第2章
その獣は頭だけがあった。それは多大な犠牲を出した陸戦隊が、戦場から唯一持ち帰ってきた戦利品だった。敵の造り出した大型のバイオウェポン。様々な動物の一部分を繋ぎ合わせたその醜悪な様から、本部はそれをキメラと仮称した。
陸戦隊はキメラの頭部を持ち帰った。その多大なる犠牲の中には、若くして前線での指揮を任されていた未来ある有望な若者の名前もあった。彼の身体は獣の一撃を受け、破損。彼が獣との相打ちを見事に成し遂げたことにより、陸戦隊の被害がこれでも抑えられたというのは事実だ。
彼はかろうじて生きていた。頭の半分を吹き飛ばされながらも、それでもその身体は生きることを諦めていなかった。そしてそれは、獣の頭もであった。
彼の操る槍は大きく弧を描き、獣の頭を切断した。しかしキメラの身体には、心臓とも脳とも呼べる、動力源となるべくものが複数あった。これを有したまま切断された獣の頭は、そのままの形で生き続けた。獣の頭には命令を理解するための脳があり、そして感情があり、記憶があった。
彼にとって幸運でもあり不運でもあったのが、治療のために運ばれた先が本部の研究所だったということだ。敵の主力とも呼べる兵器からの攻撃を受けた死にかけの身体は、もう誰の目から見ても死を待つだけの身体だった。そのため上層部は、彼の身体から“研究サンプル”を採るために研究所へと流したのだった。
研究所の職員は、最初は死体から細胞等の情報を得られれば、程度にしか考えていなかった。しかし、いざ運ばれて来た二つの命は、充分に稼働し、そして生を望んでいた。
獣の脳を確認し、そこに命令を理解する力はあるが、どうにも主の声はもう届いていないことを突き止めた研究者達は、命のつぎはぎを決定する。
獣の頭は群れの頭だ。この頭の主導権を握ることが出来れば、最近戦場に蔓延る奇怪な生物もどきを意のままに操ることが出来るかもしれない。
獣の頭はつぎはぎを待つ間、それはそれは丁寧に生かされた。それは実験場で生の全てを過ごして来た獣の頭には初めての経験で。目の前で死に掛けている人間の男が、自らの尻尾に締め上げられてそのまま巨体に踏み潰されそうになったところを、槍の魔力を解放して相打ちまで持っていったのだと研究員に毎夜聞かされて、怒りよりも好奇心の方が勝った。
つぎはぎは順調に、成功した。見た目はそれまでの彼と変わらず、頭の造りだけが人造物の歪な命。頭を間借りする獣の頭は、どちらかが覚醒している間、もう片方は酷く曖昧な記憶の中を泳ぐ。それを怪我のショックだと言い聞かせて、本部は彼に任務を与えた。この感覚にもすっかり馴染んだその時に、獣の頭を監視するために、本物の獣を用意して。
獣の意識を高めるために、敢えて群れの頭を挿げ替えた。獣の頭は死の匂いを放つ。それに、より敏感に反応する獣も除外。残った二匹で、監視、そして護衛は充分だった。
彼は獣の目からしても美しい男だった。短い銀髪はお堅いその性格を体現したような鋭い輝きを帯びており、少し闇を含んだその瞳は暗い朱の色に染まっている。その闇の原因は間違いなく獣の頭のせいであったが、それすらも歓びに感じる程に彼に惹き込まれていた。彼を生かすためにも、獣の頭は混ざり合った。
怪我から回復し隊への復帰を待つ彼は、正しくお堅い軍人そのもので。どうやら対人関係は少し苦手、というよりあまり興味がないらしい。つぎはぎを待つ間、お喋りな研究員が獣の頭のことを気に入ったらしく、そいつからたくさん人間の社会のことを予習していたというのに、彼ときたら毎日の鍛錬は欠かさないのに、せっかく訪ねてきた恋人とはそれきり会ってすらいなかった。
心にあるのは常に隊のこと。そして任務への意欲だった。黙っていれば――いや、彼はしっかり黙っている――相手には困らないはずだ。子孫を残すことを強く本能に焼き付けられた獣からしたら、それはとても理解出来ないことだった。しかし人間というものには、とてもたくさんの“個性”があるのだと、獣の頭は学習していく。
獣のような人間も、この世界には存在していた。対魔格子越しに見たその姿は、闇から這い出た獣そのものだった。
「今回の任務では、俺が群れの頭をすることになった。俺は獣の頭だ。お前の群れから二匹借りるぞ」
任務を前に、彼の頭の主導権を握ると――彼の寝ている時間が獣の頭の時間だった。そのためこの特別牢獄には朝一で来る羽目になった――獣の頭は、群れの頭にそう挨拶した。
冷静さの奥に熱いものを滾らせる深紅の瞳が、強烈に焼き付く。端正過ぎるその顔立ちが、恐ろしい程に冷たい印象を与える。
「よろしく頼む。あいつらは少しばかり欲求に正直だ。上手く扱わないと食われるぞ」
拘束されたままそう告げた群れの頭は、その口元に微かに笑みを浮かべたのだった。
そのまま残りの三人にも挨拶を交わした。これから“俺”がもう一度挨拶に来ると告げると、彼等は何も説明せずとも何かを感じ取ったようだった。
「水の魔力に浸した身体か……“あんた”も大変だな?」
金色の瞳が嘲笑うように細められたことを思い出す。あれは、あの時気付いていたから、獣の頭はこうして表に出ることが出来たのだ。
獣は歪な故に“呪われていた”。身体を硬質化することを求めた故に、身体が石のようにひび割れるのだ。それは一種の呪いのように、獣の身体を蝕んでいた。それを受け継いだ彼の身体は、しかしその身体に宿した水の魔力によりその呪いを相殺した。
水の魔力に反応し、獣の自我が波打つように覚醒する。それを見抜いた金色の瞳は、隣の牢獄から水氷の魔力を受け取ると、自らと彼女の身にそれを忍ばせた。対魔合金を抜ける時、その魔力への反発がいったいどれ程掛かったことだろう。しかし、それすらも彼等は隠し通した。それは、獣の頭の願いでもあったからだ。
先程まで彼女が触れていた手には、水氷の魔力を詰め込まれた瓶が持たされていた。頭を亡くしたその身体を前に、サクは静かに愛槍を構える。
頭が一歩踏み出すと、その身体はざわりと震えた。
「……主の命令に逆らうのですか?」
獣の頭にはもう、主の命令は届かない。
「俺は、この身体が気にいった。この身体も、この頭の中の人間もな」
主の顔が歪に歪んだ。岩が割れるようなその怒気に満ちた表情は、既に人間とはかけ離れているように感じた。ここには人間はいない。いるのは、欲望に忠実な獣だけだ。
身体を動かすのは主ではなく頭である。
それをこの、勘違いした愚か者に教えてやらなければならない。群れの頭は、自ら狩りに出るのだと。