第三章
「さて、話が逸れたな。始めるぞ」
ガリアノが一際大きな咳払いをして、その意志の強さを感じさせる瞳を閉じた。精神を集中する気配が彼を取り巻き始めた風から伝わり、リチャードは息を呑む。これが魔法の――霊石の発動……!!
ガリアノの手の中の光が強くなる。まるで彼の厚みのある手すらも射抜くかのように、その光は四方八方にと鋭く伸び、そして空気がパキンと音を立てて割れる。
濃度の濃い霧が割れたガラスのように砕け散り、視界が一気に晴れた。霧に包まれた視界に見慣れたせいか、リチャードは空間に光が満ちたような錯覚を覚える。眩しい程の暖かい光が、頭上から降り注ぐ。
「っ!? 太陽か?」
「……古には『リーギル』と呼ばれていた天に昇る焔である太陽は、ゼートの力の象徴です。ガリアノ様の光魔法の力があれば、霊石の助けを借りて、天なる光によって悪しき霧を晴らす等容易いことです」
サクの説明に、いつか疑問に思っていたその光の呼び名を解消しつつ、リチャードは一気に明瞭になった辺りを見渡した。
湿地帯には変わりなかった。しかし、ところどころに大小様々な“モノ”があった。建っているものもあれば、転がっているものもあった。
そこには簡素な造りの家が数軒建っていた。小さな集落のような規模ではあるが、人が住んでいた形跡が残っている。軒先から覗く頭が住人だろうか。野営のための雨避けと平屋の間のような、大きな葉と朽ちかけた木々の枝を組み合わせたその家々は、この湿地帯にあっては確かに住居であり、住人がいた。腐り落ち、転がっていた。
死後かなり時間が経過しているのか、その転がっている者達は肉も削げ落ちた無残な姿を晒していた。軒先で倒れている者や、道端に蹲るようにして息絶えている者もいる。人数としては十人弱。家屋の数的にも一致するだろう。
「……死んでる……?」
「あまり直視はせんで良い。お前さん達はここにいろ」
初めて見た死体は、まるで造り物かのように現実味がなかった。まるで丁寧に作り込まれた美術作品のように、実験室に立てかけられた人体模型かのように、偽物の気配ばかりを漂わせている。
ガリアノがリチャード達の前でその大きな手を制するように上げた。その動きに呼応するかのように、途端に辺りを異様な香りが包み込む。
それは腐敗臭だった。鼻からのその強烈な死の香りによって、ようやくリチャードの頭が、目が、その光景を現実のものだと自覚する。
「……っ」
猛烈な吐き気に襲われて蹲るリチャードの横で、レイルは立ち竦んだままだった。その彼女の横をするりと抜けた影は、倒れた者達の隣に屈みこんだガリアノの横に並び、その感情の浮かばない瞳をすっと閉じる。
「やはり魔力を全て吸い尽くされておる。いくらここが迷いの森だと言っても、餓死するような者達がここに住み着くはずがないからな」
「それでは……この者達も?」
「そのようだ。原因はハッキリしておる。世界のためにはあまり褒められたことではないが、この者達のためにも、サク、頼む」
「御意」
胃の中のものをぶちまけてなんとか頭を上げたリチャードの目の前で、腐り落ちたその身体達がみるみるうちに黒く塗り潰され、そしてボロボロと崩れ去った。ぶわりと湿地帯に吹いた風に吹き飛ばされて、悪臭の原因が掻き消える。
胸を抉るその匂いが消え去って、ようやくリチャードの吐き気が落ち着いてきた。隣のレイルは、未だ立ち竦んだままだ。吐き気に催されることも、泣き言を零すこともない。
アクトの毒によって掻き消えた身体に、ガリアノとサクの二人が目を閉じて祈りを捧げる。リチャードもそれに倣いながら、隣の小さなその手を強く握った。
「……こいつらも霊石に捧げられたのか?」
隣の小さな身体から、重く響く言葉が零れた。その言葉に思わず隣に顔を向けると、彼女の美しい瞳には、煮え滾る怒りの焔が覗いていた。
霊石へと捧げる。それはつまり、先程まで転がっていた者達の命は、霊石の――あの男が持っていた霊石へと捧げられたということで……?
「いや、レイル……あの男が持っていた霊石は蒼かっただろ? あの光は自然からのものじゃないのか?」
「リチャード殿の言う通りです。ですが……あの者が霊石を一つしか持っていないという保証はありません。水神への捧げものには、複数の霊石が必要ですので……」
「ああ。普段は魔力の強い自然からの物を使い、ここにおった者達から更に造り出したと考える方が自然だろうな」
苦々しい顔をするガリアノとサクに、リチャードは言葉に詰まる。隣のレイルも解決した疑問には、もう何も言うことはなさそうだ。自身に関係のない他人の死に関しては本当にドライな性格は、羨ましいというよりも、どこか恐怖心すら湧いてしまう。
「そんな……」
なんとかそうリチャードが言葉を絞り出した瞬間、周囲を異様な風が包み込んだ。先程までの濃度の濃い霧とは違う、それとは異なる『白』に、視界を覆い尽くされる。
ぶわりと噎せ返るような甘い香りが一瞬鼻先を撫で、その『白』は訪れた時と同じように唐突に掻き消えた。
元に戻った視界の先は、『幻想』が蠢く景色だった。
先程、風に連れ攫われた者達が、生きて、幸せそうに生活している。あまり人相の良い人間には見えないが、皆が皆、日々の生活に不満はなさそうな、そんな笑顔が零れていた。
その者達はゼートの姿で、纏う衣服には金属が多く感じる。危険を孕む湿地帯での生活の為か、誰の腕にもカギ爪は装着されたままで、その鈍い光の中には確かに、不穏な朱の気配もあった。
その者達は皆、男だった。若者が中心で、逞しい体格をした者ばかりだ。老人はいない。そもそも、ひ弱そうな者の姿はなく、粗野な表情を隠そうともしていない。
大きな口を開けて男の一人が――笑ったのだろうか?
その声が聞こえてくることもなく、確かに生活する彼等の『気配』というものが、漂ってくることはなかった。
――これも……幻なのか?
リチャードがその事実に考え至った瞬間に、ガリアノの大声が響く。
「そこだな!? 姿を見せんか!!」
彼の大声に怯えるように、そのまやかしは消え去った。霧が晴れるように生きていた頃の名残が掻き消える。確かに人の生活を晒したその姿は、今は亡き身体を追うかのように風に溶け流れていく。
ガリアノの手から溢れる蒼の輝きが、一軒の家を貫いた。その家は他の家屋よりも一回り大きく、集落の有力者が住んでいたのであろうと容易に想像出来る造りをしていた。
「くそ……なんでお前達は追って来るんだ……」
家の中から吐き捨てるような台詞が聞こえて、リチャードとレイルを庇うようにガリアノとサクが前に出た。
入り口を覆っていた大きな葉は、霊石の光によって一瞬で燃え尽きており、そのがら空きの隙間から、森の中で遭遇した男が姿を現した。