本編
智夏は基本的に仕事で忙しい人間だ。平日は毎日日付が変わる近くまで残業しているし、土日も顧客の要望があれば出勤しているようで、俗に言う『社畜』と言える生活スタイルをしつつ、なんとかこじ開けた時間で趣味の車を楽しんでいるようだった。
夢のような昼ご飯の後、今は引き続き碧の運転で彼女の家へと向かっているのだが、検査のために休んだ仕事を心配してか、智夏の受け答えはどうにも上の空になっている。
「……仕事心配なん? 営業さんって、やっぱり大変な仕事やんな……」
大学生である碧は、もちろん仕事の経験なんてものはない。簡単なアルバイトの経験ならちょくちょくしていたのだが、数年単位でひとつの会社に正社員として、それも営業職として所属するなんて、想像すらも難しいものだった。
「あー、まぁ大変っちゃ大変やけど、仕事なんてなんでも真剣にしてたら大変なもんやからな。周りよりエエ給料貰うには、周りより拘束時間増えるんも仕方ないし。それに、やっぱ自分で顧客捕まえた時の達成感とか、顧客に信頼されてるんが実感出来るんは嬉しいからな。あの快感は忘れられんで、ほんまに」
ネットとかでよく見るイメージ通りに、残業ばかりしている智夏だが、しかしその仕事のことを語る時の表情は、どこか生き生きとしている。
――私とは正反対やな……
碧はまだ大学生だが、その大学も特に夢があって入ったわけではない。とりあえず周囲と同じように親の金で大学進学を決めて、あまり苦のないレベルの大学と学部を選んで、そのままの流れで学生生活を過ごしている。
大学生活は、それなりには楽しい。友人だっているし、専攻している経済学も興味こそ湧かないがつまらなくて仕方がないという内容でもない。
可もなく不可もなく。この言葉こそ、今の碧を表す言葉としては正しいだろう。将来に対する夢もないし、特にやりたい仕事もない。でも、これからは――
――将来の夢、は……出来たかも。
流石にまだ、周囲に胸を張って言うことは出来ない。『智夏のお嫁さんになりたい』だなんて。でも、そんな“いつか”の“将来の話”だって、智夏は考えていると言ってくれた。本当に嬉しかった。だから自分も、彼女にその嬉しさを返したいのだ。
「私も、智夏みたいに好きになれる仕事、したいな」
今は運転中なので、視線は前に向けたまま、彼女への決意を碧は伝えた。将来を考えてくれる人のためにも、自分だって彼女と共に“生活”したいのだから。
「碧って、何回生やったっけ?」
「今月から三回生やで。今年から就活やから、ちょっと怖い、かな……」
就活自体が厳しい時代だというのは理解しているつもりだ。ましてやせっかく希望の職種を見つけたとしても、そこは狭き門かもしれない。それでも、頑張らない理由にはなりはしない。
「希望しかない年やないか。とにかく、がむしゃらに頑張ってみ。もし失敗したって、そこで人生が終わるわけちゃうしな。大手は無理でも中堅ぐらいなら、いくらでも入り方あるんやし」
そう言って笑いながら、しかし瞳は真剣に「ま、どんな形でも努力は必要やけど」と付け加えた。
「うん、頑張る」
「応援してるし、なんかあったらいつでも言いや。私は碧の恋人やからな」
ちょうど信号に掛かったために停車した。進行方向から視線を彼女に向けると、にっと笑った表情についつい見惚れてしまう。本当にかっこいい恋人だ。
――私だって、初めて会った時からかっこいい女性だなとは思ってたけど……あ、そう言えば……
「ありがと。智夏ってさ……なんで私に告白しようと思ったん?」
パスタ屋では他に聞かなければならないことが多すぎで聞けていなかった質問だ。恋心を自覚する動機は聞いたが、告白する動機は聞いていなかった。
「ほんまはさ、朝にメッセージ送った時には、告白しようなんて考えてなかってん」
「そうなんっ!? じゃあなんで私呼んだんよ?」
「青やで進みや。そりゃ、告白抜きにしても碧には会いたかったからさ、卑怯な呼び方かもしれんけど、碧が来てくれて嬉しかってん。んで、検査結果言われた時に、『あ、こりゃ告わないとあかん』って思ってん」
「……なんで?」
視線を前に戻しながらも躊躇いがちに聞く碧に、智夏は小さく笑ってから答えてくれた。
「すぐ死ぬ病気でもないのに何を大袈裟なって笑われるかもしれんけどさ、私……病気やって宣告されて、初めて『自分が死ぬ』ってことを意識したんやわ。これまで無事故無違反でもない人間が、初めて『いつ死ぬかわからん』って考えて、怖くなったんやわ」
彼女の『強い』視線は、流れる景色に向けられている。彼女は続ける。
「死ぬのが怖かった。この気持ちが、この想いが伝えられんまま死にたくないって思った。初めて女の子に恋して、こんな感情初めてやねん。だから、大切にしたいって思った。この感情自体も、碧のことも両方。だから自分勝手にも、想い伝えて自分だけ気持ちを軽くしてしもたんやわ」
彼女の言いたいことはわかる。いくら今すぐ死ぬような病気ではないと言っても、健康体の人間よりは僅かにでも確率は高まる計算になる。そんな彼女が『碧との将来』を考えていると言ったのだ。それを無責任なことだと糾弾する人間もいるだろう。
「智夏は、楽になった?」
視線は前を向いたまま、彼女を信じて碧は問う。
「楽になったわ。でも、その代わりに責任を背負ったつもりやで、私は」
彼女の視線は――見なくてもわかる。真っ直ぐにこちらに注がれる視線を受け止めて、碧も頷いた。
「智夏の病気とか、身体のこと、これからは私にも教えてな? 私も、ちゃんと理解して、支えたいから」
「私の身体のこととか、なんやったらこの後で好きなだけ教えたるけど?」
途端に悪い笑みを浮かべた智夏の顔なんて見ないように、碧はもう遠くに見えている彼女のアパートを見詰めた。