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第二章「妖狐」


 烏は笑う。まるでその現実になど、とうに興味はないかのように。
『岩達が……兄弟?』
 信じられない、と息を呑む茶々に、金色の瞳が向けられる。
『そうや、クズを体現したみたいなクソ親父が、僕らの母親を孕ませた。設えた巣に誘い込んで、あやかしになるように妖力を詰め込んで。腹の中であやかしとして育ちきった僕らは、実の母親の腹を裂いて産まれ落ちた』
――『私らは、自分の母親の死体を食ったんやわ』
 告げられた真実に、黄の中の記憶が不自然な程に自然に組み合った。彼等は自身の出生の謎を探るために、母親の死体を掘り起こし、そしてその腐肉を食らったのだ。
 あやかしである彼等は、腐肉を食らうことによりその死体の記憶を継承する。腐った土の匂い等、きっと些細な問題であったに違いない。
 あの夜も、そしてそれ以外にも、彼等はきっと――泣き出したい程の哀しみの中、その腐肉を頬張ったに違いない。抗いきれない罪を背負いながら、三羽は死体の上を舞った。
 黄にはそれがわかってしまった。何故ならば、目の前の烏も泣いていたからだ。金色の瞳から雫が一筋流れ落ちる。
『僕らにとって兄弟の絆は絶対や。でもな、これ以上摂理に反する“兄弟”が欲しいとはもう思わんのやわ』
 烏がその鋭い瞳を蹲っていた男に向けた。
『……いつまで傍観者を気取ってるんや? クソ親父』
 彼は相変わらず“痛んだ”姿で、しかしその瞳はこちらをじっと睨んでいた。枯れ木のような身体が、ゆっくりと時間を掛けて立ち上がる。地の底から響くような声が、その喉元から吐き出される。
「ワシから名付けもされてないのに、えらい人間みたいな名前で呼ばれとるなぁ。烏風情が名前で呼ばれるなんて、千年は早いんちゃうか?」
『その言葉、そっくり返したるわ。人間みたいな姿になっても、お前が土臭いんは相変わらずやのぉ?』
 大翼を広げて威嚇する岩に、男は酷く不慣れな動きで彼の前に歩み寄る。妖狐は、背後で動かない。
「弟も妹もやられてもうて……お兄ちゃんがしっかり護ったらんとあかんやろうが」
『僕らの狩りに文句はつけられたないな。烏の僕らだけやない。狐の娘まで傷つけて……いったいお前は、何を産み出したいんや?』
 岩の問い掛けに、男はその瞳を細めただけだった。冬を孕んだ凍てつく風が、ざわりと石畳を撫でた。ざわざわと境内の木々が鳴き、石畳の横の玉砂利がきゅっと身を竦めたようにすら感じる。
『……狐の、娘って……?』
 烏の言葉についていけない黄は、その言葉をいったいどちらに向かって問い掛けるべきなのか、そんなことすらも考えられずにただ、そう問い掛けていた。
 紬の家での出来事で、おそらく彼女が普通の人間ではないことはわかっていた。だが、それでも……それでも人間の血が少しくらいは流れていると、そう自分自身に無理矢理言い聞かせていたのだと、今更ながら気付く。
 混乱しきった黄の顔を、岩が振り返る。すっと細められた視線に返答以上の意味を見出し、思わず目を逸らしてしまいそうになる。
『……紬は、人間じゃ、ないん?』
 だが、隣でじゃじゃ馬娘の気丈な声が響いて、黄はぎゅっとその目に力を込め直すことが出来た。茶々もまた、涙ながらにも強い瞳で烏の頭を見ていた。
『あの子はこの男と後ろの妖狐との子供で間違いない。まぁ、血筋だけでいけば僕らのお姉さんになるんかな』
『だから、狐……』
『いや、僕が狐言うてるんは、それだけが理由やない』
 そこで烏の口元が歪む。金色の瞳に試すような光が燈り、その光はじっと黄と茶々を見据える。
『……お前らは、ずっとそのままでいられるか?』
『……え?』
 酷く冷たい、低い声だ。烏は闇夜の使者の伝承そのままに、まるで黄達を深い闇に誘い込むかのようにその声を上げる。
『お前らがあやかしとなったあの時の真実を聞いて、お前らはそのままでいられるんか? 今のままのお前らで。今のままの優しい心で、ほんまにいられるんか?』
 時間が止まるような、支配者の声。
――岩はいったい何を言ってるんや?
 予想だにしていない岩の言葉に、黄の頭の中はこの一言でいっぱいになった。隣をちらと見ても、彼女も同じように困惑した表情をしている。
 黄と茶々は元は普通の野生の狐だった。普通の狐の両親から産まれ、そして冬を越えられないと覚悟した両親の願いが通り、子狐二匹だけがあやかしとなることでその命を繋ぐことが出来たのだ。
 この神社には不思議な力があるようで、通常の生命からあやかしが産まれることが稀にあるらしい。黄と茶々も両親の命と引き換えに、こうして永い時を生きるあやかしとなった。
『お、俺らは……俺らがあやかしになったんは、お父さんとお母さんがこのままやと冬を越せんって悟ったからで、その命と引き換えに俺らを生かしてくれたからや。それに何か嘘があるっていうんか!?』
『ウチらは……その時の記憶もはっきり覚えてる。あの寒い寒い日の夜、パパとママの間にくっついて……凄い光に目を瞑ったら、パパとママは……』
 あの日のことを思い出したのか、茶々の瞳から一滴の涙が零れた。それは二匹の間の秘めた記憶だ。今でも思い出したら胸が痛む、そんな哀しい記憶には二匹でそっと蓋をしたのだ。
 その中身の話を三羽の烏達には話していた。本当にただの好奇心から放たれた『なんで二匹はあやかしになったん? 産まれた時からなん?』という氷の問い掛けに、二匹はその時初めて――最初で最後の思い出話をしたのだ。あの時の、両親の願いが叶った瞬間を。
 あれから数度の冬を越えて思うのは、両親への感謝しかない。あの時からすぐは、二匹でずっと泣いて過ごした。産まれて半年にも満たない子狐には大好きな親が必要で。でも、その親は自分達子供を生かすためにその命を差し出した。
 さすがに子供心にもそれはわかっていた。強烈な光の前に聞いた親の言葉が、黄の耳には未だにこびりついている。涙ながらに経緯を話す二匹を、氷は慌ててその大翼で抱き締めるように覆ってくれた。『俺ってほんまに空気読めんな、ごめん』と謝るその瞳は、本当に申し訳なさそうで。
 隣で同じように話を聞いていた岩と雷は、何も言わずにちらとお互いに目を合わせていた。
――そうや。目を合わせてた。何か、気付いたんか?
 二羽の烏は、身体の大きな兄貴分よりもよっぽど頭が回る。あの時には何も思わなかったが、今ならわかる。岩と雷は、あの時点で何かに気付いたのだろう。黄達には決して教えない。烏はいつも秘密主義だ。
 岩の鋭い視線に耐え兼ねて、黄の視線は足元に落ちる。真実を隠されているのは自分達だというのに、この圧力はいったい何だというのか。
『……ヒント、やるわ。あの妖狐も、この神社であやかしになったんやで』
 はっとして顔を上げる黄の目の前で、巨大な妖狐が烏越しに睨みつけてくる。ぼたぼたと落ちる涎はそのままに、揺らめく三本の尾が怪しく周囲を橙色に染めている。先程放った狐火の残りだろうか。
 いつかは黄や茶々も、これ程までに強大な妖狐になるのだろうか。それにはいったい何年掛かるのかもわからない。
『この神社であやかしになったってことは、元はウチらと同じ狐やったってこと?』
『そうや。そこで問題……いったい“いつ”なったんやと思う?』
 烏の表情がまた歪む。彼はあの時点でその考えに至ったのだろう。数年越しの答え合わせ。
『……ウチらと、一緒に……?』
「正解、やで」
 茶々の答えに、男が告げた。岩の表情は変わらない。妖狐がぐるると低く唸る。
「ワシとヨメは君達と同じ、あの時に野生の狐からあやかしへと転じた。互いがより強い力の象徴と捉える姿を模したあやかしにな」
『それが、その姿?』
 男の痛んだ人間の身体と、巨大な妖狐の姿を見ながら黄が呟く。だが、それに否定の言葉が響く。
『違う。あの母狐が望んだんは人間の姿や。そんで……』
 酷く冷淡に、烏が言葉を続ける。
『このクソ親父が望んだのは、神の姿そのものや』
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