第六章 過去
鮮血が飛び、彼女が悲鳴を上げる。雄叫びと共に何度も何度も振り下ろし、ついにナイフの刃が根本から折れた。
血みどろの彼女に、ヤートは思わず立ち竦む。美しい彼女は血に染まり、自由になった上半身もぴくりとも動かない。ヤートの心が駆け寄ることを――この光景を受け入れることを拒否している。
彼女の瞳がうっすらと開いた。彼女は生きていた。
奇跡的に、ナイフは彼女の左腕を再起不能に陥れただけだった。折れた刃ごと床に落ちた彼女の腕には、惨たらしい切断面が露出している。
奇跡ではなく本能で、彼女は自らの命を守った。彼女は痛みすら忘れ、自身から切り離された身体の一部を見たまま放心していた。
「そこまでだ!!」
いきなり部屋に一つだけの扉が開いた。あまりにグロテスクな惨状に、動くことを忘れていた全員の目が扉に集中する。
完全武装の兵士達がなだれ込み、犯人の男達を拘束する。部屋の安全が確認されてから、非武装の男が入ってきた。先程の光景に映っていた軍部の男が、慌てた表情で彼女に近寄る。
男の瞳に映る優しさの奥に、何かを感じ取り、ヤートは眉間にシワを寄せた。
――あれは愛情だ。
瞬間的に察してしまい、彼女が助かった訳がわかった。
男は彼女を助ける為に、軍を動かしたのだ。それが出来るだけの権力者を、彼女は魅了した。
「彼女を救護部隊に! 早く!!」
男の指示に兵士達は手早く彼女を運び出した。その後から拘束されたまま連れて行かれる男達に、彼は冷たく言い放った。
「楽に死ねると思わないことだ……」
やがて男も出て行き、消えゆく部屋の光景の中に、ヤートは一人残された。
『……混乱してる?』
「……ああ」
『ボクもだよ』
床に残った血溜まりの跡は、確かに彼女の切り落とされた腕から流れ出ていた。だが、自分が知っている彼女の腕は、真実――生きた人間の温もりがあった。
「どういうことか……わかるんだろうな」
『多分、ね』
ナオは確証はなさそうだが、強く言った。ヤートは頷く。すると光景は完全に変化し、軍部の医務室らしき部屋で義手を動かす彼女の姿を映した。
『腕を叩き切られた私は、軍の最新式の義手を装着した。無機質な冷たさが気になる以外は、普通の腕の動きを保証されていて安心した。復讐に憑りつかれていた私にとって、片腕が無くなって“日常生活が困る”ことよりも“犯人を八つ裂きにする”のに支障が出る方がリスクだったから』
そこまで言って、彼女の声が不意に止まった。なんとなく心配になり、ヤートは意味もなく辺りを見渡す。
光景はまた変わっており、夜の闇を彼女はひたすらに走っていた。ヤートは走っていない。立ち止まっているのに、ちゃんと映像の彼女の後ろに付いていっている。
先程から自然に映画の観客のようにそう場面が動いていたのに、何故か今まで失念していた。動こうと思えば“彼女が”見えている範囲の空間には動けるから、そう錯覚していたのだろう。
『明日から軍での初めての生活って時に、あの野郎……犯人の、リーダー格の男が逃げた。捕まった仲間全員を囮にして、自分だけ助かろうとした。軍での“美しい”斬首刑じゃ我慢出来ないらしい。だから……』
彼女の口調に嘲笑が混じる。それは絡み付くような悪意となって、ヤートの神経を刺激する。
『私が殺してやることにした』
声だけでも殺気を垂れ流す彼女。
『軍の首切りの綺麗な断面じゃなくて、グチャグチャに捩り切って! 原型残さないくらいに切り裂いて!! 人間の皮を被った悪魔に、これ以上人間の姿はさせねぇ!!』
その最初の、“猟奇”殺人を目撃する。綺麗に整備された道を抜け、彼女は舗装されていない割れた煉瓦の道に足を踏み込む。
『あんなクソみたいな故郷にも当時は綺麗な名前があった……あの都市はほんの一割の市内の繁栄を支える為に、九割のスラムの人間が働き、餓えていた』
彼女は、初めて身体を売った場所にたどり着いた。まだ軍の教育もなく、幼い少女の足としては異常に早いペースだった。
『最初は……あの男だけ殺すつもりだった。でも……』
義手を隠す為に漆黒のポンチョを羽織った彼女は、周りの男達の視線を独占していた。
――スラムにいるには勿体ない美しさだからな。
『汚い男達全員を、殺してまわることにした。女を犯す奴ら全員を!!』
彼女は早速寄って来た男を路地裏で刺し殺す。凶器は男が持っていたナイフ。
危険な裏通りを丸腰で歩く人間はいない。ここはそういう場所で、危険は常に、生きているだけで付き纏う。
何十回かめった刺しにし、ようやく男の首が落ちた。返り血塗れの彼女は、笑いながら今度は死体の腹を刺しだした。血と共に零れ落ちる内蔵を、彼女は手に取って眺める。
赤い塊のそれを、彼女は嬉しそうに道路に投げつけ踏み潰した。まだ形が残っているそれを、今度はナイフで掻き回す。血の跡しか残らなくなったら、また死体をえぐる行為に戻る。鼓動を止めた心臓を血管と共に引きずり出したところで、彼女の肩が震え出した。
彼女は笑いながら嘔吐した。そして吐き気が止むと、また内蔵を引っ張り出してグチャグチャに切り刻む。また堪え切れずに嘔吐する。それを何十回も繰り返し、彼女は最初の猟奇殺人を完了した。
彼女は血溜まりだけになった死体をそのままに、実家へと向かった。強盗達によって荒らされたままの部屋を素通りし、ベッドに倒れ込む。
『最初の夜は身体中が震えて涙が止まらなかった。セックスと一緒だ。最初は怖いけど、どんどん慣れてくる。最終的には……痛みが快感に変わる』
急に速度を増した日常の風景に、ヤートは見たくもない惨殺シーンを何回も見付けてしまった。正視するのも難しい、激しい憎しみの行為に、最初はヤートも哀れみから納得していたが、映像の彼女の表情が変わってくると同時に、恐怖の感情の方が強くなる。
『もう少しで五十人だね。数日でこんなに殺すなんて、本当に生まれついての殺人鬼だよ』
ナオの抑揚のない声が響く。ヤートはただ見守るしか出来ない。本当は叫び出して叱って抱きしめてやりたいのに、船の中で彼女が言った言葉が頭に浮かんでその思いを散らしてしまう。
――俺も、同じ経験をすれば彼女と同じ考えに至るのか?
おそらく違う、と冷静な頭は導き出す。殺したいと思っても、自分には殺す力も度胸もない気がした。
『殺人を続けて数週間後、ついに軍が動き出した。前々から治安の悪かった国だ。新たな猟奇殺人鬼の出現に、一部の金持ち市民達は逃げ出した。残ったのは後始末を任された軍部とスラムの住人だけ。ギリギリ中規模と言える程度の都市だ。上の人間が切り捨てるのも理解出来る』
映像が目まぐるしく変わり、軍部による清掃が行われる。軍部は怪しい者は全て射殺していった。だが、彼女はそんな包囲網をかい潜り、ついに犯人を追い詰めた。
彼女はボロ小屋の扉を蹴り開ける。
「て、てめぇはっ!!」
彼女を一目見た瞬間に、男の顔から血の気が引いた。当たり前だ。
彼女は返り血塗れだった。彼の周りにいた新たな仲間であろう数人の男達も、皆一様に身体が硬直してしまっている。
『私は焦っていた。軍部にこの男が殺されるのだけは防ぎたかった。こいつを殺すのは私の役目だったからだ』
彼女の声が響く中、目の前の彼女は楽しみながら男達を惨殺した。目も当てられない光景を、ヤートは目を逸らさずに見届けた。
“彼女の物差し”で語れるように。彼女を守り、理解する為に。
殺人を終えた彼女は、少し遅れて突入してきた軍によって拘束された。
手枷を掛けられる彼女の表情は穏やかで、年相応の幼さが感じられた。柔らかい彼女の肌には、手枷なんて似合わない。ヤートがそんなことを考えていると、轟音と共に世界が白く塗り潰された。