第二章
翌朝、リチャードが目を覚ますと、隣にレイルの姿はなかった。代わりに、笑い声と同じく大きなイビキをかいているガリアノが寝ていた。
起きる瞬間に目覚ましのような音がしたと思ったのは、どうやらこの騒音と勘違いしたらしい。熟睡する彼を起こさないように、リチャードは静かに外に出た。
外は朝焼けの光に包まれていた。まだ少し靄が残っていることから早朝のようだ。元の世界でもここまで早起きはしていなかった。
「お目覚めですか?」
途中で見張りを交代したのだろう。サクがおはようございますと声を掛けてきた。彼は昨夜の気配等微塵も感じさせぬ、普段通りの空気を纏っている。
「おはよう、サク。レイルは?」
リチャードも敢えて普段通り返答した。普段通り、彼女の所在を聞く。するとサクが少し困ったように笑った。普段通りだ。
「レイル殿でしたらあちらで柔軟を行っていますよ。どうやら身体が痛くなったとかで」
彼が指差す先にリチャードも目をやる。森の入り口から少しだけ――視界に納まるので本当に少しだけだ――離れたところで、レイルが屈伸運動を行っている。
大雑把で面倒くさがりの彼女だが、スポーツの前等のストレッチは元の世界にいた時からしっかりと行っていた。それはその行為で身体の動きが変わることを、彼女が知っているからだ。
この世界で自身の身体を完全に動かすことは即ち、生存率を上げるということに他ならない。彼女はそこを理解していて、いつでも全力で動けるようにしているのだろう。
「レイル!」
「あー、おはようリチャード。あんまり気持ち良さそうに寝てたから、先に起きてた」
「早起きだな」
「朝日が眩し過ぎんだよ」
そう言って彼女は忌々しげに天空を睨んだ。朝日の光は元の世界とよく似た淡さで二人を照らしている。森の近くだというのに、鳥の声一つしないのが気になった。
「そう言うなよ。雨よりはマシだろ」
むくれた彼女の頬をつつきながら、リチャードも柔軟体操に混ざる。部活の朝練を思い出して少し寂しくなりながら、だがあのままの生活では達成し得なかった収穫――彼女との二人きりの時間を楽しむ。
「サクに聞いたけど、今日はこの森を越えるらしいぜ」
愛しい彼女の口からその名前が零れる度に、リチャードの心に小さな針が一本ずつ突き刺さるようだった。
「どれくらいの規模なんだろうな」
心に渦巻く汚い感情に蓋をして、リチャードはレイルに答えられるはずもない問い掛けをしていた。
「さあな、だけどよ……越えなくちゃなんねーもんは、越えるしかねーだろ」
問い掛けた本人よりもよっぽど現実的なことを返す彼女に、リチャードもそうだなと頷くことしか出来なかった。
嫌なことには蓋をする。自分の悪い癖だった。蓋をしたところで、その中に隠されたものは決して、解決も無くなりもしないというのに。
森の中をまるで飛ぶように走る。まだまだ戦闘の経験のない二人のことをガリアノに任せ、サクは一人森の中を先行していた。サクが本気を出して走れば、同じく闇に生きるアクト以外に追従することは不可能だ。
大柄で頼りになるガリアノが二人を守る盾ならば、サクは闇夜より飛来する刃である。鋭いその身で敵を裂き、風のように駆け周囲の状況を把握する。
『どうにも焦げ臭いな……火元の確認を』
それは小さな違和感だった。鼻腔を擽る不吉な香りに、ガリアノもサクもすぐさま反応した。何かが燃えるような臭いが、進むべき先から流れてくるのだ。ガリアノと共に挟み込むようにして守る二人は、まだこの異変を察知出来る程の鼻は持っていない。
『御意』
短い返事が二人に伝える緊迫感のことまで、気を利かせている猶予はない。サクはガリアノの命令に従い、臭いの元凶へと一人先行する。
滑るように森を駆ける。頭の中で最悪の事態を想定する。森が燃えていたとしたら、すぐさま火災の規模を確認しガリアノの元へと戻らなければならない。規模にもよるが、大規模な火災にでもなっていない限り、先程の入り口まで戻ればなんとかなるだろう。逃げる際に、途中の木々をガリアノの魔法で焼き切っておけば、それ以上の広がりも抑えられる。
だが、臭い以外にもサクには気になることがあった。鳥の声がしないのだ。思えば昨夜から、森は静かなものだった。毒を撒いている時にはこの臭いはなかったが、普段だったらこの程度の違和感なら気が付いていただろう。
――浮かれていたのか……
自問自答しても仕方がない程、その通りだったのだ。自分は美しい彼女に心を波立たせていたのだ。常に静かに、静であれ。闇に生きる者の教えに、そのようなさざめきは不必要だ。
一心に元凶へ向かうサクの身体が、森を抜けた。鬱陶しいまでの木々のカーテンが突然途切れ、眩しい日の光に思わずその白い瞳を細める。そしてその細めた視界に、信じられないものが飛び込んできた。
それは一言で表すならば、溶岩流だった。
だがこの地に火山等、それこそ頂きの街の背後に聳える霊峰しか存在しない。かの地から遠く離れたこの場所は、緩やかな勾配こそあるが、火山活動とは無縁の地である。
どこからか、まるで湧き出たかのようなその“火元”は、遠目からでも集落を押し流しているのがわかった。森を出たすぐ近くに存在していたその集落は、無残にも炎とグツグツと煮え滾る溶岩に沈んでしまっている。
「……っ!」
思わず固まっていたサクだったが、すぐさま踵を返すと元来た道を駆け戻る。周囲を警戒しながら駆け抜けた行きとは違い、主への報告のためだけに戻るその帰路は幾分か早まる。難なく合流したサクを、険しい表情のガリアノが迎えた。
「サクよ、どうだった。森が燃えているのか?」
ガリアノの問い掛けに、後ろの二人の表情も曇る。火災の脅威は彼等の世界でも共通認識のようだ。
「いえ、森は燃えていないのですが、その先の集落が燃えているようです」
集落、という言葉に反応したリチャードに対し、レイルは少し安心したように息をついていた。リチャードの「集落ってことは、人がいたのか?」という小さな問いに、サクは答えない。
「集落での火災か。この森に燃え移る可能性は?」
「おそらくありません。ですが……」
サクは主に報告した。先程見た、その景色を。絶対に自然では起こりえない、人の手によって引き起こされた災害を。