本編
今朝のことなんて、完全に頭からすっぽ抜けていた。智夏の身を案じて――その奥底に潜む感情は結局、やはり不安ではあったのだが――の緊急事態だったから仕方がないと言えばそうなのだが、それでも現在の時刻まで家族から連絡が来ていないことは、ほとんど奇跡に近かった。ちなみに今の時刻は午後六時だ。体調の関係で昼を抜いた智夏に合わせたので、早めの夕食をとったためだった。
両親共に今日は仕事が休みであり、主に運転を担当する父親が買い物や趣味のお出掛けに車を使用しなかったのは、本当に幸運であった。普段は温厚な父親だが、最近碧がちょくちょく車を使っているために、自分の計画が崩されると愚痴っていることは知っていた。母親も、重たいものを買い溜めしたい時などは、車がないと父親以上に不機嫌になることもある。
「ほんま……完全に忘れてたし……」
溜息と共にそんな独り言を零す。
病院から二台で連なって智夏の家に行ったというのに、それからの出来事が幸せ過ぎて……いつもは抜け目のない智夏すらも、忘れていたくらいなのだから。
以前通った道をそのままなぞり、碧は実家への帰路を走る。以前は、隣には昌也がいたが、今回はまだ夜も深まっていないのでなんとか一人で運転が出来ている。もう、おっかなびっくりということはない。碧が運転にも慣れてきていることは智夏もわかっているので、今回は特に心配なく家から送り出したようだった。
――まだ連絡も来てへんし……ちょっとコンビニ寄ってこ。
信号待ちでたまたま目に入ったコンビニに左折で進入する。この辺りは古都と言っても中心地からは離れているので、コンビニでも充分な駐車スペースが確保されている。これが市内になってくると駐車時間が決められていたり、そもそも駐車スペースすらないといった店舗まで普通に出てくるのだから恐ろしい。
寄り道の理由となった季節限定のデザートののぼりの前の駐車スペースに問題なく駐車して、碧が愛車のドアを開けると、同じタイミングで店内から見知った男がタバコを片手に出てきた。
今朝も会った、昌也の兄……優利だった。
「あれ? 碧ちゃん? なんやー、今日はえらい会うやん。今帰り?」
向こうも気付いたようで、相変わらず大きな声で碧に声を掛けてきた。今朝見た私服姿とは違い、彼は仕事帰りなのかグレーのスーツを着ている。帰って寝るとか言っていたが、智夏と同じく忙しい営業マンなので、それから結局出勤でもしていたのだろうか。
「えっと、こんばんわ。家の車、返すの忘れてて……」
「あー、それで今日はもうお開きになったんや? 残念やったな」
強面ではあるが世間一般的には男前と称されるであろう優利の笑顔は、会話内容の多少のいやらしさなんて吹き飛ばしてしまうらしい。さすが『イケメンは正義』。
優利はひとしきり笑ってから、「なんか買うん?」と自然に聞いてきた。弟と同じくコミュニケーション能力の高さが目立つ。
「家に帰ってから食べるデザートが欲しくて……」
なんだか話している途中から罪の告白でもしているような気分になって、碧はついつい俯き気味にそう答えた。話している最中の優利の視線が強すぎるせいだった。彼からしたら『相手の目を見て話を聞きましょう』という、それこそ小学校にでも学ぶコミュニケーションの基礎の基礎を実践しているだけなのだろうが、碧はそういった対応が未だに苦手であった。
「晩飯は食ったんやんな? それやったら、俺もこれからちょっと食おうと思ってたし、喫茶店でデザートでも付き合ってくれへん? 家に車返してから、俺の車乗ったらええし。もちろん、無理にとは言わんけどさ」
「……それって……」
デート、という単語は碧も考えなかった。
智夏とそういう関係があった相手ではあるが、異性の友人(という段階ではまだないかもしれないが)という意味では、彼は信用できるとなぜだが確信していた。
それは誠実な弟の兄だから、というフィルターもあるかもしれない。だが、なによりもその信頼の核となっているのは、智夏からの信頼そのものであった。
性的な関係を断った後も、この二人は普通に接している。それはもう、碧が嫉妬してしまったり疑ってしまったりしてしまうぐらい、何事もなかったかのように、だ。
だが、ちゃんと、関係性は変わっていた。性的な接触はなくなった(これは昌也からの証言で、お互いの家への行き来などは完全に断っているとのことだった)し、お互いの話題に碧という恋人の話題が毎回挟まるようになったらしい。もちろん、事情を知らない人間が周りにいる場合は、碧の性別のことには一切触れないでいる配慮まで完璧にされているらしい。ちなみにこれも昌也からの情報だった。
そんな優利が、下心で碧を誘うなんてあり得ない。彼には将来結婚させられそうな本命彼女もいるそうだし、碧に声を掛けたのは、おそらく『智夏の恋人』と話をしてみたいという好奇心からのことだろう。
「その沈黙怖いわー。心配せんでもデートとか口説こうなんて考えてへんって。さすがに七つも下の学生になんてよー手ぇ出さんし。そこまで飢えてへんから安心してや」
「ふふっ……そんな心配してません。わかりました。じゃあ、お願いします」
少しおどけて和ませようとする優利の姿が少しだけ、おかしくて……碧も自然に笑ってしまって、その誘いを受けることにした。噂だけは昌也から聞いている本命の彼女には悪い気もするが、碧も優利と話してみたいという気持ちもあったから。
弟と同じく自然な気遣いが出来る、本当に『お兄ちゃん』のような存在は、碧の目の前で優しい笑みを返してくれた。