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本編


「なぁそう言えば、なんで仕事……引継ぎなんてしてたん?」
 メッセージへの返事をその場で返してくれた彼女の提案に乗っかって、今日はそのまま智夏の家でのお家デートを楽しむことになった。今は智夏の部屋のベッドの上だ。
 無事に智夏の愛車を脱出させた優利は、『帰って寝る。アホらしい』と言って帰っていった。その口元に笑みが浮かんでいたことは、きっと智夏だってわかっている。
「あ? それ誰から聞いた?」
「えっと、昌也くんから……優利さんから聞いたって」
「あー、だからあいつ私の体調やけに心配しとったんか。自分も勘違いしとるやんけ」
「勘違い?」
「今って、季節何?」
「えっと、春やけど……?」
「春は進級、進学の季節やろ? 年が上がるってことは、会社にも新しい人が入ってくるやろ? と、いうことは?」
「……単純に、『普通の引継ぎ』?」
「そういうことや。いつまでも同じ担当やと、悪いことしてまう人もおるからなー」
 ゲラゲラと笑う恋人は、多分こんな表情をしていても、かっこいいと思えるくらいには、碧は彼女にぞっこんなのである。
「さーて、これからどうする? 今夜は、せっかくやし泊ってくか?」
「うん! 料理ちょっとは練習したし、味見てくれへん?」
「碧の手料理食べれるなんて幸せやわー。ならこれからスーパー行って買い物やな。碧の肉じゃが食べたいわー」
 デレデレした表情を敢えて隠そうともしていない、だらしない顔の恋人は、たまに……いや、けっこうな頻度で男っぽい言動を見せる。
「もう、智夏ってほんまに、男……っていうかおっさんみたいなこと言うんやから。肉じゃがと、味噌汁にしよっかな」
「最高やわー」
 華奢と言い張るには随分と病的過ぎるその腕を絡める智夏と笑い合って、碧は心の中の不安を幸せで掻き消した。
 今夜、この家に泊まるという『不安』を。
 敢えて頭から追い出して、それより幾分かは小さな不安――上手く料理ができるだろうかという不安に打ち勝つべく、玄関に向かうのだった。





 大きな不安を抱えている時というのは、それ以外の物事なんて上の空になってしまうもので。
 真面目が取り柄だと自覚している碧は、料理の練習は毎日していた。母親から家庭の味を教えてもらいながら、料理の基礎からしっかりと教えてもらった。そのおかげで、簡単なメニューなら味もだいぶ安定してきていた。
 そのため、智夏へ振舞った肉じゃがと味噌汁という簡単な料理代表とも呼べる家庭料理達は、しっかりと智夏の胃袋を掴むことに成功したらしかった。「美味い」と目を輝かせて食べる智夏が愛おしくて、ついつい見惚れてしまって、碧の箸がなかなか進まなかった程度しか問題はなかったくらいだ。
 晩御飯を食べ終わり、問題の『不安』に向かう言葉を、ついに智夏が発した。
「飯も食ったし、風呂にするか? なあ、碧?」
「っ、うん。そう……しよっか、な」
「シャワーだけがエエ? それともちゃんと湯舟浸かる? つか、一緒に入……おーい、何緊張してんねん?」
 給湯器のボタンを操作していた智夏が、碧の様子がおかしいことに気付いて、そして――その原因に思い至って笑い出した。
――だって、泊るってことは、『そういうこと』、やん?
「な、なんで笑うんよ。もう……」
 給湯器のボタンを押してから、智夏は優しく碧を抱きしめてくれた。よしよしと宥めるように頭を撫でられる背後で、機械音声が陽気に『お湯張りをします』なんて言っている。
「恥ずかしがってる碧も可愛いで。今夜は、碧の全部、見せてくれるん?」
 いつの間にかベッドに押し倒されていた。碧の上に跨った智夏からは、体重なんて全然感じない。きっと碧よりもずっと軽いだろう。
 くくっと笑って、本当に揶揄うように笑うその目は、優しく、それでいて真剣で。その気持ちに、軽さなんてものはまったくない。嘘も偽りもなく本心から、智夏は碧を愛してくれている。そう言葉にせずとも伝わる瞳に、碧も応えたいと思っていた。
 でも、その決意と恥ずかしさは別物で。
――やっぱり、何回決めても、恥ずかしいし。
 これまで付き合ったことのない碧は、もちろんそういう『行為』も初めてで。なんだったら他人に素肌を晒すのも、高校の頃のプール授業以来だった。スタイルに自信があるわけでも、ましてやアウトドア派でもないので、夏場に水着になるような遊びにも行っていなかったのだ。
「えっと……うん。その、つもり……恥ずかしいし、上手くできるか心配、やけど……」
「いやいや、セックスに上手いも下手もないから」
 絞り出した碧の言葉に、智夏はその不安ごと笑い飛ばす勢いでそう言った。直接的な言葉を言ったのは敢えてだろう。そうしっかりと表現することで、これから行う行為に不安なんてないのだと、本当に笑い飛ばしてくれているのだ。
 優しい自慢の恋人は、同性だからこそ碧の不安を見抜いてくれている。女同士だからこその気遣いに感じて、そして――碧は、いらないことに唐突に気付く。
――智夏は、初めてじゃないから不安もないんや。智夏……今までもたくさん、してるよな……
 思い至ってしまって後悔してももう遅い。ひとつ不安が消えたらお次は、更に大きな不安が際限なく生まれる。少女漫画で何度も見たそんなお約束展開な『トラブル続きな恋人関係』も、いざ当事者になればとても笑ってなんていれなくて。
「智夏は……っ――」
 『お風呂が沸きました!』
 意を決して――後から後悔するであろう言葉を問い掛けようとした碧の声を、先程と同じく陽気な調子の機械音声が遮る。そして――
「……碧、今夜は帰り。風呂なんか入って帰ったら、親御さんが心配すんで」
 突き放すような智夏の言葉に、碧は涙が出そうになった。一瞬にして冷え切った彼女の声に、見開いた瞳が潤む。だが、見上げた智夏の表情には、予想していたような冷たさはなくて……
「親御さんの車、流石に夜通し借りるんはまずいやろ?」
 至極当然のことを思い出して、碧も幾分冷えた頭で「ほんまや……」と返した。
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