第二章
隙間だらけの雨避けは、それでも視界を遮ることによって精神的な安らぎを与えてくれるようだ。サクの隣で静かに横になっているレイルの表情は、移動中に比べれば格段に穏やかになっている。
整った顔立ちの彼女は、皮肉めいた笑みすら美しい。だが、今目の前にある優しい笑みを湛えた表情には、女性の艶めかしさが前面に押し出されているように感じる。とにかく、心臓に悪い、普段とは違った意味で悪い笑みだ。
「さ、寒くはないですか?」
沈黙が怖くて、ついおかしな間で問い掛けてしまう。二人きりになると途端に甘い空気を纏う、彼女の気まぐれとも意図的とも取れるその変わりように、サクの心は嵐の中のように落ち着かない。
「……ちょっと、寒いかな」
一枚だけ身体の上に掛けてあるミーテの葉――雨避けの入り口にも同じ葉を使用している――に手をやりながら、彼女は意味深な瞳でこちらを見詰めてくる。
言葉では、伝えない。瞳の上で、蠱惑的な光が誘惑してくる。そのあまりの妖艶さに、サクは知らず知らずのうちに生唾を飲み込む。
「じ、自分は短時間しか睡眠を必要としません。どうか、ゆっくりお休みください」
思わず事務的な口調になりながら、それでも頑なに動こうとしないサクに、レイルの口元の笑みの種類が変わる。諦め半分の優しい笑み。
「サクはお堅いんだからー」
「自分は、貴方の恋人ではありませんから」
「そりゃそうだ」
けらけらと小さく笑った彼女の様子に、ようやくサクも落ち着いて言葉を返すことが出来るようになる。身体の休息のためにも早く寝てもらった方が良いのは当然だが、それを強く強いることはサクには出来なかった。
夜の闇に溶けたこの空間に光はない。夜目のきくこの世界の住人には、月明りだけでも充分過ぎる光源となる。雨風を避けるために囲われたこの空間も、ガリアノの言った通り隙間だらけなので、柔らかい月明りがところどころから差している。
月明りの下で、レイルの瞳が爛々と輝いている。この世にこれ以上の輝きがあるのか。一瞬で心を掴んで離さないその瞳を閉じさせる等、まるで犯してはならない罪のようで。
普段は悪い光を燈すその瞳が、今はサクだけを見詰めて揺らめいている。明るい、優しい……愛しい光。
「サクって恋、したことある?」
彼女が、刃のような言葉を放つ。その切れ味鋭い言葉の力は、サクの心にちくりとした痛みを伝える。
「……いえ、ありません」
動揺等、きっと伝わっている。闘いにおいて動揺は死に直結する。だからこそ戦闘のプロであるサクは、戦闘中においてはほとんど感情を殺すように努めてきた。それが日常生活にも浸食しつつあるのは自覚があったが、この数日でそんな鍛錬等無意味ではなかったのではないかと思う程、心を揺さ振られてしまっていた。
彼女は、この一点においては、サクより大いに手練れなのだ。
「好きな人って、良いもんだぜ」
まるで誘うように、歌うようにそう言った彼女。その言葉に釣られるようにサクは小さく頷いていた。恋――好きな人とは、確かに良いものだと思う。そんな感情、きっと自分には不必要なものだと思っていたのに。
「その人の願うことを叶えてやりたいって思っちまう」
「そうですね。自分も、そう思います」
彼女の真っ直ぐな瞳に真実を見つけ、サクも今度はその瞳から逃れることはしない。彼女の覚悟は、本物だと思ったから。
「水神、絶対会おうな」
そう言って静かに瞼を閉じた彼女にサクはもう一度頷き、その鼓動の乱れを隠すために、小さく小さく溜め息をついた。
そんな心配はないと思っていた。リチャードの考えの通り、愛しい彼女が闇を湛える影に犯されているようなことはなかった。
影は、彼女を見詰めていた。まるで崇拝する女神でも称えるかのように、その白と黒の逆転した瞳で、ただ一心に彼女を見ていた。その射抜くような視線に、リチャードの心は揺さ振られる。
入口に掛かった大きな葉を押し開けて中に入ったリチャードの存在等、きっとこの雨避けに向かって歩み出した段階で、彼は気付いていたに違いない。だが彼は、こちらに視線を投げ掛けるようなこともせず、ただ彼女とのその時を楽しんでいるように感じた。
愛おしい者を見る目は、どこの世界でも共通で。リチャードはその目を、嫌になる程見てきた。元居た自分達の世界で。彼女に群がる級友達の瞳には、間違いなくこれと同じ熱がこもっていて、そして更に汚らわしいまでの欲望すらも覗かせていた。
それに比べれば、彼の瞳はどこまでも澄んでいた。愛しいと、言葉等よりよっぽど雄弁に語るその白き瞳が。愛しいのだと、まるで忠誠のように固く握られたその手に力が込められる。この光景をリチャードは知っている。
それは劇の一幕だった。
自分達の通う高校では、年間最初の行事として文化祭を開催していた。上級生は模擬店を所狭しと開くのだが、一年生は少し違う。この学校の伝統として『新入生同士の団結を深めるために』と、クラス毎に短い演劇を行うのが恒例行事となっていた。
美しい彼女に白羽の矢が立つのは至極当然で。クラスの女子が考えたオリジナルのファンタジー世界での恋愛物語は、奇しくもまるでこの世界の予行演習のようにリチャードの心身に焼き付いた。
猫耳をつけて架空の世界の住人になりきった自分達を、彼女の悪友達が笑っていた――いや、一人は確か一緒に脇役で出演していたから、笑われていたのかもしれない。どうも普通な方のことはあまり印象になかった――のを思い出す。
それは冷笑でも嘲りでもなかった。だが、その笑みにリチャードは恐怖を覚えた。それは彼女のことを心底愛おしいと思うその心を、敏感に感じ取ってしまったからに違いない。
猫と人間を混ぜたような獣人達の世界で、彼女はプリンセスという設定だった。その彼女のハートを射止めるのが、平民という設定のリチャードだった。劇では問題なく演じられた両想いが、本当に実現した途端に崩れ落ちそうな程、儚い。
劇中二人は愛を語り合い、誓い合う。その時に交わされる大袈裟なまでの愛の言葉より、リチャードはその瞳を絡ませ合う時を気に入っていたのだ。それは彼女にも伝えていたはずだ。それに頷いた彼女の瞳に嘘等なく。
父親である国王に、二人の仲は引き裂かれる。城に幽閉される彼女を想い、主人公――リチャードはその城を強く強く見詰めるのだ。必ず君を助ける、と。
その表情を、彼もしていた。造り物である劇ではなく、この確かに実在する世界で彼は、愛しい者に約束していた。その者が起きているか等ということは問題ではない。狭い雨避けの中彼はただ、彼女の隣で座っていた。触れようと思えば容易く叶うその距離に、だが彼はそうしてすらいないのだろうと、先程の瞳から確信していた。
「サク……」
寝息を立てる愛しい者を挟んで、リチャードとサクは向かい合う。ようやく彼の視線がこちらを向いた。酷く億劫に動かされる彼の瞳に、少しばかりの恐怖心が沸き起こった。
「……リチャード殿」
瞳と同じく酷く動きの悪いその口が、ようやくリチャードの存在を認めた。普段から口数は少ない方ではあるが、それでもその重たさは異常だった。普段の困ったような笑みを浮かべる彼は、ここにはいない。あるのは白と黒の逆転した、闇を秘めた視線のみ。
「ガリアノからもう寝ろと言われたよ。少し狭くなるけれど、すまない」
いったい何に対して謝っているのかもわからず、取り繕うかのようにそう早口に告げた。そこで彼の表情に普段の暖かさが戻って来た。闇から湧き出るように、その口元に薄っすらと笑みが浮かぶ。
「……少しぼんやりとしてしまいました。申し訳ありません」
「そんな、気にしないでくれ。サクでもそんなことがあるんだな」
理由なんてお互いに分かりきっているのに、敢えてお互いに触れなかった。暫しの沈黙。月明りに照らされて、彼女の寝顔が鮮明になる。男二人の意識等、一瞬で奪い去ってしまう程艶めかしい。
「……はい。もう二度と、ないようにします」
その白に、強き光が燈ったような気がした。