第2章


「ほう……サンプルナンバー五十三をこんなに容易く倒すとは……やはり特務部隊というものは他の兵士達とは違いますね。これまでに投入されたいくつかの前線での戦績は、他と比べてもこの子は飛び抜けて良かったのですが……」
「私らを普通の軍人共と一緒にするんじゃねえよ。それくらいでフェンリルなんて名乗れるか」
 レイルがそう言いながら、男――フリンの首筋に剣を突きつける。極めて近距離で狂犬の殺気を浴びて、それでもフリンの表情は変わらない。恍惚としたその表情には、恐怖といった概念が欠落しているかのようだ。深紅の瞳が怪しく笑う。男にしては長い茶髪が、風に揺れている。
――風? いや、違う……地鳴りだ。
 サクがそう気付いた時には、既に二匹の狂犬は動いていた。レイルは跳び退るフリンの後を追い、ロックがサクを守るように銃器に装備されたシールドを展開する。
 掻き消えた獣の身体の奥から、もう一体の獣が現れた。その姿を見た瞬間、サクは激しい頭痛に襲われた。息が乱れ、身体が一気に凍り付いたように震える。心が、視覚を拒絶したようだった。
 獣は――頭部のない獣だった。首から下こそ先程の獣を模した姿で、そしてその首から上が無かった。鋭利な刃物で切断されたままの首からは、不思議な事に出血はない。ただその血の巡りと魔力の波長が、切断面からはっきりと見て取れる。大きな大きな、“開けた口”だ。
 プルプルとピンク色の細胞達が波打ち、そして肉体が力強く足を踏み出す。その獣は、驚くべきことに生きていた。しかし、生きていると言うにはあまりにも――あまりにも歪で、そして哀しかった。
 頭を亡くしたその獣は、それでも主の命を全うするためにここにいる。聞こえないはずのその耳から、主の命を聞き取り、そしてその身を主に捧げていた。それは獣本来の、習性でもあり、本能でもあり、主となる“人間”から組み込まれたものでもあった。
 サクは頭痛に耐えるために手を額に当て、それでも獣からその目を離すことが出来なかった。その目を、意識を、獣に占領される。
 獣の尻尾の部分である大蛇が、鎌首をもたげる。まるで誘うかのように、揺れる。
「……身体の部分はさっきと同じ、か?」
 ロックが呆れたように呟いた。今度のロックの言葉はフリンの耳にも届いたようで――彼はレイルに追われながら、それでもその斬撃の全てを避けきり、そしてロックとサクの頭上を信じられない跳躍力で飛び越えて、獣の傍に危なげなく着地する。
「いかにも。この身体の配分は、数多くの失敗から学んだ最高の配分ですから」
「他にも学んだ方が良かったんじゃねえか?」
 サクの隣に戻って来たレイルが、そう吐き捨てる。彼女は息も乱さずに、サクの隣に控える。その姿は命令を待つ、群れの手足そのものだ。獣の頭の命を受け、敵を噛み殺す手足となる。
「貴方達には理解出来ないことでしょう。私がこの身体を得たのも、研究の賜物だというのに」
「……その身体……人のものじゃない、ってか」
 ロックの言葉にフリンは笑った。その笑いは正しく肯定で。サクの手にレイルの小さな手が触れた。暖かい彼女のその手に、まるで頭痛が吸い取られるように引いていく。
「狂犬達にはわからない。その力を渇望する人間の気持ちが! 他者を踏み躙るその力が、どれ程重要なものか! 普通の人間が、どれだけ渇望しても手に入らないものかわかっていない!」
「……そんなもの、わからねえよ」
 叫ぶフリンにレイルは告げた。目の前に佇む獣の哀しみを、彼女も背負っているかのように。彼女の横顔が哀しそうに笑う。
「……私らはこの力を、死ぬ思いをして手に入れた。それを簡単に手に入れようとする人間の気持ちなんて、わかるわけねえよ」
「ましてや他の命を繋ぎ合わせるなんて、冒涜以前の問題だ。僕には理解出来ない」
 まるでサクを庇うように、二人は前に進み出る。一歩踏み出した殺気の強さに、頭のない獣が身構えた。唸り声でも発するかのようなその姿勢が、痛々しくて哀しい。
「……ならばその、獣の頭はどうなんだい? 君はきっと、そこの狂犬達とは“違う”んでしょう?」
 燃え滾ったその瞳と目が合う。言葉以上のその問いに、サクの頭が掻き乱される。息が乱れて、冷や汗が出る。手に持つ愛槍が、今回ばかりは気持ちが悪い。漆黒の闇を湛えるその柄が、酷く不安げに揺れている。
――いったい、彼は……何を言っている?
 彼の言葉が頭を巡る。寒々しいまでに凍えた頭にガリガリと爪を立てるように巡るそれらが、唐突に――頭痛と共に呑み込まれて、消えた。
 唐突に。消えた。
 しかし、手に握る汗はそのままで、バクバクと聞こえる心臓の音もそのままだ。心とは逆に酷く熱を持った瞳は、安息を求めるように狂犬達の間を揺れ動く。彼は、彼女は、前を向いたままだ。その身体は、狂犬の背中。狂犬の頭は、獣の頭。身体は、覚えている。
――俺は、いったい……何が違うんだ?
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