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第三章


 レイルがトイレのために、リチャード達から少し離れる。音や臭いが流れてこないようにそれなりの距離を取るので、護衛のためにサクが同行している。
 こんな時、恋人の自分が護衛を務められないのが辛かった。だが、逆に考えたら恋人がついてくる方が嫌かもしれない、と考え直すことでどうにか落ち着く。
「さっきは、すまなかったな」
「……え?」
 突然ガリアノに謝られ、リチャードは戸惑う。いったい何に対する謝罪なのか。
「ファングの……さっき襲ってきた獣のことだ。水泡を使った訓練の時に教えただろう? あれがモンスターの動きだ。闇夜に紛れ、気が付いた時にはその牙を突き立てられていることもある」
 ガリアノの言葉に、先程の恐怖が鮮明に思い出される。ぞくりと空気が冷えたと思った時には、すぐ背後に大きな影が迫ってきていた。自分達と話していたサクは、こちらと会話をしながらも、その接近に気付いていたことになる。
 集中を乱す自分達の言葉に、それでも惨劇の後のフォローのために、言葉を紡いでくれたのだ。なんという集中力だろう。
「本当に、何も気付かなかった」
「初めての危険なんてそんなものだ。お前さんが鈍いわけじゃないとも」
 ガハハと笑うガリアノに、リチャードは笑みを返そうとして、ひとつの可能性に思い至る。
「ガリアノ……まさか、俺達を試したのか?」
 大男の笑い声が止み、そのオレンジがかった瞳がこちらを見据える。間違いない。試された。
「あまり良い言い方ではないがな。オレが実力を推し量るために、お前さん達に怖い思いをさせたのは事実だ。すまなかった」
「……頭を上げてくれ」
 潔く頭を下げるあたりがなんとも彼らしい。リチャードの言葉に頭を上げるガリアノには、試されたとしても文句を言えるはずもない。
「これから危険な森に入るんだろう? それぐらいしたくなる気持ちもわかるから」
「ダチュラの森はな、モンスターも奇怪な者達らしいが、それよりもこの漂う霧が問題らしいのだ」
 ガリアノはそう言いながら、森の入り口まで漏れ出ている薄い霧を手で払う仕草をした。手の動きによって生まれた空気の動きに、その霧が払われたのは一瞬だ。薄く、しかし濃度の濃い霧が、確かな悪意を持ってこの入り口まで流れ出ている。
「この森を進むものは、幻覚と戦うことになるらしい。一応ここに来るまでに解決策を練りながら歩いてはいたのだが、どうも現物を見んことには浮かばなくてな」
「それはまぁ……そうだろうな」
 リチャードは目の前に広がる森を見上げる。薄気味悪い霧に包まれたそこは、木々の緑から普通の森とは違って見えた。ぐにゃぐにゃとまるで意志を持ったような形の木々が、陰湿な色合いの葉を揺らしている。森の奥から夜のさざめきが聞こえるのに、まるで生命の気配を感じさせない。
 幽霊でも出てきそうなその空気に、この世界には死後の存在は実在するのか興味が湧いた。
「ガリアノ……この世界って、死んだらそこで、終わりなのか?」
「うん? 死んだら、命はそこで終わりだぞ? 何を言っておるんだお前さんは」
「そうだよな。復活したり、ゴーストになったりはしないんだよな」
「死者を蘇らすなど、おそらく水神様でも不可能だろうな」
 ガハハと笑うその姿に、リチャードは顔が熱くなるのを自覚した。これではまるでゲーム脳だ。
「お前さん達は心配せんでも、オレが殺させることはせんとも」
 なんとも頼りがいあるその言葉も、リチャードには半分も届かなかった。続けて問われた「ゴーストってのはなんだ?」という言葉に、ようやく笑い返す。








 レイルが屈んで用を足している間、サクは意識をとにかく周りに集中していた。彼女からは背を向けるようにして立ち、周囲をただ警戒する。
 彼女の気配が間違っても飛び込んでこないように、意識をその全てに集中する。そのせいで、彼女の動いた気配に気付くことに遅れた。
「サク……さっきはありがとう」
 背後から彼女に抱き着かれている。サクの位置からはガリアノとリチャードが見える。距離があるので細かくまではわからないが、話をしているのだろうというぐらいはわかる距離だ。
 リチャードはこちらを見ていない。だが、ガリアノはどうだろうか?
 彼の素質は光の魔法だけではない。丸太のように太い腕でも、非常に重い攻撃だけでもない。その勘の良さこそが、彼が凄腕の冒険者である証である。
 豪快な性格に似合わず、彼は博識だ。そして理解力もある。街では情報収集に余念がなく、そこから結論出される見立てが外れたこと等極僅かだ。
 そんな彼が、異質な二人を拾った。共に旅に同行させた。そこにいったいどんな意味があるのか……彼は自分のこの胸に宿る感情に、気付いているとでも言うのだろうか。
「……レイル殿、離れてください。リチャード殿に怒られてしまいます」
 そんなことを言いながらサクには、リチャードからはレイルの姿が見えない角度だということがわかっていた。ガリアノからも見えないが、気配を追える自分達には、姿を目視する必要はない。
「……それだけ?」
 振り返らずともわかるその蠱惑的な瞳に、思わず目を合わせたくなる衝動に駆られる。振り返らずにサクは口を開く。じんわりとその手に汗が滲む。
「この森が危険なことは、貴女も気付いているはずです。早く合流しましょう」
「それも、そうだな。あと、ちょっとだけ……」
「……少しだけですよ。疑われてしまいます」
 彼女のまるで駄々っ子のような声に、ついそう言って甘やかした。
「ん……ありがと」
 甘やかしたのは、いったいどちらか。
 腰に後ろから回された手がなんとも艶めかしい。小さな小さなその愛しい手を、サクは優しく包み込むようにして握っていた。無意識に、彼女に誘われるようにして。
「本当に、お綺麗です」
 服屋でも伝えた言葉をもう一度、心から、丁寧に伝える。見事な赤髪と同じ色合いの体毛が白い肌に馴染む様に、これまで感じたことのない感情が湧き上がってくる。
 その胸を焦がす程の激しい衝動に、サクの心臓は早鐘を打つ。じんわりと湿った己の手に気付き、その手に力が入ってしまう。
「サクの手、好きだな。暖かくて優しい手。私を守って、導いてくれる」
 愛しいその声が、まるで歌うように告げる。慕われるということが、これ程までに心地良いとは。彼女の指がぎゅっと絡まり、そしてすぐに解かれた。
 小さな身体がするりと前に走り出る。ふわふわと赤髪を揺らしながら、その瞳がこちらを向く。
「さ、戻ろうぜ。そうしないと……」
 疑われちゃうんだろ? と、悪戯っぽく笑う口元から、サクは目が離せなかった。
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