪態をついているが、身体は限界のはずだ。
ざわりと風に揺れる赤髪の下で、同じく揺れる草を踏みしめ歩く。裸足の下の感触を楽しむ。
もう靴を履いていたという事実すら遠い昔のようで、それこそが幻想のように感じさせる。こんな気持ちを何年も、ロロジは感じていたのだろうか。
――まるで、あの世界が幻想だったみたいだ。
両親には期待されていた。勉強も部活も、両方共だ。
役所内での社内恋愛の末に結婚した両親から生まれた為に、リチャードには当然のごとく『エリートたれ』という親の期待が圧し掛かった。それは別に、問題なかった。
元より努力が嫌いな性格でもなく、『当たり障りのない生活』を手に入れる為の手段が、リチャードにとっては勉強とスポーツに打ち込むということだっただけだ。
勤勉な性格のためか、学業は常に上位の成績を収めることが出来た。机にかじりつくような努力はしていない。ただ言われた通りにしっかりと、予習復習に励んだだけだ。
スポーツに関しても、成長期に入ってから恵まれた身長を手に入れた為に、元から好きだったバスケが更に楽しくなった。他の競技だって人並以上に大方出来る。長い手足に鍛えた身体は、ほとんどの競技に置いて有利に働いた。
親が思い描く『エリート』像と、どうにも乖離が感じられたのも、この頃からだ。
高校受験を控えリチャードは、親が言うところの『エリート』校であった高校を受験した。特進クラスでなくても良いのかと確認したが、そもそもその高校に入るだけで大喜びだったようで、リチャードは『将来のことを考えて』その高校の商業科を受験したのだった。
中途半端に頭が良いだけではいけない。この頃のリチャードは、親の背中をそう読み取っていた。彼等の言う『エリート』とは、確かに『並』よりは高水準だ。しかし、それは井の中の蛙であることに他ならない。
この街では有名な由緒正しき学校ではある。人気だって高い。しかし、それもこの街の、どんなに広く見積もったってこの地方での人気だけだ。もっと大都市に行けば、それこそ田舎に住んでいるリチャードですら聞いたことのある学校が他にもたくさんあるのだから。
中途半端なエリート意識で、リチャードはなんの苦も無くその高校に入学した。特に必死にならなくても成績は常に最上位だ。おかげで勉強だけでなく部活にも力を注ぐことが出来ている。さすがにバスケでプロに、とまでは考えていないが、趣味以上のものに押し上げたいという気持ちもあった。
そのための高校生活だ。もちろん将来を棒に振らないために勉強もしっかりやる。それなりに名前の通った高校なので、成績を収めていれば将来も安泰だ。机にかじりつくようなことをしなくても、親も満足。素晴らしい着地点だ。
そしてその着地点は、今から思えば最高の出会いをリチャードに与えてくれた。
隣を歩くその“最高の出会い”をした恋人は、いったいどんな気持ちであの高校を受験したのだろうか……
「レイル……」
「うん?」
夜の闇に、まるで言葉が攫われるようだ。青白い光に優しく照らされているというのに、この闇は優しく不安を払ってはくれない。
「レイルはどうして、あの高校に入ったんだ?」
振り絞った勇気だけを、攫ってしまうような風が吹いて、隣を歩く赤髪を揺らす。
「……」
聞こえていないことはない。沈黙。
少し前を歩いていた二人にも聞こえていたのだろう。不穏な沈黙を心配してか、二人の目が彼女に向けられる。
「コウコウってのは、アレか? 学び舎みたいなものか?」
「ああ。そうだよ。俺達ぐらいの歳の子供が通うところだ」
明るい大きな声がそうフォローしてくれて、リチャードもようやく笑みを浮かべて返事をすることが出来た。大きな背中の隣の影は、何も言わずに黙っている。
「……親友が行くって言ったからよ。私らの頭では特進クラスなんて無理だから、最初からクラスが別になるのはわかってたけど……」
まるで泣き出しそうな声に聞こえた。隣で口を開いた彼女の瞳からは、なんの感情も零れないというのに。
止めるなら、今、なのだろう。でも、それでは駄目なのだ。自分の悪い癖なのは、さすがに自覚がある。
『当たり障りのない』付き合いは、向こうの世界の話なのだ。
――この世界では、違う!
「どんな形でも良いから、私らはあいつを守りたかったんだ」
触れないようにしていたモノに、リチャードは手を伸ばした。夢<男>を貫いた彼のように、自身も思い描いた夢に近づけるように。
「それは俺も同じだよ。俺はレイルを守りたい。俺がお前の恋人なんだから」
「……そうだな」
小さく小さく呟かれたその言葉には肯定の意は汲み取れない。沈黙と共に突き刺さる前方からの視線に、彼女は特に動じた様子すらも見せなかった。