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第三章


 深い深い霧の中、リチャードは愛しい存在を抱き締めていた。赤をたなびかせた小柄な背中を後ろから抱き締めて、リチャードは迫りくる影から逃れられずにいた。
 足が鉛のように動かない。心と直接繋がったかのように、足が、頭が、動くことを諦めていた。
――逃げても、きっと……逃げられないから。
 恐れからバクバクと暴れる心臓を、胸に抱いた彼女ごと押さえるようにして抱き締める。力を込めた手が彼女の頭部に食い込むが、そんなことを気にしていられる状況ではない。
――逃げられない……彼女が望むから……
 影は二つだった。そう、二人だ。わかりきっている。車椅子に座った男に、それを押す別の男だ。
――俺が望むのは……?
 そこまでぼんやりとした頭で考えたところで、リチャードの身体が激しく揺さぶられた。確かに抱き締めていた身体は既になくて、代わりに逞しい腕に肩をがっちりと持たれて揺すられていた。
「……っ、ガリアノ……?」
「ようやく気が付いたか! お前さんは幻覚にやられてたんだ。今まで視ていたものは幻覚だぞ。何を視ていたかは聞かんがな」
「っ……あれが、幻覚なのか……」
 痛む頭に手をやって、その手が今まで何を抱いていたかを思い出す。偽りの幻覚だったとしても、この手は彼女を抱かんとしていた。その彼女の姿を探して視線を巡らせると、彼女はその場に座り込んで、口の中に溜まった血混じりの唾を地面に吐き出していた。
「レイル……」
 その表情があまりに険しく、リチャードは彼女の名前を呼ぶことしか出来なかった。その声に反応してぎろりとその瞳が向けられるものだから、余計に続ける言葉が出てこなくなる。付き合う前から気性の荒い部分があることも気付いていたが、彼女の迫力にはいつも驚かされる。
「なんだよ? 幻覚なんて初めて観たんだ。これくらい許せよ」
 彼女もなかなかに精神的なダメージを受けていたようで、普段の余裕ある態度すら見せない。その反応に、逆にリチャードは安心した。彼女だって、この世界は初めてで。その心には不安も恐れもあって。気心が知れているからこそ、彼女は飾らない態度を見せてくれている。今のこの態度こそ、恐怖を克服せんとする彼女の素の態度なのだろう。リチャードも彼女の隣に座り込む。
「ああ。俺も初めてだ……レイルは……」
 いったい何を視たんだ、と尋ねようとして、リチャードはその言葉を飲み込んだ。ガリアノもリチャードには聞かなかった。その幻覚はきっと、負なるモノを晒すものだから。
「うん? どうした?」
 いつもの調子を取り戻しつつある彼女の問いは曖昧に笑って流し、リチャードは心に蓋をしたものが無遠慮に掘り返されたことを自覚していた。どろりと流れ出るその闇が、霧と混ざり合うかのように心の底に立ち込める。
「いや、なんでもない。大丈夫か?」
「ああ。まだ少し心臓がうるさいけど、それ以外は元気元気」
 敢えて元気だと言ってのける彼女の心遣いに心が暖められるようだった。にっと悪い笑みをする彼女だが、その瞳はまだ闇を抱えている。いつもの光を感じない瞳に映る自身にも、同じことが言えるだろう。
「幻覚を見せる霧、か……」
「いよいよファンタジーって感じだな」
 鼻で笑うような彼女の返答に、リチャードも苦笑する。
 学校の友人が読んでいたコミックにも、そういった『精神攻撃』的なものはよく描写されていた。テレビで流れるアニメだって、そういった類の話は多い。魔法、霊石に続いて精神攻撃なんて……
「次は召喚、憑依ってか?」
「この世界にはゴーストなんてものは出ないらしいぞ。それに水神ビスマルクは、言い伝え的には召喚じゃないか?」
 ケラケラと笑うレイルに真面目に答えながら、リチャードは近付いてきたサクに目を向けた。
「……お身体は大丈夫ですか?」
 控えめに問われたその言葉に、リチャードは小さく頷き応える。レイルも隣で「なんとか、な」と薄く笑っている。ガリアノは周囲を探索しているのか、彼の大きな背中が随分遠くに見える。
「ご無事でなによりです。霧の濃度は変わりませんが、悪意の濃度は薄まっています。ガリアノ様が戻り次第、出発になると思います」
「わかった。サクも、無事で良かった」
 サクはその言葉には曖昧に笑っただけだったが、その目は優しい光を宿していた。随分と心配させていたようだ。
「いえ、自分もガリアノ様に助けられた身ですので、あまり大きな顔は出来ませんよ」
 薄く笑ったサクに、リチャードも笑う。隣でレイルは立ち上がって、自身の身体の調子を確かめているようだ。リチャードも立ち上がりながら、サクに問い掛ける。
「湿地帯を越えたら、また森の中を行くのか?」
「ええ。おそらくは。ですが森に再度入る前に、あの者との戦闘になるでしょう。ここの霧には、あの者の匂いが染み付いておりますので」
 そう言って辺りを見渡すサクの瞳には、もう鋭さしか見受けられない。一瞬で狩人の目をしたサクに、リチャードも気を引き締める。
 辺りは陰気臭い湿地帯が広がっている。濃く漂う霧からは、サクが言うような“匂い”は嗅ぎ取れない。だが、一流の冒険者である彼が言うのだから、間違いはないのだろう。現にガリアノが険しい顔でこちらに向かって歩いてくる。
「どうやらこの霧は、あの若造が作り出しているようだ」
 苦々しい表情でそう言うガリアノだったが、すぐにその表情は明るくなる。
「おそらく魔法の石の魔力を使って映し出した“まやかし”だ。こちらも魔法の石で対抗すれば、この霧を打ち払うことが出来るだろう」
 そう言ってガリアノは、レイルに手を差し出す。レイルもそれを察して、胸元から蒼に輝く霊石を取り出した。とっぷりと水面が揺れるように輝くその光に、立ち込める霧が身震いした気配があった。
「それを……どうやって使うんだ?」
 自分達を取り巻く空気が変わった感覚を肌で感じながら、リチャードは大きな手に握られたその光を指差して問う。彼の手にすっぽりと包まれた蒼が、しかしその隙間から力強く漏れ出ている。ここにあることを、強く強く主張する。
「お前さん達は魔法の使い方を知らなんだな。魔法の発動も魔法の石の使用も、やり方は変わらんさ。強く己の心に願う、それだけだ」
「自身の望む事象を心の中に思い描けば、その対価の分だけの魔力を身体から抜き取られます。普通の魔法ならその魔力が足りない場合は不発に終わるのですが、霊石の場合は足りない魔力に命を代替えされる為、あのような凄惨な現場になってしまうのです」
 二人にそう説明されても、やはり体験したことのない感覚を想像するのは難しい。
「何を暗い顔をしておる。お前さん達にはどうやら魔力が備わっていないようだが、その分鍛えた身体があるだろうが。己で鍛えた身体こそが、一番の資本だぞ」
「鍛えたって……学生らしくスポーツを楽しんでいただけだぜ?」
 いつもの皮肉を口にするレイルを、ガリアノはいつものようにガハハと笑い飛ばす。
「お前さん達に自覚はないようだが、その運動能力と反射神経なら、この世界でも充分『やれる』レベルだとも。今のままでも一般人以上だ」
「純粋な力もスピードも、鍛錬の上での動きだと、自分も思います」
「……そりゃどーも」
 さすがに二人に面と向かって褒められると、レイルも素直にそう返すしかなくなるらしい。顔は湿地の地面に背けられているが、機嫌は悪くなさそうだ。
 毎日の部活での鍛錬が、こんなところで役に立つとは思わなかったが、目標に向かって努力するということは、決して無駄にはならないのだなと考えると悪い気はしない。
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